慢,不是懈怠,不是拖延,慢是行走天地时悠闲从容的心境。
三毛说:“最深最平和的快乐,就是静观天地和人世,慢慢品味出它的美与和谐。"古往今来,那些在天地中缓步徐行的人都获得了一份独属于自己的和谐和安宁。官场污浊,心为形役。耻干折腰的陶靖节毅然停下疾行的脚步,缓步归向田园,慢中方有“采菊东篱下,悠然现南山”的超脱:红尘喧嚣,众人奔忙,梅妻鹤子的林逋放慢生活的脚步,独自隐居干西湖畔孤山,慢中静享“疏影横斜水清浅,暗香浮动月黄昏"的诗意。他们在快中求慢,喧中得静,独得一份生命的诗意和从容。我们在红尘中快步疾行,也应偷得浮生半日闲,牵蜗牛漫步,偶得内心安谧。
三毛说:“最深最平和的快乐,就是静观天地和人世,慢慢品味出它的美与和谐。"古往今来,那些在天地中缓步徐行的人都获得了一份独属于自己的和谐和安宁。官场污浊,心为形役。耻干折腰的陶靖节毅然停下疾行的脚步,缓步归向田园,慢中方有“采菊东篱下,悠然现南山”的超脱:红尘喧嚣,众人奔忙,梅妻鹤子的林逋放慢生活的脚步,独自隐居干西湖畔孤山,慢中静享“疏影横斜水清浅,暗香浮动月黄昏"的诗意。他们在快中求慢,喧中得静,独得一份生命的诗意和从容。我们在红尘中快步疾行,也应偷得浮生半日闲,牵蜗牛漫步,偶得内心安谧。
【わたし達はおとな】
“自分”の範疇を超えていく――木竜麻生&藤原季節に訪れた、カメラの存在を完全に忘れた瞬間
――本作には、どのような経緯で参加することになったのでしょうか? 木竜さんは、加藤監督とは初タッグとなりました。
木竜:送られてきた脚本を読ませていただき、すぐにマネージャーさんと話したんです。「(脚本が)面白い。この作品はやろう」と。脚本は、最初から最後まで面白いと、純粋に感じましたし「2人(=優実と直哉)の事を見てみたい」と思いました。
――藤原さんは、加藤監督が演出した舞台「まゆをひそめて、僕を笑って」(2017)、「貴方なら生き残れるわ」(18)、「誰にも知られず死ぬ朝」(20)、「ぽに」(21)に出演されていますよね。
藤原:加藤さんとは付き合いが長いですね。「わたし達はおとな」に関しては、舞台の本番と重なっていて、元々出演することができなかったんです。「主人公は木竜さんに決まった」と加藤さんから報告を受けて「おめでとうございます。あとは相手役だけですね」と励ます立場だったんですが……参加するはずだった舞台が、コロナの影響で中止になったんです。それで加藤さんから声をかけていただき、すぐに脚本を読みました。
――どのように感じられましたか?
藤原:直哉を演じられるのは「僕しかいないな」と思いましたね(笑)。
一同:爆笑
藤原:脚本が本当に面白かった。「『面白い』。しかし、こんなことを言ってしまってもいいのだろうか」と感じる面白さがありましたね。二つ返事で出演が決まりました。
――では、クランクイン前に準備をしていたことはありますか?
藤原:加藤さんがリハーサルの機会を用意してくれて、何度も何度も繰り返していました。本作はラストに向かって、優実と積み上げていくものが必要になります。それには、役を演じる本人同士のコミュニケーションも大切です。なので、リハーサルの最中には、木竜さんと頻繁にコミュニケーションをとっていました。そういう時間は、加藤さんが用意してくれたんです。
木竜:今回の現場には、加藤監督と普段から仕事をしている方々が何人もいらっしゃったんです。リハーサルでは、共通言語を作る時間もとっていただけましたし、皆さんの作る“空気”に巻き込んでもらいながらセッションさせていただいた、という感じでした。
藤原:このリハーサルには、カメラも入っていたんです。まずは芝居の中で、僕たちが動きを作っていく。その後“カメラを何処に置けば、必要最低限のカットで、優実の表情の変化を撮れるのか”という点を、加藤さんたちが計算しながら探っていく。その一方で、僕らは芝居の精度を高める。スタッフと俳優のリハーサルが同時に行われているような感じだったんです。
――このリハーサルは、かなり重要な機会だったんですね。ちなみに、おふたりは初共演ですよね?
木竜:はい。でも、共通の友達がいるので、お互いの事を知ってはいたんです。
――“顔見知り”ではあったわけですね。では、今回の共演を通じて感じた「俳優・藤原季節」について教えていただけますか?
木竜:お芝居をすることに対して、何よりもまっすぐで強い。そんな印象を受けました。こんなにも芝居に対して夢中になれるのか……そんな風に感じてしまう方です。それは今回、実際に共演してみて強く思ったこと。「私も頑張らないと」「負けたくないな」という思いと、「でも、敵わないんだろうな」という考えが同時によぎってしまう俳優さんだと思っています。
――藤原さんは、いかがでしょうか?
藤原:木竜さんの出演作はほとんど見ています。ガラスのハートのように繊細なものを持ちながらも、それを突き抜ける“俳優としての強度”があるんです。同世代だと他に例がない。そうでなければ「菊とギロチン」のヒロインなんてできませんよ。
木竜:この事、いつも言ってくれるんですよ(笑)。
藤原:いやいや、誰にでもできる事じゃないから。“強度のある俳優”だということは、周知の事実だと思っています。
――では、加藤監督とのやりとりに話を転じましょう。木竜さんは、どのような対話を経て、優実の人物像を作り上げていきましたか?
木竜:リハーサルの最初から最後まで言われていたのは「今回は、どれだけ隠せるかが大切」ということです。心の中で思っている事、感情の動き、言いたい事、言えない事、言いたくはない事……これらをどれだけ隠せるのか。現場では、それらについて「出過ぎかな」「もう少しだけ出そう」と微調整を行ってもらったり、丁寧に強弱をつけていただいていました。もうひとつ言われていたのは「今回は暮らしを撮る。生活のある映画になる」ということ。この指針は、自分の中に持ち続けていたと思います。
――藤原さんは、前述の通り、加藤監督とは何度もご一緒されていますよね。加藤監督の魅力は、どのような点に表れていると思いますか?
藤原:“変化し続ける男”といえばいいんでしょうか……作品のカラーが、毎回異なる。そこがすごいですよね。でも、共通していることもあります。「善、悪」「好き、嫌い」「付き合う、付き合わない」「結婚する、結婚しない」という形では白黒がつけられない、“名前がつく前の曖昧な部分”を表現し続けているんだなと思っています。
――「映画の現場」だからこそ感じられた面白みはありましたか?
藤原:ワンカット・長回しを多用しているので、そういう意味では演劇に近いんです。演劇は“再現”をしないといけないので「感情をどこで出すか」という点は、稽古の時点で決まっていきます。「わたし達はおとな」のラストシーンは、ワンカット1発勝負をかけたところなんです。舞台上での“ライブ感”をそのまま生かした、たった1回のチャンス。俳優から何が出てくるのかは、誰もわからない。ここで感じた緊張感というのは、演劇の時よりも上だったかもしれません。どんなに良い芝居が撮れたとしても、例えば救急車の音が入ってしまったら、NGになってしまいますから。木竜さんの演技を見ているうちに「このワンカットで決まる。これは最後までいかないと、撮り直しがきかない」と感じたんです。だからこそ、ラストシーンは“目撃”してほしいんです。
――木竜さんの芝居を見て「ワンカットで決まる」と感じられた。それは、どのようなタイミングだったのでしょうか?
藤原:「わたし達はおとな」は、優実の物語なんです。優実が目的地まで運ばれるために、直哉と加藤さんという存在がいる。僕たちはラストシーンに勝負をかけていましたが、最後に戦うのは木竜さんひとり。最終的には、サポートできる部分が無くなっていくんです。カメラが回ってしまえば、任せるしかない。その時、木竜さんがしっかりと自分の足で立ち、優実になりきっている姿を見ました。それは木竜さんの範疇を超えているというか……。僕が演じている直哉も、僕の範疇から抜け出していく。次第に、優実と直哉の物語になる。木竜さんと僕はどこかに行ってしまった――そういう瞬間が、本番中にあったんです。
木竜:仰っていることが、とてもよくわかります。時間の感覚がない感じというか……。時間が止まっているわけでもなく、進んでいるわけでもないんです。
藤原:カメラの存在を、完全に忘れていますから。
木竜:そう、忘れていました! 映像を見返してみると、信じられない間(ま)ができていたり。でも、そんな間(ま)を作ろうという意識はなかったんです。初号試写を見た時に感じたのですが、自分の知らない声や顔がたくさんありました。(全編に)そういう自分がちらばっていて、少し変な感じだったんです。物語の後半になればなるほど、優実は直哉に思いの丈をぶつけていきます。藤原さんには、それを全部受け止めてもらいましたし、加藤組の皆さんの“芝居中の見守り方”も素晴らしかったんです。委ねることができた自分が、そこにいた――そう思えたのは、とても幸せな事でした。
藤原:芝居をする上では、全てが整っていた現場だったと思います。穏やかで、完璧でした。
――では、最後の質問とさせていただきます。「わたし達はおとな」というタイトルは“ヤングアダルトの時期”の象徴として付けられています。このタイトルは、改めて「おとな(=大人)」について考えるきっかけになりました。「おとなは『私はおとなだ』とは言わないのかもしれない」「『自分はおとなだ』と発言しなくなった頃から、本当の意味でおとなになるのではないか……?」等々。お二人にとって“おとなになる”とは、どういうことだと思いますか?
藤原:「おとな」と「こども」。自分の中には、その両方が存在しているんです。「おとな」の部分は、自分自身のことで悩まなくなったこと。僕はそんな「おとな」を嫌っていたんです。でも、そうやって嫌っていた存在に、きちんとなりつつある。それと同時に、自分はまだまだ「こども」なんだろうなと思うこともある。具体例を出すとなると、すぐには思いつきませんが……。役者という職業は、結局、現実逃避の延長線上にあると思っているんです。これしかできないという時点で、永遠に「こども」のままなのかもしれない。この感覚を失ってしまうと、ただのふざけた「おとな」になってしまうんです。映画に対する憧れ、純粋な気持ちを失うと、毎回毎回同じような芝居を繰り返し、それで満足するようになってしまう。それは全く“楽しくない”こと。表現というものには、きちんと向き合っていきたいんです。
木竜:わかりやすい点でいうと、頼る人の数が減ったのかなと思います。以前までは、幅広い関係性の中で甘えたり、頼ったりしていたと思うんです。でも、自分でしっかりと考えて、頼ってもいいと思える人を選択するようになりました。この変化が「おとな」になったのかなと思うんです。でも、誰かに頼ったり、甘えたりする自分を許容している部分は、まだまだ「こども」だなと思います。藤原さんが仰った「自分のことで悩まない」という点、私は「おとな」だなと感じました。私は、どうしても自分にベクトルが向きやすいタイプなので……。自分自身の「こども」の部分、そこもそうなのかなと思いました。
“自分”の範疇を超えていく――木竜麻生&藤原季節に訪れた、カメラの存在を完全に忘れた瞬間
――本作には、どのような経緯で参加することになったのでしょうか? 木竜さんは、加藤監督とは初タッグとなりました。
木竜:送られてきた脚本を読ませていただき、すぐにマネージャーさんと話したんです。「(脚本が)面白い。この作品はやろう」と。脚本は、最初から最後まで面白いと、純粋に感じましたし「2人(=優実と直哉)の事を見てみたい」と思いました。
――藤原さんは、加藤監督が演出した舞台「まゆをひそめて、僕を笑って」(2017)、「貴方なら生き残れるわ」(18)、「誰にも知られず死ぬ朝」(20)、「ぽに」(21)に出演されていますよね。
藤原:加藤さんとは付き合いが長いですね。「わたし達はおとな」に関しては、舞台の本番と重なっていて、元々出演することができなかったんです。「主人公は木竜さんに決まった」と加藤さんから報告を受けて「おめでとうございます。あとは相手役だけですね」と励ます立場だったんですが……参加するはずだった舞台が、コロナの影響で中止になったんです。それで加藤さんから声をかけていただき、すぐに脚本を読みました。
――どのように感じられましたか?
藤原:直哉を演じられるのは「僕しかいないな」と思いましたね(笑)。
一同:爆笑
藤原:脚本が本当に面白かった。「『面白い』。しかし、こんなことを言ってしまってもいいのだろうか」と感じる面白さがありましたね。二つ返事で出演が決まりました。
――では、クランクイン前に準備をしていたことはありますか?
藤原:加藤さんがリハーサルの機会を用意してくれて、何度も何度も繰り返していました。本作はラストに向かって、優実と積み上げていくものが必要になります。それには、役を演じる本人同士のコミュニケーションも大切です。なので、リハーサルの最中には、木竜さんと頻繁にコミュニケーションをとっていました。そういう時間は、加藤さんが用意してくれたんです。
木竜:今回の現場には、加藤監督と普段から仕事をしている方々が何人もいらっしゃったんです。リハーサルでは、共通言語を作る時間もとっていただけましたし、皆さんの作る“空気”に巻き込んでもらいながらセッションさせていただいた、という感じでした。
藤原:このリハーサルには、カメラも入っていたんです。まずは芝居の中で、僕たちが動きを作っていく。その後“カメラを何処に置けば、必要最低限のカットで、優実の表情の変化を撮れるのか”という点を、加藤さんたちが計算しながら探っていく。その一方で、僕らは芝居の精度を高める。スタッフと俳優のリハーサルが同時に行われているような感じだったんです。
――このリハーサルは、かなり重要な機会だったんですね。ちなみに、おふたりは初共演ですよね?
木竜:はい。でも、共通の友達がいるので、お互いの事を知ってはいたんです。
――“顔見知り”ではあったわけですね。では、今回の共演を通じて感じた「俳優・藤原季節」について教えていただけますか?
木竜:お芝居をすることに対して、何よりもまっすぐで強い。そんな印象を受けました。こんなにも芝居に対して夢中になれるのか……そんな風に感じてしまう方です。それは今回、実際に共演してみて強く思ったこと。「私も頑張らないと」「負けたくないな」という思いと、「でも、敵わないんだろうな」という考えが同時によぎってしまう俳優さんだと思っています。
――藤原さんは、いかがでしょうか?
藤原:木竜さんの出演作はほとんど見ています。ガラスのハートのように繊細なものを持ちながらも、それを突き抜ける“俳優としての強度”があるんです。同世代だと他に例がない。そうでなければ「菊とギロチン」のヒロインなんてできませんよ。
木竜:この事、いつも言ってくれるんですよ(笑)。
藤原:いやいや、誰にでもできる事じゃないから。“強度のある俳優”だということは、周知の事実だと思っています。
――では、加藤監督とのやりとりに話を転じましょう。木竜さんは、どのような対話を経て、優実の人物像を作り上げていきましたか?
木竜:リハーサルの最初から最後まで言われていたのは「今回は、どれだけ隠せるかが大切」ということです。心の中で思っている事、感情の動き、言いたい事、言えない事、言いたくはない事……これらをどれだけ隠せるのか。現場では、それらについて「出過ぎかな」「もう少しだけ出そう」と微調整を行ってもらったり、丁寧に強弱をつけていただいていました。もうひとつ言われていたのは「今回は暮らしを撮る。生活のある映画になる」ということ。この指針は、自分の中に持ち続けていたと思います。
――藤原さんは、前述の通り、加藤監督とは何度もご一緒されていますよね。加藤監督の魅力は、どのような点に表れていると思いますか?
藤原:“変化し続ける男”といえばいいんでしょうか……作品のカラーが、毎回異なる。そこがすごいですよね。でも、共通していることもあります。「善、悪」「好き、嫌い」「付き合う、付き合わない」「結婚する、結婚しない」という形では白黒がつけられない、“名前がつく前の曖昧な部分”を表現し続けているんだなと思っています。
――「映画の現場」だからこそ感じられた面白みはありましたか?
藤原:ワンカット・長回しを多用しているので、そういう意味では演劇に近いんです。演劇は“再現”をしないといけないので「感情をどこで出すか」という点は、稽古の時点で決まっていきます。「わたし達はおとな」のラストシーンは、ワンカット1発勝負をかけたところなんです。舞台上での“ライブ感”をそのまま生かした、たった1回のチャンス。俳優から何が出てくるのかは、誰もわからない。ここで感じた緊張感というのは、演劇の時よりも上だったかもしれません。どんなに良い芝居が撮れたとしても、例えば救急車の音が入ってしまったら、NGになってしまいますから。木竜さんの演技を見ているうちに「このワンカットで決まる。これは最後までいかないと、撮り直しがきかない」と感じたんです。だからこそ、ラストシーンは“目撃”してほしいんです。
――木竜さんの芝居を見て「ワンカットで決まる」と感じられた。それは、どのようなタイミングだったのでしょうか?
藤原:「わたし達はおとな」は、優実の物語なんです。優実が目的地まで運ばれるために、直哉と加藤さんという存在がいる。僕たちはラストシーンに勝負をかけていましたが、最後に戦うのは木竜さんひとり。最終的には、サポートできる部分が無くなっていくんです。カメラが回ってしまえば、任せるしかない。その時、木竜さんがしっかりと自分の足で立ち、優実になりきっている姿を見ました。それは木竜さんの範疇を超えているというか……。僕が演じている直哉も、僕の範疇から抜け出していく。次第に、優実と直哉の物語になる。木竜さんと僕はどこかに行ってしまった――そういう瞬間が、本番中にあったんです。
木竜:仰っていることが、とてもよくわかります。時間の感覚がない感じというか……。時間が止まっているわけでもなく、進んでいるわけでもないんです。
藤原:カメラの存在を、完全に忘れていますから。
木竜:そう、忘れていました! 映像を見返してみると、信じられない間(ま)ができていたり。でも、そんな間(ま)を作ろうという意識はなかったんです。初号試写を見た時に感じたのですが、自分の知らない声や顔がたくさんありました。(全編に)そういう自分がちらばっていて、少し変な感じだったんです。物語の後半になればなるほど、優実は直哉に思いの丈をぶつけていきます。藤原さんには、それを全部受け止めてもらいましたし、加藤組の皆さんの“芝居中の見守り方”も素晴らしかったんです。委ねることができた自分が、そこにいた――そう思えたのは、とても幸せな事でした。
藤原:芝居をする上では、全てが整っていた現場だったと思います。穏やかで、完璧でした。
――では、最後の質問とさせていただきます。「わたし達はおとな」というタイトルは“ヤングアダルトの時期”の象徴として付けられています。このタイトルは、改めて「おとな(=大人)」について考えるきっかけになりました。「おとなは『私はおとなだ』とは言わないのかもしれない」「『自分はおとなだ』と発言しなくなった頃から、本当の意味でおとなになるのではないか……?」等々。お二人にとって“おとなになる”とは、どういうことだと思いますか?
藤原:「おとな」と「こども」。自分の中には、その両方が存在しているんです。「おとな」の部分は、自分自身のことで悩まなくなったこと。僕はそんな「おとな」を嫌っていたんです。でも、そうやって嫌っていた存在に、きちんとなりつつある。それと同時に、自分はまだまだ「こども」なんだろうなと思うこともある。具体例を出すとなると、すぐには思いつきませんが……。役者という職業は、結局、現実逃避の延長線上にあると思っているんです。これしかできないという時点で、永遠に「こども」のままなのかもしれない。この感覚を失ってしまうと、ただのふざけた「おとな」になってしまうんです。映画に対する憧れ、純粋な気持ちを失うと、毎回毎回同じような芝居を繰り返し、それで満足するようになってしまう。それは全く“楽しくない”こと。表現というものには、きちんと向き合っていきたいんです。
木竜:わかりやすい点でいうと、頼る人の数が減ったのかなと思います。以前までは、幅広い関係性の中で甘えたり、頼ったりしていたと思うんです。でも、自分でしっかりと考えて、頼ってもいいと思える人を選択するようになりました。この変化が「おとな」になったのかなと思うんです。でも、誰かに頼ったり、甘えたりする自分を許容している部分は、まだまだ「こども」だなと思います。藤原さんが仰った「自分のことで悩まない」という点、私は「おとな」だなと感じました。私は、どうしても自分にベクトルが向きやすいタイプなので……。自分自身の「こども」の部分、そこもそうなのかなと思いました。
【わたし達はおとな】
インタビュー:藤原季節と木竜麻生「1割が嫌う」かつてない恋愛映画 「わたし達はおとな」
「新たな恋愛映画」とは使い古された言葉だが、あえてそう言う。演劇界で今、最も注目を浴びている若手劇作家・演出家、加藤拓也のオリジナル脚本による長編映画監督デビュー作。生々しさと切迫感、リアリズムに徹した描写力に息をのむ。「菊とギロチン」の木竜麻生と「空白」の藤原季節と、若手実力派俳優2人が恋愛の危うさを体現。これまでの恋愛映画の限界をやすやすと超えた。
同せい中の大学生、妊娠が発覚して……
優実(木竜麻生)はデザインを学んでいる大学生。知人の演劇サークルのチラシ作りをきっかけに知り合った直哉(藤原季節)という恋人がいて、2人は半ば一緒に暮らしている。ある日、優実は自分が妊娠していることに気づくが、父親が直哉だと確信できずにいた。その事実を打ち明けられた直哉は現実を受け入れようとするが、2人の関係はしだいにきしみ、やがて崩れていく。
木竜が脚本を読んだときに感じたのは「知っている人がいっぱい(脚本の中に)いる。こういう人たちを知っている」という感覚だ。「セリフが、最初から最後までずっと面白い。こういう会話をさせるんだ」と感心し、できあがった作品を見て「良さが一段と際立っている。(セリフに)匂いがする」と独特の言葉で表現した。
藤原は23歳で加藤に出会ってから、作・演出の舞台の常連だが「初の長編映画が恋愛なんだー」と思ったという。加藤はこれまでの作品でも「父親や母親という呼び名が付く人たちの〝一つ前〟をずっと描いている」と説明する。
リハーサルにカメラも入れてしっかり時間をかける手法も加藤流で、現場に入ったら撮影は「一瞬で終わるほど」と2人は口をそろえる。アドリブはなし。「加藤さんは描きたいものを100%自分で決めているので、俳優に選択肢を与えることはほとんどない。現場で監督と話すことはわずか」と藤原が言えば、加藤演出は初めての木竜も「相手に集中するとか、役者本来のことをすれば帳尻が合う」と次第に慣れていった。
「この作品は、いつもとちがう」
優実から妊娠を告げられた直哉は、現実を理解したように取り繕うが本音は異なる。多くの女性は直哉の言葉や向き合い方に嫌悪感を募らせるだろう。
「自分たちの臆病さからあいまいな関係性を持続する、という人は多いかもしれない。ただ、役者としては女性から『何て男なのか』と大いに言われたい」と藤原は役柄に徹している。木竜も「分かることも分からないことも、どっちも面白い。100人見て100人面白いものより、10人は嫌い、という方が豊かだと思う」
藤原の役へのスタンスが個性的だ。「(役を)理解できないとテンションが上がるし、キャラクターとか十分に解釈できなくてもそのまま演じてしまう。演じながら少し理解する時もある」。不安はあるが「『分からないものは分からないままのほうがいい』というセリフが過去の加藤作品にあった。ある意味、理解しないまま現場に立つことを許容するようにしている。理解してもなお不安。フリをするのも怖いし、書かれてあることをまず言ってみる」と明快だ。
木竜の本作でのアプローチは「どうして今こういう流れになっているか、この脚本はそれがちゃんと落ちてくる」。2人は声をそろえるように語った。「この作品は、いつも(の作品)と違う」
あいまいな関係性が今っぽい
今の若者の多彩な面が矢継ぎ早に描かれているのも魅力の一つだ。藤原が解説してくれた。
「2人があいまいな関係に逃げ込んでしまうのは、あまり言いたくないが、今っぽい。他者への責任を恐れて、人と深く関わらない人は実際に多い。誰かと深く関わることは、本音で話したり傷つけ合ったりすること。でも、本音をぶちまける場所は、匿名のネットなどたくさんある。デモに行かなくても戦争反対の声はあげられるように。友人といても本音で話さなくていいし、意見のぶつかり合いも避けようとする」。恋愛もストレートに「僕とお付き合いしてください」と言わず、「あいまいに続けていくこともできる」。
優実と3人の女友達の関係性もそれに近い。「優実は話すことを1回のみこんでから言葉を発する。本音を言わずに話を合わせたほうが楽」と木竜も理解する。彼ら、彼女らの〝今っぽい〟距離感が垣間見える。「それでも連絡が来たらうれしいし、デートの約束にそわそわする」と木竜が口にすると、「だから、みんなメチャクチャさみしいんだと思う」と藤原が続ける。木竜もすかさず「その通り」と応じた。
優実と直哉は避妊についての会話もする。「コンドームをつける」とか「ピルを飲む」といった言葉も普通に出てくる。木竜が言う。「一瞬ドキッとするかもしれないが、そうした事実をちゃんと分かるように描いている」。脚本からは、大人になりきれない男女に対して、性についてきちんと向き合うべきだという主張が伝わってくる。
見る側、演じる側 双方に集中力
終盤の2人の演技は格闘技のような迫力だ。それでいて、別れる間際の駆け引きをする男女の会話が、リアリティーを持って、だらだらぐだぐだとスクリーンからあふれてくる。一連のやりとりは本作の白眉(はくび)だ。木竜は「カメラがあったことを覚えていない」と言い、藤原も「存在すら全く忘れていた。そんな状態になるのはめったにない」と語った。
「見る側も集中力がいる作品」と藤原が言えば、「演じる側の私も集中力が必要だった」と木竜。藤原は撮影を振り返って「青春ができる職業って最高です」と満足げに言い放った。ただ、今回は「役に入り込んでいいのは木竜さんで、僕は客観的にシーンを見ていることがあった。僕は入り込む役割ではない。意識的に半分は役に入り込んで、半分は冷静だった」。
木竜が反応する。「藤原さんは今まで共演したことのない(タイプの)役者さん。冷静さや距離感に、こっちが引いてしまうことがない。芝居の流れに乗っかっているのは、絶えず感じられる。初めて共演させてもらって体感した」。「ほめ言葉です」とにやり。
藤原が呼応する。「ラストの優実がご飯を食べているシーンとか、木竜さんは繊細さと強さを併せ持っている。優実が生きていこうとする姿がきっちり映っていた。これまでの作品もすごかったけど、今回さらにすごい。稀有(けう)な女優さんだ」
東京・新宿武蔵野館ほかで公開。
インタビュー:藤原季節と木竜麻生「1割が嫌う」かつてない恋愛映画 「わたし達はおとな」
「新たな恋愛映画」とは使い古された言葉だが、あえてそう言う。演劇界で今、最も注目を浴びている若手劇作家・演出家、加藤拓也のオリジナル脚本による長編映画監督デビュー作。生々しさと切迫感、リアリズムに徹した描写力に息をのむ。「菊とギロチン」の木竜麻生と「空白」の藤原季節と、若手実力派俳優2人が恋愛の危うさを体現。これまでの恋愛映画の限界をやすやすと超えた。
同せい中の大学生、妊娠が発覚して……
優実(木竜麻生)はデザインを学んでいる大学生。知人の演劇サークルのチラシ作りをきっかけに知り合った直哉(藤原季節)という恋人がいて、2人は半ば一緒に暮らしている。ある日、優実は自分が妊娠していることに気づくが、父親が直哉だと確信できずにいた。その事実を打ち明けられた直哉は現実を受け入れようとするが、2人の関係はしだいにきしみ、やがて崩れていく。
木竜が脚本を読んだときに感じたのは「知っている人がいっぱい(脚本の中に)いる。こういう人たちを知っている」という感覚だ。「セリフが、最初から最後までずっと面白い。こういう会話をさせるんだ」と感心し、できあがった作品を見て「良さが一段と際立っている。(セリフに)匂いがする」と独特の言葉で表現した。
藤原は23歳で加藤に出会ってから、作・演出の舞台の常連だが「初の長編映画が恋愛なんだー」と思ったという。加藤はこれまでの作品でも「父親や母親という呼び名が付く人たちの〝一つ前〟をずっと描いている」と説明する。
リハーサルにカメラも入れてしっかり時間をかける手法も加藤流で、現場に入ったら撮影は「一瞬で終わるほど」と2人は口をそろえる。アドリブはなし。「加藤さんは描きたいものを100%自分で決めているので、俳優に選択肢を与えることはほとんどない。現場で監督と話すことはわずか」と藤原が言えば、加藤演出は初めての木竜も「相手に集中するとか、役者本来のことをすれば帳尻が合う」と次第に慣れていった。
「この作品は、いつもとちがう」
優実から妊娠を告げられた直哉は、現実を理解したように取り繕うが本音は異なる。多くの女性は直哉の言葉や向き合い方に嫌悪感を募らせるだろう。
「自分たちの臆病さからあいまいな関係性を持続する、という人は多いかもしれない。ただ、役者としては女性から『何て男なのか』と大いに言われたい」と藤原は役柄に徹している。木竜も「分かることも分からないことも、どっちも面白い。100人見て100人面白いものより、10人は嫌い、という方が豊かだと思う」
藤原の役へのスタンスが個性的だ。「(役を)理解できないとテンションが上がるし、キャラクターとか十分に解釈できなくてもそのまま演じてしまう。演じながら少し理解する時もある」。不安はあるが「『分からないものは分からないままのほうがいい』というセリフが過去の加藤作品にあった。ある意味、理解しないまま現場に立つことを許容するようにしている。理解してもなお不安。フリをするのも怖いし、書かれてあることをまず言ってみる」と明快だ。
木竜の本作でのアプローチは「どうして今こういう流れになっているか、この脚本はそれがちゃんと落ちてくる」。2人は声をそろえるように語った。「この作品は、いつも(の作品)と違う」
あいまいな関係性が今っぽい
今の若者の多彩な面が矢継ぎ早に描かれているのも魅力の一つだ。藤原が解説してくれた。
「2人があいまいな関係に逃げ込んでしまうのは、あまり言いたくないが、今っぽい。他者への責任を恐れて、人と深く関わらない人は実際に多い。誰かと深く関わることは、本音で話したり傷つけ合ったりすること。でも、本音をぶちまける場所は、匿名のネットなどたくさんある。デモに行かなくても戦争反対の声はあげられるように。友人といても本音で話さなくていいし、意見のぶつかり合いも避けようとする」。恋愛もストレートに「僕とお付き合いしてください」と言わず、「あいまいに続けていくこともできる」。
優実と3人の女友達の関係性もそれに近い。「優実は話すことを1回のみこんでから言葉を発する。本音を言わずに話を合わせたほうが楽」と木竜も理解する。彼ら、彼女らの〝今っぽい〟距離感が垣間見える。「それでも連絡が来たらうれしいし、デートの約束にそわそわする」と木竜が口にすると、「だから、みんなメチャクチャさみしいんだと思う」と藤原が続ける。木竜もすかさず「その通り」と応じた。
優実と直哉は避妊についての会話もする。「コンドームをつける」とか「ピルを飲む」といった言葉も普通に出てくる。木竜が言う。「一瞬ドキッとするかもしれないが、そうした事実をちゃんと分かるように描いている」。脚本からは、大人になりきれない男女に対して、性についてきちんと向き合うべきだという主張が伝わってくる。
見る側、演じる側 双方に集中力
終盤の2人の演技は格闘技のような迫力だ。それでいて、別れる間際の駆け引きをする男女の会話が、リアリティーを持って、だらだらぐだぐだとスクリーンからあふれてくる。一連のやりとりは本作の白眉(はくび)だ。木竜は「カメラがあったことを覚えていない」と言い、藤原も「存在すら全く忘れていた。そんな状態になるのはめったにない」と語った。
「見る側も集中力がいる作品」と藤原が言えば、「演じる側の私も集中力が必要だった」と木竜。藤原は撮影を振り返って「青春ができる職業って最高です」と満足げに言い放った。ただ、今回は「役に入り込んでいいのは木竜さんで、僕は客観的にシーンを見ていることがあった。僕は入り込む役割ではない。意識的に半分は役に入り込んで、半分は冷静だった」。
木竜が反応する。「藤原さんは今まで共演したことのない(タイプの)役者さん。冷静さや距離感に、こっちが引いてしまうことがない。芝居の流れに乗っかっているのは、絶えず感じられる。初めて共演させてもらって体感した」。「ほめ言葉です」とにやり。
藤原が呼応する。「ラストの優実がご飯を食べているシーンとか、木竜さんは繊細さと強さを併せ持っている。優実が生きていこうとする姿がきっちり映っていた。これまでの作品もすごかったけど、今回さらにすごい。稀有(けう)な女優さんだ」
東京・新宿武蔵野館ほかで公開。
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