#抗衰老# 说起钟丽缇大家应该都不会陌生。风靡全国的电影《中南海保镖》让无数人被她的绝世容颜所着迷。然而20多年过去了,大家惊奇的发现,钟丽缇还是以前那个钟丽缇。依然让人美的无法自拔,被大家称为“冻龄女神”。
1993年钟丽缇在香港参选国际华裔小姐而入行演艺界,1994年凭借《人鱼传说》一片而迅速走红东南,有人鱼公主的美称。1999年,被知名男性杂志《FHM》评为2000年度亚洲最性感女性。
曾经钟丽缇也是一代人的女神,她美丽性感,如今即使已经将近50岁了,依旧美得让人心动,看了钟丽缇终于明白为什么说娱乐圈的明星就跟不会老似的,49岁的钟丽缇像30岁都不到的女人一样,化上精致的妆容,真的是一点皱纹都没有长,还是这么精致美艳,也是如此的性感、动人,钟丽缇哪有不吸引人的道理,终于明白为啥钟丽缇能迷倒张伦硕了。
钟丽缇亲情力荐仙格丽青春定格液,一场冻龄女神与美丽的邂逅
如何保持冻龄容颜,就不得不介绍一下钟丽缇倾力推荐的这款仙格丽青春定格液了,仙格丽定格液源于美国50年品牌积淀的国际大牌,早在1967年,美国美莱集团就创立了科技驻颜护肤品牌——仙格丽。由瑞士和美国三大研究机构——瑞士美莱皮肤驻颜研究中心Swiss MayLife Clinique、保罗谢勒研究所(PSI)生命科学研究中心、国立人类基因组研究所(NHGRI)提供技术支持,驻颜传奇,源于50年的品牌保证,产品专利,国家认证,将驻颜科技应用于产品研发,50年专注于科技护肤研究。
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我们知道,肌肤总是在慢慢衰老的,无论是肌肤缺水,还是外界的环境污染等,会导致肌肤产生各种问题,例如皮肤暗淡、出现色斑,因为皮肤新陈代谢缓慢老化角质无力自然脱落,皮肤变得晦暗粗糙,仙格丽青春定格液可以补充MANNE细胞活化能,能有效帮助皮肤细胞的新陈代谢,加速细胞生长,提高肌肤含水量,有效防止皮肤水分蒸发,增强皮肤的锁水能力,让肌肤更白皙水嫩,仙格丽青春定格液还可以预防酪胺酸酶的活性,抑制黑色素的生成,帮助色素排出,使日晒后出现的黑斑迅速淡化,并且可以修复受损组织,解除痘印烦恼,促进血液循环畅通,淡化因疲劳而形成的黑眼圈、眼袋,同时增加眼部周边皮肤紧密度,使眼睛看上去更加光彩、迷人。
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还有,女人其实很害怕皱纹,一旦脸上出现皱纹,不仅不好看,整个人都变得黯然失色,其实皱纹的产生源于皮肤中的胶原蛋白流失,真皮中的弹力纤维网断裂,有什么办法呢?使用这款钟丽缇推荐的仙格丽青春定格液就没错了,因为这款定格液可直接渗透到皮肤真皮层,促进真皮层中胶原蛋白、弹力纤维增生,修复断裂受损的纤维组织,抚平幼纹及细小皱纹,使你的肌肤愈颜如初。
人鱼公主钟丽缇强势入驻仙格丽,力推国际大品牌仙格丽定格液,保持冻龄容颜,散发美丽容颜,保持性感与美丽,快来和钟丽缇一起与仙格丽青春定格液完成一场美丽的邂逅。
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自1993年算起,我入投资这行已是第二十个年头了。一直以来,多会遇见关心“你今年(或去年)回报多少?”之类的问题,在回答了很多次之后,标准答案是:“这行业我干了二十年,现在还在。”
明白的人在见了上述答案后自然就会明白,无需再多问,因为凡是经历了过去二十年的资本市场的人都知道其间的风风雨雨,这里虽然没有伏尸千里、流血漂橹的触目画面,却不亚于取人性命于千里之外、消敌于无形之中的惊心江湖。
可惜的是,往往只有历史过后,答案才能揭晓,这便是常言道的“不确定性”
01
辨材须待七年期
由于早期没有刻意做投资记录,这二十年来,我约略估计自己的累计投资回报为200倍左右,即百分之两万(+20000%)。而1993年春到2012年春,上证指数从1550点到2300点,累计升幅为52%(+52%),上涨仅仅800点,折合年复利2%(+2%),远远跑输同期的通货膨胀率,也低于同期的银行定期存款利率,可见过去二十年选择投资作为职业并不是一个好的抉择。
截止(2012年)5月刊《钱经》杂志的实盘模拟组合部分显示,过去五年(200704~201204)专栏累计收益率为112.92%(+112.92%),而同期上证指数则下跌32.20%(-32.20%)。由于杂志出版的固定性,这个“带着镣铐的舞蹈”较实际的运作为差,例如我们披露的儿童财商教育账户,在过去两年(201004~201204)中累计回报率63.2%(+63.2%),而同期杂志专栏的回报率为19.8%(+19.8%)。
通常考察投资水平有经历完整周期的记录为佳,恰好近日整理了此前投资周期的案例,自2005年5月至2012年4月底整整七年,期间五年熊市、两年牛市,经历了“熊——牛——熊”的市场循环,表现如下:
2005年5月至2006年4月,回报率为+21.88%;
2006年4月至2007年4月,回报率为+208%;
2007年4月至2008年4月,回报率为+22.69%;
2008年4月至2009年4月,回报率为–31.73%;
2009年4月至2009年12月,回报率为+58.52%。
2010年1月至2010年12月,回报率为+23.87%;
2011年1月至2011年12月,回报率为-5.6%;
2012年1月至2012年4月,回报率为+20.77%。
珍藏版#圆弧突破#主图指标#通达信#手机版# https://t.cn/AidkQuOP
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ノーベル賞経済学者が猛批判した「日本のバブル崩壊の真犯人」
正文:
ノーベル賞経済学者のフリードマン。その日本経済の分析は先見性に満ちたものだったと、経済学者の柿埜真吾氏は自著『ミルトン・フリードマンの日本経済論』にて語っている。
ノーベル経済学賞を受賞し、20世紀後半から21世紀初めにかけて世界に燦然たる輝きを放ったアメリカの経済学者ミルトン・フリードマン(1912-2006)。
この「巨匠」がじつは繰り返し日本に関する分析と発言を行なってきたことをご存知だろうか? 日本のバブル崩壊とデフレ不況を予見し、金融政策の誤りや貿易摩擦、構造問題を鋭く語ったフリードマンへの再評価が進んでいる。
日本のエコノミストから「市場原理主義者」のレッテルを貼られ誤解されがちなフリードマンの対日分析を行った書『ミルトン・フリードマンの日本経済論』。同書より、日本のバブル崩壊を予見し的中させたフリードマンが、その原因を日銀と指摘していたことを解説する一節を紹介する。
バブル経済批判──「東京の株式市場は健全とは思えない」
1990年2月7日、フリードマンは、イタリアの経済紙に対して「東京の株式市場の時価総額はすでに500兆円を超えているが、この数字は世界の株式の40%近くに当たり、決して健全なものとは思えない」と指摘、将来の暴落を予測した。
当時、日経平均株価は1989年12月の最高値からは下落していたものの、1月半ば以降3万7000円前後で安定、恒久的な高原状態を続けるかに見えていた。
だが、不吉な予言は、やがて現実のものとなった。資産バブルを懸念した日本銀行は1989年から金融引き締めを続けていたが、1990年3月に入ると株価は暴落、3万円を割り、年末には2万円台前半まで下落、翌年には2万円も割り込むに至った。
金融市場の逼迫、貨幣量(M2+CD)成長率の急低下にもかかわらず、日銀は資産バブル潰しに固執し、ハイパワード・マネーを減少させ、金融引き締めを1992年半ばまで継続した。
日銀が公定歩合引き下げに乗り出した頃にはM2+CD成長率はマイナスに転落していた。日本経済の運命は暗転し、失われた20年の停滞に沈むこととなったのである。
株価急落後の特集で『日本経済新聞』は「年初からの急落を「予知」した」一人としてフリードマンに言及している(「ドキュメント株価急落 第1部 衝撃編〈8〉」『日本経済新聞』朝刊、1990年3月28日)。
株価の下落はすでに始まりつつあったものの、楽観的な空気が支配的だったなかで、フリードマンの発言はきわめて早いものの一つだった。
「なぜこんなことになったのか。私の解説は至極単純なものです。全ては1987年のルーブル合意に起因する。日本とドイツ、特に日本は、この合意に縛られ、自らの犠牲においてドルを買い支えた」
この結果、日本の貨幣量は10%以上のスピードで増加、これが景気過熱と地価、株価のバブルを煽ることになった。慌てた日銀は引き締めに転じたが、「やり過ぎたのですよ。通貨供給量の増大に対して、ブレーキを強く踏み過ぎたわけです」
「プラザ合意やルーブル合意がなくても、ドル相場は今日ある水準になっていた……。……これらの合意による政府の協調介入が、逆に市場の調整を遅らせ、バブル経済とその反動不況という深刻な試練を、日本やドイツ、……米国にも課す結果となったのです」。
当初、フリードマンは、1980年代半ばまでマネタリズムを理解しているかに見えた「世界一優秀な通貨当局」日銀の能力を高く評価し、バブル経済の発生は、日銀の政策の結果というよりも日銀の金融政策に対する日米の政治家の干渉の結果だと見なしていた。
マネーサプライ急落を招いた日銀を批判
出典:柿埜真吾著『ミルトン・フリードマン日本経済論』(PHP新書)
だが不幸なことに、当時の日銀の政策思想はもはやマネタリスト的なものではなく、いわゆる日銀理論へと変質していた。
1980年代後半に貨幣量重視の金融政策を放棄して以降の日銀では、次第に「〔金融〕緩和が十分かどうかは、金利が十分下がっているかどうかにほとんど的を絞って判断していけばいい」という考え方が支配的になっていった(「金融不況を語る〈4〉日本銀行理事福井俊彦氏──『銀行救済利下げ』ない」『日本経済新聞』朝刊、1992年12月26日)。
原田[1992]が指摘するように、日銀は以前のような貨幣軽視の金融政策思想に戻ってしまったわけである。日銀は、M2+CDの上昇率の低下はバブルの反動の当然の結果に過ぎず、「マネーサプライ水準が過小であるとは言い難い」と主張し、何ら行動に移ろうとしなかった。
1993年になると、フリードマンは日銀がM2+CDの上昇率の急低下を容認していることに強い懸念を表明し、日本経済が戦後最悪の不況を迎えつつあると警告を発した。
「あの頃〔1980年代末〕の年間12パーセントから14パーセントに達した通貨供給量の増加率が今や0パーセントかマイナスといった状態でしょう。……日銀は……大きなミスを犯したと思いますね。
今日の通貨供給量の動向を見ていると、日本経済はさらに深刻な景気後退に向かいつつあると判断せざるを得ない。……おそらく日本は、戦後最も厳しい不況にあるのではないか。私の判断が間違いであればいいのだが……」
不幸にして、フリードマンの懸念は、またしても的中した。やがて明らかになるように、バブル経済の崩壊は長い日本経済停滞の序曲にすぎなかったのである。
フリードマンの期待に反し、日銀は、不況の深刻化にもかかわらず、大胆なハイパワード・マネー拡大に踏み切ることはなかった。1991‐1999年のハイパワード・マネーの成長率は5.2%にすぎず、1980‐1990年の平均7.9%を大きく下回っている。
貨幣の伸びの低下を容認し続ける日銀に、フリードマンは次第にいら立ちを強めていった。
1994年のインタビューでは、日銀の金融政策の失敗がバブルとその急激な崩壊を招いたとし、「これは遠目の批判かもしれないが、日銀は誤りを正すのが遅くて、そのためにリセッションを長引かせ、深刻なものにしてしまったように思われる」と述べている。
1996年には、フリードマンは松下新日銀総裁に期待を寄せつつ、「1929年以降のFRBの行動を再現している」と三重野総裁時代の日銀の方針に強い不満をぶつけている。
1997年の論説になると、フリードマンは「日本経済の現在の危機的状況を招いた責任の大半は、日本銀行によるこの10年間の的外れな金融政策にある」と厳しく批判するに至った。
フリードマンは、日銀の1990年代の金融政策に対して1929‐1933年のFRBの金融政策を批判したのと同じ「的外れな(inept)」という形容を用いている。
ルーブル合意以前の金融政策を絶賛していたフリードマンの失望と憤りが窺われる言葉である。
柿埜真吾(かきのしんご:経済学者)
正文:
ノーベル賞経済学者のフリードマン。その日本経済の分析は先見性に満ちたものだったと、経済学者の柿埜真吾氏は自著『ミルトン・フリードマンの日本経済論』にて語っている。
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1990年2月7日、フリードマンは、イタリアの経済紙に対して「東京の株式市場の時価総額はすでに500兆円を超えているが、この数字は世界の株式の40%近くに当たり、決して健全なものとは思えない」と指摘、将来の暴落を予測した。
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だが、不吉な予言は、やがて現実のものとなった。資産バブルを懸念した日本銀行は1989年から金融引き締めを続けていたが、1990年3月に入ると株価は暴落、3万円を割り、年末には2万円台前半まで下落、翌年には2万円も割り込むに至った。
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マネーサプライ急落を招いた日銀を批判
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原田[1992]が指摘するように、日銀は以前のような貨幣軽視の金融政策思想に戻ってしまったわけである。日銀は、M2+CDの上昇率の低下はバブルの反動の当然の結果に過ぎず、「マネーサプライ水準が過小であるとは言い難い」と主張し、何ら行動に移ろうとしなかった。
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