【わたし達はおとな】
インタビュー:藤原季節と木竜麻生「1割が嫌う」かつてない恋愛映画 「わたし達はおとな」
「新たな恋愛映画」とは使い古された言葉だが、あえてそう言う。演劇界で今、最も注目を浴びている若手劇作家・演出家、加藤拓也のオリジナル脚本による長編映画監督デビュー作。生々しさと切迫感、リアリズムに徹した描写力に息をのむ。「菊とギロチン」の木竜麻生と「空白」の藤原季節と、若手実力派俳優2人が恋愛の危うさを体現。これまでの恋愛映画の限界をやすやすと超えた。
同せい中の大学生、妊娠が発覚して……
優実(木竜麻生)はデザインを学んでいる大学生。知人の演劇サークルのチラシ作りをきっかけに知り合った直哉(藤原季節)という恋人がいて、2人は半ば一緒に暮らしている。ある日、優実は自分が妊娠していることに気づくが、父親が直哉だと確信できずにいた。その事実を打ち明けられた直哉は現実を受け入れようとするが、2人の関係はしだいにきしみ、やがて崩れていく。
木竜が脚本を読んだときに感じたのは「知っている人がいっぱい(脚本の中に)いる。こういう人たちを知っている」という感覚だ。「セリフが、最初から最後までずっと面白い。こういう会話をさせるんだ」と感心し、できあがった作品を見て「良さが一段と際立っている。(セリフに)匂いがする」と独特の言葉で表現した。
藤原は23歳で加藤に出会ってから、作・演出の舞台の常連だが「初の長編映画が恋愛なんだー」と思ったという。加藤はこれまでの作品でも「父親や母親という呼び名が付く人たちの〝一つ前〟をずっと描いている」と説明する。
リハーサルにカメラも入れてしっかり時間をかける手法も加藤流で、現場に入ったら撮影は「一瞬で終わるほど」と2人は口をそろえる。アドリブはなし。「加藤さんは描きたいものを100%自分で決めているので、俳優に選択肢を与えることはほとんどない。現場で監督と話すことはわずか」と藤原が言えば、加藤演出は初めての木竜も「相手に集中するとか、役者本来のことをすれば帳尻が合う」と次第に慣れていった。
「この作品は、いつもとちがう」
優実から妊娠を告げられた直哉は、現実を理解したように取り繕うが本音は異なる。多くの女性は直哉の言葉や向き合い方に嫌悪感を募らせるだろう。
「自分たちの臆病さからあいまいな関係性を持続する、という人は多いかもしれない。ただ、役者としては女性から『何て男なのか』と大いに言われたい」と藤原は役柄に徹している。木竜も「分かることも分からないことも、どっちも面白い。100人見て100人面白いものより、10人は嫌い、という方が豊かだと思う」
藤原の役へのスタンスが個性的だ。「(役を)理解できないとテンションが上がるし、キャラクターとか十分に解釈できなくてもそのまま演じてしまう。演じながら少し理解する時もある」。不安はあるが「『分からないものは分からないままのほうがいい』というセリフが過去の加藤作品にあった。ある意味、理解しないまま現場に立つことを許容するようにしている。理解してもなお不安。フリをするのも怖いし、書かれてあることをまず言ってみる」と明快だ。
木竜の本作でのアプローチは「どうして今こういう流れになっているか、この脚本はそれがちゃんと落ちてくる」。2人は声をそろえるように語った。「この作品は、いつも(の作品)と違う」
あいまいな関係性が今っぽい
今の若者の多彩な面が矢継ぎ早に描かれているのも魅力の一つだ。藤原が解説してくれた。
「2人があいまいな関係に逃げ込んでしまうのは、あまり言いたくないが、今っぽい。他者への責任を恐れて、人と深く関わらない人は実際に多い。誰かと深く関わることは、本音で話したり傷つけ合ったりすること。でも、本音をぶちまける場所は、匿名のネットなどたくさんある。デモに行かなくても戦争反対の声はあげられるように。友人といても本音で話さなくていいし、意見のぶつかり合いも避けようとする」。恋愛もストレートに「僕とお付き合いしてください」と言わず、「あいまいに続けていくこともできる」。
優実と3人の女友達の関係性もそれに近い。「優実は話すことを1回のみこんでから言葉を発する。本音を言わずに話を合わせたほうが楽」と木竜も理解する。彼ら、彼女らの〝今っぽい〟距離感が垣間見える。「それでも連絡が来たらうれしいし、デートの約束にそわそわする」と木竜が口にすると、「だから、みんなメチャクチャさみしいんだと思う」と藤原が続ける。木竜もすかさず「その通り」と応じた。
優実と直哉は避妊についての会話もする。「コンドームをつける」とか「ピルを飲む」といった言葉も普通に出てくる。木竜が言う。「一瞬ドキッとするかもしれないが、そうした事実をちゃんと分かるように描いている」。脚本からは、大人になりきれない男女に対して、性についてきちんと向き合うべきだという主張が伝わってくる。
見る側、演じる側 双方に集中力
終盤の2人の演技は格闘技のような迫力だ。それでいて、別れる間際の駆け引きをする男女の会話が、リアリティーを持って、だらだらぐだぐだとスクリーンからあふれてくる。一連のやりとりは本作の白眉(はくび)だ。木竜は「カメラがあったことを覚えていない」と言い、藤原も「存在すら全く忘れていた。そんな状態になるのはめったにない」と語った。
「見る側も集中力がいる作品」と藤原が言えば、「演じる側の私も集中力が必要だった」と木竜。藤原は撮影を振り返って「青春ができる職業って最高です」と満足げに言い放った。ただ、今回は「役に入り込んでいいのは木竜さんで、僕は客観的にシーンを見ていることがあった。僕は入り込む役割ではない。意識的に半分は役に入り込んで、半分は冷静だった」。
木竜が反応する。「藤原さんは今まで共演したことのない(タイプの)役者さん。冷静さや距離感に、こっちが引いてしまうことがない。芝居の流れに乗っかっているのは、絶えず感じられる。初めて共演させてもらって体感した」。「ほめ言葉です」とにやり。
藤原が呼応する。「ラストの優実がご飯を食べているシーンとか、木竜さんは繊細さと強さを併せ持っている。優実が生きていこうとする姿がきっちり映っていた。これまでの作品もすごかったけど、今回さらにすごい。稀有(けう)な女優さんだ」
東京・新宿武蔵野館ほかで公開。
インタビュー:藤原季節と木竜麻生「1割が嫌う」かつてない恋愛映画 「わたし達はおとな」
「新たな恋愛映画」とは使い古された言葉だが、あえてそう言う。演劇界で今、最も注目を浴びている若手劇作家・演出家、加藤拓也のオリジナル脚本による長編映画監督デビュー作。生々しさと切迫感、リアリズムに徹した描写力に息をのむ。「菊とギロチン」の木竜麻生と「空白」の藤原季節と、若手実力派俳優2人が恋愛の危うさを体現。これまでの恋愛映画の限界をやすやすと超えた。
同せい中の大学生、妊娠が発覚して……
優実(木竜麻生)はデザインを学んでいる大学生。知人の演劇サークルのチラシ作りをきっかけに知り合った直哉(藤原季節)という恋人がいて、2人は半ば一緒に暮らしている。ある日、優実は自分が妊娠していることに気づくが、父親が直哉だと確信できずにいた。その事実を打ち明けられた直哉は現実を受け入れようとするが、2人の関係はしだいにきしみ、やがて崩れていく。
木竜が脚本を読んだときに感じたのは「知っている人がいっぱい(脚本の中に)いる。こういう人たちを知っている」という感覚だ。「セリフが、最初から最後までずっと面白い。こういう会話をさせるんだ」と感心し、できあがった作品を見て「良さが一段と際立っている。(セリフに)匂いがする」と独特の言葉で表現した。
藤原は23歳で加藤に出会ってから、作・演出の舞台の常連だが「初の長編映画が恋愛なんだー」と思ったという。加藤はこれまでの作品でも「父親や母親という呼び名が付く人たちの〝一つ前〟をずっと描いている」と説明する。
リハーサルにカメラも入れてしっかり時間をかける手法も加藤流で、現場に入ったら撮影は「一瞬で終わるほど」と2人は口をそろえる。アドリブはなし。「加藤さんは描きたいものを100%自分で決めているので、俳優に選択肢を与えることはほとんどない。現場で監督と話すことはわずか」と藤原が言えば、加藤演出は初めての木竜も「相手に集中するとか、役者本来のことをすれば帳尻が合う」と次第に慣れていった。
「この作品は、いつもとちがう」
優実から妊娠を告げられた直哉は、現実を理解したように取り繕うが本音は異なる。多くの女性は直哉の言葉や向き合い方に嫌悪感を募らせるだろう。
「自分たちの臆病さからあいまいな関係性を持続する、という人は多いかもしれない。ただ、役者としては女性から『何て男なのか』と大いに言われたい」と藤原は役柄に徹している。木竜も「分かることも分からないことも、どっちも面白い。100人見て100人面白いものより、10人は嫌い、という方が豊かだと思う」
藤原の役へのスタンスが個性的だ。「(役を)理解できないとテンションが上がるし、キャラクターとか十分に解釈できなくてもそのまま演じてしまう。演じながら少し理解する時もある」。不安はあるが「『分からないものは分からないままのほうがいい』というセリフが過去の加藤作品にあった。ある意味、理解しないまま現場に立つことを許容するようにしている。理解してもなお不安。フリをするのも怖いし、書かれてあることをまず言ってみる」と明快だ。
木竜の本作でのアプローチは「どうして今こういう流れになっているか、この脚本はそれがちゃんと落ちてくる」。2人は声をそろえるように語った。「この作品は、いつも(の作品)と違う」
あいまいな関係性が今っぽい
今の若者の多彩な面が矢継ぎ早に描かれているのも魅力の一つだ。藤原が解説してくれた。
「2人があいまいな関係に逃げ込んでしまうのは、あまり言いたくないが、今っぽい。他者への責任を恐れて、人と深く関わらない人は実際に多い。誰かと深く関わることは、本音で話したり傷つけ合ったりすること。でも、本音をぶちまける場所は、匿名のネットなどたくさんある。デモに行かなくても戦争反対の声はあげられるように。友人といても本音で話さなくていいし、意見のぶつかり合いも避けようとする」。恋愛もストレートに「僕とお付き合いしてください」と言わず、「あいまいに続けていくこともできる」。
優実と3人の女友達の関係性もそれに近い。「優実は話すことを1回のみこんでから言葉を発する。本音を言わずに話を合わせたほうが楽」と木竜も理解する。彼ら、彼女らの〝今っぽい〟距離感が垣間見える。「それでも連絡が来たらうれしいし、デートの約束にそわそわする」と木竜が口にすると、「だから、みんなメチャクチャさみしいんだと思う」と藤原が続ける。木竜もすかさず「その通り」と応じた。
優実と直哉は避妊についての会話もする。「コンドームをつける」とか「ピルを飲む」といった言葉も普通に出てくる。木竜が言う。「一瞬ドキッとするかもしれないが、そうした事実をちゃんと分かるように描いている」。脚本からは、大人になりきれない男女に対して、性についてきちんと向き合うべきだという主張が伝わってくる。
見る側、演じる側 双方に集中力
終盤の2人の演技は格闘技のような迫力だ。それでいて、別れる間際の駆け引きをする男女の会話が、リアリティーを持って、だらだらぐだぐだとスクリーンからあふれてくる。一連のやりとりは本作の白眉(はくび)だ。木竜は「カメラがあったことを覚えていない」と言い、藤原も「存在すら全く忘れていた。そんな状態になるのはめったにない」と語った。
「見る側も集中力がいる作品」と藤原が言えば、「演じる側の私も集中力が必要だった」と木竜。藤原は撮影を振り返って「青春ができる職業って最高です」と満足げに言い放った。ただ、今回は「役に入り込んでいいのは木竜さんで、僕は客観的にシーンを見ていることがあった。僕は入り込む役割ではない。意識的に半分は役に入り込んで、半分は冷静だった」。
木竜が反応する。「藤原さんは今まで共演したことのない(タイプの)役者さん。冷静さや距離感に、こっちが引いてしまうことがない。芝居の流れに乗っかっているのは、絶えず感じられる。初めて共演させてもらって体感した」。「ほめ言葉です」とにやり。
藤原が呼応する。「ラストの優実がご飯を食べているシーンとか、木竜さんは繊細さと強さを併せ持っている。優実が生きていこうとする姿がきっちり映っていた。これまでの作品もすごかったけど、今回さらにすごい。稀有(けう)な女優さんだ」
東京・新宿武蔵野館ほかで公開。
仙乐记
昔者,舜作五弦之琴,以歌南风,夔始制乐,以赏诸侯。上下共相弥纶,燮和万邦。闻古乐之声,雅颂啴烨,玉润含珠。虽未足观,联藻于经史子集,环接蟠书。故礼乐争辉,辞藻竞骛于茂俗。鸣条之声,存心养性,遂交彩于风云。逸民之乐,众口留音,至世远所重,蜚然道存也。
古所谓形而在上者为道,此万象神明之智。音律之形,悠悠然乘气而生,以目而视不得物。布衣之人未尝有言乐者,然彼行乎江海,疾徐次第均舍存乎人也。此言若何?余久居陋巷,偏安一隅,然每至未时,有韶音徐徐至,初识如立栋宇,威而仁,气混溟。承洪律演其广,怀刚柔度远古,德洋洋兮,维大教毕出。厥蒸蒸兮,洒嶽誓不崩。貌庄其言,柔惠似直,吾不知鼎为何,然类此也。
未几,悠扬如起凤之姿,环环而欲附焉。翱翔似弥近弥淡,缥缈而隐中待发,若吉祥复来,情志已开,无语广寓此极状。天地广柔,固无端也。于是乎,斜欹榻侧,昏昏然尽味深,凭情以会通,角羽声下,和韵相从,宫商弦外,易辞而逐。玲玲如振玉聩耳,余声悠扬,殊为此兴,续作合体之态。
昔穆公之女,凤凰台上,吹笙引龙。清霜紫盈,独留遗芳,弄玉之声,若长风之过籁。吾以为比,往蹇来硕,啸嗷乎向天。抟扶摇于九霄兮,行华露之滋;逐九章以随身兮,奋百代而来追;寻誉以待雕龙兮,笔握而驰响;载灵均之余影兮,鼎尧德之芬芳;吐经纬润五常兮,变难而得体让;请王命于辨序兮,勇而振其气纲;噫夫,颂论丽文,纵横无体态也,以音律文,执琴瑟之美哉。如是耶,恟而退,泱泱乎,身忘形。或曰,嵇康肆心,阮籍使气,两者殊而不同,心气异翮而同飞也。
至末,但识此音处乃庠序,难辨笙箫。笃信天籁之音施于太清之门,教乐同源,此乃天理,胡不为同乐哉!遂书此章,以致斯文。
译:过去,舜帝做出了五根弦的琴,于是作了诗歌南风一篇词,乐官夔就开始谱乐曲,用它们来赏赐诸侯。帝臣上下共同贯通经纬以此来调协和治理万邦,听说古乐的声音既雅致且赞扬的婉转和缓又明亮,像珠玉含在嘴里。我虽没能够顿足观看过,看到美丽的文辞写进了经史子集中,环环套进了古书里。所以礼和乐争相辉映着,那美丽的文辞也驰聘在了广大的世俗大地上。那风吹过树条的声音存在人的心里养在了人的性情之中。于是广大的民风里有了人民的快乐,众人口口相传,至现在已经重重很多代了,也飞进了明亮的道里存在着。
古人所说的形状在天上的就谓道,此是万物万象的神明之智啊,音律的形状悠悠然像乘着气往上升的样子,以眼睛看是看不见东西的。我这个穷光蛋从来没有人给我说过音律这个事,然而它行走在江海之上,不紧不慢依次的大方存在于每个人的身边。这话像怎么说呢?我长期居住在简陋巷子里偏安一隅。然而每到下午近二时左右就有古代的乐音徐徐而来了。初听的时候像看见一栋大房子,威严而肃穆,昏暗的气混沌的模样。支撑着洪大的音律演其广阔,怀着刚柔相济的态度飘过远古。美德洋洋洒洒啊,维系着大教化一同出现了。其蒸蒸往上啊,向洒向山顶的誓言屹立不倒。外貌显得庄重,性格柔惠而直,我不知道鼎是什么样子,然而它就像鼎了。
过一会儿悠扬的声音像凤凰开始起舞了,那姿势一环环的像要附在你的身上,翱翔时一会远一会近。缥缈之中若隐若现正时刻准备着,此时人也觉得吉祥重新回到了身边,心中的情志也已打开,无法用语言去比喻这种极限的状态,像天地般广大柔顺,所以没有开始也没有结束。于是呢,我斜倚靠着床的一侧,头昏昏的尽情去体会这种感觉,凭着情感和它勾通,听着角羽的音质和着韵跟它走,闻着宫商的弦外音,换着文辞去追逐它。玲珑的声音像珠玉在振动馈赠到耳朵里,徐徐的乐曲悠扬特别让人感到兴奋,于是和它成为了一体。
过去秦穆公的女儿,在凤凰台上吹笙引来了龙,泛着清霜的月光紫气萦绕,在那里留下了传说。弄玉吹笙像长风抚过大地的乐器声。我以这事作为比喻,往坚难处来取硕果,呼啸冲上天空。旋转着直上九霄啊,用光辉的雨露来滋润大地。追逐着楚辞里的九章以备身啊,奋起百代的时光来追赶。寻找美好的声誉在内心刻着龙啊,握着笔而急驰的响。载着屈原的身影啊,顶着尧帝的德辉光芒万丈。吐着经纬洒向五常去啊(仁义礼智信),把困难变成得体顺当。请王命来分辨这个顺序啊,勇敢的振起那些常纲。唉呀,赞扬议论这些美丽的文章,我的身体都失去正常的体态了,以音律去写文章像琴瑟和谐般美好啊。如此了,嘈杂纷乱开始退下去,多么广大的气势让人都忘了形。可能是嵇康释放了他的心,阮籍使用了他的气,两样很特别又不同味,心气虽异但翅膀却是一起飞了起来。
到最后意识到这个声音是从学校里飘出来的,很难分的清是笙还是箫。坚定的相信这天籁之音也会飞到道的门槛里,音乐和教书是同源的,这是天理,为什么不一起高兴呢?于是写下这篇文章,送给那些斯文的人吧。
昔者,舜作五弦之琴,以歌南风,夔始制乐,以赏诸侯。上下共相弥纶,燮和万邦。闻古乐之声,雅颂啴烨,玉润含珠。虽未足观,联藻于经史子集,环接蟠书。故礼乐争辉,辞藻竞骛于茂俗。鸣条之声,存心养性,遂交彩于风云。逸民之乐,众口留音,至世远所重,蜚然道存也。
古所谓形而在上者为道,此万象神明之智。音律之形,悠悠然乘气而生,以目而视不得物。布衣之人未尝有言乐者,然彼行乎江海,疾徐次第均舍存乎人也。此言若何?余久居陋巷,偏安一隅,然每至未时,有韶音徐徐至,初识如立栋宇,威而仁,气混溟。承洪律演其广,怀刚柔度远古,德洋洋兮,维大教毕出。厥蒸蒸兮,洒嶽誓不崩。貌庄其言,柔惠似直,吾不知鼎为何,然类此也。
未几,悠扬如起凤之姿,环环而欲附焉。翱翔似弥近弥淡,缥缈而隐中待发,若吉祥复来,情志已开,无语广寓此极状。天地广柔,固无端也。于是乎,斜欹榻侧,昏昏然尽味深,凭情以会通,角羽声下,和韵相从,宫商弦外,易辞而逐。玲玲如振玉聩耳,余声悠扬,殊为此兴,续作合体之态。
昔穆公之女,凤凰台上,吹笙引龙。清霜紫盈,独留遗芳,弄玉之声,若长风之过籁。吾以为比,往蹇来硕,啸嗷乎向天。抟扶摇于九霄兮,行华露之滋;逐九章以随身兮,奋百代而来追;寻誉以待雕龙兮,笔握而驰响;载灵均之余影兮,鼎尧德之芬芳;吐经纬润五常兮,变难而得体让;请王命于辨序兮,勇而振其气纲;噫夫,颂论丽文,纵横无体态也,以音律文,执琴瑟之美哉。如是耶,恟而退,泱泱乎,身忘形。或曰,嵇康肆心,阮籍使气,两者殊而不同,心气异翮而同飞也。
至末,但识此音处乃庠序,难辨笙箫。笃信天籁之音施于太清之门,教乐同源,此乃天理,胡不为同乐哉!遂书此章,以致斯文。
译:过去,舜帝做出了五根弦的琴,于是作了诗歌南风一篇词,乐官夔就开始谱乐曲,用它们来赏赐诸侯。帝臣上下共同贯通经纬以此来调协和治理万邦,听说古乐的声音既雅致且赞扬的婉转和缓又明亮,像珠玉含在嘴里。我虽没能够顿足观看过,看到美丽的文辞写进了经史子集中,环环套进了古书里。所以礼和乐争相辉映着,那美丽的文辞也驰聘在了广大的世俗大地上。那风吹过树条的声音存在人的心里养在了人的性情之中。于是广大的民风里有了人民的快乐,众人口口相传,至现在已经重重很多代了,也飞进了明亮的道里存在着。
古人所说的形状在天上的就谓道,此是万物万象的神明之智啊,音律的形状悠悠然像乘着气往上升的样子,以眼睛看是看不见东西的。我这个穷光蛋从来没有人给我说过音律这个事,然而它行走在江海之上,不紧不慢依次的大方存在于每个人的身边。这话像怎么说呢?我长期居住在简陋巷子里偏安一隅。然而每到下午近二时左右就有古代的乐音徐徐而来了。初听的时候像看见一栋大房子,威严而肃穆,昏暗的气混沌的模样。支撑着洪大的音律演其广阔,怀着刚柔相济的态度飘过远古。美德洋洋洒洒啊,维系着大教化一同出现了。其蒸蒸往上啊,向洒向山顶的誓言屹立不倒。外貌显得庄重,性格柔惠而直,我不知道鼎是什么样子,然而它就像鼎了。
过一会儿悠扬的声音像凤凰开始起舞了,那姿势一环环的像要附在你的身上,翱翔时一会远一会近。缥缈之中若隐若现正时刻准备着,此时人也觉得吉祥重新回到了身边,心中的情志也已打开,无法用语言去比喻这种极限的状态,像天地般广大柔顺,所以没有开始也没有结束。于是呢,我斜倚靠着床的一侧,头昏昏的尽情去体会这种感觉,凭着情感和它勾通,听着角羽的音质和着韵跟它走,闻着宫商的弦外音,换着文辞去追逐它。玲珑的声音像珠玉在振动馈赠到耳朵里,徐徐的乐曲悠扬特别让人感到兴奋,于是和它成为了一体。
过去秦穆公的女儿,在凤凰台上吹笙引来了龙,泛着清霜的月光紫气萦绕,在那里留下了传说。弄玉吹笙像长风抚过大地的乐器声。我以这事作为比喻,往坚难处来取硕果,呼啸冲上天空。旋转着直上九霄啊,用光辉的雨露来滋润大地。追逐着楚辞里的九章以备身啊,奋起百代的时光来追赶。寻找美好的声誉在内心刻着龙啊,握着笔而急驰的响。载着屈原的身影啊,顶着尧帝的德辉光芒万丈。吐着经纬洒向五常去啊(仁义礼智信),把困难变成得体顺当。请王命来分辨这个顺序啊,勇敢的振起那些常纲。唉呀,赞扬议论这些美丽的文章,我的身体都失去正常的体态了,以音律去写文章像琴瑟和谐般美好啊。如此了,嘈杂纷乱开始退下去,多么广大的气势让人都忘了形。可能是嵇康释放了他的心,阮籍使用了他的气,两样很特别又不同味,心气虽异但翅膀却是一起飞了起来。
到最后意识到这个声音是从学校里飘出来的,很难分的清是笙还是箫。坚定的相信这天籁之音也会飞到道的门槛里,音乐和教书是同源的,这是天理,为什么不一起高兴呢?于是写下这篇文章,送给那些斯文的人吧。
题摄影大师葛加林
捕影追光已是痴,
山山水水寄情思。
骑行万里名声壮,
跋涉一生尘世奇。
藏寨为家交契友,
珠峰入梦醉仙姿。
与君唔对常忘老,
凛凛雄风足可诗。
注:葛加林,著名冒险摄影家,曾为上世纪80年代“神州万里行”摩托车摄影釆风队队长。为珠峰、贡嘠、九寨沟等高原地区创作的摄影作品多次获国内外大奖。
捕影追光已是痴,
山山水水寄情思。
骑行万里名声壮,
跋涉一生尘世奇。
藏寨为家交契友,
珠峰入梦醉仙姿。
与君唔对常忘老,
凛凛雄风足可诗。
注:葛加林,著名冒险摄影家,曾为上世纪80年代“神州万里行”摩托车摄影釆风队队长。为珠峰、贡嘠、九寨沟等高原地区创作的摄影作品多次获国内外大奖。
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