not me一刷完成,记一下repo,确认过台词,是会二刷的剧[打call][打call][打call]
⛺️最出圈的应该是旗下牵手片段,但看完全片后,从剧情内核来说这个片段真的不值一提,只是主角情感的过度戏,神仙打光下og也拿出了旗鼓相当的演技,确实当得起名场面,也让这个戏的情感线令人印象深刻。
但我最喜欢的一场戏是小白去工厂没投苦味剂后跟肖恩在晨光中争执那场戏。在黎明的曙光中,小白半张脸被朝阳照亮,肖恩迎着光走去,受不同观点支配的行为在合作中必然会产生冲突,这个真实又流畅的冲突倒是我全剧最喜欢的一段戏。
所以其实这个戏我喜欢的一个关键词就是真实,演员皮肤的真实纹理真是太让人着迷了,不用刻意塑造光鲜形象,与角色最贴合的妆发自然呈现出来就是我想看到的每部戏的样子,这也让摩挲皮肤的动作合理变成重要细节。
但虽然呈现细节,这部戏的大特写属实太多了点,这种电影惯用的景别太需要演员饱满的情绪来演绎了,有的特写镜头演员撑不住就有点干,比较遗憾。不过以电影质感来说,这部戏拍的时间太短了,特写镜头不是人人出彩也算多有亮点,对比下来中景跟远景构图都很棒,连空镜头也是有思考的,真是全片质感喜人
另外这个戏的色调真的太棒了,就跟导演的衣品一样,我真是完全喜欢
️但从这种长度的电视剧角度来说剧情确实有点逻辑硬伤,也有可能是翻译跟文化的差异导致的这种逻辑问题,所以这点我也不明确。
可以确定的是想表现的东西太多了,在这个戏里看到了对社会的思考、对自身的反思、对团体的分析、对立场的阐释,对自我解放的定位……每一项都可以拿来做主线的主题揉杂在一起量太大了,注定不是一部讨喜的片子,不过看得出不是简单堆砌的立意,而是剧情和人物关系中可以发展出的合理冲突,所以也有可能是囿于时长没有很明显的表现出来,就很遗憾,但每一项都拿出来让观众有一个线头循着去思考也算一种实现
❤️导演确实擅长拍情感戏,观众想看的情侣温存互动一把拿捏,名场面看的我咬破小手绢的程度
最后演员确实都完成的不错,最喜欢的一个是演员阿塔潘,连截图也能一眼认出是黑还是白的细节帝,还有一仔的大眼睛盛满情绪也让人惊喜
唯一要吐槽的就是逻辑全剧在线的大哥为啥是锅盖头
截图最前面是喜欢的那场戏截图,后面依次是关注到的一些台词,喜欢的镜头构图,一眼看出差别的黑白小哥以及大哥[允悲]
⛺️最出圈的应该是旗下牵手片段,但看完全片后,从剧情内核来说这个片段真的不值一提,只是主角情感的过度戏,神仙打光下og也拿出了旗鼓相当的演技,确实当得起名场面,也让这个戏的情感线令人印象深刻。
但我最喜欢的一场戏是小白去工厂没投苦味剂后跟肖恩在晨光中争执那场戏。在黎明的曙光中,小白半张脸被朝阳照亮,肖恩迎着光走去,受不同观点支配的行为在合作中必然会产生冲突,这个真实又流畅的冲突倒是我全剧最喜欢的一段戏。
所以其实这个戏我喜欢的一个关键词就是真实,演员皮肤的真实纹理真是太让人着迷了,不用刻意塑造光鲜形象,与角色最贴合的妆发自然呈现出来就是我想看到的每部戏的样子,这也让摩挲皮肤的动作合理变成重要细节。
但虽然呈现细节,这部戏的大特写属实太多了点,这种电影惯用的景别太需要演员饱满的情绪来演绎了,有的特写镜头演员撑不住就有点干,比较遗憾。不过以电影质感来说,这部戏拍的时间太短了,特写镜头不是人人出彩也算多有亮点,对比下来中景跟远景构图都很棒,连空镜头也是有思考的,真是全片质感喜人
另外这个戏的色调真的太棒了,就跟导演的衣品一样,我真是完全喜欢
️但从这种长度的电视剧角度来说剧情确实有点逻辑硬伤,也有可能是翻译跟文化的差异导致的这种逻辑问题,所以这点我也不明确。
可以确定的是想表现的东西太多了,在这个戏里看到了对社会的思考、对自身的反思、对团体的分析、对立场的阐释,对自我解放的定位……每一项都可以拿来做主线的主题揉杂在一起量太大了,注定不是一部讨喜的片子,不过看得出不是简单堆砌的立意,而是剧情和人物关系中可以发展出的合理冲突,所以也有可能是囿于时长没有很明显的表现出来,就很遗憾,但每一项都拿出来让观众有一个线头循着去思考也算一种实现
❤️导演确实擅长拍情感戏,观众想看的情侣温存互动一把拿捏,名场面看的我咬破小手绢的程度
最后演员确实都完成的不错,最喜欢的一个是演员阿塔潘,连截图也能一眼认出是黑还是白的细节帝,还有一仔的大眼睛盛满情绪也让人惊喜
唯一要吐槽的就是逻辑全剧在线的大哥为啥是锅盖头
截图最前面是喜欢的那场戏截图,后面依次是关注到的一些台词,喜欢的镜头构图,一眼看出差别的黑白小哥以及大哥[允悲]
《临江仙·夜登小阁忆洛中旧游》
宋·陈与义
忆昔午桥桥上饮,坐中多是豪英。
长沟流月去无声。
杏花疏影里,吹笛到天明。
二十余年如一梦,此身虽在堪惊。
闲登小阁看新晴。
古今多少事,渔唱起三更。
写下这首词的时候,陈与义已经快五十岁了。陈与义是洛阳人,他追忆二十年前与朋友的一场游兴。
那时,天下无事,游兴盛行,后来,金兵南下,北宋灭亡,陈与义逃难南方,遍尝苦兴,当他回忆二十多年以前的往事,百感交集。
那时的词人,与友人游赏饮宴,赏花吹笛,那些杏花疏影都变成了回忆罢了。
一切无常。
事实上,人的一生中有很多无常:身体会衰老、工作会改变、命运会逆转……每个人的人生道路都并非一成不变,而是充满变化。正如佛《贤愚经》中提到无常四边:“聚际必散,积际必尽,生际必死,高际必堕。”
1、高际必堕
有位高权重之时,必然有堕下的一天。
2、生际必死
有出生就必定有死亡。死亡很残酷,但每个人都无法逃避。有些人说:“不要讲这些,我不相信!”这其实叫掩耳盗铃。
3、聚际必散
不论家人还是朋友,有相聚之日,就难免有离别之时。
4、积际必尽
人们积累的财产总会消尽,有些是自己受用的,有些是朋友享用的,有些可能是怨敌使用的。

《佛说四不可得经》中记载了这样一个故事:
过去有兄弟四人,放弃了家庭产业,隐居深山,证得五通,自号仙人。他们有宿命通,知道自己大限将至,于是就碰头商量说:“我们早已经得到神足通,可以飞腾自在,所到之处无所挂碍。如今无常将至,我们要各自寻得避难之所了。”
其中一人腾身跳入虚空之中,隐藏了自己的身体,洋洋得意地说:“无常难道还能在虚空中找到我吗?”
一人隐身在闹市之中,想借庞杂的人群的气息隐藏自己的行迹。他心中想道:“无常只是要取一人的性命,有这么多人挡着,想必不会找到我头上。”
一人潜入大海之中,上不着天,下不着地,他身在海底,心想:“这下子无常可找不到我了吧?”
剩下的一人深入到渺无人烟的大山之中,将山劈开两半,然后隐身其中再把山合并在一起,心中得意地想:“无常怎么样也找不到这里吧?”
虽然,四个人都努力地挣扎,但可惜的是,他们一个也没能逃脱命运的安排。藏身在虚空中的,因缘成熟,自己从空中坠落,摔死了;进入闹市之中的,突然暴毙在众人面前;在大海中的,因缘到来时,登时死去,成为鱼鳖腹中之食;在山中的,被两座大山合力挤死了。
兄弟四人就这样一一死去了,无一人能够逃脱无常。
佛陀用佛眼看到这一切经过时,心中悲伤地想道:“这四个人想要借助神通来消除宿世的业障,何等的愚痴!殊不知,贪嗔痴三毒未能灭除、无上菩提未能通达,又怎能挣脱无常的魔爪呢?”于是,佛陀念诵了一首偈颂:
虽欲藏在空,若处大海中,假使入诸山,而欲自翳形,欲求不死地,未曾可获之。是故精进学,无身乃为宁。

这个故事说完之后,佛陀又为弟子们开示了世间四件不可得的事情。
第一、想要青春年少不老,终不可得。
年幼时面容姣好,光鲜美貌,头发乌黑、牙齿洁白,皮肤光泽,气力充沛,举手投足间自信洒脱,坚毅刚强,乘车、骑马时众人无不赞叹爱敬。将来有一天忽而年老,头发变白、牙齿脱落,面容起皱、皮肤松弛,身体需要拐杖来支撑,气息短促呻吟不断。想要青春永驻而不变老,毕竟是不可得的事。
第二、想要身体常安无病,终不可得。
身体强壮而健康,骨骼实盛、骨髓密实,走路步伐稳健轻松,无人能比,饮食顺畅自如,头部五官健康得当,无有不适,这种健康也是无人能及。想要免于疾病、身体安乐无有疾病,毕竟是不可得的事。
第三、要想长寿永活世间,终不可得。
无常来时,就像风吹散云一样,希望长生不死却难敌无常,忽然命终,对色身的拥有无法自在遂愿。想要长寿无极,毕竟是不可得的事。
第四、要想亲朋永远跟随,终不可得。
父母颐养天年,兄弟孝悌有序,家眷守礼知节,亲族互助共进,朋友深情厚谊,知音志同道合,夫妻琴瑟和鸣,家产富足,高官厚禄,外出骑马乘车游乐观赏时,妻妾子孙随心所欲快活玩乐,使幼奴和仆人快步随行,自己则骑马环视人群顾影自怜,对人轻蔑无理,抱有独一无二的优越感。无常来时,就像热水消融冰雪一般,内心则焦虑惧怕,请求别人帮助度过患难,怎么可能如愿呢?一旦呼吸停止,生命终结,灵魂独去,父母、兄弟、妻妾、子女、亲戚、朋友、知音、恩爱全部独留世间,高官厚爵、家产仆从也全部如星星般,分散流落各奔前程,欲求不死,毕竟是不可得的事。

佛陀告诉我们,我们的情感是无常的,财产是无常的,生命也是无常……世间的一切法都是无常的,不可乐、不可信、不可依赖、不可凭靠。因此世间的事情,无论有多么重要,论其迫切都不如了生死,言其高尚都不如成佛道!
而反观我们自己,一生不过百年,除去睡眠占据的一半时间,再除去从小到大求学的十几年,我们真正遇到佛法,可堪精进用功的时间,还剩下多少呢?
除非像六祖惠能大师那样的上根利智,一闻千悟者,不然一般中下根性的人在这有限的时间内想要修持佛法有所成就,本已不易。若再加上放逸、懈怠、懒散,不肯用功精进,却想要在短时间内把无始劫来的生死妄想全部了却,其困难程度可想而知!

观无常,方能清醒认识一切外境无论是好是坏,皆是缘起性空,通达了般若智慧,才不会被外在的人事物所迷惑。
观无常,方能真诚发心,勤修十善,远离三途,进求无上菩提之路。
观无常,方能鞭策我们对有限的生命产生紧迫感,于身体强健之时精进修行,努力行善,奉献自我,自利利人。


宋·陈与义
忆昔午桥桥上饮,坐中多是豪英。
长沟流月去无声。
杏花疏影里,吹笛到天明。
二十余年如一梦,此身虽在堪惊。
闲登小阁看新晴。
古今多少事,渔唱起三更。
写下这首词的时候,陈与义已经快五十岁了。陈与义是洛阳人,他追忆二十年前与朋友的一场游兴。
那时,天下无事,游兴盛行,后来,金兵南下,北宋灭亡,陈与义逃难南方,遍尝苦兴,当他回忆二十多年以前的往事,百感交集。
那时的词人,与友人游赏饮宴,赏花吹笛,那些杏花疏影都变成了回忆罢了。
一切无常。
事实上,人的一生中有很多无常:身体会衰老、工作会改变、命运会逆转……每个人的人生道路都并非一成不变,而是充满变化。正如佛《贤愚经》中提到无常四边:“聚际必散,积际必尽,生际必死,高际必堕。”
1、高际必堕
有位高权重之时,必然有堕下的一天。
2、生际必死
有出生就必定有死亡。死亡很残酷,但每个人都无法逃避。有些人说:“不要讲这些,我不相信!”这其实叫掩耳盗铃。
3、聚际必散
不论家人还是朋友,有相聚之日,就难免有离别之时。
4、积际必尽
人们积累的财产总会消尽,有些是自己受用的,有些是朋友享用的,有些可能是怨敌使用的。

《佛说四不可得经》中记载了这样一个故事:
过去有兄弟四人,放弃了家庭产业,隐居深山,证得五通,自号仙人。他们有宿命通,知道自己大限将至,于是就碰头商量说:“我们早已经得到神足通,可以飞腾自在,所到之处无所挂碍。如今无常将至,我们要各自寻得避难之所了。”
其中一人腾身跳入虚空之中,隐藏了自己的身体,洋洋得意地说:“无常难道还能在虚空中找到我吗?”
一人隐身在闹市之中,想借庞杂的人群的气息隐藏自己的行迹。他心中想道:“无常只是要取一人的性命,有这么多人挡着,想必不会找到我头上。”
一人潜入大海之中,上不着天,下不着地,他身在海底,心想:“这下子无常可找不到我了吧?”
剩下的一人深入到渺无人烟的大山之中,将山劈开两半,然后隐身其中再把山合并在一起,心中得意地想:“无常怎么样也找不到这里吧?”
虽然,四个人都努力地挣扎,但可惜的是,他们一个也没能逃脱命运的安排。藏身在虚空中的,因缘成熟,自己从空中坠落,摔死了;进入闹市之中的,突然暴毙在众人面前;在大海中的,因缘到来时,登时死去,成为鱼鳖腹中之食;在山中的,被两座大山合力挤死了。
兄弟四人就这样一一死去了,无一人能够逃脱无常。
佛陀用佛眼看到这一切经过时,心中悲伤地想道:“这四个人想要借助神通来消除宿世的业障,何等的愚痴!殊不知,贪嗔痴三毒未能灭除、无上菩提未能通达,又怎能挣脱无常的魔爪呢?”于是,佛陀念诵了一首偈颂:
虽欲藏在空,若处大海中,假使入诸山,而欲自翳形,欲求不死地,未曾可获之。是故精进学,无身乃为宁。

这个故事说完之后,佛陀又为弟子们开示了世间四件不可得的事情。
第一、想要青春年少不老,终不可得。
年幼时面容姣好,光鲜美貌,头发乌黑、牙齿洁白,皮肤光泽,气力充沛,举手投足间自信洒脱,坚毅刚强,乘车、骑马时众人无不赞叹爱敬。将来有一天忽而年老,头发变白、牙齿脱落,面容起皱、皮肤松弛,身体需要拐杖来支撑,气息短促呻吟不断。想要青春永驻而不变老,毕竟是不可得的事。
第二、想要身体常安无病,终不可得。
身体强壮而健康,骨骼实盛、骨髓密实,走路步伐稳健轻松,无人能比,饮食顺畅自如,头部五官健康得当,无有不适,这种健康也是无人能及。想要免于疾病、身体安乐无有疾病,毕竟是不可得的事。
第三、要想长寿永活世间,终不可得。
无常来时,就像风吹散云一样,希望长生不死却难敌无常,忽然命终,对色身的拥有无法自在遂愿。想要长寿无极,毕竟是不可得的事。
第四、要想亲朋永远跟随,终不可得。
父母颐养天年,兄弟孝悌有序,家眷守礼知节,亲族互助共进,朋友深情厚谊,知音志同道合,夫妻琴瑟和鸣,家产富足,高官厚禄,外出骑马乘车游乐观赏时,妻妾子孙随心所欲快活玩乐,使幼奴和仆人快步随行,自己则骑马环视人群顾影自怜,对人轻蔑无理,抱有独一无二的优越感。无常来时,就像热水消融冰雪一般,内心则焦虑惧怕,请求别人帮助度过患难,怎么可能如愿呢?一旦呼吸停止,生命终结,灵魂独去,父母、兄弟、妻妾、子女、亲戚、朋友、知音、恩爱全部独留世间,高官厚爵、家产仆从也全部如星星般,分散流落各奔前程,欲求不死,毕竟是不可得的事。

佛陀告诉我们,我们的情感是无常的,财产是无常的,生命也是无常……世间的一切法都是无常的,不可乐、不可信、不可依赖、不可凭靠。因此世间的事情,无论有多么重要,论其迫切都不如了生死,言其高尚都不如成佛道!
而反观我们自己,一生不过百年,除去睡眠占据的一半时间,再除去从小到大求学的十几年,我们真正遇到佛法,可堪精进用功的时间,还剩下多少呢?
除非像六祖惠能大师那样的上根利智,一闻千悟者,不然一般中下根性的人在这有限的时间内想要修持佛法有所成就,本已不易。若再加上放逸、懈怠、懒散,不肯用功精进,却想要在短时间内把无始劫来的生死妄想全部了却,其困难程度可想而知!

观无常,方能清醒认识一切外境无论是好是坏,皆是缘起性空,通达了般若智慧,才不会被外在的人事物所迷惑。
观无常,方能真诚发心,勤修十善,远离三途,进求无上菩提之路。
观无常,方能鞭策我们对有限的生命产生紧迫感,于身体强健之时精进修行,努力行善,奉献自我,自利利人。


KinKi Kids、CDデビュー25周年。ニューシングル「高純度romance」で松本隆が描いた2人の姿
text by その他
https://t.cn/A66Iu3dB
3月16日にリリースされる、KinKi Kids、44枚目のシングル「高純度romance」は、25年前、彼らのデビュー曲「硝子の少年」を手掛けた、松本隆による作詩である。CDデビュー25周年を迎えるこのアニヴァーサリーの始まりに、彼を起用した意味は大きい。この楽曲の歌詩について、昨年、松本隆50年の軌跡を追った評伝「風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年」(KADOKAWA)を上梓した音楽評論家、田家秀樹による考察を軸に「高純度romance」を分析する。2人を傍で、つかず離れず、ずっと見続けてきた人だからこそわかることがある。これは愛に溢れた1曲だ。
(これは『音楽と人』4月号に掲載された記事です)
松本さんらしい歌詩だな、という印象を受けました。
過剰な言葉も使わないし、説明もしないんだけど、何を唄いたいのかがすごくよくわかる。
〈絆〉ですよね。そしてこんな美しい曲なのに、美化してないし、綺麗事にもしていない。すごくリアリティがある。
〈引きこもってた日もあったよね/悩んだり凹んだり〉
何かを肯定する時に、こういう否定的なことも呼び込みながら、絶妙なバランスで書く。これは、松本隆の技以外の何者でもないですよ。
はっぴいえんどの頃からずっとそうなんですけど、松本さんは1曲の中で、光と影のどちらも書くんです。どちらかではなく全体を。すごくフラットに物を見ながら、その中にあるいろんなデコボコから目を背けない。そしてそれを肯定的に描けるから、嘘っぽさが全然ない。どんな人にも影があって、美しいだけじゃないことをわかって書いている。この曲は、言ってみれば結成25周年のお祝いソングですよね。そんなおめでたい曲に普通、〈引きこもってた日もあったよね〉なんて引き合いに出さないでしょう? でもそれが、この歌のリアリティに繋がっています。
有名なエピソードですけど、松本さんがKinKi Kidsのデビュー曲を依頼された時、なかなかジャニーさんからOKが出なかったんです。ミリオンヒットを獲れる曲という至上命令が出ていて、「Kissからはじまるミステリー」と「ジェットコースター・ロマンス」を先に書き上げていたものの、デビュー曲としてはOKがもらえなかった。煮詰まった松本さんが、仕事場の居間でテレビをつけたら偶然KinKi Kidsが唄っていて、その姿を見た松本さんは「あ、硝子の少年だ」と思った、と。
硝子は脆くて崩れやすく、だからこそピュアで透明、そして美しい。今回のタイトルの〈高純度〉とは、そういうことでもありますよね。この関係がこのままで壊れないでほしい、という願いもあったと思います。そこに松本さん自身を重ねたところもあるでしょうね。
松本さんが分身だと言ってる人が3人いるんです。細野晴臣、大滝詠一、筒美京平。きっと、自分とその人たちの間にあった、他の人にはわからない独特な関係性を、光一くんと剛くんの関係に見たんだと思います。ずっと傍にいるけど交わらない。でも絶対に離れられない。そして誰よりもお互いを理解してる。
だから、この人にはこうであってほしい、という願いが歌詩にこもってるんですよね。松本さんがそんなスタンスで歌詩を描いた唄い手は、おそらくKinKi Kidsと松田聖子さんだけだと思います。松田さんには、等身大の彼女より、ちょっとだけ大人なテーマの歌詩をつねに与えてきたんですよ。彼女は飛び抜けた歌唱力でそれを唄い、それによって、歌手としても人間としても大人になっていった。
KinKi Kidsもそうだと思うんです。デビューがいきなり「硝子の少年」じゃないですか。18歳で、自分たちのあり方のようなものを提示されて以降、その後の松本さんの歌詩は、つねに彼らの生き方のようなものを提示してきている気がします。「ボクの背中には羽根がある」も「スワンソング」もそう。そんな長年のいろんな積み重ねのうえに「高純度romance」が生まれている。それを思うと、25年という時間を背景に、大人になった2人に対し、その次、みたいなものを指し示してるのかもしれません。〈家庭〉という言葉もかなり踏み込んでるように聴こえますけど、でもそれが、さっき話したようなどんな人でも思い当たるリアリティを曲に与えてくれるんです。
〈純度高めの日々育んだ〉という一節もそうですね。つまり自分たちがやっている活動があって、お互いがその純度を高め続けている。プライドもあるし、自負もあるから折れない。そう簡単には交わらない。そんな状態で続けてきた彼らのことを、松本さんはちゃんと見てるということですよね。
そしてラストにある〈真実の蝶結び〉という言葉。〈蝶結び〉って、すぐ解けてしまう脆さがあるじゃないですか。ギュッと固く結ぶのではなく、綺麗だけど、紐を引いたらすぐに解けてしまう〈蝶結び〉。純度が高いからそれができるということでもあるし、そこに到達したということでもある。でも壊れやすいものでもある。これは「硝子の少年」にあった儚さ、脆さの象徴ですよね。そういうものが25年を経てもちゃんと結ばれている。
やはり松本さんがKinKi Kidsにずっと見ているのは、壊れそうで陰りのある、でもとても儚くて、ピュアな青春なんですよ。それを最初、近藤真彦さんに見たと思うんですけど、彼はソロだから、1人の人物の視点でしか描けない。KinKi Kidsはそこに2人の関係性が加わるから、近藤さんよりも歌で表現する視点が深くなる。そこにあの時代のいろんな青春群像が散りばめられているのが「硝子の少年」ですけど、それから25年経って、大人になった時に、いろんなことを言わなくてももういろいろ経験してるから、以前よりも言葉数が少なくなって、整理されて唄われていますね。
松本さんは作詞家として、太田裕美や寺尾聰、南佳孝や松田聖子の作品で、歌謡界で一時代を築いた後、89年から94年まで、作詞家としての活動を休憩するんですが、最前線に復帰したのがKinKi Kidsでした。おそらく松本さんは、2人と出会い、「硝子の少年」がミリオンヒットを飛ばし、代表曲として唄い継がれてきたことで、彼が70年代からずっと描いてきた〈青春の永遠性〉みたいなものを確信できたんじゃないでしょうか。つまり古い新しいは関係なく、みんなが持っているものなんだ、と。
松本さんの歌詩には、時折〈ジェームス・ディーン〉がモチーフとして出てきます。青春のシンボルとでも言うべきもので、矢沢永吉さんの「サブウェイ特急」や原田真二さんの「てぃーんずぶるーす」にも出てきます。若々しく孤独感があり、陰りもある。ジェームス・ディーンのそんなイメージが、松本さんの中にある普遍的な青春でしょう。それがKinKi Kidsにも繋がっているんですけど、さっきお話したように、ジェームス・ディーンは1人だけど、その精神を、2人の関係性として描けるのがKinKi Kidsなんだと思います。
ジェームス・ディーンは若くして亡くなっています。つまり孤独感や陰りというのは、それを抱えたまま死ぬことでしか永遠にならない。人によっては、歳を重ねるごとに、そういうものが失われていく。むしろそのほうが多い。でもKinKi Kidsは、2人の関係が続いていく中で、孤独や陰りが失われることがない。その素晴らしさがある。松本さんが描いてきた〈青春の永遠性〉。その先にあるものを彼らは見せてくれている。あんな硝子のように脆く、儚い美しさを湛えてきた2人の25年。この記念すべきアニヴァーサリーに書いた「高純度romance」は、松本さんが描きたかった世界観の集大成に近い。そして松本さんが、KinKi Kidsの2人に言いたかったであろう一言が、この曲の中にありました。
〈ほんとに愛してるよ〉
これが2人に伝えたかったことですよ。松本さんは大切なタイミングで、歌詩にそういうことを盛り込みますね。松田さんとのコンビを解消したアルバム『Citron』の最後の曲「林檎酒の日々」では〈もうさよならね〉と書いてますけど、それと同じです。この〈ほんとに愛してるよ〉は、松本さんがKinKi Kidsの2人に伝えたかったメッセージだと思います。
よく松本さんは「人の心を引きつける詞は、5%の真実と95%の想像から出来ている」とおっしゃっているんですが、その5%の真実が、25周年というタイミングもあって、そういうところににじみ出た気がします。それと、〈そんな時背中をポンと叩く/君の手に救われたのさ〉という一節は、ジャニーさんの病室で光一さんと剛さんが交わした光景を、KinKi Kidsとして歌にしていると編集長の金光さんから聞いたんですが(註:「YOU... ~ThanKs 2 YOU~」のKinKi Kidsヴァージョン。『KinKi Kids Concert Tour2019-2020 ThanKs 2 YOU』で披露)、松本さんはその話を知らなかったかもしれないですね。というのは、マーケットリサーチみたいなことをする人じゃないんですよ。人から聞かされたのなら別ですけど、自分から最近のKinKi Kidsについて細かく調べたりはしてないと思います。だとしたらすごい話ですけど、松本隆という人とKinKi Kidsの関係を知れば、そんな偶然もありそうだなと、そんな気持ちになりますね。
談=田家秀樹
構成=金光裕史
text by その他
https://t.cn/A66Iu3dB
3月16日にリリースされる、KinKi Kids、44枚目のシングル「高純度romance」は、25年前、彼らのデビュー曲「硝子の少年」を手掛けた、松本隆による作詩である。CDデビュー25周年を迎えるこのアニヴァーサリーの始まりに、彼を起用した意味は大きい。この楽曲の歌詩について、昨年、松本隆50年の軌跡を追った評伝「風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年」(KADOKAWA)を上梓した音楽評論家、田家秀樹による考察を軸に「高純度romance」を分析する。2人を傍で、つかず離れず、ずっと見続けてきた人だからこそわかることがある。これは愛に溢れた1曲だ。
(これは『音楽と人』4月号に掲載された記事です)
松本さんらしい歌詩だな、という印象を受けました。
過剰な言葉も使わないし、説明もしないんだけど、何を唄いたいのかがすごくよくわかる。
〈絆〉ですよね。そしてこんな美しい曲なのに、美化してないし、綺麗事にもしていない。すごくリアリティがある。
〈引きこもってた日もあったよね/悩んだり凹んだり〉
何かを肯定する時に、こういう否定的なことも呼び込みながら、絶妙なバランスで書く。これは、松本隆の技以外の何者でもないですよ。
はっぴいえんどの頃からずっとそうなんですけど、松本さんは1曲の中で、光と影のどちらも書くんです。どちらかではなく全体を。すごくフラットに物を見ながら、その中にあるいろんなデコボコから目を背けない。そしてそれを肯定的に描けるから、嘘っぽさが全然ない。どんな人にも影があって、美しいだけじゃないことをわかって書いている。この曲は、言ってみれば結成25周年のお祝いソングですよね。そんなおめでたい曲に普通、〈引きこもってた日もあったよね〉なんて引き合いに出さないでしょう? でもそれが、この歌のリアリティに繋がっています。
有名なエピソードですけど、松本さんがKinKi Kidsのデビュー曲を依頼された時、なかなかジャニーさんからOKが出なかったんです。ミリオンヒットを獲れる曲という至上命令が出ていて、「Kissからはじまるミステリー」と「ジェットコースター・ロマンス」を先に書き上げていたものの、デビュー曲としてはOKがもらえなかった。煮詰まった松本さんが、仕事場の居間でテレビをつけたら偶然KinKi Kidsが唄っていて、その姿を見た松本さんは「あ、硝子の少年だ」と思った、と。
硝子は脆くて崩れやすく、だからこそピュアで透明、そして美しい。今回のタイトルの〈高純度〉とは、そういうことでもありますよね。この関係がこのままで壊れないでほしい、という願いもあったと思います。そこに松本さん自身を重ねたところもあるでしょうね。
松本さんが分身だと言ってる人が3人いるんです。細野晴臣、大滝詠一、筒美京平。きっと、自分とその人たちの間にあった、他の人にはわからない独特な関係性を、光一くんと剛くんの関係に見たんだと思います。ずっと傍にいるけど交わらない。でも絶対に離れられない。そして誰よりもお互いを理解してる。
だから、この人にはこうであってほしい、という願いが歌詩にこもってるんですよね。松本さんがそんなスタンスで歌詩を描いた唄い手は、おそらくKinKi Kidsと松田聖子さんだけだと思います。松田さんには、等身大の彼女より、ちょっとだけ大人なテーマの歌詩をつねに与えてきたんですよ。彼女は飛び抜けた歌唱力でそれを唄い、それによって、歌手としても人間としても大人になっていった。
KinKi Kidsもそうだと思うんです。デビューがいきなり「硝子の少年」じゃないですか。18歳で、自分たちのあり方のようなものを提示されて以降、その後の松本さんの歌詩は、つねに彼らの生き方のようなものを提示してきている気がします。「ボクの背中には羽根がある」も「スワンソング」もそう。そんな長年のいろんな積み重ねのうえに「高純度romance」が生まれている。それを思うと、25年という時間を背景に、大人になった2人に対し、その次、みたいなものを指し示してるのかもしれません。〈家庭〉という言葉もかなり踏み込んでるように聴こえますけど、でもそれが、さっき話したようなどんな人でも思い当たるリアリティを曲に与えてくれるんです。
〈純度高めの日々育んだ〉という一節もそうですね。つまり自分たちがやっている活動があって、お互いがその純度を高め続けている。プライドもあるし、自負もあるから折れない。そう簡単には交わらない。そんな状態で続けてきた彼らのことを、松本さんはちゃんと見てるということですよね。
そしてラストにある〈真実の蝶結び〉という言葉。〈蝶結び〉って、すぐ解けてしまう脆さがあるじゃないですか。ギュッと固く結ぶのではなく、綺麗だけど、紐を引いたらすぐに解けてしまう〈蝶結び〉。純度が高いからそれができるということでもあるし、そこに到達したということでもある。でも壊れやすいものでもある。これは「硝子の少年」にあった儚さ、脆さの象徴ですよね。そういうものが25年を経てもちゃんと結ばれている。
やはり松本さんがKinKi Kidsにずっと見ているのは、壊れそうで陰りのある、でもとても儚くて、ピュアな青春なんですよ。それを最初、近藤真彦さんに見たと思うんですけど、彼はソロだから、1人の人物の視点でしか描けない。KinKi Kidsはそこに2人の関係性が加わるから、近藤さんよりも歌で表現する視点が深くなる。そこにあの時代のいろんな青春群像が散りばめられているのが「硝子の少年」ですけど、それから25年経って、大人になった時に、いろんなことを言わなくてももういろいろ経験してるから、以前よりも言葉数が少なくなって、整理されて唄われていますね。
松本さんは作詞家として、太田裕美や寺尾聰、南佳孝や松田聖子の作品で、歌謡界で一時代を築いた後、89年から94年まで、作詞家としての活動を休憩するんですが、最前線に復帰したのがKinKi Kidsでした。おそらく松本さんは、2人と出会い、「硝子の少年」がミリオンヒットを飛ばし、代表曲として唄い継がれてきたことで、彼が70年代からずっと描いてきた〈青春の永遠性〉みたいなものを確信できたんじゃないでしょうか。つまり古い新しいは関係なく、みんなが持っているものなんだ、と。
松本さんの歌詩には、時折〈ジェームス・ディーン〉がモチーフとして出てきます。青春のシンボルとでも言うべきもので、矢沢永吉さんの「サブウェイ特急」や原田真二さんの「てぃーんずぶるーす」にも出てきます。若々しく孤独感があり、陰りもある。ジェームス・ディーンのそんなイメージが、松本さんの中にある普遍的な青春でしょう。それがKinKi Kidsにも繋がっているんですけど、さっきお話したように、ジェームス・ディーンは1人だけど、その精神を、2人の関係性として描けるのがKinKi Kidsなんだと思います。
ジェームス・ディーンは若くして亡くなっています。つまり孤独感や陰りというのは、それを抱えたまま死ぬことでしか永遠にならない。人によっては、歳を重ねるごとに、そういうものが失われていく。むしろそのほうが多い。でもKinKi Kidsは、2人の関係が続いていく中で、孤独や陰りが失われることがない。その素晴らしさがある。松本さんが描いてきた〈青春の永遠性〉。その先にあるものを彼らは見せてくれている。あんな硝子のように脆く、儚い美しさを湛えてきた2人の25年。この記念すべきアニヴァーサリーに書いた「高純度romance」は、松本さんが描きたかった世界観の集大成に近い。そして松本さんが、KinKi Kidsの2人に言いたかったであろう一言が、この曲の中にありました。
〈ほんとに愛してるよ〉
これが2人に伝えたかったことですよ。松本さんは大切なタイミングで、歌詩にそういうことを盛り込みますね。松田さんとのコンビを解消したアルバム『Citron』の最後の曲「林檎酒の日々」では〈もうさよならね〉と書いてますけど、それと同じです。この〈ほんとに愛してるよ〉は、松本さんがKinKi Kidsの2人に伝えたかったメッセージだと思います。
よく松本さんは「人の心を引きつける詞は、5%の真実と95%の想像から出来ている」とおっしゃっているんですが、その5%の真実が、25周年というタイミングもあって、そういうところににじみ出た気がします。それと、〈そんな時背中をポンと叩く/君の手に救われたのさ〉という一節は、ジャニーさんの病室で光一さんと剛さんが交わした光景を、KinKi Kidsとして歌にしていると編集長の金光さんから聞いたんですが(註:「YOU... ~ThanKs 2 YOU~」のKinKi Kidsヴァージョン。『KinKi Kids Concert Tour2019-2020 ThanKs 2 YOU』で披露)、松本さんはその話を知らなかったかもしれないですね。というのは、マーケットリサーチみたいなことをする人じゃないんですよ。人から聞かされたのなら別ですけど、自分から最近のKinKi Kidsについて細かく調べたりはしてないと思います。だとしたらすごい話ですけど、松本隆という人とKinKi Kidsの関係を知れば、そんな偶然もありそうだなと、そんな気持ちになりますね。
談=田家秀樹
構成=金光裕史
✋热门推荐