生きていられることが、今は幸せだと感じているーー堂本剛が、自分の歌で伝えたいこと(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
「自分で楽曲を作って歌うということ。それは自炊に近い。心も体もすごく楽なんです」
シンガー・ソングライターの活動を始めて20周年、堂本剛は今、もっとも自分らしい状態にあるという。“本当の自分で生きられる喜び”を表現したものが、自分の作る音楽。この思いと行動が誰かの人生の、自分らしさを取り戻す幸せへとつながればうれしい……多忙なアイドル時代を駆け抜け、自身も生きづらさを抱えたからこそ見えてきた境地がある。仕事への矜持、そして死生観。堂本剛を突き動かすものとは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
>インスタグラムの使い方を「間違いたい」
およそ1年前から堂本剛が始めたインスタグラムは、はなから不思議なものだった。ポートレートはほぼ同じアングルで、どんどん眉毛が濃くなっていき、最後には額全体がアイブロウで埋め尽くされる。コメントは一言、「どうもジャニーズです」。まるでモダンアートだ。何か強いメッセージ性を帯びているようにも見える。その後も眉毛写真の投稿は続き、ネット上ではさまざまな臆測が飛び交った。
これについて、本人はこともなげに語る。
「テーマは『インスタの使い方を間違いたい』でした。隙間時間で、他人の眉毛が太くなり、元に戻っていく写真を見るという無駄な時間をご提供することで、『笑い』『勇気』『なんでやねん』が発生すればいいなという、そんな発想です。無駄な時間って幸せだったりしませんか? 個人の日常を羅列するだけではなくて、こんな時代、笑ってほしくて、これ何? 説明して?ってみんなが困惑つっこみするようなものを軸にしました。インスタグラムを、宣伝の空間として使いつつ笑かしにかかっています。事務所の人たちがインスタをやりやすい環境にもつながればと思い、僕はこんな行動をしてみました。」
>「ジャニーズっぽくない」と言われて
「アーティスティック」「生活感がない」「不思議」「自由」……。
こうした堂本剛のイメージは、ジャニーズ事務所において相対的なものとして捉えられることが多い。堂本自身、それをよく理解していた。
「世の中に存在するイメージというものの多くは、第三者が作り上げているものじゃないですか? 僕はそんなことを言っていない、思っていないのに勝手にそうされてしまっている。その人の中では、『言いそう』で、『思ってそう』なんでしょうね。僕の周りにいる人は、僕を理解してくれています。理解するタイミングがない人は、丁寧に想像する前に疲れ、自分の情報の中だけで計算し決めつけた僕という答えを出して終わらせてしまうからか……導き出した答えと現実の僕、それが合わないから『~っぽくない』ということに自然となるんでしょうね」
かつて堂本は、「自由」ではなかった。
デビューしてすぐに大ブレーク。10代の頃は毎日3時間睡眠で、休日は年に3日。分刻みのスケジュールで動き、周囲の求めに応じて表情をつくった。しだいに堂本のメンタルには亀裂が入っていく。多忙な時期の記憶は、ほとんどが失われている。
故ジャニー喜多川の勧めでシンガー・ソングライターとなり、「自分らしく生きる選択」ができるようになったと実感した頃には、30代になっていた。
「最近でこそ、自分らしさが尊重される時代になってきましたけど、今でも自分らしく生きられない人、素直に生きる勇気や場所がない人たちがたくさんいます。世の中は自分らしく生きている人を批判するのではなく、『自分らしく生きる幸せ』を、みんなで優しい心を持って話すだけでいいのにな、と思うんです。優しい心で話しているうちに、人は本当の自分になれるものですから」
「ジャニーズらしさ」は、年々変わっていくもの。こだわることではない。一番大事なのは自分であり、それをファンの人たちにつなげること……堂本がジャニーズに所属し続ける理由は、ここにある。
「柔らかく穏やかに、そういう感覚で僕は生きているからこそ、『ジャニーズっぽくない』カテゴリーに入れられてしまうのかもしれないけど。全てを事務所の許可を得て生きて来ました。事務所に直談判に行くこともあります。たくさんの人を動かすことになるので、一筋縄ではいかないこともある。でも理由や展望を持って話しにいくので、何言ってんの?って弾かれてしまうことはないですね。クリアしていきたいと思っていることはまだまだありますけど。少しずつです。ジャニーズは積極的にSNSに参戦する会社ではなかったけど、それが時代とともに変わってきました。僕が変化してもせずとも、変化していく時代というものがあるので、その時代に反応と順応をしたいと、柔軟に動いているところです」
ジャニーズ事務所では特別な立場にあるように見える堂本だが、単に自由なのではない。それを獲得するために、試行錯誤を続けてきたプロセスがあるのだ。
>人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い
「自分で動く」。インタビューの間、堂本が何度も口にした言葉だ。
アイデアを形にするまでの動きはいつもスピーディーで、さらに二手、三手まで先を見ている。
「こんな世界状況の中でも、お金を出して作品を買ってくださる人がいる。僕が自分らしく仕事をしている姿を、家族や後輩君たちが見てくれている。そう考えたら、素直に動けます。人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い。例えば伝言ゲームで、中継ぎの人が先方に納期を伝える時間が遅れ、作業していただけたはずの時間が減り、締め切りを縮めたり、完成を遅らせてしまったりすることがある。そういう仕事の仕方をする人は多いから、疲れることがあります。作り手、職人の作品に対して必要な時間、作業工程などが、その立場でない人からすると想像してあげられないんでしょうね。だから、直接やりとりすることがほとんどです。相手の心を考えて動くことも、仕事ですから。毎日くたくたですけど」
それでも音楽を作ることは、この上なく楽しい。仕事のスピード感を大切にしているのも、生まれたばかりのアイディアを、新鮮なうちに楽曲として閉じ込めたいとの思いからだ。
「極端にいえば、今このインタビュー中でも曲がひらめいたら、PCを開いてキーボードで打ち込みたくなる、というくらい、アイデアの鮮度を大切にしています」
頭の中で鳴る音楽を可視化し、音符に換えていく。音色を探して、演奏し、形作っていく。予想外に生まれるノイズやバグが、ドラマチックな音につながることがある。
「こういう一連の作業は、生きているからこそできることで、魂になったら、想像を形にすることもできなくなるんです。だから音楽を作ることは、命あることに感謝することでもあるんです。ただ、作品が出来上がって、リリースをするまでには時間がずいぶんと経過するので、リリース時にはもう自分が違うステージに行っていることがほとんど。だから、きょう曲を作ったら1週間後ぐらいにリリースする、そんな時代がくればいいのになって、思ったりもします。メッセージを強く込めた作品は、時代が流れている分、タイミングもクリエーティブの一部なんです」
ラブソングよりも、命や愛を歌いたい。
これは自身が心に傷を負い、パニック障害や突発性難聴に苦しんだ経験から、強く意識するようになったことだ。
「世の中の人々が、理由を持ってたどり着いた傷とか痛みに寄り添う歌詞、メロディー。その役目を持つ楽曲にあの頃の僕は救われ、もう一度生きようという気持ちにまで立ち戻れました。だから自分が作る音楽も、そういう役目でありたい。ジャニーズっぽくないと言われてもいいんです。もっとラブソングのほうが売れるよとか、うん、わかってるけど、ジャニーズにもいろんな歌が存在していいし、自分で作る音楽に、自分ではない歌声を選択することは、しない。限界の中で命を諦めようとしている人を救える音楽を作りたいって、僕は本気で思っているんです。自分と同じ経験をしている人を思いながら書いています。そんな中で少し変わったことは、世界的な問題が起き、みんなが同じ傷や痛みを共有する今、ポジティブな曲を書くようにもなりました。これまで使ってこなかったような、明るい言葉を綴ったりしながら」
>シンガー・ソングライターを続けることは、ジャニーさんの思いを持続させること
10代は、毎日、命が苦しいと思って生きていた。
「いろんな人に助けていただいて、もう一度生きよう、そう思わせてもらえたから僕は生きているんです。その人たちがいなかったら、今この世に僕はいません。当時は変人扱いされたけれど、でも、人は、傷つけば死にたいと思ってしまうものです。そんな人が世の中にはたくさんいること、それをみんなで理解して生きるべきだと、僕は思う。生きたいのに、生きられない人もいるんですよ」
ジャニーズだから、命や愛をテーマにした重い歌を歌ってはいけない? それは違う、と堂本は首を振る。
「ポップな曲はたくさんの人の心を幸せにする。それも理解はしています。命と愛が重たいと言うのなら、人は重たい存在となってしまいます。僕らは愛の果てに生まれた命なのに。重たいと認識してしまうのは悲しいし不思議です。だから、人が理由あってたどり着いた涙や傷に寄り添った曲も、たくさんの人の心を幸せにすると、本気で僕は思っています。死にたいと思わされてしまった経験がない人からは理解されづらいんですけど。僕自身がそう思った過去が悲しくもありました。でも、生きていられることが、今は幸せだと感じていることを、歌を通してあの頃の自分にも、同じように過ごす人たちにも伝えたい。一人で音楽を作る時は、その心を生きたいと思うし、提供したいと思っています」
ジャニーズ事務所には、ほかに“シンガー・ソングライター”として立っている者はいない。
「ジャニーさんに声をかけてもらって、この会社に入り、またジャニーさんからの提案を受けてシンガー・ソングライターになった。形がないゼロの状態から始まり、1にすること。そして、1から2……10へとつなげていくのは生半可な思いでいたら不可能なことですからね」
「そして、いまだやっているのが僕だけだからそれはそれは大変なことも多いけど、ある程度の分かりきった答えに向かうのもつまらないし、続けてこられたのはそれを楽しんできているからです。続けることは、ジャニーさんの思いを持続させることにもなると思っています。今はジャニーズの中で、音楽家のエリアは大きくないですけど、ここを整理整頓する位置にいられたらいいなとは思ってます。後輩君たちにも歌いたい歌があるだろうし、一人ひとりの歌唱スキルを把握して、声の魅力を引き出してもあげたいし、そういうディレクションまでを、本当はやってあげたいですね」
才能のある人たちを、解き放ってあげたい。堂本はまっすぐにそう語った。
今年はシンガー・ソングライターとして、デビュー20周年。ENDRECHERIとして精力的に楽曲をリリース、夏フェスへの参加も決まった。GYAOでの新番組「つよしP」を始動し、ZOZOとのファッションデザインやLINE VOOMなど、さまざまな企画を展開する。
「『決めつけ』るのではなく、素直に発想を出すこと、変で、妙で、面白くて、独創的なモノをたくさん作り、それらをいろんなコンテンツを通して表現する一度きりの僕の人生でありたい。そして『本当の自分を生きることの幸せ』が伝染していくといいなと思っています。僕の心が、『決めつけ』で苦しんで生きている人たちの心に届いて、自分らしく生きてみようという笑顔を与えられたなら、とても幸せだなって思います」
「自分で楽曲を作って歌うということ。それは自炊に近い。心も体もすごく楽なんです」
シンガー・ソングライターの活動を始めて20周年、堂本剛は今、もっとも自分らしい状態にあるという。“本当の自分で生きられる喜び”を表現したものが、自分の作る音楽。この思いと行動が誰かの人生の、自分らしさを取り戻す幸せへとつながればうれしい……多忙なアイドル時代を駆け抜け、自身も生きづらさを抱えたからこそ見えてきた境地がある。仕事への矜持、そして死生観。堂本剛を突き動かすものとは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
>インスタグラムの使い方を「間違いたい」
およそ1年前から堂本剛が始めたインスタグラムは、はなから不思議なものだった。ポートレートはほぼ同じアングルで、どんどん眉毛が濃くなっていき、最後には額全体がアイブロウで埋め尽くされる。コメントは一言、「どうもジャニーズです」。まるでモダンアートだ。何か強いメッセージ性を帯びているようにも見える。その後も眉毛写真の投稿は続き、ネット上ではさまざまな臆測が飛び交った。
これについて、本人はこともなげに語る。
「テーマは『インスタの使い方を間違いたい』でした。隙間時間で、他人の眉毛が太くなり、元に戻っていく写真を見るという無駄な時間をご提供することで、『笑い』『勇気』『なんでやねん』が発生すればいいなという、そんな発想です。無駄な時間って幸せだったりしませんか? 個人の日常を羅列するだけではなくて、こんな時代、笑ってほしくて、これ何? 説明して?ってみんなが困惑つっこみするようなものを軸にしました。インスタグラムを、宣伝の空間として使いつつ笑かしにかかっています。事務所の人たちがインスタをやりやすい環境にもつながればと思い、僕はこんな行動をしてみました。」
>「ジャニーズっぽくない」と言われて
「アーティスティック」「生活感がない」「不思議」「自由」……。
こうした堂本剛のイメージは、ジャニーズ事務所において相対的なものとして捉えられることが多い。堂本自身、それをよく理解していた。
「世の中に存在するイメージというものの多くは、第三者が作り上げているものじゃないですか? 僕はそんなことを言っていない、思っていないのに勝手にそうされてしまっている。その人の中では、『言いそう』で、『思ってそう』なんでしょうね。僕の周りにいる人は、僕を理解してくれています。理解するタイミングがない人は、丁寧に想像する前に疲れ、自分の情報の中だけで計算し決めつけた僕という答えを出して終わらせてしまうからか……導き出した答えと現実の僕、それが合わないから『~っぽくない』ということに自然となるんでしょうね」
かつて堂本は、「自由」ではなかった。
デビューしてすぐに大ブレーク。10代の頃は毎日3時間睡眠で、休日は年に3日。分刻みのスケジュールで動き、周囲の求めに応じて表情をつくった。しだいに堂本のメンタルには亀裂が入っていく。多忙な時期の記憶は、ほとんどが失われている。
故ジャニー喜多川の勧めでシンガー・ソングライターとなり、「自分らしく生きる選択」ができるようになったと実感した頃には、30代になっていた。
「最近でこそ、自分らしさが尊重される時代になってきましたけど、今でも自分らしく生きられない人、素直に生きる勇気や場所がない人たちがたくさんいます。世の中は自分らしく生きている人を批判するのではなく、『自分らしく生きる幸せ』を、みんなで優しい心を持って話すだけでいいのにな、と思うんです。優しい心で話しているうちに、人は本当の自分になれるものですから」
「ジャニーズらしさ」は、年々変わっていくもの。こだわることではない。一番大事なのは自分であり、それをファンの人たちにつなげること……堂本がジャニーズに所属し続ける理由は、ここにある。
「柔らかく穏やかに、そういう感覚で僕は生きているからこそ、『ジャニーズっぽくない』カテゴリーに入れられてしまうのかもしれないけど。全てを事務所の許可を得て生きて来ました。事務所に直談判に行くこともあります。たくさんの人を動かすことになるので、一筋縄ではいかないこともある。でも理由や展望を持って話しにいくので、何言ってんの?って弾かれてしまうことはないですね。クリアしていきたいと思っていることはまだまだありますけど。少しずつです。ジャニーズは積極的にSNSに参戦する会社ではなかったけど、それが時代とともに変わってきました。僕が変化してもせずとも、変化していく時代というものがあるので、その時代に反応と順応をしたいと、柔軟に動いているところです」
ジャニーズ事務所では特別な立場にあるように見える堂本だが、単に自由なのではない。それを獲得するために、試行錯誤を続けてきたプロセスがあるのだ。
>人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い
「自分で動く」。インタビューの間、堂本が何度も口にした言葉だ。
アイデアを形にするまでの動きはいつもスピーディーで、さらに二手、三手まで先を見ている。
「こんな世界状況の中でも、お金を出して作品を買ってくださる人がいる。僕が自分らしく仕事をしている姿を、家族や後輩君たちが見てくれている。そう考えたら、素直に動けます。人任せにしていたら滞るし、自分で動いたほうが早い。例えば伝言ゲームで、中継ぎの人が先方に納期を伝える時間が遅れ、作業していただけたはずの時間が減り、締め切りを縮めたり、完成を遅らせてしまったりすることがある。そういう仕事の仕方をする人は多いから、疲れることがあります。作り手、職人の作品に対して必要な時間、作業工程などが、その立場でない人からすると想像してあげられないんでしょうね。だから、直接やりとりすることがほとんどです。相手の心を考えて動くことも、仕事ですから。毎日くたくたですけど」
それでも音楽を作ることは、この上なく楽しい。仕事のスピード感を大切にしているのも、生まれたばかりのアイディアを、新鮮なうちに楽曲として閉じ込めたいとの思いからだ。
「極端にいえば、今このインタビュー中でも曲がひらめいたら、PCを開いてキーボードで打ち込みたくなる、というくらい、アイデアの鮮度を大切にしています」
頭の中で鳴る音楽を可視化し、音符に換えていく。音色を探して、演奏し、形作っていく。予想外に生まれるノイズやバグが、ドラマチックな音につながることがある。
「こういう一連の作業は、生きているからこそできることで、魂になったら、想像を形にすることもできなくなるんです。だから音楽を作ることは、命あることに感謝することでもあるんです。ただ、作品が出来上がって、リリースをするまでには時間がずいぶんと経過するので、リリース時にはもう自分が違うステージに行っていることがほとんど。だから、きょう曲を作ったら1週間後ぐらいにリリースする、そんな時代がくればいいのになって、思ったりもします。メッセージを強く込めた作品は、時代が流れている分、タイミングもクリエーティブの一部なんです」
ラブソングよりも、命や愛を歌いたい。
これは自身が心に傷を負い、パニック障害や突発性難聴に苦しんだ経験から、強く意識するようになったことだ。
「世の中の人々が、理由を持ってたどり着いた傷とか痛みに寄り添う歌詞、メロディー。その役目を持つ楽曲にあの頃の僕は救われ、もう一度生きようという気持ちにまで立ち戻れました。だから自分が作る音楽も、そういう役目でありたい。ジャニーズっぽくないと言われてもいいんです。もっとラブソングのほうが売れるよとか、うん、わかってるけど、ジャニーズにもいろんな歌が存在していいし、自分で作る音楽に、自分ではない歌声を選択することは、しない。限界の中で命を諦めようとしている人を救える音楽を作りたいって、僕は本気で思っているんです。自分と同じ経験をしている人を思いながら書いています。そんな中で少し変わったことは、世界的な問題が起き、みんなが同じ傷や痛みを共有する今、ポジティブな曲を書くようにもなりました。これまで使ってこなかったような、明るい言葉を綴ったりしながら」
>シンガー・ソングライターを続けることは、ジャニーさんの思いを持続させること
10代は、毎日、命が苦しいと思って生きていた。
「いろんな人に助けていただいて、もう一度生きよう、そう思わせてもらえたから僕は生きているんです。その人たちがいなかったら、今この世に僕はいません。当時は変人扱いされたけれど、でも、人は、傷つけば死にたいと思ってしまうものです。そんな人が世の中にはたくさんいること、それをみんなで理解して生きるべきだと、僕は思う。生きたいのに、生きられない人もいるんですよ」
ジャニーズだから、命や愛をテーマにした重い歌を歌ってはいけない? それは違う、と堂本は首を振る。
「ポップな曲はたくさんの人の心を幸せにする。それも理解はしています。命と愛が重たいと言うのなら、人は重たい存在となってしまいます。僕らは愛の果てに生まれた命なのに。重たいと認識してしまうのは悲しいし不思議です。だから、人が理由あってたどり着いた涙や傷に寄り添った曲も、たくさんの人の心を幸せにすると、本気で僕は思っています。死にたいと思わされてしまった経験がない人からは理解されづらいんですけど。僕自身がそう思った過去が悲しくもありました。でも、生きていられることが、今は幸せだと感じていることを、歌を通してあの頃の自分にも、同じように過ごす人たちにも伝えたい。一人で音楽を作る時は、その心を生きたいと思うし、提供したいと思っています」
ジャニーズ事務所には、ほかに“シンガー・ソングライター”として立っている者はいない。
「ジャニーさんに声をかけてもらって、この会社に入り、またジャニーさんからの提案を受けてシンガー・ソングライターになった。形がないゼロの状態から始まり、1にすること。そして、1から2……10へとつなげていくのは生半可な思いでいたら不可能なことですからね」
「そして、いまだやっているのが僕だけだからそれはそれは大変なことも多いけど、ある程度の分かりきった答えに向かうのもつまらないし、続けてこられたのはそれを楽しんできているからです。続けることは、ジャニーさんの思いを持続させることにもなると思っています。今はジャニーズの中で、音楽家のエリアは大きくないですけど、ここを整理整頓する位置にいられたらいいなとは思ってます。後輩君たちにも歌いたい歌があるだろうし、一人ひとりの歌唱スキルを把握して、声の魅力を引き出してもあげたいし、そういうディレクションまでを、本当はやってあげたいですね」
才能のある人たちを、解き放ってあげたい。堂本はまっすぐにそう語った。
今年はシンガー・ソングライターとして、デビュー20周年。ENDRECHERIとして精力的に楽曲をリリース、夏フェスへの参加も決まった。GYAOでの新番組「つよしP」を始動し、ZOZOとのファッションデザインやLINE VOOMなど、さまざまな企画を展開する。
「『決めつけ』るのではなく、素直に発想を出すこと、変で、妙で、面白くて、独創的なモノをたくさん作り、それらをいろんなコンテンツを通して表現する一度きりの僕の人生でありたい。そして『本当の自分を生きることの幸せ』が伝染していくといいなと思っています。僕の心が、『決めつけ』で苦しんで生きている人たちの心に届いて、自分らしく生きてみようという笑顔を与えられたなら、とても幸せだなって思います」
#风华浊世M[超话]#
《姐姐》
看不到雪的冬天的乡镇。
我依然会拿着你送给我的那把陈旧了的木吉他。
轻轻的弹起小时候你教我的那首“大海阿故乡”。
当我想起,山背面那片浩瀚的海洋,你总是会问我,天跟海哪一个更蓝。
总是不经意间发现,在上小学的路上,兜里总少不了一块你送给我最爱的糖。记不清有多少次,你呆呆的站在村口等着我放学,而且每次手中都少不了一本书,那是我和你最爱读的[艾青诗选]。
有多少次,因我贪玩犯下的错误,而受到父母的责怪,你总第一时间把我的头紧紧的抱在你怀里,不厌其烦,温柔地安慰我。
我清楚的记得,你身上穿的那件花衬衣,总是舍不得换新的,用大人的压岁钱,集赞下来为我买了一件外套,总会说那件衣服有点大,说我还会长高,过一年就合适穿了。
你总爱拖着我的小手,穿越在车水马龙的集市,从东街走到西街,再从西街走到东街。
街边橱窗里总是飘过一阵一阵的香味,我知道你口袋里没钱买,三番五次的说这个不好吃,那个也不好吃。
那年你读六年级,我读四年级,虽然我们的教室相隔几十米,总能听到老师一次一次的表扬声,那是你起早贪黑背书的勤奋劲,你的奖状多的就连我们家的墙都挂不下了。
你喜欢唱歌,试着去买一本有谱的歌书,硬头皮去隔壁邻居那里借了两块钱 ,之后就跟爸爸说,买馒头给我吃了,为了我好,你编织了一句又一句善意的谎言。
刚上初中的那一段时间,你开始接触中庸、大学之类的书。总是把里面最好的挑给我背,直到我躺在长凳上慢慢的睡去,再去完成自己的作业。
我们家离镇上比较远,按道理说我们都是内宿生,但你却说我们家离学校很近,父母都在外面干活,你把父母给的生活费,通通用来买书,情愿每天走十几公里的路,回来陪我做作业,你自行车还不是很熟,颠颠簸簸的公路,几次把你摔得鼻青脸肿,硬要跟我说在学校体育课摔伤了。
哥哥考上县城一家最好的学校上学,为了节约那几块车钱,有时三四个星期才回来一次,你就成了我最好的“保姆”,饮食起居变成了朝九晚五。
我试着学煮饭,炒一些简单的菜,每次你回来,津津有味吃着我做的菜,我知道很难吃,为了鼓励我,说我做菜每天都在进步。就这样看着你一天一天消瘦的样子,本来小时候有气喘的你,更是雪上加霜,虽然这个病在老中医的照料下,很快就好了,我真不忍心你再有这样的病。
初中的三年眨眼就过,跟哥哥一样,你也考取了那所高中,我也很快上了初中,为了减轻我的负担,每逢寒暑假,你和哥哥都会去做暑期工,把挣来的工钱,为我交了内宿费,我知道你不想我和你一样,每天家里学校来回跑。
爸妈在广州,一年才回一次,在生活上你已经代替了父母,一切以我为主,从周六周日,你都会从你的学校图书馆里,借上两三本书,骑着自行车送到我的学校,16岁,花一样的年龄,但我看见,风雨已慢慢地刻在稚嫩的脸上。牵着我的手,我知道你有些困了,不曾看见你流泪,只是看见自己泪水不断的往下掉 。牵着你的手,让我带你回家。
记不清有多少爱与泪的交织,你和哥哥,先后考取了广东最好的一流大学,你刚踏入校门的那一天,大学里面的庄严,神圣的求学之地深深震撼了我。无法用语言表达,只觉得自己鼻子酸酸的,泪水再一次涌出我眼眶,不知是激动还是落魄,也不知道是舍不得你,还是你舍不得我,我看见你两个眼睛有了红圈。一切又重新开始,那里同学更多了,你也长高了,看见你的背影慢慢的消失在人海,只见你的手不断的挥舞。愿你在自由自在的学校,缔造你的完美学业。
大学毕业后,你主动放弃了研究生学业,说去深圳,哥哥就却留在广州,在一家软件公司落了脚,此时我也是大二的学生了,我们之间总少不了手机联系,你说那里过的很好,我暗暗高兴,因为一个有出息的姐姐呈现在自己的面前,爸妈也离开广州,转战深圳,也是为了我们一家好好团聚。
告诉我女人温柔怎么不流泪,告诉我什么是潇洒的青春,告诉我什么叫不孤单,你却告诉我,奋斗的青春不孤单。
“宝剑锋从磨砺出,梅花香自苦寒来”。不就是你真实的写照吗?“雄关漫道真如铁,而今迈步从头越”,这就是我们俩真实的宿影。面对你,时过境迁,依然太多的事浮现在脑海,如今的你已为人妻,为人母,真希望在下一个路口,你还是那么潇洒,还是勤勤恳恳,求学为上。
我们一起闹一起笑,一起在夕阳下数着回忆。“一声父母大过天,一声姐妹似我命”。但愿青春不老,时光不老,还会你牵着我的手,我牵着你的手,我们一起回家。
——风华浊世——
【本文节选2013本人心情笔记,以后陆续推出,哥哥,父亲,母亲】 https://t.cn/RTv4Kyo
《姐姐》
看不到雪的冬天的乡镇。
我依然会拿着你送给我的那把陈旧了的木吉他。
轻轻的弹起小时候你教我的那首“大海阿故乡”。
当我想起,山背面那片浩瀚的海洋,你总是会问我,天跟海哪一个更蓝。
总是不经意间发现,在上小学的路上,兜里总少不了一块你送给我最爱的糖。记不清有多少次,你呆呆的站在村口等着我放学,而且每次手中都少不了一本书,那是我和你最爱读的[艾青诗选]。
有多少次,因我贪玩犯下的错误,而受到父母的责怪,你总第一时间把我的头紧紧的抱在你怀里,不厌其烦,温柔地安慰我。
我清楚的记得,你身上穿的那件花衬衣,总是舍不得换新的,用大人的压岁钱,集赞下来为我买了一件外套,总会说那件衣服有点大,说我还会长高,过一年就合适穿了。
你总爱拖着我的小手,穿越在车水马龙的集市,从东街走到西街,再从西街走到东街。
街边橱窗里总是飘过一阵一阵的香味,我知道你口袋里没钱买,三番五次的说这个不好吃,那个也不好吃。
那年你读六年级,我读四年级,虽然我们的教室相隔几十米,总能听到老师一次一次的表扬声,那是你起早贪黑背书的勤奋劲,你的奖状多的就连我们家的墙都挂不下了。
你喜欢唱歌,试着去买一本有谱的歌书,硬头皮去隔壁邻居那里借了两块钱 ,之后就跟爸爸说,买馒头给我吃了,为了我好,你编织了一句又一句善意的谎言。
刚上初中的那一段时间,你开始接触中庸、大学之类的书。总是把里面最好的挑给我背,直到我躺在长凳上慢慢的睡去,再去完成自己的作业。
我们家离镇上比较远,按道理说我们都是内宿生,但你却说我们家离学校很近,父母都在外面干活,你把父母给的生活费,通通用来买书,情愿每天走十几公里的路,回来陪我做作业,你自行车还不是很熟,颠颠簸簸的公路,几次把你摔得鼻青脸肿,硬要跟我说在学校体育课摔伤了。
哥哥考上县城一家最好的学校上学,为了节约那几块车钱,有时三四个星期才回来一次,你就成了我最好的“保姆”,饮食起居变成了朝九晚五。
我试着学煮饭,炒一些简单的菜,每次你回来,津津有味吃着我做的菜,我知道很难吃,为了鼓励我,说我做菜每天都在进步。就这样看着你一天一天消瘦的样子,本来小时候有气喘的你,更是雪上加霜,虽然这个病在老中医的照料下,很快就好了,我真不忍心你再有这样的病。
初中的三年眨眼就过,跟哥哥一样,你也考取了那所高中,我也很快上了初中,为了减轻我的负担,每逢寒暑假,你和哥哥都会去做暑期工,把挣来的工钱,为我交了内宿费,我知道你不想我和你一样,每天家里学校来回跑。
爸妈在广州,一年才回一次,在生活上你已经代替了父母,一切以我为主,从周六周日,你都会从你的学校图书馆里,借上两三本书,骑着自行车送到我的学校,16岁,花一样的年龄,但我看见,风雨已慢慢地刻在稚嫩的脸上。牵着我的手,我知道你有些困了,不曾看见你流泪,只是看见自己泪水不断的往下掉 。牵着你的手,让我带你回家。
记不清有多少爱与泪的交织,你和哥哥,先后考取了广东最好的一流大学,你刚踏入校门的那一天,大学里面的庄严,神圣的求学之地深深震撼了我。无法用语言表达,只觉得自己鼻子酸酸的,泪水再一次涌出我眼眶,不知是激动还是落魄,也不知道是舍不得你,还是你舍不得我,我看见你两个眼睛有了红圈。一切又重新开始,那里同学更多了,你也长高了,看见你的背影慢慢的消失在人海,只见你的手不断的挥舞。愿你在自由自在的学校,缔造你的完美学业。
大学毕业后,你主动放弃了研究生学业,说去深圳,哥哥就却留在广州,在一家软件公司落了脚,此时我也是大二的学生了,我们之间总少不了手机联系,你说那里过的很好,我暗暗高兴,因为一个有出息的姐姐呈现在自己的面前,爸妈也离开广州,转战深圳,也是为了我们一家好好团聚。
告诉我女人温柔怎么不流泪,告诉我什么是潇洒的青春,告诉我什么叫不孤单,你却告诉我,奋斗的青春不孤单。
“宝剑锋从磨砺出,梅花香自苦寒来”。不就是你真实的写照吗?“雄关漫道真如铁,而今迈步从头越”,这就是我们俩真实的宿影。面对你,时过境迁,依然太多的事浮现在脑海,如今的你已为人妻,为人母,真希望在下一个路口,你还是那么潇洒,还是勤勤恳恳,求学为上。
我们一起闹一起笑,一起在夕阳下数着回忆。“一声父母大过天,一声姐妹似我命”。但愿青春不老,时光不老,还会你牵着我的手,我牵着你的手,我们一起回家。
——风华浊世——
【本文节选2013本人心情笔记,以后陆续推出,哥哥,父亲,母亲】 https://t.cn/RTv4Kyo
【每日近千起警情,警营“中枢站”在幕后守护辖区平安】
重庆之声11月15日讯 “您好!这里是重庆市公安局九龙坡区分局。”一句铿锵有力的声音,总是给每个需要求助的人送去最及时的关怀。一部电话,一台电脑,就是他们的单警装备,他们的从警生涯没有惊心动魄的抓捕追逐,却可以用声音传递着爱与温暖,而作为公安机关的“中枢大脑”,他们在人们看不见的战场守护着辖区的平安与美好——面对每日近千起警情,这是重庆市公安局九龙坡区分局指挥中心的日常工作。
海量信息背后,他们用数据分析降低发案
说起指挥中心,民警们最常说起的一个特点是“海量信息的中枢”,的确,光是九龙坡区每日近千条警情就已经是个不小的数目,市公安局、九龙坡区、分局各个科所队的信息同样汇聚于此,指挥中心要处理的信息量可想而知。面对这些信息,单单是中转、下发等各种具体操作已然繁杂,而指挥中心的民辅警们,还要发挥掌握信息多的优势,为公安工作赋能。
“我们每年的警情数超过30万,通过对大数据进行分析研判,我们可以帮助分局在警情的源头上进行控制,从而实现降低警情发生的效果。”九龙坡区公安分局指挥中心负责人胡效铨介绍道,拿近年来一直高位运行的电信网络诈骗类警情为例,通过对电诈发案情况的对比碰撞,指挥中心找准辖区电诈发案的类型特点,梳理出易发案区域、时间、人群,对此进行深入研判,生成防范意见,这个“画像”被下发到各个基层派出所,一所一策,指导民警有针对性地开展反诈防骗工作——杨家坪金融机构多,需要注意线下转款时的见面劝阻;九龙园区企业密集,可以通过进企业等方式开展精准宣防;黄桷坪高校学生多,网络贷款、兼职刷单等诈骗形式要提高注意……通过这一系列的警情分析指导精准宣防,今年以来,九龙坡区电诈发案数量下降4.1个百分点,这样的成绩来之不易。
针对高发的警情,指挥中心都要做到阶段性深度研判,对稍有抬头趋势的警情及时扼制,保障辖区平安、有序。民警陈进介绍,尽管随着技术进步,如今的指挥工作有了许多大数据技术的应用,但要实现精准分析还是需要大量人工筛查,确保分析研判有针对性、有实战价值。
不直面群众,他们却最了解群众的需求
“说起来,我们不直接面对群众,但我们离群众也可以很近。”九龙坡区公安分局指挥中心民警祝伟伦说起了自己这套“理论”:“市民遇到需要向警方求助的情况,通常不会去查派出所的电话,而是直接拨打110,可以说第一时间就找到了我们指挥中心。”诚如他所说,由于市民的诉求都会通过110电话接入指挥中心,他们直面群众的需求,只要在110接处警岗位上干久了,都不用梳理数据,就知道辖区有哪些影响市民安全或便利的情况存在。
据指挥中心分析,在每日近千起警情中,几乎有一半都是交通类警情,“随着经济社会发展和人民生活水平提高,路面上的车越来越多,随之而来的行车安全、停放秩序等问题也日益困扰市民。”民警介绍,这其中,又有一半以上属于“挡道挪车”的需求,按照以往的办法,指挥中心会将警情推送到交巡警基层勤务大队处,由民警出警处理。民警虽然能处理好这事,可由于该类求助量大、处理耗时且易发生在早晚高峰时段,势必影响指挥路面交通的警力调配,而市民常反映的另一个情况又是高峰时段的道路拥挤。如何合理部署警力,这个问题又交到了指挥中心。
今年以来,借助分局警务机制改革、勤务模式优化,指挥中心积极探索110警情分流,针对“挡道类警情”,实现了指挥调度有资质的专业公司处置,仅此一项就承担了交巡警警情的50.4%。通过前面盘活资源,提高了警务工作效率,困扰群众的“挡道类警情”能够有效处置,道路交通拥堵情况的改善也被群众看在眼里。
阻击疫情,他们也是幕后英雄
在疫情防控阻击战中,指挥中心全体民辅警既是“智囊团”,又是“勤务兵”,全力投入到疫情防控阻击战,严格落实24小时值班值守战时工作制度,利用大数据、视频巡逻、应急指挥等信息化手段快速、有效地收集、研判、核查、处置各类涉疫信息,充分发挥了指挥中心作为九龙坡区公安分局“指挥中枢”的作用。
本月初,九龙坡区报告新增一例本土确诊病例,疫情即警情,防控即职责,九龙坡区公安分局指挥中心也立即投入到对相关人员筛查工作,为疫情防控工作争取了宝贵的时间。
11月2日,分局民警在配合区疾控中心工作人员对确诊病例居住地进行环境消杀工作,工作人员在征得其本人同意后进入其家中,是否需要民警在场进行见证?面对这样的情况,现场民警也拿不准。指挥中心与相关部门第一时间取得联系,确定了消杀工作的规范,指导民警穿上防护服、戴好护目镜,打开4G执法记录仪,指挥中心对现场情况进行实时指挥,民警对消杀过程录音录像,保障现场秩序和居民财产安全,一来让该居民安心治疗,二来避免后续产生纠纷。
尽管日均接警近1000起,指挥中心的民警们始终保持着有警必接、接警必处的作风。本着“服务于基层、服务于民警、服务于人民”的理念, 指挥中心24小时“保持通话”、365天不间断、多年如一日,给全区人民长情的陪伴和安心的守护。
重庆之声记者康桥
重庆之声11月15日讯 “您好!这里是重庆市公安局九龙坡区分局。”一句铿锵有力的声音,总是给每个需要求助的人送去最及时的关怀。一部电话,一台电脑,就是他们的单警装备,他们的从警生涯没有惊心动魄的抓捕追逐,却可以用声音传递着爱与温暖,而作为公安机关的“中枢大脑”,他们在人们看不见的战场守护着辖区的平安与美好——面对每日近千起警情,这是重庆市公安局九龙坡区分局指挥中心的日常工作。
海量信息背后,他们用数据分析降低发案
说起指挥中心,民警们最常说起的一个特点是“海量信息的中枢”,的确,光是九龙坡区每日近千条警情就已经是个不小的数目,市公安局、九龙坡区、分局各个科所队的信息同样汇聚于此,指挥中心要处理的信息量可想而知。面对这些信息,单单是中转、下发等各种具体操作已然繁杂,而指挥中心的民辅警们,还要发挥掌握信息多的优势,为公安工作赋能。
“我们每年的警情数超过30万,通过对大数据进行分析研判,我们可以帮助分局在警情的源头上进行控制,从而实现降低警情发生的效果。”九龙坡区公安分局指挥中心负责人胡效铨介绍道,拿近年来一直高位运行的电信网络诈骗类警情为例,通过对电诈发案情况的对比碰撞,指挥中心找准辖区电诈发案的类型特点,梳理出易发案区域、时间、人群,对此进行深入研判,生成防范意见,这个“画像”被下发到各个基层派出所,一所一策,指导民警有针对性地开展反诈防骗工作——杨家坪金融机构多,需要注意线下转款时的见面劝阻;九龙园区企业密集,可以通过进企业等方式开展精准宣防;黄桷坪高校学生多,网络贷款、兼职刷单等诈骗形式要提高注意……通过这一系列的警情分析指导精准宣防,今年以来,九龙坡区电诈发案数量下降4.1个百分点,这样的成绩来之不易。
针对高发的警情,指挥中心都要做到阶段性深度研判,对稍有抬头趋势的警情及时扼制,保障辖区平安、有序。民警陈进介绍,尽管随着技术进步,如今的指挥工作有了许多大数据技术的应用,但要实现精准分析还是需要大量人工筛查,确保分析研判有针对性、有实战价值。
不直面群众,他们却最了解群众的需求
“说起来,我们不直接面对群众,但我们离群众也可以很近。”九龙坡区公安分局指挥中心民警祝伟伦说起了自己这套“理论”:“市民遇到需要向警方求助的情况,通常不会去查派出所的电话,而是直接拨打110,可以说第一时间就找到了我们指挥中心。”诚如他所说,由于市民的诉求都会通过110电话接入指挥中心,他们直面群众的需求,只要在110接处警岗位上干久了,都不用梳理数据,就知道辖区有哪些影响市民安全或便利的情况存在。
据指挥中心分析,在每日近千起警情中,几乎有一半都是交通类警情,“随着经济社会发展和人民生活水平提高,路面上的车越来越多,随之而来的行车安全、停放秩序等问题也日益困扰市民。”民警介绍,这其中,又有一半以上属于“挡道挪车”的需求,按照以往的办法,指挥中心会将警情推送到交巡警基层勤务大队处,由民警出警处理。民警虽然能处理好这事,可由于该类求助量大、处理耗时且易发生在早晚高峰时段,势必影响指挥路面交通的警力调配,而市民常反映的另一个情况又是高峰时段的道路拥挤。如何合理部署警力,这个问题又交到了指挥中心。
今年以来,借助分局警务机制改革、勤务模式优化,指挥中心积极探索110警情分流,针对“挡道类警情”,实现了指挥调度有资质的专业公司处置,仅此一项就承担了交巡警警情的50.4%。通过前面盘活资源,提高了警务工作效率,困扰群众的“挡道类警情”能够有效处置,道路交通拥堵情况的改善也被群众看在眼里。
阻击疫情,他们也是幕后英雄
在疫情防控阻击战中,指挥中心全体民辅警既是“智囊团”,又是“勤务兵”,全力投入到疫情防控阻击战,严格落实24小时值班值守战时工作制度,利用大数据、视频巡逻、应急指挥等信息化手段快速、有效地收集、研判、核查、处置各类涉疫信息,充分发挥了指挥中心作为九龙坡区公安分局“指挥中枢”的作用。
本月初,九龙坡区报告新增一例本土确诊病例,疫情即警情,防控即职责,九龙坡区公安分局指挥中心也立即投入到对相关人员筛查工作,为疫情防控工作争取了宝贵的时间。
11月2日,分局民警在配合区疾控中心工作人员对确诊病例居住地进行环境消杀工作,工作人员在征得其本人同意后进入其家中,是否需要民警在场进行见证?面对这样的情况,现场民警也拿不准。指挥中心与相关部门第一时间取得联系,确定了消杀工作的规范,指导民警穿上防护服、戴好护目镜,打开4G执法记录仪,指挥中心对现场情况进行实时指挥,民警对消杀过程录音录像,保障现场秩序和居民财产安全,一来让该居民安心治疗,二来避免后续产生纠纷。
尽管日均接警近1000起,指挥中心的民警们始终保持着有警必接、接警必处的作风。本着“服务于基层、服务于民警、服务于人民”的理念, 指挥中心24小时“保持通话”、365天不间断、多年如一日,给全区人民长情的陪伴和安心的守护。
重庆之声记者康桥
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