四月二十七
●早起登山、设会场、商货骈集、轶事https://t.cn/A6Xpu86h
●魏夫人降杨羲家
兴宁四年丙寅四月二十七日夜,晋司徒文康公舒之女、魏夫人降杨羲家。(《真诰》)
元感妙象外,和声自相招。灵云郁紫宸,兰气扇绿轺。上真宴琼台,邈为地仙标。所期贵远迈,故能秀颖翘。玩彼八素翰,道成初不辽。人事胡可预,使尔形气销。(魏夫人《与众真吟诗首·丙寅四月二十七日夜降杨义家作》)
●册封
熹宗天启元年正月初二日,穆庙奇妃叶氏薨,丧礼命照淑妃秦氏例行。四月二十七日,册封王氏为良妃,段氏为纯妃。命礼臣具仪进呈。(《明通纪》)
●诏太学,置小学
十四年四月二十七日,诏太学,置小学一斋。(《玉海》)
●记梦
四月二十七日夜半,梦见一女子,著上下青绫衣,与我相见。自称云:我王眉寿之小妹,明日可暂出。西门外有犊车,白牛皮巾,裹仆御头者,是我车也。后别相诣于贵解,因口喻作诗而别。
注:王眉寿小妹即中候夫人。(《许掾梦诗》)
先伯父,熙宁九年四月二十七日夜,梦至一处,榜曰清香馆。东边有别院,东壁有诗,牌云题冀公功德院,山东李白。其诗曰:秋风吹桂子,只在此山中。待得春风起,还应生桂丛。桂丛日以满,清香何时断。只为爱清香,故号清香馆。伯父自作《记梦》一篇,书之甚详。尝记季父说:元丰五年,自房陵召还。一日,忽独言曰:清香馆,自后多不屑世间事。或默坐终日,人莫敢问其曲折。
季父仲山,病中梦至一处,泛舟环水,皆奇峰可爱。赋诗云:山色浓如滴,湖光平似席。风月不相识,相逢便相得。既寤,而言之。后数日,卒。(《许彦周诗话》)
●松禅先师九十生辰
秋风桂影偶婆娑,似水门庭一再过。说罢程文问知旧,朝衣未卸泪痕多。三峰一笑我无缘,樱笋香厨四月天。自是伤春工病累,年年容易误吴船。金爵觚棱往事哀,玉阳史笔亦蒿莱。孤亭落照衔荒埂,垂白门生掩袂来。三十华年使节遥,镜中鸾舞太无憀。春风词事俄周甲,红泪调铅剩未消。(清·吴昌绶《师郑举瓶社以四月二十七日为松禅先师作九十生辰招同人集江亭感此奉呈》)
●轶事
周天和四年四月二十七日,使持节车骑大将军、仪同三司大都督陕西总管府,移齐河阳执事。自疆场卧鼓边,鄙收烽,义让之行未能。期月孔诚诲盗,即值苞藏。是以板载之师,须时而动。自安封域,非求拒防,虽复风尘,暂接旗鼓,无侵五将,即回双崤已。静始奉朝旨,获被移书令受,叛城使回军实,想彼边司已奉处分,既有此还,辄须领纳,未知何日可遣戍兵指附行人。迟能速执,盟且不渝,邻境相善顾瞻原野,幸甚。实多故移。(北周·庾信《移齐河阳执事文》)
王客者,失其名。及乡里,常携筇挈篮,引一斑犬往来邛僰间。以采药为事,多止于荒庙废寺中,虽雪霜风雨亦无所避。优游市肆,人或问修养之道,即默而不对。好事者多饮之,以酒积数年,形貌服饰未尝更易。天禧戊午岁春,自言游青城山,回时临邛宰师仲冉,颇好道。艺思见其人,即令召之与语,且曰:饮酒否。对曰:某有少药,君能服之,某亦饮酒。师侯受药。各饮数杯,款话移时,云:吾侪野人,心近云鹤。久居城市,颇思归乡,诚有奉托。辞出往故驿,路去。师侯饵药,渐觉轻安,专令人访之。至四月二十七日独携杖负笈,往临溪。路一里间,有寺曰国宁。遂于寺门下坐。行人问之曰:日将暮矣,于此久坐,何为。答曰:我有师在此。至暝,忽暴卒于门下。乡耆闻官权瘗于道左。至六月师侯闻之曰:曩所言,久别家山颇思归乡,斯之谓乎。遣吏赵秀往彼焚之,发其尸,颜貌如生,手足皆软,若熟寐焉。顷之,身下清泉涌出,浮尸而起,遂就沐浴之,乡村聚观。或以衣服敛之,兼及设酒馔而祭者,师侯曰:吾闻仙人不,死脱有死者乃尸解也。此人真解化乎。身虽委蜕,神未遐逝,自辍俸以瘗之,且旌异人也。前所言,有师在此其是之谓乎。休复常读,登真隐诀谓仙道,有升天蹑云者,游行五岳者,服饵不死者,尸解而仙者,忽有暂游太阴,自有太乙守尸。三魂营骨,七魄卫肉,胎灵录气,虽以铁石牢固藏闭,终至炼形数满当。自擘石飞空。而仙者,夫得道之士入。火不烁,入水不濡蹑,空如履实触实,如蹈虚,虽九地之厚,巨海之广八极之远,万方之大应倏欻而至,何所拘滞耶。所以然者形与道合,道无不在,毫芒之细,万物之众道,皆有之。今备录者,与王客张本也。(《茅亭客话》)
●早起登山、设会场、商货骈集、轶事https://t.cn/A6Xpu86h
●魏夫人降杨羲家
兴宁四年丙寅四月二十七日夜,晋司徒文康公舒之女、魏夫人降杨羲家。(《真诰》)
元感妙象外,和声自相招。灵云郁紫宸,兰气扇绿轺。上真宴琼台,邈为地仙标。所期贵远迈,故能秀颖翘。玩彼八素翰,道成初不辽。人事胡可预,使尔形气销。(魏夫人《与众真吟诗首·丙寅四月二十七日夜降杨义家作》)
●册封
熹宗天启元年正月初二日,穆庙奇妃叶氏薨,丧礼命照淑妃秦氏例行。四月二十七日,册封王氏为良妃,段氏为纯妃。命礼臣具仪进呈。(《明通纪》)
●诏太学,置小学
十四年四月二十七日,诏太学,置小学一斋。(《玉海》)
●记梦
四月二十七日夜半,梦见一女子,著上下青绫衣,与我相见。自称云:我王眉寿之小妹,明日可暂出。西门外有犊车,白牛皮巾,裹仆御头者,是我车也。后别相诣于贵解,因口喻作诗而别。
注:王眉寿小妹即中候夫人。(《许掾梦诗》)
先伯父,熙宁九年四月二十七日夜,梦至一处,榜曰清香馆。东边有别院,东壁有诗,牌云题冀公功德院,山东李白。其诗曰:秋风吹桂子,只在此山中。待得春风起,还应生桂丛。桂丛日以满,清香何时断。只为爱清香,故号清香馆。伯父自作《记梦》一篇,书之甚详。尝记季父说:元丰五年,自房陵召还。一日,忽独言曰:清香馆,自后多不屑世间事。或默坐终日,人莫敢问其曲折。
季父仲山,病中梦至一处,泛舟环水,皆奇峰可爱。赋诗云:山色浓如滴,湖光平似席。风月不相识,相逢便相得。既寤,而言之。后数日,卒。(《许彦周诗话》)
●松禅先师九十生辰
秋风桂影偶婆娑,似水门庭一再过。说罢程文问知旧,朝衣未卸泪痕多。三峰一笑我无缘,樱笋香厨四月天。自是伤春工病累,年年容易误吴船。金爵觚棱往事哀,玉阳史笔亦蒿莱。孤亭落照衔荒埂,垂白门生掩袂来。三十华年使节遥,镜中鸾舞太无憀。春风词事俄周甲,红泪调铅剩未消。(清·吴昌绶《师郑举瓶社以四月二十七日为松禅先师作九十生辰招同人集江亭感此奉呈》)
●轶事
周天和四年四月二十七日,使持节车骑大将军、仪同三司大都督陕西总管府,移齐河阳执事。自疆场卧鼓边,鄙收烽,义让之行未能。期月孔诚诲盗,即值苞藏。是以板载之师,须时而动。自安封域,非求拒防,虽复风尘,暂接旗鼓,无侵五将,即回双崤已。静始奉朝旨,获被移书令受,叛城使回军实,想彼边司已奉处分,既有此还,辄须领纳,未知何日可遣戍兵指附行人。迟能速执,盟且不渝,邻境相善顾瞻原野,幸甚。实多故移。(北周·庾信《移齐河阳执事文》)
王客者,失其名。及乡里,常携筇挈篮,引一斑犬往来邛僰间。以采药为事,多止于荒庙废寺中,虽雪霜风雨亦无所避。优游市肆,人或问修养之道,即默而不对。好事者多饮之,以酒积数年,形貌服饰未尝更易。天禧戊午岁春,自言游青城山,回时临邛宰师仲冉,颇好道。艺思见其人,即令召之与语,且曰:饮酒否。对曰:某有少药,君能服之,某亦饮酒。师侯受药。各饮数杯,款话移时,云:吾侪野人,心近云鹤。久居城市,颇思归乡,诚有奉托。辞出往故驿,路去。师侯饵药,渐觉轻安,专令人访之。至四月二十七日独携杖负笈,往临溪。路一里间,有寺曰国宁。遂于寺门下坐。行人问之曰:日将暮矣,于此久坐,何为。答曰:我有师在此。至暝,忽暴卒于门下。乡耆闻官权瘗于道左。至六月师侯闻之曰:曩所言,久别家山颇思归乡,斯之谓乎。遣吏赵秀往彼焚之,发其尸,颜貌如生,手足皆软,若熟寐焉。顷之,身下清泉涌出,浮尸而起,遂就沐浴之,乡村聚观。或以衣服敛之,兼及设酒馔而祭者,师侯曰:吾闻仙人不,死脱有死者乃尸解也。此人真解化乎。身虽委蜕,神未遐逝,自辍俸以瘗之,且旌异人也。前所言,有师在此其是之谓乎。休复常读,登真隐诀谓仙道,有升天蹑云者,游行五岳者,服饵不死者,尸解而仙者,忽有暂游太阴,自有太乙守尸。三魂营骨,七魄卫肉,胎灵录气,虽以铁石牢固藏闭,终至炼形数满当。自擘石飞空。而仙者,夫得道之士入。火不烁,入水不濡蹑,空如履实触实,如蹈虚,虽九地之厚,巨海之广八极之远,万方之大应倏欻而至,何所拘滞耶。所以然者形与道合,道无不在,毫芒之细,万物之众道,皆有之。今备录者,与王客张本也。(《茅亭客话》)
「道教神仙」子孙圣母育德广嗣元君
#中国[超话]#
志心皈命禮
东岳子孙案,九天监生司。结秀成胎,禀两仪之造化;送生保产,乃二圣之纲维。燮理阴阳,散行痘疹。九天称庆,一视同仁。大悲大愿,大圣大慈。普济普度,九天监生明素真君;多男多女,九天卫房圣母元君。
云集羽员叩九天,祈恩保胤仰灵轩。
卫房仙仗登云辇,圣母乘鸾驾玉辕。
德配东华施造化,福留人间庆胤繁。
惟希大造垂恩鉴,瓜瓞绵长信有然。
送子娘娘,又称子孙娘娘,道教尊为“子孙保生元君”、“子孙圣母育德广嗣元君”、“子孙圣母育德广胤卫房元君”、“保生护产卫房圣母”、“九天卫房圣母元君”等。
据《大慈好生九天卫房圣母元君灵应宝签》记载,祂“高居九天、总职三界”,“宣太上好生之圣德、救阴阳生成之号令”,“录人间之善恶、察女子之贞邪”,并非“只保於一时之生产”,而是“恩可佑於终身”。有德的人奏玉京“敕神祇而护佑,书名仙籍,益算延年”,有过的人“申告三官,付五雷斩勘之司,照依玉律施行刑,遭疾苦困危,魂系邓都,常沉苦海,永失真道”。对于善良的人,祂“善者赐其贤子贤孙,不善者世遭苦厄,多诸忧恼。”《玉匣记》记载,子孙娘娘的圣诞日是农历三月二十。
《历代神仙通鉴》卷十五称:碧霞元君为“卫房圣姥”,监生卫房即有主管妇女生子之意。《民间新年神像图画展览会》也说:“传说泰山娘娘为东岳大帝之女,此神乃使妇女多子,并为保护儿童之神。”泰山娘娘供奉极为普遍,山东尤盛。送子乃泰山娘娘尊号之一。在泰山碧霞祠,送子娘娘即与泰山圣母碧霞元君、眼光娘娘一同供奉在主殿内。
道经《元始天尊说碧霞元君护国庇民普济保生妙经》里说:“泰山岱岳,奠靖坤元。中有元君,号曰天仙。始证帝真,位居碧天。为化众生,示现慈颜。大显神通,威德孔宣。安民护国,警世敦元。辅忠助孝,翼正扶贤。保生益算,延嗣绵绵。”
道教科仪《圣母朝科》中也载有:“慈仁悯惠,示化圣母之颜。锡胤保婴,位正嗣衡之主”,“保生施仁,妙全子母。开关度煞,护持麟儿。结秀成胎,显灵通于处处。威光莫测,施妙法于人人。妙相现玉女之身,根本作护持之主,应九气而垂慈锡胤,灌百药而智慧周通。行于十方,恩周三界。”
《正统道藏·正一部·大慈好生九天卫房圣母元君灵应宝签》:
“大慈好生九天卫房圣母元君,高居九天之上,总职三界之中,宣太上好生之圣德,救阴阳生成之号令,上自后妃下及民妇,俱蒙救命,人物生成,录人间之善恶,察女子之贞邪。有德者奏闻玉京,敕神祇而护佑,书名仙籍,益算延年。有过者申告三官,付五雷斩勘之司,照依玉律施行刑,遭疾苦困危,魂系邓都,常沉苦海,永失真道。善者赐其贤子贤孙,不善者世遭苦厄,多诸忧恼。
大哉圣母元君之功不可称量,好生之德,岂只保於一时之生产,恩可佑於终身。善恶二事必书录。举行世人,未知恭侍者少,有负元君恩德者多矣。今幸钦承敕命,颁降宝签九十九道九则妙理,无穷玄机,探奥昭天。省赏善之条,明雷府伐恶之令,怒责邪凶,劝其仁孝,露未萌之灾福,阐大道之慈悲,彰其善恶,示以吉凶。欲化人民,咸行善道,勿堕邪非。自女人及於苦爽,蒙於元君恩命,方始生成。鉴今奉命告下九天监生司,帅将神祇,依上大慈好生九天卫房圣母元君灵应宝签序遵行,外人问之信善至诚,恭奉圣母香灯,以祈福佑。切勿轻慢,自招罪责。帅将威灵不可轻杞,敬之者万灾不干,神明护佑。轻之者生遭疾厄,死受风刀,可不敬欤。”
《十种报恩科仪》:
“为人受于胞胎之内,三元聚精,九炁结形,十月既满,神完炁足,离母脱胎。九天称庆,太乙执符。帝君降敕,大神监生,司命司禄,注籍布神,卫房圣母,默与抱送,地祇侍门”。又有“运生炁于太和,遵令禅善;培胎元于正序,受命卫房。凡属妊娠,均归统治。”所以,供奉子孙娘娘的同时,别忘了报父母深恩,自然吉
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志心皈命禮
东岳子孙案,九天监生司。结秀成胎,禀两仪之造化;送生保产,乃二圣之纲维。燮理阴阳,散行痘疹。九天称庆,一视同仁。大悲大愿,大圣大慈。普济普度,九天监生明素真君;多男多女,九天卫房圣母元君。
云集羽员叩九天,祈恩保胤仰灵轩。
卫房仙仗登云辇,圣母乘鸾驾玉辕。
德配东华施造化,福留人间庆胤繁。
惟希大造垂恩鉴,瓜瓞绵长信有然。
送子娘娘,又称子孙娘娘,道教尊为“子孙保生元君”、“子孙圣母育德广嗣元君”、“子孙圣母育德广胤卫房元君”、“保生护产卫房圣母”、“九天卫房圣母元君”等。
据《大慈好生九天卫房圣母元君灵应宝签》记载,祂“高居九天、总职三界”,“宣太上好生之圣德、救阴阳生成之号令”,“录人间之善恶、察女子之贞邪”,并非“只保於一时之生产”,而是“恩可佑於终身”。有德的人奏玉京“敕神祇而护佑,书名仙籍,益算延年”,有过的人“申告三官,付五雷斩勘之司,照依玉律施行刑,遭疾苦困危,魂系邓都,常沉苦海,永失真道”。对于善良的人,祂“善者赐其贤子贤孙,不善者世遭苦厄,多诸忧恼。”《玉匣记》记载,子孙娘娘的圣诞日是农历三月二十。
《历代神仙通鉴》卷十五称:碧霞元君为“卫房圣姥”,监生卫房即有主管妇女生子之意。《民间新年神像图画展览会》也说:“传说泰山娘娘为东岳大帝之女,此神乃使妇女多子,并为保护儿童之神。”泰山娘娘供奉极为普遍,山东尤盛。送子乃泰山娘娘尊号之一。在泰山碧霞祠,送子娘娘即与泰山圣母碧霞元君、眼光娘娘一同供奉在主殿内。
道经《元始天尊说碧霞元君护国庇民普济保生妙经》里说:“泰山岱岳,奠靖坤元。中有元君,号曰天仙。始证帝真,位居碧天。为化众生,示现慈颜。大显神通,威德孔宣。安民护国,警世敦元。辅忠助孝,翼正扶贤。保生益算,延嗣绵绵。”
道教科仪《圣母朝科》中也载有:“慈仁悯惠,示化圣母之颜。锡胤保婴,位正嗣衡之主”,“保生施仁,妙全子母。开关度煞,护持麟儿。结秀成胎,显灵通于处处。威光莫测,施妙法于人人。妙相现玉女之身,根本作护持之主,应九气而垂慈锡胤,灌百药而智慧周通。行于十方,恩周三界。”
《正统道藏·正一部·大慈好生九天卫房圣母元君灵应宝签》:
“大慈好生九天卫房圣母元君,高居九天之上,总职三界之中,宣太上好生之圣德,救阴阳生成之号令,上自后妃下及民妇,俱蒙救命,人物生成,录人间之善恶,察女子之贞邪。有德者奏闻玉京,敕神祇而护佑,书名仙籍,益算延年。有过者申告三官,付五雷斩勘之司,照依玉律施行刑,遭疾苦困危,魂系邓都,常沉苦海,永失真道。善者赐其贤子贤孙,不善者世遭苦厄,多诸忧恼。
大哉圣母元君之功不可称量,好生之德,岂只保於一时之生产,恩可佑於终身。善恶二事必书录。举行世人,未知恭侍者少,有负元君恩德者多矣。今幸钦承敕命,颁降宝签九十九道九则妙理,无穷玄机,探奥昭天。省赏善之条,明雷府伐恶之令,怒责邪凶,劝其仁孝,露未萌之灾福,阐大道之慈悲,彰其善恶,示以吉凶。欲化人民,咸行善道,勿堕邪非。自女人及於苦爽,蒙於元君恩命,方始生成。鉴今奉命告下九天监生司,帅将神祇,依上大慈好生九天卫房圣母元君灵应宝签序遵行,外人问之信善至诚,恭奉圣母香灯,以祈福佑。切勿轻慢,自招罪责。帅将威灵不可轻杞,敬之者万灾不干,神明护佑。轻之者生遭疾厄,死受风刀,可不敬欤。”
《十种报恩科仪》:
“为人受于胞胎之内,三元聚精,九炁结形,十月既满,神完炁足,离母脱胎。九天称庆,太乙执符。帝君降敕,大神监生,司命司禄,注籍布神,卫房圣母,默与抱送,地祇侍门”。又有“运生炁于太和,遵令禅善;培胎元于正序,受命卫房。凡属妊娠,均归统治。”所以,供奉子孙娘娘的同时,别忘了报父母深恩,自然吉
【interview】
生きていられることが、今は幸せだと感じているーー堂本剛が、自分の歌で伝えたいこと
https://t.cn/A6XMLwcE
5/13(金) 17:45配信
撮影:殿村誠士
「自分で楽曲を作って歌うということ。それは自炊に近い。心も体もすごく楽なんです」
シンガー・ソングライターの活動を始めて20周年、堂本剛は今、もっとも自分らしい状態にあるという。“本当の自分で生きられる喜び”を表現したものが、自分の作る音楽。この思いと行動が誰かの人生の、自分らしさを取り戻す幸せへとつながればうれしい……多忙なアイドル時代を駆け抜け、自身も生きづらさを抱えたからこそ見えてきた境地がある。仕事への矜持、そして死生観。堂本剛を突き動かすものとは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
——インスタグラムの使い方を「間違いたい」
およそ1年前から堂本剛が始めたインスタグラムは、はなから不思議なものだった。ポートレートはほぼ同じアングルで、どんどん眉毛が濃くなっていき、最後には額全体がアイブロウで埋め尽くされる。コメントは一言、「どうもジャニーズです」。まるでモダンアートだ。何か強いメッセージ性を帯びているようにも見える。その後も眉毛写真の投稿は続き、ネット上ではさまざまな臆測が飛び交った。
——これについて、本人はこともなげに語る。
「テーマは『インスタの使い方を間違いたい』でした。隙間時間で、他人の眉毛が太くなり、元に戻っていく写真を見るという無駄な時間をご提供することで、『笑い』『勇気』『なんでやねん』が発生すればいいなという、そんな発想です。無駄な時間って幸せだったりしませんか? 個人の日常を羅列するだけではなくて、こんな時代、笑ってほしくて、これ何? 説明して?ってみんなが困惑つっこみするようなものを軸にしました。インスタグラムを、宣伝の空間として使いつつ笑かしにかかっています。事務所の人たちがインスタをやりやすい環境にもつながればと思い、僕はこんな行動をしてみました。」
——「ジャニーズっぽくない」と言われて
「アーティスティック」「生活感がない」「不思議」「自由」……。
こうした堂本剛のイメージは、ジャニーズ事務所において相対的なものとして捉えられることが多い。堂本自身、それをよく理解していた。
「世の中に存在するイメージというものの多くは、第三者が作り上げているものじゃないですか? 僕はそんなことを言っていない、思っていないのに勝手にそうされてしまっている。その人の中では、『言いそう』で、『思ってそう』なんでしょうね。僕の周りにいる人は、僕を理解してくれています。理解するタイミングがない人は、丁寧に想像する前に疲れ、自分の情報の中だけで計算し決めつけた僕という答えを出して終わらせてしまうからか……導き出した答えと現実の僕、それが合わないから『~っぽくない』ということに自然となるんでしょうね」
かつて堂本は、「自由」ではなかった。
デビューしてすぐに大ブレーク。10代の頃は毎日3時間睡眠で、休日は年に3日。分刻みのスケジュールで動き、周囲の求めに応じて表情をつくった。しだいに堂本のメンタルには亀裂が入っていく。多忙な時期の記憶は、ほとんどが失われている。
故ジャニー喜多川の勧めでシンガー・ソングライターとなり、「自分らしく生きる選択」ができるようになったと実感した頃には、30代になっていた。
「最近でこそ、自分らしさが尊重される時代になってきましたけど、今でも自分らしく生きられない人、素直に生きる勇気や場所がない人たちがたくさんいます。世の中は自分らしく生きている人を批判するのではなく、『自分らしく生きる幸せ』を、みんなで優しい心を持って話すだけでいいのにな、と思うんです。優しい心で話しているうちに、人は本当の自分になれるものですから」
「ジャニーズらしさ」は、年々変わっていくもの。こだわることではない。一番大事なのは自分であり、それをファンの人たちにつなげること……堂本がジャニーズに所属し続ける理由は、ここにある。
「柔らかく穏やかに、そういう感覚で僕は生きているからこそ、『ジャニーズっぽくない』カテゴリーに入れられてしまうのかもしれないけど。全てを事務所の許可を得て生きて来ました。事務所に直談判に行くこともあります。たくさんの人を動かすことになるので、一筋縄ではいかないこともある。でも理由や展望を持って話しにいくので、何言ってんの?って弾かれてしまうことはないですね。クリアしていきたいと思っていることはまだまだありますけど。少しずつです。ジャニーズは積極的にSNSに参戦する会社ではなかったけど、それが時代とともに変わってきました。僕が変化してもせずとも、変化していく時代というものがあるので、その時代に反応と順応をしたいと、柔軟に動いているところです」
ジャニーズ事務所では特別な立場にあるように見える堂本だが、単に自由なのではない。それを獲得するために、試行錯誤を続けてきたプロセスがあるのだ。
——人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い
「自分で動く」。インタビューの間、堂本が何度も口にした言葉だ。
アイデアを形にするまでの動きはいつもスピーディーで、さらに二手、三手まで先を見ている。
「こんな世界状況の中でも、お金を出して作品を買ってくださる人がいる。僕が自分らしく仕事をしている姿を、家族や後輩君たちが見てくれている。そう考えたら、素直に動けます。人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い。例えば伝言ゲームで、中継ぎの人が先方に納期を伝える時間が遅れ、作業していただけたはずの時間が減り、締め切りを縮めたり、完成を遅らせてしまったりすることがある。そういう仕事の仕方をする人は多いから、疲れることがあります。作り手、職人の作品に対して必要な時間、作業工程などが、その立場でない人からすると想像してあげられないんでしょうね。だから、直接やりとりすることがほとんどです。相手の心を考えて動くことも、仕事ですから。毎日くたくたですけど」
それでも音楽を作ることは、この上なく楽しい。仕事のスピード感を大切にしているのも、生まれたばかりのアイディアを、新鮮なうちに楽曲として閉じ込めたいとの思いからだ。
「極端にいえば、今このインタビュー中でも曲がひらめいたら、PCを開いてキーボードで打ち込みたくなる、というくらい、アイデアの鮮度を大切にしています」
頭の中で鳴る音楽を可視化し、音符に換えていく。音色を探して、演奏し、形作っていく。予想外に生まれるノイズやバグが、ドラマチックな音につながることがある。
「こういう一連の作業は、生きているからこそできることで、魂になったら、想像を形にすることもできなくなるんです。だから音楽を作ることは、命あることに感謝することでもあるんです。ただ、作品が出来上がって、リリースをするまでには時間がずいぶんと経過するので、リリース時にはもう自分が違うステージに行っていることがほとんど。だから、きょう曲を作ったら1週間後ぐらいにリリースする、そんな時代がくればいいのになって、思ったりもします。メッセージを強く込めた作品は、時代が流れている分、タイミングもクリエーティブの一部なんです」
ラブソングよりも、命や愛を歌いたい。
これは自身が心に傷を負い、パニック障害や突発性難聴に苦しんだ経験から、強く意識するようになったことだ。
「世の中の人々が、理由を持ってたどり着いた傷とか痛みに寄り添う歌詞、メロディー。その役目を持つ楽曲にあの頃の僕は救われ、もう一度生きようという気持ちにまで立ち戻れました。だから自分が作る音楽も、そういう役目でありたい。ジャニーズっぽくないと言われてもいいんです。もっとラブソングのほうが売れるよとか、うん、わかってるけど、ジャニーズにもいろんな歌が存在していいし、自分で作る音楽に、自分ではない歌声を選択することは、しない。限界の中で命を諦めようとしている人を救える音楽を作りたいって、僕は本気で思っているんです。自分と同じ経験をしている人を思いながら書いています。そんな中で少し変わったことは、世界的な問題が起き、みんなが同じ傷や痛みを共有する今、ポジティブな曲を書くようにもなりました。これまで使ってこなかったような、明るい言葉を綴ったりしながら」
——シンガー・ソングライターを続けることは、ジャニーさんの思いを持続させること
10代は、毎日、命が苦しいと思って生きていた。
「いろんな人に助けていただいて、もう一度生きよう、そう思わせてもらえたから僕は生きているんです。その人たちがいなかったら、今この世に僕はいません。当時は変人扱いされたけれど、でも、人は、傷つけば死にたいと思ってしまうものです。そんな人が世の中にはたくさんいること、それをみんなで理解して生きるべきだと、僕は思う。生きたいのに、生きられない人もいるんですよ」
ジャニーズだから、命や愛をテーマにした重い歌を歌ってはいけない? それは違う、と堂本は首を振る。
「ポップな曲はたくさんの人の心を幸せにする。それも理解はしています。命と愛が重たいと言うのなら、人は重たい存在となってしまいます。僕らは愛の果てに生まれた命なのに。重たいと認識してしまうのは悲しいし不思議です。だから、人が理由あってたどり着いた涙や傷に寄り添った曲も、たくさんの人の心を幸せにすると、本気で僕は思っています。死にたいと思わされてしまった経験がない人からは理解されづらいんですけど。僕自身がそう思った過去が悲しくもありました。でも、生きていられることが、今は幸せだと感じていることを、歌を通してあの頃の自分にも、同じように過ごす人たちにも伝えたい。一人で音楽を作る時は、その心を生きたいと思うし、提供したいと思っています」
ジャニーズ事務所には、ほかに“シンガー・ソングライター”として立っている者はいない。
「ジャニーさんに声をかけてもらって、この会社に入り、またジャニーさんからの提案を受けてシンガー・ソングライターになった。形がないゼロの状態から始まり、1にすること。そして、1から2……10へとつなげていくのは生半可な思いでいたら不可能なことですからね」
「そして、いまだやっているのが僕だけだからそれはそれは大変なことも多いけど、ある程度の分かりきった答えに向かうのもつまらないし、続けてこられたのはそれを楽しんできているからです。続けることは、ジャニーさんの思いを持続させることにもなると思っています。今はジャニーズの中で、音楽家のエリアは大きくないですけど、ここを整理整頓する位置にいられたらいいなとは思ってます。後輩君たちにも歌いたい歌があるだろうし、一人ひとりの歌唱スキルを把握して、声の魅力を引き出してもあげたいし、そういうディレクションまでを、本当はやってあげたいですね」
才能のある人たちを、解き放ってあげたい。堂本はまっすぐにそう語った。
今年はシンガー・ソングライターとして、デビュー20周年。ENDRECHERIとして精力的に楽曲をリリース、夏フェスへの参加も決まった。GYAOでの新番組「つよしP」を始動し、ZOZOとのファッションデザインやLINE VOOMなど、さまざまな企画を展開する。
「『決めつけ』るのではなく、素直に発想を出すこと、変で、妙で、面白くて、独創的なモノをたくさん作り、それらをいろんなコンテンツを通して表現する一度きりの僕の人生でありたい。そして『本当の自分を生きることの幸せ』が伝染していくといいなと思っています。僕の心が、『決めつけ』で苦しんで生きている人たちの心に届いて、自分らしく生きてみようという笑顔を与えられたなら、とても幸せだなって思います」
生きていられることが、今は幸せだと感じているーー堂本剛が、自分の歌で伝えたいこと
https://t.cn/A6XMLwcE
5/13(金) 17:45配信
撮影:殿村誠士
「自分で楽曲を作って歌うということ。それは自炊に近い。心も体もすごく楽なんです」
シンガー・ソングライターの活動を始めて20周年、堂本剛は今、もっとも自分らしい状態にあるという。“本当の自分で生きられる喜び”を表現したものが、自分の作る音楽。この思いと行動が誰かの人生の、自分らしさを取り戻す幸せへとつながればうれしい……多忙なアイドル時代を駆け抜け、自身も生きづらさを抱えたからこそ見えてきた境地がある。仕事への矜持、そして死生観。堂本剛を突き動かすものとは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
——インスタグラムの使い方を「間違いたい」
およそ1年前から堂本剛が始めたインスタグラムは、はなから不思議なものだった。ポートレートはほぼ同じアングルで、どんどん眉毛が濃くなっていき、最後には額全体がアイブロウで埋め尽くされる。コメントは一言、「どうもジャニーズです」。まるでモダンアートだ。何か強いメッセージ性を帯びているようにも見える。その後も眉毛写真の投稿は続き、ネット上ではさまざまな臆測が飛び交った。
——これについて、本人はこともなげに語る。
「テーマは『インスタの使い方を間違いたい』でした。隙間時間で、他人の眉毛が太くなり、元に戻っていく写真を見るという無駄な時間をご提供することで、『笑い』『勇気』『なんでやねん』が発生すればいいなという、そんな発想です。無駄な時間って幸せだったりしませんか? 個人の日常を羅列するだけではなくて、こんな時代、笑ってほしくて、これ何? 説明して?ってみんなが困惑つっこみするようなものを軸にしました。インスタグラムを、宣伝の空間として使いつつ笑かしにかかっています。事務所の人たちがインスタをやりやすい環境にもつながればと思い、僕はこんな行動をしてみました。」
——「ジャニーズっぽくない」と言われて
「アーティスティック」「生活感がない」「不思議」「自由」……。
こうした堂本剛のイメージは、ジャニーズ事務所において相対的なものとして捉えられることが多い。堂本自身、それをよく理解していた。
「世の中に存在するイメージというものの多くは、第三者が作り上げているものじゃないですか? 僕はそんなことを言っていない、思っていないのに勝手にそうされてしまっている。その人の中では、『言いそう』で、『思ってそう』なんでしょうね。僕の周りにいる人は、僕を理解してくれています。理解するタイミングがない人は、丁寧に想像する前に疲れ、自分の情報の中だけで計算し決めつけた僕という答えを出して終わらせてしまうからか……導き出した答えと現実の僕、それが合わないから『~っぽくない』ということに自然となるんでしょうね」
かつて堂本は、「自由」ではなかった。
デビューしてすぐに大ブレーク。10代の頃は毎日3時間睡眠で、休日は年に3日。分刻みのスケジュールで動き、周囲の求めに応じて表情をつくった。しだいに堂本のメンタルには亀裂が入っていく。多忙な時期の記憶は、ほとんどが失われている。
故ジャニー喜多川の勧めでシンガー・ソングライターとなり、「自分らしく生きる選択」ができるようになったと実感した頃には、30代になっていた。
「最近でこそ、自分らしさが尊重される時代になってきましたけど、今でも自分らしく生きられない人、素直に生きる勇気や場所がない人たちがたくさんいます。世の中は自分らしく生きている人を批判するのではなく、『自分らしく生きる幸せ』を、みんなで優しい心を持って話すだけでいいのにな、と思うんです。優しい心で話しているうちに、人は本当の自分になれるものですから」
「ジャニーズらしさ」は、年々変わっていくもの。こだわることではない。一番大事なのは自分であり、それをファンの人たちにつなげること……堂本がジャニーズに所属し続ける理由は、ここにある。
「柔らかく穏やかに、そういう感覚で僕は生きているからこそ、『ジャニーズっぽくない』カテゴリーに入れられてしまうのかもしれないけど。全てを事務所の許可を得て生きて来ました。事務所に直談判に行くこともあります。たくさんの人を動かすことになるので、一筋縄ではいかないこともある。でも理由や展望を持って話しにいくので、何言ってんの?って弾かれてしまうことはないですね。クリアしていきたいと思っていることはまだまだありますけど。少しずつです。ジャニーズは積極的にSNSに参戦する会社ではなかったけど、それが時代とともに変わってきました。僕が変化してもせずとも、変化していく時代というものがあるので、その時代に反応と順応をしたいと、柔軟に動いているところです」
ジャニーズ事務所では特別な立場にあるように見える堂本だが、単に自由なのではない。それを獲得するために、試行錯誤を続けてきたプロセスがあるのだ。
——人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い
「自分で動く」。インタビューの間、堂本が何度も口にした言葉だ。
アイデアを形にするまでの動きはいつもスピーディーで、さらに二手、三手まで先を見ている。
「こんな世界状況の中でも、お金を出して作品を買ってくださる人がいる。僕が自分らしく仕事をしている姿を、家族や後輩君たちが見てくれている。そう考えたら、素直に動けます。人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い。例えば伝言ゲームで、中継ぎの人が先方に納期を伝える時間が遅れ、作業していただけたはずの時間が減り、締め切りを縮めたり、完成を遅らせてしまったりすることがある。そういう仕事の仕方をする人は多いから、疲れることがあります。作り手、職人の作品に対して必要な時間、作業工程などが、その立場でない人からすると想像してあげられないんでしょうね。だから、直接やりとりすることがほとんどです。相手の心を考えて動くことも、仕事ですから。毎日くたくたですけど」
それでも音楽を作ることは、この上なく楽しい。仕事のスピード感を大切にしているのも、生まれたばかりのアイディアを、新鮮なうちに楽曲として閉じ込めたいとの思いからだ。
「極端にいえば、今このインタビュー中でも曲がひらめいたら、PCを開いてキーボードで打ち込みたくなる、というくらい、アイデアの鮮度を大切にしています」
頭の中で鳴る音楽を可視化し、音符に換えていく。音色を探して、演奏し、形作っていく。予想外に生まれるノイズやバグが、ドラマチックな音につながることがある。
「こういう一連の作業は、生きているからこそできることで、魂になったら、想像を形にすることもできなくなるんです。だから音楽を作ることは、命あることに感謝することでもあるんです。ただ、作品が出来上がって、リリースをするまでには時間がずいぶんと経過するので、リリース時にはもう自分が違うステージに行っていることがほとんど。だから、きょう曲を作ったら1週間後ぐらいにリリースする、そんな時代がくればいいのになって、思ったりもします。メッセージを強く込めた作品は、時代が流れている分、タイミングもクリエーティブの一部なんです」
ラブソングよりも、命や愛を歌いたい。
これは自身が心に傷を負い、パニック障害や突発性難聴に苦しんだ経験から、強く意識するようになったことだ。
「世の中の人々が、理由を持ってたどり着いた傷とか痛みに寄り添う歌詞、メロディー。その役目を持つ楽曲にあの頃の僕は救われ、もう一度生きようという気持ちにまで立ち戻れました。だから自分が作る音楽も、そういう役目でありたい。ジャニーズっぽくないと言われてもいいんです。もっとラブソングのほうが売れるよとか、うん、わかってるけど、ジャニーズにもいろんな歌が存在していいし、自分で作る音楽に、自分ではない歌声を選択することは、しない。限界の中で命を諦めようとしている人を救える音楽を作りたいって、僕は本気で思っているんです。自分と同じ経験をしている人を思いながら書いています。そんな中で少し変わったことは、世界的な問題が起き、みんなが同じ傷や痛みを共有する今、ポジティブな曲を書くようにもなりました。これまで使ってこなかったような、明るい言葉を綴ったりしながら」
——シンガー・ソングライターを続けることは、ジャニーさんの思いを持続させること
10代は、毎日、命が苦しいと思って生きていた。
「いろんな人に助けていただいて、もう一度生きよう、そう思わせてもらえたから僕は生きているんです。その人たちがいなかったら、今この世に僕はいません。当時は変人扱いされたけれど、でも、人は、傷つけば死にたいと思ってしまうものです。そんな人が世の中にはたくさんいること、それをみんなで理解して生きるべきだと、僕は思う。生きたいのに、生きられない人もいるんですよ」
ジャニーズだから、命や愛をテーマにした重い歌を歌ってはいけない? それは違う、と堂本は首を振る。
「ポップな曲はたくさんの人の心を幸せにする。それも理解はしています。命と愛が重たいと言うのなら、人は重たい存在となってしまいます。僕らは愛の果てに生まれた命なのに。重たいと認識してしまうのは悲しいし不思議です。だから、人が理由あってたどり着いた涙や傷に寄り添った曲も、たくさんの人の心を幸せにすると、本気で僕は思っています。死にたいと思わされてしまった経験がない人からは理解されづらいんですけど。僕自身がそう思った過去が悲しくもありました。でも、生きていられることが、今は幸せだと感じていることを、歌を通してあの頃の自分にも、同じように過ごす人たちにも伝えたい。一人で音楽を作る時は、その心を生きたいと思うし、提供したいと思っています」
ジャニーズ事務所には、ほかに“シンガー・ソングライター”として立っている者はいない。
「ジャニーさんに声をかけてもらって、この会社に入り、またジャニーさんからの提案を受けてシンガー・ソングライターになった。形がないゼロの状態から始まり、1にすること。そして、1から2……10へとつなげていくのは生半可な思いでいたら不可能なことですからね」
「そして、いまだやっているのが僕だけだからそれはそれは大変なことも多いけど、ある程度の分かりきった答えに向かうのもつまらないし、続けてこられたのはそれを楽しんできているからです。続けることは、ジャニーさんの思いを持続させることにもなると思っています。今はジャニーズの中で、音楽家のエリアは大きくないですけど、ここを整理整頓する位置にいられたらいいなとは思ってます。後輩君たちにも歌いたい歌があるだろうし、一人ひとりの歌唱スキルを把握して、声の魅力を引き出してもあげたいし、そういうディレクションまでを、本当はやってあげたいですね」
才能のある人たちを、解き放ってあげたい。堂本はまっすぐにそう語った。
今年はシンガー・ソングライターとして、デビュー20周年。ENDRECHERIとして精力的に楽曲をリリース、夏フェスへの参加も決まった。GYAOでの新番組「つよしP」を始動し、ZOZOとのファッションデザインやLINE VOOMなど、さまざまな企画を展開する。
「『決めつけ』るのではなく、素直に発想を出すこと、変で、妙で、面白くて、独創的なモノをたくさん作り、それらをいろんなコンテンツを通して表現する一度きりの僕の人生でありたい。そして『本当の自分を生きることの幸せ』が伝染していくといいなと思っています。僕の心が、『決めつけ』で苦しんで生きている人たちの心に届いて、自分らしく生きてみようという笑顔を与えられたなら、とても幸せだなって思います」
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