【钞】筹量名意。世人起于意识。念念逐外筹量。是邪思惟也。旋其意识。扣己而参。思之又思。思尽还源。思无所思。全身即寿即光。何论彼佛此佛。
这就叫思惟,莲池大师在这里给我们解释正思惟,那么我们也要正思惟,我们很多学佛人这个思惟不正,都是落在邪思当中,比如我在这里讲法,你在那里听法,你的心思呢,就在那想,哎呀,这一句是什么意思,那一句是什么意思?他讲的对不对?好不好?都叫邪思惟。证明你每天在这听经是邪思,不是正思惟,你能获得利益吗?
所以世间的人就用自己的意识来逐外筹量,也就是随着这个人事物,我说的这个话呀,经典里面的文字啊去思惟,这就叫逐外筹量,追逐着外面的这些人事物,文字语言,音声等等来思惟,你这一切思惟就叫邪思惟。
那你一听,那我就不动脑子了?我一动脑子你说我是邪思惟,不是不叫你动脑,是叫你明白如何来思惟,因为你这些就是在向外听,向外闻,向外看,向外面的人事物,经文法语当中来找寻你的自性,你又怎么能找到呢?
比如说你拿个镜子,你在这个镜子里面再怎么找你自己也找不到,因为你不在镜子里面,你向镜子外面去看,照镜子这个才是你。所以《楞严经》里面叫反闻自性,《耳根圆通章》,你要向你自己那里去找,就是反观自心。
这里说了,旋其意识,扣己而参,就是反闻自性的意思。
我们把看到的,听到的,六根接触到的,你来向自己的心地里面来参访,你如果还不懂的话,还打那个镜子比喻,镜子里面一照这个人,你不会说镜子里面这个人就是他吧。你一想,哎呀,镜子里面这个人长得这个样,脸上这儿有个黑斑,这儿有个粉刺,这是我呀,这就叫扣己而参。
再接着解释你就知道了,你看这个人打我,这个人在骂我,因为你看的这个人他在打我骂我,他是我自己。以此遇到的一切的人事物都把它当成自己来思惟,来观照,就叫扣己而参。他不是外人啊,是你心现的。所以镜子里面照出来的都是你自己,你在照镜子,那不是你吗?这个意思就叫扣己。一切万物都扣在自己身上,他都是我,你这样来思惟,就叫正思惟。
这是开始,开始你要这样,遇到人事物,遇到好坏对错,你就参,为什么他要打我?为什么他要诽谤我?为什么他要爱我?那么你一扣在自己身上来思惟,你就能够找到自己的缺点,你就知道自己哪里错了,这样思之又思,思尽还源,思无所思,那时候才达到阿弥陀,就是无量寿,无量光,那你就见性了。
所以一切人事物的显现都是我自己的表现,我心里面起了什么念,他就现什么境,你先有这个意识就叫扣己。再来想这个,哎呀,为什么他会这样?就叫参。一看这个人在那杀猪宰羊,你一扣己,就是说自己有这个杀生害命的这个念,这个根还没去,不要说你现在吃素了,其实你杀生的这个根还没去,所以你就天天见到一些杀生害命的事情,一见到这些事情,你就扣在自己身上,把它观想成自己,这叫扣己。
再联想到他为什么要这样杀?为什么要这样偷盗,邪淫,妄语等等,这就叫参。参明白了,不断的参,这就叫思之又思。思惟来思惟去,你就知道了,自己有哪些隐藏在内心当中的污垢还没有去除,也就是它的根。
我们很多人修行可能把这个枝叶剪除了,但是这个草根还在,所以要不断的对境,扣在自己身上来参访,参的过程当中再不断的思惟,思惟之后叫思尽还源,就会参明白自己的自性,自性就显现了,原来是心依性而变的。就像《楞严经》上所说的因为眼睛有病,一看这个灯外面有这个光辉,眼睛没病的话,怎么能有光辉呢?
又像那个头上按头一样,因为一起念,就在这个本来的这个头上,这个自性上又按了一个自性,就迷失了这个自性了,你这样来思惟就叫正思惟。如果只是思惟它怎么怎么地,而不能扣到自己身上,来反观自己的不对,就叫邪思惟。
最后思尽还源,达到思无所思了,也就是真正的修来修去跟万物一体了,随时随地随处都能够跟众生连成一片,不用再加个思惟的这个念,他就自动的跟众生的所有的表现,人事物所有的显现,他自动的就容入到自性当中了,这就叫思尽还源,那时候就思无所思了,自动的就像释迦拈花,迦叶微笑一样,他自动的以心契心,自动就明白他是怎么回事了。
就像我一说如是我闻,你自动就知道什么意思了,我一说拜拜,你自动就知道是再见了,就是这个意思。你不用再去翻译它是什么意思了,这就叫以心契心。就是这个境一来到你面前,你自动就知道,哦,我心里又起了什么念了,他才现这个境的。到那时,你自动就显现出自性的无量寿和无量光了,他就叫阿弥陀。
所以何论彼佛此佛呀?彼佛和此佛,你如果那个时候还有阿弥陀佛,释迦牟尼佛,乃至其他佛的差别,那证明你还没有思尽还源,就是还没有达到心佛众生三无差别的程度,你的修行还不够,还需要继续扣己而参。
到底你觉得阿弥陀佛是什么意思呢?这是佛设立的问答,下面呢,也就是回答:
其实呢,你真正的能够在这一问当中,能够把你的妄想分别执着去当下一下子没有的话,当下就是,当下就契入了。
谁是阿弥陀?我即是,因为如是我,我是如,就叫如是我闻,如就是如来,如来就是我, 就是自性,自性就是如来。所以阿弥陀佛即是我心,我的心性也就是阿弥陀佛,哪儿来的他佛自佛的差别呀?没有。所以只有一尊佛即是自性。
所以我呢,要在一切时处把这个意思弄懂,尤其你如果还是听不懂,无法开显自己的心性,像禅宗那样明心见性的话,那没有办法,你就在一切人事物当中观一切人事物都是阿弥陀佛,也就像莲池大师所说的扣己而参,因为扣己而参的时候,你如果把一切众生看成自己,我们上上根性的人尤可为之,中下根性的人也无法保持,你怎么看别人都不是自己,尤其这个人害的你那么苦,骗的你那么家破人亡,你怎么能看成是自己呢?
所以我们很多的时候,对于身边的人事物,难以扣己而参,难以观想成自己,再来思惟它里面的义理,就很难。所以呢,这时候唯一的办法就是不把他观想成自己,先把他观想成是阿弥陀佛,所以他打我是阿弥陀佛打我,他骂我是阿弥陀佛打我,他爱我是阿弥陀佛爱我,所以一切人事物都是阿弥陀佛,我穿衣吃饭,行住坐卧,拉屎尿尿,都是阿弥陀佛,这样就会暗合道妙,巧入无声,这一生中呢,你往生到极乐世界了,到了那里再来扣己而参的修吧。先往生再说,这就是最善之法。所以你干什么事情,做什么活动,修什么法门,都是为了往生极乐世界,都是在念佛,这样就对了。
这就叫思惟,莲池大师在这里给我们解释正思惟,那么我们也要正思惟,我们很多学佛人这个思惟不正,都是落在邪思当中,比如我在这里讲法,你在那里听法,你的心思呢,就在那想,哎呀,这一句是什么意思,那一句是什么意思?他讲的对不对?好不好?都叫邪思惟。证明你每天在这听经是邪思,不是正思惟,你能获得利益吗?
所以世间的人就用自己的意识来逐外筹量,也就是随着这个人事物,我说的这个话呀,经典里面的文字啊去思惟,这就叫逐外筹量,追逐着外面的这些人事物,文字语言,音声等等来思惟,你这一切思惟就叫邪思惟。
那你一听,那我就不动脑子了?我一动脑子你说我是邪思惟,不是不叫你动脑,是叫你明白如何来思惟,因为你这些就是在向外听,向外闻,向外看,向外面的人事物,经文法语当中来找寻你的自性,你又怎么能找到呢?
比如说你拿个镜子,你在这个镜子里面再怎么找你自己也找不到,因为你不在镜子里面,你向镜子外面去看,照镜子这个才是你。所以《楞严经》里面叫反闻自性,《耳根圆通章》,你要向你自己那里去找,就是反观自心。
这里说了,旋其意识,扣己而参,就是反闻自性的意思。
我们把看到的,听到的,六根接触到的,你来向自己的心地里面来参访,你如果还不懂的话,还打那个镜子比喻,镜子里面一照这个人,你不会说镜子里面这个人就是他吧。你一想,哎呀,镜子里面这个人长得这个样,脸上这儿有个黑斑,这儿有个粉刺,这是我呀,这就叫扣己而参。
再接着解释你就知道了,你看这个人打我,这个人在骂我,因为你看的这个人他在打我骂我,他是我自己。以此遇到的一切的人事物都把它当成自己来思惟,来观照,就叫扣己而参。他不是外人啊,是你心现的。所以镜子里面照出来的都是你自己,你在照镜子,那不是你吗?这个意思就叫扣己。一切万物都扣在自己身上,他都是我,你这样来思惟,就叫正思惟。
这是开始,开始你要这样,遇到人事物,遇到好坏对错,你就参,为什么他要打我?为什么他要诽谤我?为什么他要爱我?那么你一扣在自己身上来思惟,你就能够找到自己的缺点,你就知道自己哪里错了,这样思之又思,思尽还源,思无所思,那时候才达到阿弥陀,就是无量寿,无量光,那你就见性了。
所以一切人事物的显现都是我自己的表现,我心里面起了什么念,他就现什么境,你先有这个意识就叫扣己。再来想这个,哎呀,为什么他会这样?就叫参。一看这个人在那杀猪宰羊,你一扣己,就是说自己有这个杀生害命的这个念,这个根还没去,不要说你现在吃素了,其实你杀生的这个根还没去,所以你就天天见到一些杀生害命的事情,一见到这些事情,你就扣在自己身上,把它观想成自己,这叫扣己。
再联想到他为什么要这样杀?为什么要这样偷盗,邪淫,妄语等等,这就叫参。参明白了,不断的参,这就叫思之又思。思惟来思惟去,你就知道了,自己有哪些隐藏在内心当中的污垢还没有去除,也就是它的根。
我们很多人修行可能把这个枝叶剪除了,但是这个草根还在,所以要不断的对境,扣在自己身上来参访,参的过程当中再不断的思惟,思惟之后叫思尽还源,就会参明白自己的自性,自性就显现了,原来是心依性而变的。就像《楞严经》上所说的因为眼睛有病,一看这个灯外面有这个光辉,眼睛没病的话,怎么能有光辉呢?
又像那个头上按头一样,因为一起念,就在这个本来的这个头上,这个自性上又按了一个自性,就迷失了这个自性了,你这样来思惟就叫正思惟。如果只是思惟它怎么怎么地,而不能扣到自己身上,来反观自己的不对,就叫邪思惟。
最后思尽还源,达到思无所思了,也就是真正的修来修去跟万物一体了,随时随地随处都能够跟众生连成一片,不用再加个思惟的这个念,他就自动的跟众生的所有的表现,人事物所有的显现,他自动的就容入到自性当中了,这就叫思尽还源,那时候就思无所思了,自动的就像释迦拈花,迦叶微笑一样,他自动的以心契心,自动就明白他是怎么回事了。
就像我一说如是我闻,你自动就知道什么意思了,我一说拜拜,你自动就知道是再见了,就是这个意思。你不用再去翻译它是什么意思了,这就叫以心契心。就是这个境一来到你面前,你自动就知道,哦,我心里又起了什么念了,他才现这个境的。到那时,你自动就显现出自性的无量寿和无量光了,他就叫阿弥陀。
所以何论彼佛此佛呀?彼佛和此佛,你如果那个时候还有阿弥陀佛,释迦牟尼佛,乃至其他佛的差别,那证明你还没有思尽还源,就是还没有达到心佛众生三无差别的程度,你的修行还不够,还需要继续扣己而参。
到底你觉得阿弥陀佛是什么意思呢?这是佛设立的问答,下面呢,也就是回答:
其实呢,你真正的能够在这一问当中,能够把你的妄想分别执着去当下一下子没有的话,当下就是,当下就契入了。
谁是阿弥陀?我即是,因为如是我,我是如,就叫如是我闻,如就是如来,如来就是我, 就是自性,自性就是如来。所以阿弥陀佛即是我心,我的心性也就是阿弥陀佛,哪儿来的他佛自佛的差别呀?没有。所以只有一尊佛即是自性。
所以我呢,要在一切时处把这个意思弄懂,尤其你如果还是听不懂,无法开显自己的心性,像禅宗那样明心见性的话,那没有办法,你就在一切人事物当中观一切人事物都是阿弥陀佛,也就像莲池大师所说的扣己而参,因为扣己而参的时候,你如果把一切众生看成自己,我们上上根性的人尤可为之,中下根性的人也无法保持,你怎么看别人都不是自己,尤其这个人害的你那么苦,骗的你那么家破人亡,你怎么能看成是自己呢?
所以我们很多的时候,对于身边的人事物,难以扣己而参,难以观想成自己,再来思惟它里面的义理,就很难。所以呢,这时候唯一的办法就是不把他观想成自己,先把他观想成是阿弥陀佛,所以他打我是阿弥陀佛打我,他骂我是阿弥陀佛打我,他爱我是阿弥陀佛爱我,所以一切人事物都是阿弥陀佛,我穿衣吃饭,行住坐卧,拉屎尿尿,都是阿弥陀佛,这样就会暗合道妙,巧入无声,这一生中呢,你往生到极乐世界了,到了那里再来扣己而参的修吧。先往生再说,这就是最善之法。所以你干什么事情,做什么活动,修什么法门,都是为了往生极乐世界,都是在念佛,这样就对了。
#每日一善[超话]#[太阳]#阳光信用# [太阳]#日行一善[超话]#
与人善,于己善。善报也许会迟到,但一定会来。心存善念,念念是福!世间因果,万法不空,你的善念,必得善果。心善则美,心纯则真,如果我们能持有一颗平常心,坐看云起云落,花开花谢,一任沧桑,就能获得一份云水悠悠的好心情;用平常的心去生活,用宁静的心来领悟。
善不可不弘,恶不可不去。善心人人有,快乐你我他。善念养善心,善心生善念。德不积不厚,善不行不成。人往高处走,善在心中留。至宝不常现,至善不常有。行莫于恭敬,善莫于用心。由善入恶易,由恶入善难。
与人善,于己善。善报也许会迟到,但一定会来。心存善念,念念是福!世间因果,万法不空,你的善念,必得善果。心善则美,心纯则真,如果我们能持有一颗平常心,坐看云起云落,花开花谢,一任沧桑,就能获得一份云水悠悠的好心情;用平常的心去生活,用宁静的心来领悟。
善不可不弘,恶不可不去。善心人人有,快乐你我他。善念养善心,善心生善念。德不积不厚,善不行不成。人往高处走,善在心中留。至宝不常现,至善不常有。行莫于恭敬,善莫于用心。由善入恶易,由恶入善难。
【わたし達はおとな】web MAGAZINE
Ginza
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 『わたし達はおとな』にのぞき見る、20代の恋と日常。
──加藤さんとは舞台を含め五度目のタッグとなる藤原さんと、今回初めてのタッグとなる木竜さん。加藤さん脚本、演出についての感想をお伺いできますか?
藤原: 僕が初めて加藤さんの演出する舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)に出たのは、23歳くらいのときで、それも恋愛の話だったんです。「好き」を言葉にしない、付き合う約束の一歩前という曖昧な関係の物語で。なので、今回脚本を読ませてもらったときに、「あ、また恋愛きたな」と思いました。30歳近くになった加藤さんと僕のひとつの到達点であり、始まりでもある感じがしたんですよね。
木竜: 私はここまで普段の自分たちが話す会話に近い言葉が文章になって、脚本化されていること自体がすごく新鮮でした。リハーサルも何度もしたんですが、これまで加藤さんと藤原さんが作り上げてきた共通言語や共通理解みたいなものがあって、いい意味でそこに巻き込んでいただいたなと思います。新しい体験ばかりで、面白く感じました。
──確かに、加藤さんの書くセリフは、すごく口語的ですよね。綺麗すぎる言葉に対して、違和感を感じたりすることもあるからなのでしょうか。
加藤: ありません。そういったものに対するカウンターではなくて、台詞やお芝居と思われないものが好みなので、このスタイルになっています。僕の言語感覚で書いているということですね。
──男女どちらの性もフラットに甘やかさずに描かれているのが印象的でした。もちろん、表現する人によりますが、無意識のバイアスから同性のジェンダーに甘くなったり、厳しくなったりしてしまうことは起きなくはないことだと思うので。
加藤: そもそも僕は男性が書いているから、女性が書いているからといって、どちらかの性別をよく見せようという意図が作家にあるとは思ってません。ただ、僕は性別を既に公表しているので、男性が書いた作品というバイアスがかかった状態で観客には届きます。もし僕が性別を隠して活動している人間だったら、女性監督、男性監督という前提なしに見られる立場だったら、どういうふうに捉えられたのかな、とは考えます。
藤原: 俳優である僕は、基本的に人が書いた物語に乗っかるので、もし前衛的な役ならそれを演じますし、旧来的な役だったらそれを演じています。ただ男性、女性というものに対してなるべくフラットに考えたいとは思いつつ、自分の中にジェンダーに対する価値観やバイアスが根強く残っているなというのはけっこう感じていて。それを完全に消すのは難しいかもしれないけれど、ちょっと悩んだりすると加藤さんに相談するんです。目線がすごくフラットですし、人間として先輩だと思ってるんで。
木竜: 自分が今まで生きてきたなかで、女の子とのほうが馴染めることもあれば男の子と話しているほうが楽だったこともありますが、例えば「男性脳」や「女性脳」といった表現を使ってしまう感覚をわかってしまう自分はいるんです。だから、読むものに対しても見るものに対しても、自分の視点には若干偏りがあるなと思います。どうしても自分の基準を通して物を見てしまうというか。ただ、今回加藤さんとご一緒してから、男女や性差についてもう少し距離感を意識して、自分から離してみたり、逆に近づけてみたり、ということをしたいなと思うようになりましたし、考えるきっかけをもらったような気がします。
──加藤さんの脚本や芝居は、エモーショナルな部分で戦うことを求められるので、いつもボロボロになるけれど、本作はいつも以上にボロボロになったと藤原さんがコメントされていましたが、木竜さんはいかがでしたか?
木竜: 撮影が終わった後に藤原さんのコメントを読んで、「確かに!」と思いました。リハーサルの前に、加藤さんから、「今回はどれだけ隠すかだから」というお話があったんです。言いたいけど言わないこと、言わないと決めたことをどれだけ隠すかを考えたときに、言葉に頼ることなく、発しない言葉のその奥で彼女は本当は何を思っていて、どういうことが積み重なっていて、という部分に自分が集中していくんだなということを実感して。氷山の一角しか見えていないんだったら、その覆われた下の部分を見つめることになるんだなと。
──言いたいことを我慢して飲み込むことが内面化している優実を見ていて、こういう子、身近にいるなと思ったんですよね。木竜さんは、ご自身にもそういう部分を見出したりしますか?
木竜: 優実は上手に言いたいことを隠せている気がします。私の場合は顔に出たり、様子が違うと気づかれてしまうことのほうが多いので。以前はそれがすごく嫌だったんですが、もうしょうがないとやっと最近腹をくくれるようになってきました。なので、優実は言わないんだなとか、言わないことに気づかない人を選ぶんだなと感じましたし、もし気づく人がいたらどうやって答えるのか、どういう選択をするのかといったことを想像しました。
──藤原さんが演じる直哉の言葉の選び方も、こういう人いる!というリアリティがあってイライラしました。所属している大学の劇団を「サークル」と呼ばれたら、即「カンパニーね」と言い直したり、あと「わかるわかる」ってすぐ言う感じとか。
藤原: わかるわかる(笑)。
──どんな人でも何かしら我慢をしている部分はあると思うのですが、藤原さんが日々我慢していることはありますか?
藤原: 身近な話でいうと、俳優は食べたいものを食べたりできないじゃないですか。寒さもそうですけど、現場は基本我慢ですよね。辞めたいなと思うときもありますし、何のために我慢してるんだろうって思うときもあるんですけど、公開したくらいのタイミングでその辛さを忘れちゃうんですよね。それで、またやっちゃう(笑)。
──本当の自分が出せない、という我慢もあったり?
藤原: 本当の自分は全開ですね、僕は。
──そんな気がしてました(笑)。舞台でも映像でも、加藤さんの描く人物は、それぞれが何かを我慢しているような印象があるんですよね。
加藤: 登場人物がそれを我慢と認識しているかも場面によって違うと思います。認識して、我慢しようと選択したなら、もう少し違う物語展開になっていくのかもしれない。ストレスを感じないために我慢じゃないものに変換して、その場を凌いでしまっているけれど、それ本当は我慢だよね、というところからちょっとずつ歯車が狂っていくというか、気持ちがズレていくみたいなことを書いている話は多いかもしれません。
──この作品の中で起きていることに対しての距離感や、された側、した側といった立場によっても感想が変わりそうなので、語り合い甲斐があって面白いですよね。笑えるという人もいれば、笑えないという人もいるというか。
加藤: どうなんですかね。僕はフィクションをフィクションとして見てしまうところがありますが、もっと自分に近いものとして感じてしまうと辛かったりするのかもしれないですよね。直哉の変なマウントの取り方に対して、「まだそんなことやってるんだね」という引いた目線で観れると面白かったりするかもしれないですし、反応はさまざまだろうなという気がします。
──大人だけど大人じゃない、ヤングアダルトの時期に優実と直哉がいることから、『わたし達はおとな』というタイトルが付けられたそうですが、何をもって大人であると測るのかはすごく難しいですよね。
加藤: 大人って言葉自体、社会機能が生まれて人間が後からつけた区別なので、体の能力や脳の発達具合で、どこから大人かと線引きをするのはなかなか難しいですけど、この映画でいうと、一人の人間が子どもを宿す、というところで一つ線を引いているとは思います。
藤原: さっき加藤さんが、フィクションをフィクションとして享受する、と言ってましたが、それが大人になるということなのかもしれない。子どものときは、自分がファンタジー映画の主人公だと思って観ているわけじゃないですか。それがいつしか、クオリティ高けぇと俯瞰して観ている自分がいるわけですから。そういう視点の違いがあるのかもしれないですね。
木竜: 年齢を重ねて、出会う人も増えて、親や友達からしてもらうことが減って、逆に自分でできることが増えて、そういうことから大人になってるなと感じることはありますが、私の場合、その揺り戻しも同じだけあるんですよね。まだこんなことでジタバタしていると自分に対して思ったりもするので、それの繰り返しで、自分を大人だと認識できるときは来ないような気がしています。今のところはですけどね。
──邦画や日本のドラマで、避妊しないで性行為をした場合に用いるアフターピルを服用する描写や、ピルを常用している描写を見る機会はあまりなかった気がするのですが、本作では出てきますよね。これはあえて入れているわけではなく、生活の延長線上にあるごく自然な行為として描写されているのでしょうか。
加藤: そうですね。そこに対して、「みなさん、(避妊)大事ですよ」という意識は全くしてないです。
藤原: この間、ある作品を観ていて、ワンナイトラブの描写があったんですよ。流れでそういう関係になっちゃったというお話だったんですが、避妊具は全く映ってなくて。翌朝起きたら、綺麗な朝日が差し込んできて、二人で「おはよう」とか言い合ってるんですけど、観ているこっちは「あれ? 避妊具どうしたんだろう?」って思うじゃないですか。加藤さんは、映されていない部分のやり取りを書く人だから、それが僕は観たいなと思ってます。
──「大事ですよ」という意識はそこになくても、結果的に、セックス・エデュケーションの役割も果たしているなと思いました。女の子たちだけが集まるシーンで性に関してオープンな会話が繰り広げられるのも、同性コミュニティにおけるリアリティを感じさせましたし。
木竜: 私は女子大に行っていたんですけど、そういう会話をするグループと全然しないグループがどちらもあったんですよね。やっぱり、経験が多かったり知っている子の周りにはそういう子が集まるし、集まっているなかで知らない子がいたら、映画に出てくるような会話になるというか。そういう話題に触れたくなくて、朝日が差す描写でいいと思っている子たちももちろんいるので、その時々でグループの空気に合わせていくようなところはあるのかなと。ただ、女の子たちだけのときの会話がなかなかエグくなるというタイミングは現実でも絶対にあるので、そこを加藤さんは逃さずに描いていると思います。
加藤: エグさはないけど、そのようなシーンは1つ丸ごとオールカットになってしまいました。
木竜: 本当はもっといろいろな会話があったんですよね。
藤原: ヤバかったですよ。
木竜: でも実際そんな会話をしたことないのに、できてしまうのはなぜだろう? 面白いと思いながらやってました(笑)。
──実際にいる誰かが言っていた言葉だったりするのかなと想像をしていたのですが、全て加藤さんご自身から出てくるセリフなんですね。
加藤: こういう人いると思ってもらえるといいな、と思いながら書いてます。
Photo:Koichi Tanoue Styling:Momomi Kanda (Kiryu)、Hironori Yagi(Fujiwara) Hair&Make-up:Miki Nushiro (Kiryu)、Motoko Suga(Fujiwara) Text & Edit:Tomoko Ogawa
衣装:(木竜さん)パンツ¥48,500 malamute(ブランドニュース) 靴¥33,000 trippen(トリッペン原宿店) ネックレス¥15,400、イヤリング¥11,000(ともにpetite robe noire) 他スタイリスト私物
衣装:(藤原さん)ジャケット¥31,900、ベスト¥19,800(ともにRANDT) ハイネックニットTシャツ¥20,900、パンツ¥20,900ともにニードルズ(ネペンテス) ブレスレット¥30,800エンド(ギャラリー・オブ・オーセンティック) スニーカー スタイリスト私物
Ginza
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 『わたし達はおとな』にのぞき見る、20代の恋と日常。
──加藤さんとは舞台を含め五度目のタッグとなる藤原さんと、今回初めてのタッグとなる木竜さん。加藤さん脚本、演出についての感想をお伺いできますか?
藤原: 僕が初めて加藤さんの演出する舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)に出たのは、23歳くらいのときで、それも恋愛の話だったんです。「好き」を言葉にしない、付き合う約束の一歩前という曖昧な関係の物語で。なので、今回脚本を読ませてもらったときに、「あ、また恋愛きたな」と思いました。30歳近くになった加藤さんと僕のひとつの到達点であり、始まりでもある感じがしたんですよね。
木竜: 私はここまで普段の自分たちが話す会話に近い言葉が文章になって、脚本化されていること自体がすごく新鮮でした。リハーサルも何度もしたんですが、これまで加藤さんと藤原さんが作り上げてきた共通言語や共通理解みたいなものがあって、いい意味でそこに巻き込んでいただいたなと思います。新しい体験ばかりで、面白く感じました。
──確かに、加藤さんの書くセリフは、すごく口語的ですよね。綺麗すぎる言葉に対して、違和感を感じたりすることもあるからなのでしょうか。
加藤: ありません。そういったものに対するカウンターではなくて、台詞やお芝居と思われないものが好みなので、このスタイルになっています。僕の言語感覚で書いているということですね。
──男女どちらの性もフラットに甘やかさずに描かれているのが印象的でした。もちろん、表現する人によりますが、無意識のバイアスから同性のジェンダーに甘くなったり、厳しくなったりしてしまうことは起きなくはないことだと思うので。
加藤: そもそも僕は男性が書いているから、女性が書いているからといって、どちらかの性別をよく見せようという意図が作家にあるとは思ってません。ただ、僕は性別を既に公表しているので、男性が書いた作品というバイアスがかかった状態で観客には届きます。もし僕が性別を隠して活動している人間だったら、女性監督、男性監督という前提なしに見られる立場だったら、どういうふうに捉えられたのかな、とは考えます。
藤原: 俳優である僕は、基本的に人が書いた物語に乗っかるので、もし前衛的な役ならそれを演じますし、旧来的な役だったらそれを演じています。ただ男性、女性というものに対してなるべくフラットに考えたいとは思いつつ、自分の中にジェンダーに対する価値観やバイアスが根強く残っているなというのはけっこう感じていて。それを完全に消すのは難しいかもしれないけれど、ちょっと悩んだりすると加藤さんに相談するんです。目線がすごくフラットですし、人間として先輩だと思ってるんで。
木竜: 自分が今まで生きてきたなかで、女の子とのほうが馴染めることもあれば男の子と話しているほうが楽だったこともありますが、例えば「男性脳」や「女性脳」といった表現を使ってしまう感覚をわかってしまう自分はいるんです。だから、読むものに対しても見るものに対しても、自分の視点には若干偏りがあるなと思います。どうしても自分の基準を通して物を見てしまうというか。ただ、今回加藤さんとご一緒してから、男女や性差についてもう少し距離感を意識して、自分から離してみたり、逆に近づけてみたり、ということをしたいなと思うようになりましたし、考えるきっかけをもらったような気がします。
──加藤さんの脚本や芝居は、エモーショナルな部分で戦うことを求められるので、いつもボロボロになるけれど、本作はいつも以上にボロボロになったと藤原さんがコメントされていましたが、木竜さんはいかがでしたか?
木竜: 撮影が終わった後に藤原さんのコメントを読んで、「確かに!」と思いました。リハーサルの前に、加藤さんから、「今回はどれだけ隠すかだから」というお話があったんです。言いたいけど言わないこと、言わないと決めたことをどれだけ隠すかを考えたときに、言葉に頼ることなく、発しない言葉のその奥で彼女は本当は何を思っていて、どういうことが積み重なっていて、という部分に自分が集中していくんだなということを実感して。氷山の一角しか見えていないんだったら、その覆われた下の部分を見つめることになるんだなと。
──言いたいことを我慢して飲み込むことが内面化している優実を見ていて、こういう子、身近にいるなと思ったんですよね。木竜さんは、ご自身にもそういう部分を見出したりしますか?
木竜: 優実は上手に言いたいことを隠せている気がします。私の場合は顔に出たり、様子が違うと気づかれてしまうことのほうが多いので。以前はそれがすごく嫌だったんですが、もうしょうがないとやっと最近腹をくくれるようになってきました。なので、優実は言わないんだなとか、言わないことに気づかない人を選ぶんだなと感じましたし、もし気づく人がいたらどうやって答えるのか、どういう選択をするのかといったことを想像しました。
──藤原さんが演じる直哉の言葉の選び方も、こういう人いる!というリアリティがあってイライラしました。所属している大学の劇団を「サークル」と呼ばれたら、即「カンパニーね」と言い直したり、あと「わかるわかる」ってすぐ言う感じとか。
藤原: わかるわかる(笑)。
──どんな人でも何かしら我慢をしている部分はあると思うのですが、藤原さんが日々我慢していることはありますか?
藤原: 身近な話でいうと、俳優は食べたいものを食べたりできないじゃないですか。寒さもそうですけど、現場は基本我慢ですよね。辞めたいなと思うときもありますし、何のために我慢してるんだろうって思うときもあるんですけど、公開したくらいのタイミングでその辛さを忘れちゃうんですよね。それで、またやっちゃう(笑)。
──本当の自分が出せない、という我慢もあったり?
藤原: 本当の自分は全開ですね、僕は。
──そんな気がしてました(笑)。舞台でも映像でも、加藤さんの描く人物は、それぞれが何かを我慢しているような印象があるんですよね。
加藤: 登場人物がそれを我慢と認識しているかも場面によって違うと思います。認識して、我慢しようと選択したなら、もう少し違う物語展開になっていくのかもしれない。ストレスを感じないために我慢じゃないものに変換して、その場を凌いでしまっているけれど、それ本当は我慢だよね、というところからちょっとずつ歯車が狂っていくというか、気持ちがズレていくみたいなことを書いている話は多いかもしれません。
──この作品の中で起きていることに対しての距離感や、された側、した側といった立場によっても感想が変わりそうなので、語り合い甲斐があって面白いですよね。笑えるという人もいれば、笑えないという人もいるというか。
加藤: どうなんですかね。僕はフィクションをフィクションとして見てしまうところがありますが、もっと自分に近いものとして感じてしまうと辛かったりするのかもしれないですよね。直哉の変なマウントの取り方に対して、「まだそんなことやってるんだね」という引いた目線で観れると面白かったりするかもしれないですし、反応はさまざまだろうなという気がします。
──大人だけど大人じゃない、ヤングアダルトの時期に優実と直哉がいることから、『わたし達はおとな』というタイトルが付けられたそうですが、何をもって大人であると測るのかはすごく難しいですよね。
加藤: 大人って言葉自体、社会機能が生まれて人間が後からつけた区別なので、体の能力や脳の発達具合で、どこから大人かと線引きをするのはなかなか難しいですけど、この映画でいうと、一人の人間が子どもを宿す、というところで一つ線を引いているとは思います。
藤原: さっき加藤さんが、フィクションをフィクションとして享受する、と言ってましたが、それが大人になるということなのかもしれない。子どものときは、自分がファンタジー映画の主人公だと思って観ているわけじゃないですか。それがいつしか、クオリティ高けぇと俯瞰して観ている自分がいるわけですから。そういう視点の違いがあるのかもしれないですね。
木竜: 年齢を重ねて、出会う人も増えて、親や友達からしてもらうことが減って、逆に自分でできることが増えて、そういうことから大人になってるなと感じることはありますが、私の場合、その揺り戻しも同じだけあるんですよね。まだこんなことでジタバタしていると自分に対して思ったりもするので、それの繰り返しで、自分を大人だと認識できるときは来ないような気がしています。今のところはですけどね。
──邦画や日本のドラマで、避妊しないで性行為をした場合に用いるアフターピルを服用する描写や、ピルを常用している描写を見る機会はあまりなかった気がするのですが、本作では出てきますよね。これはあえて入れているわけではなく、生活の延長線上にあるごく自然な行為として描写されているのでしょうか。
加藤: そうですね。そこに対して、「みなさん、(避妊)大事ですよ」という意識は全くしてないです。
藤原: この間、ある作品を観ていて、ワンナイトラブの描写があったんですよ。流れでそういう関係になっちゃったというお話だったんですが、避妊具は全く映ってなくて。翌朝起きたら、綺麗な朝日が差し込んできて、二人で「おはよう」とか言い合ってるんですけど、観ているこっちは「あれ? 避妊具どうしたんだろう?」って思うじゃないですか。加藤さんは、映されていない部分のやり取りを書く人だから、それが僕は観たいなと思ってます。
──「大事ですよ」という意識はそこになくても、結果的に、セックス・エデュケーションの役割も果たしているなと思いました。女の子たちだけが集まるシーンで性に関してオープンな会話が繰り広げられるのも、同性コミュニティにおけるリアリティを感じさせましたし。
木竜: 私は女子大に行っていたんですけど、そういう会話をするグループと全然しないグループがどちらもあったんですよね。やっぱり、経験が多かったり知っている子の周りにはそういう子が集まるし、集まっているなかで知らない子がいたら、映画に出てくるような会話になるというか。そういう話題に触れたくなくて、朝日が差す描写でいいと思っている子たちももちろんいるので、その時々でグループの空気に合わせていくようなところはあるのかなと。ただ、女の子たちだけのときの会話がなかなかエグくなるというタイミングは現実でも絶対にあるので、そこを加藤さんは逃さずに描いていると思います。
加藤: エグさはないけど、そのようなシーンは1つ丸ごとオールカットになってしまいました。
木竜: 本当はもっといろいろな会話があったんですよね。
藤原: ヤバかったですよ。
木竜: でも実際そんな会話をしたことないのに、できてしまうのはなぜだろう? 面白いと思いながらやってました(笑)。
──実際にいる誰かが言っていた言葉だったりするのかなと想像をしていたのですが、全て加藤さんご自身から出てくるセリフなんですね。
加藤: こういう人いると思ってもらえるといいな、と思いながら書いてます。
Photo:Koichi Tanoue Styling:Momomi Kanda (Kiryu)、Hironori Yagi(Fujiwara) Hair&Make-up:Miki Nushiro (Kiryu)、Motoko Suga(Fujiwara) Text & Edit:Tomoko Ogawa
衣装:(木竜さん)パンツ¥48,500 malamute(ブランドニュース) 靴¥33,000 trippen(トリッペン原宿店) ネックレス¥15,400、イヤリング¥11,000(ともにpetite robe noire) 他スタイリスト私物
衣装:(藤原さん)ジャケット¥31,900、ベスト¥19,800(ともにRANDT) ハイネックニットTシャツ¥20,900、パンツ¥20,900ともにニードルズ(ネペンテス) ブレスレット¥30,800エンド(ギャラリー・オブ・オーセンティック) スニーカー スタイリスト私物
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