【わたし達はおとな】
“自分”の範疇を超えていく――木竜麻生&藤原季節に訪れた、カメラの存在を完全に忘れた瞬間
――本作には、どのような経緯で参加することになったのでしょうか? 木竜さんは、加藤監督とは初タッグとなりました。
木竜:送られてきた脚本を読ませていただき、すぐにマネージャーさんと話したんです。「(脚本が)面白い。この作品はやろう」と。脚本は、最初から最後まで面白いと、純粋に感じましたし「2人(=優実と直哉)の事を見てみたい」と思いました。
――藤原さんは、加藤監督が演出した舞台「まゆをひそめて、僕を笑って」(2017)、「貴方なら生き残れるわ」(18)、「誰にも知られず死ぬ朝」(20)、「ぽに」(21)に出演されていますよね。
藤原:加藤さんとは付き合いが長いですね。「わたし達はおとな」に関しては、舞台の本番と重なっていて、元々出演することができなかったんです。「主人公は木竜さんに決まった」と加藤さんから報告を受けて「おめでとうございます。あとは相手役だけですね」と励ます立場だったんですが……参加するはずだった舞台が、コロナの影響で中止になったんです。それで加藤さんから声をかけていただき、すぐに脚本を読みました。
――どのように感じられましたか?
藤原:直哉を演じられるのは「僕しかいないな」と思いましたね(笑)。
一同:爆笑
藤原:脚本が本当に面白かった。「『面白い』。しかし、こんなことを言ってしまってもいいのだろうか」と感じる面白さがありましたね。二つ返事で出演が決まりました。
――では、クランクイン前に準備をしていたことはありますか?
藤原:加藤さんがリハーサルの機会を用意してくれて、何度も何度も繰り返していました。本作はラストに向かって、優実と積み上げていくものが必要になります。それには、役を演じる本人同士のコミュニケーションも大切です。なので、リハーサルの最中には、木竜さんと頻繁にコミュニケーションをとっていました。そういう時間は、加藤さんが用意してくれたんです。
木竜:今回の現場には、加藤監督と普段から仕事をしている方々が何人もいらっしゃったんです。リハーサルでは、共通言語を作る時間もとっていただけましたし、皆さんの作る“空気”に巻き込んでもらいながらセッションさせていただいた、という感じでした。
藤原:このリハーサルには、カメラも入っていたんです。まずは芝居の中で、僕たちが動きを作っていく。その後“カメラを何処に置けば、必要最低限のカットで、優実の表情の変化を撮れるのか”という点を、加藤さんたちが計算しながら探っていく。その一方で、僕らは芝居の精度を高める。スタッフと俳優のリハーサルが同時に行われているような感じだったんです。
――このリハーサルは、かなり重要な機会だったんですね。ちなみに、おふたりは初共演ですよね?
木竜:はい。でも、共通の友達がいるので、お互いの事を知ってはいたんです。
――“顔見知り”ではあったわけですね。では、今回の共演を通じて感じた「俳優・藤原季節」について教えていただけますか?
木竜:お芝居をすることに対して、何よりもまっすぐで強い。そんな印象を受けました。こんなにも芝居に対して夢中になれるのか……そんな風に感じてしまう方です。それは今回、実際に共演してみて強く思ったこと。「私も頑張らないと」「負けたくないな」という思いと、「でも、敵わないんだろうな」という考えが同時によぎってしまう俳優さんだと思っています。
――藤原さんは、いかがでしょうか?
藤原:木竜さんの出演作はほとんど見ています。ガラスのハートのように繊細なものを持ちながらも、それを突き抜ける“俳優としての強度”があるんです。同世代だと他に例がない。そうでなければ「菊とギロチン」のヒロインなんてできませんよ。
木竜:この事、いつも言ってくれるんですよ(笑)。
藤原:いやいや、誰にでもできる事じゃないから。“強度のある俳優”だということは、周知の事実だと思っています。
――では、加藤監督とのやりとりに話を転じましょう。木竜さんは、どのような対話を経て、優実の人物像を作り上げていきましたか?
木竜:リハーサルの最初から最後まで言われていたのは「今回は、どれだけ隠せるかが大切」ということです。心の中で思っている事、感情の動き、言いたい事、言えない事、言いたくはない事……これらをどれだけ隠せるのか。現場では、それらについて「出過ぎかな」「もう少しだけ出そう」と微調整を行ってもらったり、丁寧に強弱をつけていただいていました。もうひとつ言われていたのは「今回は暮らしを撮る。生活のある映画になる」ということ。この指針は、自分の中に持ち続けていたと思います。
――藤原さんは、前述の通り、加藤監督とは何度もご一緒されていますよね。加藤監督の魅力は、どのような点に表れていると思いますか?
藤原:“変化し続ける男”といえばいいんでしょうか……作品のカラーが、毎回異なる。そこがすごいですよね。でも、共通していることもあります。「善、悪」「好き、嫌い」「付き合う、付き合わない」「結婚する、結婚しない」という形では白黒がつけられない、“名前がつく前の曖昧な部分”を表現し続けているんだなと思っています。
――「映画の現場」だからこそ感じられた面白みはありましたか?
藤原:ワンカット・長回しを多用しているので、そういう意味では演劇に近いんです。演劇は“再現”をしないといけないので「感情をどこで出すか」という点は、稽古の時点で決まっていきます。「わたし達はおとな」のラストシーンは、ワンカット1発勝負をかけたところなんです。舞台上での“ライブ感”をそのまま生かした、たった1回のチャンス。俳優から何が出てくるのかは、誰もわからない。ここで感じた緊張感というのは、演劇の時よりも上だったかもしれません。どんなに良い芝居が撮れたとしても、例えば救急車の音が入ってしまったら、NGになってしまいますから。木竜さんの演技を見ているうちに「このワンカットで決まる。これは最後までいかないと、撮り直しがきかない」と感じたんです。だからこそ、ラストシーンは“目撃”してほしいんです。
――木竜さんの芝居を見て「ワンカットで決まる」と感じられた。それは、どのようなタイミングだったのでしょうか?
藤原:「わたし達はおとな」は、優実の物語なんです。優実が目的地まで運ばれるために、直哉と加藤さんという存在がいる。僕たちはラストシーンに勝負をかけていましたが、最後に戦うのは木竜さんひとり。最終的には、サポートできる部分が無くなっていくんです。カメラが回ってしまえば、任せるしかない。その時、木竜さんがしっかりと自分の足で立ち、優実になりきっている姿を見ました。それは木竜さんの範疇を超えているというか……。僕が演じている直哉も、僕の範疇から抜け出していく。次第に、優実と直哉の物語になる。木竜さんと僕はどこかに行ってしまった――そういう瞬間が、本番中にあったんです。
木竜:仰っていることが、とてもよくわかります。時間の感覚がない感じというか……。時間が止まっているわけでもなく、進んでいるわけでもないんです。
藤原:カメラの存在を、完全に忘れていますから。
木竜:そう、忘れていました! 映像を見返してみると、信じられない間(ま)ができていたり。でも、そんな間(ま)を作ろうという意識はなかったんです。初号試写を見た時に感じたのですが、自分の知らない声や顔がたくさんありました。(全編に)そういう自分がちらばっていて、少し変な感じだったんです。物語の後半になればなるほど、優実は直哉に思いの丈をぶつけていきます。藤原さんには、それを全部受け止めてもらいましたし、加藤組の皆さんの“芝居中の見守り方”も素晴らしかったんです。委ねることができた自分が、そこにいた――そう思えたのは、とても幸せな事でした。
藤原:芝居をする上では、全てが整っていた現場だったと思います。穏やかで、完璧でした。
――では、最後の質問とさせていただきます。「わたし達はおとな」というタイトルは“ヤングアダルトの時期”の象徴として付けられています。このタイトルは、改めて「おとな(=大人)」について考えるきっかけになりました。「おとなは『私はおとなだ』とは言わないのかもしれない」「『自分はおとなだ』と発言しなくなった頃から、本当の意味でおとなになるのではないか……?」等々。お二人にとって“おとなになる”とは、どういうことだと思いますか?
藤原:「おとな」と「こども」。自分の中には、その両方が存在しているんです。「おとな」の部分は、自分自身のことで悩まなくなったこと。僕はそんな「おとな」を嫌っていたんです。でも、そうやって嫌っていた存在に、きちんとなりつつある。それと同時に、自分はまだまだ「こども」なんだろうなと思うこともある。具体例を出すとなると、すぐには思いつきませんが……。役者という職業は、結局、現実逃避の延長線上にあると思っているんです。これしかできないという時点で、永遠に「こども」のままなのかもしれない。この感覚を失ってしまうと、ただのふざけた「おとな」になってしまうんです。映画に対する憧れ、純粋な気持ちを失うと、毎回毎回同じような芝居を繰り返し、それで満足するようになってしまう。それは全く“楽しくない”こと。表現というものには、きちんと向き合っていきたいんです。
木竜:わかりやすい点でいうと、頼る人の数が減ったのかなと思います。以前までは、幅広い関係性の中で甘えたり、頼ったりしていたと思うんです。でも、自分でしっかりと考えて、頼ってもいいと思える人を選択するようになりました。この変化が「おとな」になったのかなと思うんです。でも、誰かに頼ったり、甘えたりする自分を許容している部分は、まだまだ「こども」だなと思います。藤原さんが仰った「自分のことで悩まない」という点、私は「おとな」だなと感じました。私は、どうしても自分にベクトルが向きやすいタイプなので……。自分自身の「こども」の部分、そこもそうなのかなと思いました。
“自分”の範疇を超えていく――木竜麻生&藤原季節に訪れた、カメラの存在を完全に忘れた瞬間
――本作には、どのような経緯で参加することになったのでしょうか? 木竜さんは、加藤監督とは初タッグとなりました。
木竜:送られてきた脚本を読ませていただき、すぐにマネージャーさんと話したんです。「(脚本が)面白い。この作品はやろう」と。脚本は、最初から最後まで面白いと、純粋に感じましたし「2人(=優実と直哉)の事を見てみたい」と思いました。
――藤原さんは、加藤監督が演出した舞台「まゆをひそめて、僕を笑って」(2017)、「貴方なら生き残れるわ」(18)、「誰にも知られず死ぬ朝」(20)、「ぽに」(21)に出演されていますよね。
藤原:加藤さんとは付き合いが長いですね。「わたし達はおとな」に関しては、舞台の本番と重なっていて、元々出演することができなかったんです。「主人公は木竜さんに決まった」と加藤さんから報告を受けて「おめでとうございます。あとは相手役だけですね」と励ます立場だったんですが……参加するはずだった舞台が、コロナの影響で中止になったんです。それで加藤さんから声をかけていただき、すぐに脚本を読みました。
――どのように感じられましたか?
藤原:直哉を演じられるのは「僕しかいないな」と思いましたね(笑)。
一同:爆笑
藤原:脚本が本当に面白かった。「『面白い』。しかし、こんなことを言ってしまってもいいのだろうか」と感じる面白さがありましたね。二つ返事で出演が決まりました。
――では、クランクイン前に準備をしていたことはありますか?
藤原:加藤さんがリハーサルの機会を用意してくれて、何度も何度も繰り返していました。本作はラストに向かって、優実と積み上げていくものが必要になります。それには、役を演じる本人同士のコミュニケーションも大切です。なので、リハーサルの最中には、木竜さんと頻繁にコミュニケーションをとっていました。そういう時間は、加藤さんが用意してくれたんです。
木竜:今回の現場には、加藤監督と普段から仕事をしている方々が何人もいらっしゃったんです。リハーサルでは、共通言語を作る時間もとっていただけましたし、皆さんの作る“空気”に巻き込んでもらいながらセッションさせていただいた、という感じでした。
藤原:このリハーサルには、カメラも入っていたんです。まずは芝居の中で、僕たちが動きを作っていく。その後“カメラを何処に置けば、必要最低限のカットで、優実の表情の変化を撮れるのか”という点を、加藤さんたちが計算しながら探っていく。その一方で、僕らは芝居の精度を高める。スタッフと俳優のリハーサルが同時に行われているような感じだったんです。
――このリハーサルは、かなり重要な機会だったんですね。ちなみに、おふたりは初共演ですよね?
木竜:はい。でも、共通の友達がいるので、お互いの事を知ってはいたんです。
――“顔見知り”ではあったわけですね。では、今回の共演を通じて感じた「俳優・藤原季節」について教えていただけますか?
木竜:お芝居をすることに対して、何よりもまっすぐで強い。そんな印象を受けました。こんなにも芝居に対して夢中になれるのか……そんな風に感じてしまう方です。それは今回、実際に共演してみて強く思ったこと。「私も頑張らないと」「負けたくないな」という思いと、「でも、敵わないんだろうな」という考えが同時によぎってしまう俳優さんだと思っています。
――藤原さんは、いかがでしょうか?
藤原:木竜さんの出演作はほとんど見ています。ガラスのハートのように繊細なものを持ちながらも、それを突き抜ける“俳優としての強度”があるんです。同世代だと他に例がない。そうでなければ「菊とギロチン」のヒロインなんてできませんよ。
木竜:この事、いつも言ってくれるんですよ(笑)。
藤原:いやいや、誰にでもできる事じゃないから。“強度のある俳優”だということは、周知の事実だと思っています。
――では、加藤監督とのやりとりに話を転じましょう。木竜さんは、どのような対話を経て、優実の人物像を作り上げていきましたか?
木竜:リハーサルの最初から最後まで言われていたのは「今回は、どれだけ隠せるかが大切」ということです。心の中で思っている事、感情の動き、言いたい事、言えない事、言いたくはない事……これらをどれだけ隠せるのか。現場では、それらについて「出過ぎかな」「もう少しだけ出そう」と微調整を行ってもらったり、丁寧に強弱をつけていただいていました。もうひとつ言われていたのは「今回は暮らしを撮る。生活のある映画になる」ということ。この指針は、自分の中に持ち続けていたと思います。
――藤原さんは、前述の通り、加藤監督とは何度もご一緒されていますよね。加藤監督の魅力は、どのような点に表れていると思いますか?
藤原:“変化し続ける男”といえばいいんでしょうか……作品のカラーが、毎回異なる。そこがすごいですよね。でも、共通していることもあります。「善、悪」「好き、嫌い」「付き合う、付き合わない」「結婚する、結婚しない」という形では白黒がつけられない、“名前がつく前の曖昧な部分”を表現し続けているんだなと思っています。
――「映画の現場」だからこそ感じられた面白みはありましたか?
藤原:ワンカット・長回しを多用しているので、そういう意味では演劇に近いんです。演劇は“再現”をしないといけないので「感情をどこで出すか」という点は、稽古の時点で決まっていきます。「わたし達はおとな」のラストシーンは、ワンカット1発勝負をかけたところなんです。舞台上での“ライブ感”をそのまま生かした、たった1回のチャンス。俳優から何が出てくるのかは、誰もわからない。ここで感じた緊張感というのは、演劇の時よりも上だったかもしれません。どんなに良い芝居が撮れたとしても、例えば救急車の音が入ってしまったら、NGになってしまいますから。木竜さんの演技を見ているうちに「このワンカットで決まる。これは最後までいかないと、撮り直しがきかない」と感じたんです。だからこそ、ラストシーンは“目撃”してほしいんです。
――木竜さんの芝居を見て「ワンカットで決まる」と感じられた。それは、どのようなタイミングだったのでしょうか?
藤原:「わたし達はおとな」は、優実の物語なんです。優実が目的地まで運ばれるために、直哉と加藤さんという存在がいる。僕たちはラストシーンに勝負をかけていましたが、最後に戦うのは木竜さんひとり。最終的には、サポートできる部分が無くなっていくんです。カメラが回ってしまえば、任せるしかない。その時、木竜さんがしっかりと自分の足で立ち、優実になりきっている姿を見ました。それは木竜さんの範疇を超えているというか……。僕が演じている直哉も、僕の範疇から抜け出していく。次第に、優実と直哉の物語になる。木竜さんと僕はどこかに行ってしまった――そういう瞬間が、本番中にあったんです。
木竜:仰っていることが、とてもよくわかります。時間の感覚がない感じというか……。時間が止まっているわけでもなく、進んでいるわけでもないんです。
藤原:カメラの存在を、完全に忘れていますから。
木竜:そう、忘れていました! 映像を見返してみると、信じられない間(ま)ができていたり。でも、そんな間(ま)を作ろうという意識はなかったんです。初号試写を見た時に感じたのですが、自分の知らない声や顔がたくさんありました。(全編に)そういう自分がちらばっていて、少し変な感じだったんです。物語の後半になればなるほど、優実は直哉に思いの丈をぶつけていきます。藤原さんには、それを全部受け止めてもらいましたし、加藤組の皆さんの“芝居中の見守り方”も素晴らしかったんです。委ねることができた自分が、そこにいた――そう思えたのは、とても幸せな事でした。
藤原:芝居をする上では、全てが整っていた現場だったと思います。穏やかで、完璧でした。
――では、最後の質問とさせていただきます。「わたし達はおとな」というタイトルは“ヤングアダルトの時期”の象徴として付けられています。このタイトルは、改めて「おとな(=大人)」について考えるきっかけになりました。「おとなは『私はおとなだ』とは言わないのかもしれない」「『自分はおとなだ』と発言しなくなった頃から、本当の意味でおとなになるのではないか……?」等々。お二人にとって“おとなになる”とは、どういうことだと思いますか?
藤原:「おとな」と「こども」。自分の中には、その両方が存在しているんです。「おとな」の部分は、自分自身のことで悩まなくなったこと。僕はそんな「おとな」を嫌っていたんです。でも、そうやって嫌っていた存在に、きちんとなりつつある。それと同時に、自分はまだまだ「こども」なんだろうなと思うこともある。具体例を出すとなると、すぐには思いつきませんが……。役者という職業は、結局、現実逃避の延長線上にあると思っているんです。これしかできないという時点で、永遠に「こども」のままなのかもしれない。この感覚を失ってしまうと、ただのふざけた「おとな」になってしまうんです。映画に対する憧れ、純粋な気持ちを失うと、毎回毎回同じような芝居を繰り返し、それで満足するようになってしまう。それは全く“楽しくない”こと。表現というものには、きちんと向き合っていきたいんです。
木竜:わかりやすい点でいうと、頼る人の数が減ったのかなと思います。以前までは、幅広い関係性の中で甘えたり、頼ったりしていたと思うんです。でも、自分でしっかりと考えて、頼ってもいいと思える人を選択するようになりました。この変化が「おとな」になったのかなと思うんです。でも、誰かに頼ったり、甘えたりする自分を許容している部分は、まだまだ「こども」だなと思います。藤原さんが仰った「自分のことで悩まない」という点、私は「おとな」だなと感じました。私は、どうしても自分にベクトルが向きやすいタイプなので……。自分自身の「こども」の部分、そこもそうなのかなと思いました。
凡世主之患,用兵者不量力,治草萊者不度地。故有地狹而民眾者,民勝其地;地廣而民少者,地勝其民。民勝其地者,務開;地勝其民者,事徠。開則行倍。民過地,則國功寡而兵力少;地過民,則山澤財物不為用。夫棄天物,遂民淫者,世主之務過也,而上下事之,故民眾而兵弱,地大而力小。故為國任地者,山陵居什一,藪澤居什一,谿谷流水居什一,都邑蹊道居什一,惡田居什二,良田居什四。此先王之正律也,故為國分田數小。畝五百,足待一役,此地不任也。方土百里,出戰卒萬人者,數小也。此其墾田足以食其民,都邑遂路足以處其民,山陵藪澤谿谷足以供其利,藪澤隄防足以畜。故兵出,糧給而財有餘;兵休,民作而畜長足。此所謂任地待役之律也。 今世主有地方數千里,食不足以待役實倉,而兵為鄰敵臣,故為世主患之。夫地大而不墾者,與無地者同;民眾而不用者,與無民者同。故為國之數,務在墾草;用兵之道,務在一賞。私利塞於外,則民務屬於農;屬於農則樸,樸則畏令。私賞禁於下,則民力摶於敵,摶於敵則勝。奚以知其然也?夫民之情,樸則生勞而易力,窮則生知而權利。易力則輕死而樂用,權利則畏罰而易苦。易苦則地力盡,樂用則兵力盡。 夫治國者能盡地力而致民死者,名與利交至。民之生,饑而求食,勞而求佚,苦則索樂,辱則求榮,此民之情也。民之求利,失禮之法;求名,失性之常。奚以論其然也?今夫盜賊上犯君上之所禁,下失臣子之禮,故名辱而身危,猶不止者,利也。其上世之士,衣不煖膚,食不滿腸,苦其志意,勞其四肢,傷其五臟,而益裕廣耳,非性之常,而為之者,名也。故曰名利之所湊,則民道之。
主操名利之柄,而能致功名者,數也。聖人審權以操柄,審數以使民。數者臣主之術,而國之要也。故萬乘失數而不危,臣主失術而不亂者,未之有也。今世主欲辟地治民而不審數,臣欲盡其事而不立術,故國有不服之民,主有不令之臣。故聖人之為國也,入令民以屬農,出令民以計戰。夫農民之所苦;而戰,民之所危也。犯其所苦,行其所危者,計也。故民生則計利,死則慮名。名利之所出,不可不審也。利出於地,則民盡力;名出於戰,則民致死。入使民盡力,則草不荒;出使民致死,則勝敵。勝敵而草不荒,富強之功,可坐而致也。
今則不然。世主之所以加務者,皆非國之急也。身有堯舜之行,而功不及湯武之略者,此執柄之罪也。臣請語其過。夫治國舍勢而任談說,則身勞而功寡。故事詩書談說之士,則民游而輕其上;事處上,則民遠而非其上;事勇士,則民競而輕其禁;技藝之士用則民剽而易徙;商賈之士佚且利,則民緣而議其上。故五民加於國用,則田荒而兵弱。談說之士,資在於口;處士,資在於意;勇士,資在於氣;技藝之士,資在於手;商賈之士,資在於身。故天下一宅,而圜身資民;資重於身,而偏託勢於外。挾重資,歸偏家,堯舜之所難也;故湯武禁之,則功立而名成。聖人非能以世之所易,勝其所難也;必以其所難,勝其所易。故民愚,則知可以勝之;世知,則力可以勝之。民愚,則易力而難巧;世巧,則易知而難力。故神農教耕而王天下,師其知也;湯武致彊而征諸侯,服其力也。今世巧而民淫,方倣湯武之時,而行神農之事,以隨世禁,故千乘惑亂。此其所加務者,過也。 民之性,度而取長,稱而取重,權而索利。明君慎觀三者,則國治可立,而民能可得。國之所以求民者少,而民之所以避求者多。入使民屬於農,出使民壹於戰。故聖人之治也,多禁以止能,任力以窮軸,兩者偏用則境內之民壹;民壹則農,農則樸,樸則安居而惡出。
故聖人之為國也,民資藏於地,而偏託危於外。資於地則樸,託危於外則惑。民入則樸,出則惑,故其農勉而戰戢也。民之農勉則資重,戰戢則鄰危。資重則不可負而逃,鄰危則不歸於無資。歸危外託,狂夫之所不為也。故聖人之為國也,觀俗立法則治,察國事本則宜。不觀時俗,不察國本,則其法立而民亂,事劇而功寡,此臣之所謂過也。 夫刑者所以禁邪也;而賞者,所以助禁也。羞辱勞苦者,民之所惡也;顯榮佚樂者,民之所務也。故其國刑不可惡而爵祿不足務也,此亡國之兆也。刑人復漏,則小人辟淫而不苦刑,則徼倖於民上。徼倖於民上以利求,顯榮之門不一,則君子事勢以成名。小人不避其禁,故刑煩;君子不設其令,則罰行。刑煩而罰行者,國多姦;國多姦則富者不能守其財,而貧者不能事其業,田荒而國貧。田荒則民軸生,國貧則上匱賞。故聖人之為治也,刑人無國位,戮人無官任。刑人有列,則君子下其位;戮人衣錦食肉,則小人冀其利。君子下其位,則羞功;小人冀其利,則伐姦。故刑戮者,所以止姦也;而官爵者,所以勸功也。今國立爵而民羞之,設刑而民樂之,此蓋法術之患也。
故君子操權一政以立術,立官貴爵以稱之,論勞舉功以任之,則是上下之稱平。上下之稱平,則臣得盡其力,而主得專其柄。 https://t.cn/RweqDD2
主操名利之柄,而能致功名者,數也。聖人審權以操柄,審數以使民。數者臣主之術,而國之要也。故萬乘失數而不危,臣主失術而不亂者,未之有也。今世主欲辟地治民而不審數,臣欲盡其事而不立術,故國有不服之民,主有不令之臣。故聖人之為國也,入令民以屬農,出令民以計戰。夫農民之所苦;而戰,民之所危也。犯其所苦,行其所危者,計也。故民生則計利,死則慮名。名利之所出,不可不審也。利出於地,則民盡力;名出於戰,則民致死。入使民盡力,則草不荒;出使民致死,則勝敵。勝敵而草不荒,富強之功,可坐而致也。
今則不然。世主之所以加務者,皆非國之急也。身有堯舜之行,而功不及湯武之略者,此執柄之罪也。臣請語其過。夫治國舍勢而任談說,則身勞而功寡。故事詩書談說之士,則民游而輕其上;事處上,則民遠而非其上;事勇士,則民競而輕其禁;技藝之士用則民剽而易徙;商賈之士佚且利,則民緣而議其上。故五民加於國用,則田荒而兵弱。談說之士,資在於口;處士,資在於意;勇士,資在於氣;技藝之士,資在於手;商賈之士,資在於身。故天下一宅,而圜身資民;資重於身,而偏託勢於外。挾重資,歸偏家,堯舜之所難也;故湯武禁之,則功立而名成。聖人非能以世之所易,勝其所難也;必以其所難,勝其所易。故民愚,則知可以勝之;世知,則力可以勝之。民愚,則易力而難巧;世巧,則易知而難力。故神農教耕而王天下,師其知也;湯武致彊而征諸侯,服其力也。今世巧而民淫,方倣湯武之時,而行神農之事,以隨世禁,故千乘惑亂。此其所加務者,過也。 民之性,度而取長,稱而取重,權而索利。明君慎觀三者,則國治可立,而民能可得。國之所以求民者少,而民之所以避求者多。入使民屬於農,出使民壹於戰。故聖人之治也,多禁以止能,任力以窮軸,兩者偏用則境內之民壹;民壹則農,農則樸,樸則安居而惡出。
故聖人之為國也,民資藏於地,而偏託危於外。資於地則樸,託危於外則惑。民入則樸,出則惑,故其農勉而戰戢也。民之農勉則資重,戰戢則鄰危。資重則不可負而逃,鄰危則不歸於無資。歸危外託,狂夫之所不為也。故聖人之為國也,觀俗立法則治,察國事本則宜。不觀時俗,不察國本,則其法立而民亂,事劇而功寡,此臣之所謂過也。 夫刑者所以禁邪也;而賞者,所以助禁也。羞辱勞苦者,民之所惡也;顯榮佚樂者,民之所務也。故其國刑不可惡而爵祿不足務也,此亡國之兆也。刑人復漏,則小人辟淫而不苦刑,則徼倖於民上。徼倖於民上以利求,顯榮之門不一,則君子事勢以成名。小人不避其禁,故刑煩;君子不設其令,則罰行。刑煩而罰行者,國多姦;國多姦則富者不能守其財,而貧者不能事其業,田荒而國貧。田荒則民軸生,國貧則上匱賞。故聖人之為治也,刑人無國位,戮人無官任。刑人有列,則君子下其位;戮人衣錦食肉,則小人冀其利。君子下其位,則羞功;小人冀其利,則伐姦。故刑戮者,所以止姦也;而官爵者,所以勸功也。今國立爵而民羞之,設刑而民樂之,此蓋法術之患也。
故君子操權一政以立術,立官貴爵以稱之,論勞舉功以任之,則是上下之稱平。上下之稱平,則臣得盡其力,而主得專其柄。 https://t.cn/RweqDD2
挑戦するということがどれだけ尊いか。
誰よりも最高になる方法をよく知ってるはずの貴方が選んだこの道を私は誇りに思う。
努力を、夢を見せてくれてありがとうございました。
これぞ羽生結弦。最高にかっこよかった。
今後のフィギュアスケート界に名を刻むに相応しい人だった。
本当にお疲れ様でした。
誰よりも最高になる方法をよく知ってるはずの貴方が選んだこの道を私は誇りに思う。
努力を、夢を見せてくれてありがとうございました。
これぞ羽生結弦。最高にかっこよかった。
今後のフィギュアスケート界に名を刻むに相応しい人だった。
本当にお疲れ様でした。
✋热门推荐