19-24日本人作图和他的分析,土门是短期的临时教官,而真正的调动目标是蒲原,看来基本就是这种情况了
「科捜研の女」なぜマリコと別れをせずに去っていったのか?「土門卒業」を疑う根拠を挙げてみた24話
エキサイトレビュー 12/19(木) 09:45
12月12日に『科捜研の女』(テレビ朝日系)の第24話が放送された。
<第24話あらすじ>1人の命より大勢の命を選んだ
フリーライターの広辺誠児(森下じんせい)が絞殺された。遺留品から、土門薫(内藤剛志)と同期の元刑事で、19年前に死亡したはずの火浦義正(升毅)が生きていることがわかり、彼に広辺殺害の容疑がかかる。
1999年の大みそかに時をほぼ同じくして起きた2つの事件……大学サークルで起きた「ミレニアム集団自殺」と、同じサークルに所属していた楡井敏秋(中村凜太郎)の不可解な転落死。その関連を調べていた広辺に、当時サークル顧問だった森迫宏成(大河内浩)から多額の振り込みがあったこともわかった。不都合な真実が明るみに出るのを恐れ、金でもみ消そうとしたのではないかと疑われた森迫だが、ほどなく絞殺体で発見! 手口は広辺殺害と同じだったうえ、事件当日、火浦が森迫を訪ねていたことも判明する。
そんななか、火浦が土門の前に姿を現した。20年前、土門の元妻で故人の有雨子(早霧せいな)と不倫を疑われていた火浦は、「人間として犯してはいけない罪を犯した」と言い残して逃亡。火浦が言っていることが事実なら、有雨子が生前に言い残した「許されないことをした」の言葉は火浦との不倫を意味したものではなくなる。
20年前の記録を改めて検証すると、楡井は自殺ではなく死後ビルから転落したと判明。森迫が連絡をとっていた衆議院議員で警察OBの古川大儀(中村凛太郎)に話を聞きに行くと、集団自殺したサークルは病理研究所から致死性の高いウイルスを盗み出し、テロを実行しようとしていたと明らかになった。楡井は恋人が妊娠したことをきっかけにサークルを抜けることを決意し、姉のように慕っていた有雨子に相談。有雨子はこのことを火浦に打ち明け、火浦は楡井をスパイとして使うことにしたのだった。しかし、楡井はサークルのメンバーにスパイ行為がばれ、リンチされ殺されてしまう。京都タワーの展望台から火浦と有雨子は一部始終を目撃しており、有雨子は警察に連絡しようとしたが、自暴自棄になったメンバーがウイルスを散布することを恐れた火浦は、連絡を止めさせた。
その後の火浦は警察を退職し、古本屋の店主として生活。そこに楡井の息子の室岡厚也(大八木凱斗)が来店。そのとき、火浦は楡井が自殺ではなかったと厚也に伝えた。厚也は広辺に事件の調査を依頼するが、広辺は森迫から金銭を受け取り、引き換えに記事を削除。厚也は広辺と森迫を殺害し、事件を隠蔽した古川の命を狙った。しかし、寸前で火浦が厚也を阻止。火浦は「全て俺のせいだ」と厚也に謝罪した。
火浦の判断ミス
火浦と有雨子は不倫関係ではなかった。いや、不倫ではないと最初から思っていたのだが。それにしても、真相は異様にスケールの大きな話だった。
火浦は警察に連絡しようとする有雨子を制した。目の前にいる1人(楡井)の命と大勢の命を天秤にかけ、後者を選んだのだ。その判断については、何も言わない。火浦が判断を誤ったのは、これとは別の件である。厚也は広辺が調べた事件の真相を公表しようとした。しかし、火浦はその記事を燃やした。そのまま公表させてやれば、厚也が殺人に踏み切ることはなかったのに!
「俺は事件が明らかになるのが怖かった」(火浦)
「俺は死んだも同然」と言っておきながら、何を怖気づいているのか。というか、そもそも厚也と出会ったときに本当のことを言い、謝罪していれば、事はこんな大きくならずに済んだはずだ。今回の事件の発端と火種は、全て火浦の逃げ腰にある。
やっぱり“去る去る詐欺”か!?
さて、本題に入ろう。土門の『科捜研の女』卒業問題だ。遂に彼は警察学校の教官になってしまった。あまりにもあっさりと……。榊マリコ(沢口靖子)との別れもなく、これまでの名場面を振り返る回想シーンもなく、「土門さんが警察学校行っちゃうって!」(亜美)というくだりが挟み込まれただけの地味な処理の仕方。
その後、刑事部長・藤倉甚一(金田明夫)と蒲原勇樹(石井一彰)のやり取りに場面は移った。
藤倉 「警察官に異動は付きものだ。不満はあるだろうが……」
蒲原 「いえ……、覚悟はできてましたから。土門さんには刑事として一番大切なことを教えていただきました。今度は俺があの人のようになる番です」
これ、ちょっとおかしくないか? 土門が異動するからと言って、「不満はあるだろうが……」と蒲原を慰めるだろうか。蒲原も他人の異動なのに「覚悟はできてました」と返答して、なんか受け答えがおかしい。まるで、自分のことのような口ぶりなのだ。
藤倉の言う「異動は付きものだ」って、ひょっとして蒲原のことを指しているのではないか!?
ここからは、あくまで筆者の推測。実は、土門に対して「異動の話がある」とはっきり告げられてはいない。あくまで「警察学校の教官になってくれ」という旨の打診だった。教官にだって色々ある。短期の臨時教官の可能性もあるはずだ。
つまり、しばらくしたら土門は戻ってくるかもしれないということ。本当に異動するのは土門ではなく蒲原……という線も残されている。いや、それはそれで悲しい話なのだけど。
この推測が当たっていたら、挨拶もせず土門が去ってしまったことにも合点が行く。ただの臨時教官なら、わざわざウェットにマリコと別れを惜しむこともないし。じゃあ、土門の異動話はいつもの“去る去る詐欺”ということ!? 『ガキの使いやあらへんで!』の「さよなら月亭方正」じゃないんだから。しまいには、土門のことを「月亭土門」と呼びたくなってくる。
※繰り返しますが、あくまで筆者の推測です。
ちなみに、次回25話の出演予定者欄に内藤剛志の名前はなかった。しばらくいなくなるのは本当のようだ。
24話のエンディングは、マリコ1人の屋上シーンだった。不意にマリコはハッとし、「土門さん!」と振り返った。でも、そこには誰もいない。泣いてはいないが、少しだけ目が赤いマリコ。寂しそうだった。でも、毅然としている。これがマリコである。
(寺西ジャジューカ)
「科捜研の女」なぜマリコと別れをせずに去っていったのか?「土門卒業」を疑う根拠を挙げてみた24話
エキサイトレビュー 12/19(木) 09:45
12月12日に『科捜研の女』(テレビ朝日系)の第24話が放送された。
<第24話あらすじ>1人の命より大勢の命を選んだ
フリーライターの広辺誠児(森下じんせい)が絞殺された。遺留品から、土門薫(内藤剛志)と同期の元刑事で、19年前に死亡したはずの火浦義正(升毅)が生きていることがわかり、彼に広辺殺害の容疑がかかる。
1999年の大みそかに時をほぼ同じくして起きた2つの事件……大学サークルで起きた「ミレニアム集団自殺」と、同じサークルに所属していた楡井敏秋(中村凜太郎)の不可解な転落死。その関連を調べていた広辺に、当時サークル顧問だった森迫宏成(大河内浩)から多額の振り込みがあったこともわかった。不都合な真実が明るみに出るのを恐れ、金でもみ消そうとしたのではないかと疑われた森迫だが、ほどなく絞殺体で発見! 手口は広辺殺害と同じだったうえ、事件当日、火浦が森迫を訪ねていたことも判明する。
そんななか、火浦が土門の前に姿を現した。20年前、土門の元妻で故人の有雨子(早霧せいな)と不倫を疑われていた火浦は、「人間として犯してはいけない罪を犯した」と言い残して逃亡。火浦が言っていることが事実なら、有雨子が生前に言い残した「許されないことをした」の言葉は火浦との不倫を意味したものではなくなる。
20年前の記録を改めて検証すると、楡井は自殺ではなく死後ビルから転落したと判明。森迫が連絡をとっていた衆議院議員で警察OBの古川大儀(中村凛太郎)に話を聞きに行くと、集団自殺したサークルは病理研究所から致死性の高いウイルスを盗み出し、テロを実行しようとしていたと明らかになった。楡井は恋人が妊娠したことをきっかけにサークルを抜けることを決意し、姉のように慕っていた有雨子に相談。有雨子はこのことを火浦に打ち明け、火浦は楡井をスパイとして使うことにしたのだった。しかし、楡井はサークルのメンバーにスパイ行為がばれ、リンチされ殺されてしまう。京都タワーの展望台から火浦と有雨子は一部始終を目撃しており、有雨子は警察に連絡しようとしたが、自暴自棄になったメンバーがウイルスを散布することを恐れた火浦は、連絡を止めさせた。
その後の火浦は警察を退職し、古本屋の店主として生活。そこに楡井の息子の室岡厚也(大八木凱斗)が来店。そのとき、火浦は楡井が自殺ではなかったと厚也に伝えた。厚也は広辺に事件の調査を依頼するが、広辺は森迫から金銭を受け取り、引き換えに記事を削除。厚也は広辺と森迫を殺害し、事件を隠蔽した古川の命を狙った。しかし、寸前で火浦が厚也を阻止。火浦は「全て俺のせいだ」と厚也に謝罪した。
火浦の判断ミス
火浦と有雨子は不倫関係ではなかった。いや、不倫ではないと最初から思っていたのだが。それにしても、真相は異様にスケールの大きな話だった。
火浦は警察に連絡しようとする有雨子を制した。目の前にいる1人(楡井)の命と大勢の命を天秤にかけ、後者を選んだのだ。その判断については、何も言わない。火浦が判断を誤ったのは、これとは別の件である。厚也は広辺が調べた事件の真相を公表しようとした。しかし、火浦はその記事を燃やした。そのまま公表させてやれば、厚也が殺人に踏み切ることはなかったのに!
「俺は事件が明らかになるのが怖かった」(火浦)
「俺は死んだも同然」と言っておきながら、何を怖気づいているのか。というか、そもそも厚也と出会ったときに本当のことを言い、謝罪していれば、事はこんな大きくならずに済んだはずだ。今回の事件の発端と火種は、全て火浦の逃げ腰にある。
やっぱり“去る去る詐欺”か!?
さて、本題に入ろう。土門の『科捜研の女』卒業問題だ。遂に彼は警察学校の教官になってしまった。あまりにもあっさりと……。榊マリコ(沢口靖子)との別れもなく、これまでの名場面を振り返る回想シーンもなく、「土門さんが警察学校行っちゃうって!」(亜美)というくだりが挟み込まれただけの地味な処理の仕方。
その後、刑事部長・藤倉甚一(金田明夫)と蒲原勇樹(石井一彰)のやり取りに場面は移った。
藤倉 「警察官に異動は付きものだ。不満はあるだろうが……」
蒲原 「いえ……、覚悟はできてましたから。土門さんには刑事として一番大切なことを教えていただきました。今度は俺があの人のようになる番です」
これ、ちょっとおかしくないか? 土門が異動するからと言って、「不満はあるだろうが……」と蒲原を慰めるだろうか。蒲原も他人の異動なのに「覚悟はできてました」と返答して、なんか受け答えがおかしい。まるで、自分のことのような口ぶりなのだ。
藤倉の言う「異動は付きものだ」って、ひょっとして蒲原のことを指しているのではないか!?
ここからは、あくまで筆者の推測。実は、土門に対して「異動の話がある」とはっきり告げられてはいない。あくまで「警察学校の教官になってくれ」という旨の打診だった。教官にだって色々ある。短期の臨時教官の可能性もあるはずだ。
つまり、しばらくしたら土門は戻ってくるかもしれないということ。本当に異動するのは土門ではなく蒲原……という線も残されている。いや、それはそれで悲しい話なのだけど。
この推測が当たっていたら、挨拶もせず土門が去ってしまったことにも合点が行く。ただの臨時教官なら、わざわざウェットにマリコと別れを惜しむこともないし。じゃあ、土門の異動話はいつもの“去る去る詐欺”ということ!? 『ガキの使いやあらへんで!』の「さよなら月亭方正」じゃないんだから。しまいには、土門のことを「月亭土門」と呼びたくなってくる。
※繰り返しますが、あくまで筆者の推測です。
ちなみに、次回25話の出演予定者欄に内藤剛志の名前はなかった。しばらくいなくなるのは本当のようだ。
24話のエンディングは、マリコ1人の屋上シーンだった。不意にマリコはハッとし、「土門さん!」と振り返った。でも、そこには誰もいない。泣いてはいないが、少しだけ目が赤いマリコ。寂しそうだった。でも、毅然としている。これがマリコである。
(寺西ジャジューカ)
#慈诚罗珠堪布[超话]#证悟的话,一定要有智慧,有智慧才能够叫作证悟。没有智慧的话,虽然心非常非常地平静,但是这个平静没有用,所以这时候我们一定要知道这个“无记空”。佛教里面本来就把这个叫作无记空。为什么叫作无记呢?它既不是善又不是恶,所以叫作无记。如果有证悟的话,这个证悟的智慧,第一个它不是罪,这个不可能;那它是不是善呢?是属于善,无漏的善。那么无记空实际上是停留在阿赖耶识的这个状态中,不是什么证悟。
若空心坐,即落无记空。
原创: 慈诚罗珠堪布平台https://t.cn/AiDlb56G
没有这种证悟的智慧,虽然心非常平静,有些时候还感觉好像证悟了。有些人因为对修行不太了解、经验不够,所以进入了这种状态的时候,很多人就认为自己开悟了。因为这个状态跟佛经里面讲的证悟状态很相似,至少表面上很像很像,所以他完全可以在佛经里面找到跟他自己的这种感觉相应的一些词,所以他以为他证悟了、觉悟了。但是这个不叫证悟。
证悟的话,一定要有智慧,有智慧才能够叫作证悟。没有智慧的话,虽然心非常非常地平静,但是这个平静没有用,所以这时候我们一定要知道这个“无记空”。佛教里面本来就把这个叫作无记空。为什么叫作无记呢?它既不是善又不是恶,所以叫作无记。如果有证悟的话,这个证悟的智慧,第一个它不是罪,这个不可能;那它是不是善呢?是属于善,无漏的善。那么无记空实际上是停留在阿赖耶识的这个状态中,不是什么证悟。
这个我们在《坛经》当中怎么印证呢?为什么有这样的意思呢?在这个版本里面又找到一句话,“又有迷人”,迷人就是没有开悟的人,“空心静坐,百无所思”,百无所思就是没有任何的思考。“自称为大”,他说我这个就是大般若。“此一辈人,不可与语”,跟这种人不要和他交谈,不要和他说话。为什么呢?“为邪见故”,这就是邪见,怕你也染上这个邪见的病,所以不要和他谈话。
“空心静坐,百无所思”,没有任何思考,没有执著,善、恶什么样的执著都没有。《坛经》当中还有特别特别重要的一句话“不思善,不思恶”,这两个表面上不就一样吗?不去思考善,不去思考恶,什么都不思考了,这个当下就叫作证悟,惠能大师也是这么讲的。但这个地方的“百无所思”,没有任何思考,就说连和他谈话都不能谈了,严重到这种程度了。那这怎么理解呢?在大圆满里面有几个区分,让修行人不要走错路,其中一个叫作法身跟阿赖耶识的区分。《坛经》里面没有说法身和阿赖耶识的区分,但实际上这就是法身与阿赖耶识的区分,只是换作这样的话来讲的。
这些都是特别有意义的。我个人理解的话,我认为禅宗它不仅仅是一个显宗的修法,它是一个显加密的这样的修法。像达摩祖师、慧可法师、惠能大师等等,后来也出现了很多很多证悟级别上看和惠能大师完全是一样的人,只不过他们没有像惠能大师那么出名,那么这些禅师的证悟方法,根本就不是显宗的方法,因为显宗证悟的方法不是这样子,他们跟大圆满的证悟的方法是一模一样的。
比如说我们把大圆满的一个证悟的故事,把这个人的名字——他肯定是一个藏族人的名字,就换成禅宗的师父的名字,慧什么呀,可什么呀,然后放到禅宗的书里,那根本就分不出来这是不是禅宗的故事,绝对会认为这是禅宗的一个禅师。
同样,我们把某一个禅师证悟的故事,把他的名字换成什么龙钦,什么多吉,什么扎西……这一类藏族人的名字,放在大圆满传承上师的书里面一看,谁都分不出来这个不是大圆满的证悟方式,大家都认为就是这样子。所以禅宗是一个非常非常了不起的法门,它的这些证悟的方法,全部都跟大手印、大圆满是一模一样的。
但是最大的遗憾是什么呢?我们现在有多少人能够把“空心静坐,百无所思”跟“不思善,不思恶”这两个境界分得清清楚楚的?嘴巴上说很容易,但嘴巴上说都是如幻如化没有意义。这两种境界从自己的感受、体会上面分得清清楚楚的人肯定是有的,但是不知道有多少,就是这个我们比较遗憾的。这么了不起的一个法门是非常非常的重要,对一个虔诚的佛教徒来讲,用自己的性命去保护也是值得的。
我们以后修行的时候,证悟空性的时候,你们一定要知道有一个这样的误区,就是“空心静坐,百无所思,自称为大”的地方,就像交通标志上面的警示。很多时候,我们在路上看到“这里有急弯”“这里有下坡”的提示;在高原上的话,“有暗冰”“冬天有冰”有这样的提示。
我们以后修大圆满、修大手印、修禅宗的时候,一定要注意有这样一个误区。要不然的话,这时如果我们认为自己开悟了,那就惨了,永远都在这个当中就出不来了,还不如念念咒或者是念念《金刚经》,所以这是很重要的。
敦煌版里面字不多,只有九个字“若空心坐,即落无记空”。那这九个字,我刚才从两个层面解释了,结合了大圆满的法身和阿赖耶识辨别的方法,然后从《坛经》另外的版本当中,找了两句它自己的话来证明。
所以这九个字的内容这样去理解,我认为是没有错的。尤其是以后我们真正去修行的时候,这特别重要,一定一定一定要记住。
原创: 慈诚罗珠堪布平台https://t.cn/AiDlb56G
没有这种证悟的智慧,虽然心非常平静,有些时候还感觉好像证悟了。有些人因为对修行不太了解、经验不够,所以进入了这种状态的时候,很多人就认为自己开悟了。因为这个状态跟佛经里面讲的证悟状态很相似,至少表面上很像很像,所以他完全可以在佛经里面找到跟他自己的这种感觉相应的一些词,所以他以为他证悟了、觉悟了。但是这个不叫证悟。
证悟的话,一定要有智慧,有智慧才能够叫作证悟。没有智慧的话,虽然心非常非常地平静,但是这个平静没有用,所以这时候我们一定要知道这个“无记空”。佛教里面本来就把这个叫作无记空。为什么叫作无记呢?它既不是善又不是恶,所以叫作无记。如果有证悟的话,这个证悟的智慧,第一个它不是罪,这个不可能;那它是不是善呢?是属于善,无漏的善。那么无记空实际上是停留在阿赖耶识的这个状态中,不是什么证悟。
这个我们在《坛经》当中怎么印证呢?为什么有这样的意思呢?在这个版本里面又找到一句话,“又有迷人”,迷人就是没有开悟的人,“空心静坐,百无所思”,百无所思就是没有任何的思考。“自称为大”,他说我这个就是大般若。“此一辈人,不可与语”,跟这种人不要和他交谈,不要和他说话。为什么呢?“为邪见故”,这就是邪见,怕你也染上这个邪见的病,所以不要和他谈话。
“空心静坐,百无所思”,没有任何思考,没有执著,善、恶什么样的执著都没有。《坛经》当中还有特别特别重要的一句话“不思善,不思恶”,这两个表面上不就一样吗?不去思考善,不去思考恶,什么都不思考了,这个当下就叫作证悟,惠能大师也是这么讲的。但这个地方的“百无所思”,没有任何思考,就说连和他谈话都不能谈了,严重到这种程度了。那这怎么理解呢?在大圆满里面有几个区分,让修行人不要走错路,其中一个叫作法身跟阿赖耶识的区分。《坛经》里面没有说法身和阿赖耶识的区分,但实际上这就是法身与阿赖耶识的区分,只是换作这样的话来讲的。
这些都是特别有意义的。我个人理解的话,我认为禅宗它不仅仅是一个显宗的修法,它是一个显加密的这样的修法。像达摩祖师、慧可法师、惠能大师等等,后来也出现了很多很多证悟级别上看和惠能大师完全是一样的人,只不过他们没有像惠能大师那么出名,那么这些禅师的证悟方法,根本就不是显宗的方法,因为显宗证悟的方法不是这样子,他们跟大圆满的证悟的方法是一模一样的。
比如说我们把大圆满的一个证悟的故事,把这个人的名字——他肯定是一个藏族人的名字,就换成禅宗的师父的名字,慧什么呀,可什么呀,然后放到禅宗的书里,那根本就分不出来这是不是禅宗的故事,绝对会认为这是禅宗的一个禅师。
同样,我们把某一个禅师证悟的故事,把他的名字换成什么龙钦,什么多吉,什么扎西……这一类藏族人的名字,放在大圆满传承上师的书里面一看,谁都分不出来这个不是大圆满的证悟方式,大家都认为就是这样子。所以禅宗是一个非常非常了不起的法门,它的这些证悟的方法,全部都跟大手印、大圆满是一模一样的。
但是最大的遗憾是什么呢?我们现在有多少人能够把“空心静坐,百无所思”跟“不思善,不思恶”这两个境界分得清清楚楚的?嘴巴上说很容易,但嘴巴上说都是如幻如化没有意义。这两种境界从自己的感受、体会上面分得清清楚楚的人肯定是有的,但是不知道有多少,就是这个我们比较遗憾的。这么了不起的一个法门是非常非常的重要,对一个虔诚的佛教徒来讲,用自己的性命去保护也是值得的。
我们以后修行的时候,证悟空性的时候,你们一定要知道有一个这样的误区,就是“空心静坐,百无所思,自称为大”的地方,就像交通标志上面的警示。很多时候,我们在路上看到“这里有急弯”“这里有下坡”的提示;在高原上的话,“有暗冰”“冬天有冰”有这样的提示。
我们以后修大圆满、修大手印、修禅宗的时候,一定要注意有这样一个误区。要不然的话,这时如果我们认为自己开悟了,那就惨了,永远都在这个当中就出不来了,还不如念念咒或者是念念《金刚经》,所以这是很重要的。
敦煌版里面字不多,只有九个字“若空心坐,即落无记空”。那这九个字,我刚才从两个层面解释了,结合了大圆满的法身和阿赖耶识辨别的方法,然后从《坛经》另外的版本当中,找了两句它自己的话来证明。
所以这九个字的内容这样去理解,我认为是没有错的。尤其是以后我们真正去修行的时候,这特别重要,一定一定一定要记住。
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