「こそあど」についての説明:
文法:
⑴口頭語でこそあど言葉と呼ばれる一群の語は指示語指示詞などとも称され、表現しようとする事柄について、具体的にそれを表わす言葉のかわりに、話し手と聞き手の位置関係を基準にしてその事柄を示すはたらきをする語である。ここではこそあど言葉の意で以下「指示語」という語を用いる。
⑵指示語の用いられる場面は、大きく二つに分けられる。
現場指示…話し手聞き手の双方が一般に視覚でとらえられる範囲内にある人事物や場所方角などを指し示す言語行為。
文脈指示…話し手または聞き手がすでに述べた事柄を指し示す言語行為。
◎現場指示
⑶指示語の用いられる現場指示の状況には二つの「場」がある。
話し手と聞き手がそれぞれ自分の領域を意識できる「場」…話し手と聞き手が適度の距離をおいて向かい合っている場面など。
話し手と聞き手が互いの領域を意識することなく、同じ領域を共有すると意識される「場」(つまり「ワレワレノ場」)。
⑷ ⑶の「場」では、話し手は自分の領域に属するととらえられる対象を「コ」で、聞き手の領域に属するととらえられる対象を「ソ」で表わす。…話し手が傘を指し示して「この傘はあなたのですか」と聞き手に尋ね、「ええ、それは私のです」。また、話し手が、聞き手が手にしている物を見て、「それは何ですか」と問いかけ、聞き手が「これは手のひらサイズの小型カメラですよ」と答えるような対応関係である。
話し手聞き手のどちらの領域にも属さないが、どちらも認め得る範囲にある対象を指示する際には、話し手聞き手ともに「ア」を用いる。…話し手から「あの人はどこかで見かけた人だね」と言われ、聞き手が「ええ、私もあの人とどこかでお会いしましたね」、また、話し手の「あの高い建物は何ですか」に対して「どの建物かな?ああ、あれか。あれは○○ホテルですよ」という対応関係である。
⑸ ⑶の「ワレワレノ場」は、場所を指示する表現に特徴的に見られる。たとえば、東京から新大阪に向かう新幹線の車中で居眠りをしていた相手から「ここはどこだ?」と言われて「ああ、ここは名古屋だよ、京都は次だ」などと応じる。これは話し手聞き手がともに同じ領域に属することによるからだととらえられる。「ワレワレノ場」を構成している状況では、さほど隔たっているとはとらえられない所を「ソ」で表わすのが一般である。…夫婦の会話などで、「そこにできた店、いつオープンするのかしら」と問われ「ああ、そこの店ね。明日あたりにはオープンするんじゃないかな」などと応じる場合である。また、道で出会った近所の人などに「どちらへ?」と問いかけられ、「ちょっとそこまで」と応じる慣用的な答えも、ちょっとした用事で出かけるだけで、それほど遠い所へ行くわけではない、といった気持を表わすものだと解される。
「コ」と「コ」、「ソ」と「ソ」の対応関係は、⑷で扱った人事物を指示する表現にもある。…話し手聞き手が、同じ写真を見ながら「この方はどなた?」に対して、「この方は部長の奥さんですよ」と応じたり、机を並べている二人の前の出窓に飾ってある花を見て、「その花は何というんですか」と問われて、「その花はリーガベゴニアですよ」と答えたりする場合である。
場所を指示する状況で話し手の領域を「コ」、聞き手の領域を「ソ」ととらえて表わすのは、両者が道や川を隔てて向かい合っている場合や、離れた所にいる人と電話で話をする際などである。…「こっちは今ひどい雨が降っているけど、そちらはどう?」 「ああ、そう。そちらは雨!こちらはいいお天気よ」などのような対応関係である。
◎文脈指示
⑹文脈指示についても基本的には現場指示と変わるところがない。
文芸作品か論説文かを問わず、前述の内容を「コ」で表わすか「ソ」で表わすかについては個人的な偏りがあり、必ずしも一般化してとらえられるものではないが、概ね以下のような傾向がある。
前述の特定の語句を指示し、そのことが読み手に当然理解されると期待されるような際には、多く「ソ」が用いられる。
前述した事柄をもとにして、そこから導かれる筆者の判断を述べたり 新たな問題提起をしようとしたり する際には、「コ」を用いる傾向がある。前者の例、「このことから以下に述べることが推測できる」など。後者の例、「このことはさらに次のような問題へと発展する」など。
「ア」は、話し手聞き手の双方が共通に関心をいだいているなどして、文脈からその指示内容がすぐに理解される場合…「あの件はどうなっているね?」に対して「ああ、あの話はなんとかうまくまとまりそうですよ」と応じる場合である。
過去の事柄を回想して、独白的にその当時のことを述べようとする場合…「あれはもう二十年も前のことだったな」 「あの忌まわしい事件は今でも忘れられない」などである。この種の「ア」は、文芸作品の冒頭の表現などにもしばしば用いられる。これは作者が描こうとする世界へ読者を心理的にいざなおうとする一つの表現技法だとみることができる。
文法:
⑴口頭語でこそあど言葉と呼ばれる一群の語は指示語指示詞などとも称され、表現しようとする事柄について、具体的にそれを表わす言葉のかわりに、話し手と聞き手の位置関係を基準にしてその事柄を示すはたらきをする語である。ここではこそあど言葉の意で以下「指示語」という語を用いる。
⑵指示語の用いられる場面は、大きく二つに分けられる。
現場指示…話し手聞き手の双方が一般に視覚でとらえられる範囲内にある人事物や場所方角などを指し示す言語行為。
文脈指示…話し手または聞き手がすでに述べた事柄を指し示す言語行為。
◎現場指示
⑶指示語の用いられる現場指示の状況には二つの「場」がある。
話し手と聞き手がそれぞれ自分の領域を意識できる「場」…話し手と聞き手が適度の距離をおいて向かい合っている場面など。
話し手と聞き手が互いの領域を意識することなく、同じ領域を共有すると意識される「場」(つまり「ワレワレノ場」)。
⑷ ⑶の「場」では、話し手は自分の領域に属するととらえられる対象を「コ」で、聞き手の領域に属するととらえられる対象を「ソ」で表わす。…話し手が傘を指し示して「この傘はあなたのですか」と聞き手に尋ね、「ええ、それは私のです」。また、話し手が、聞き手が手にしている物を見て、「それは何ですか」と問いかけ、聞き手が「これは手のひらサイズの小型カメラですよ」と答えるような対応関係である。
話し手聞き手のどちらの領域にも属さないが、どちらも認め得る範囲にある対象を指示する際には、話し手聞き手ともに「ア」を用いる。…話し手から「あの人はどこかで見かけた人だね」と言われ、聞き手が「ええ、私もあの人とどこかでお会いしましたね」、また、話し手の「あの高い建物は何ですか」に対して「どの建物かな?ああ、あれか。あれは○○ホテルですよ」という対応関係である。
⑸ ⑶の「ワレワレノ場」は、場所を指示する表現に特徴的に見られる。たとえば、東京から新大阪に向かう新幹線の車中で居眠りをしていた相手から「ここはどこだ?」と言われて「ああ、ここは名古屋だよ、京都は次だ」などと応じる。これは話し手聞き手がともに同じ領域に属することによるからだととらえられる。「ワレワレノ場」を構成している状況では、さほど隔たっているとはとらえられない所を「ソ」で表わすのが一般である。…夫婦の会話などで、「そこにできた店、いつオープンするのかしら」と問われ「ああ、そこの店ね。明日あたりにはオープンするんじゃないかな」などと応じる場合である。また、道で出会った近所の人などに「どちらへ?」と問いかけられ、「ちょっとそこまで」と応じる慣用的な答えも、ちょっとした用事で出かけるだけで、それほど遠い所へ行くわけではない、といった気持を表わすものだと解される。
「コ」と「コ」、「ソ」と「ソ」の対応関係は、⑷で扱った人事物を指示する表現にもある。…話し手聞き手が、同じ写真を見ながら「この方はどなた?」に対して、「この方は部長の奥さんですよ」と応じたり、机を並べている二人の前の出窓に飾ってある花を見て、「その花は何というんですか」と問われて、「その花はリーガベゴニアですよ」と答えたりする場合である。
場所を指示する状況で話し手の領域を「コ」、聞き手の領域を「ソ」ととらえて表わすのは、両者が道や川を隔てて向かい合っている場合や、離れた所にいる人と電話で話をする際などである。…「こっちは今ひどい雨が降っているけど、そちらはどう?」 「ああ、そう。そちらは雨!こちらはいいお天気よ」などのような対応関係である。
◎文脈指示
⑹文脈指示についても基本的には現場指示と変わるところがない。
文芸作品か論説文かを問わず、前述の内容を「コ」で表わすか「ソ」で表わすかについては個人的な偏りがあり、必ずしも一般化してとらえられるものではないが、概ね以下のような傾向がある。
前述の特定の語句を指示し、そのことが読み手に当然理解されると期待されるような際には、多く「ソ」が用いられる。
前述した事柄をもとにして、そこから導かれる筆者の判断を述べたり 新たな問題提起をしようとしたり する際には、「コ」を用いる傾向がある。前者の例、「このことから以下に述べることが推測できる」など。後者の例、「このことはさらに次のような問題へと発展する」など。
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#怎么挽回异地恋异国恋挽回#
相爱容易相处难,每一对相爱的恋人(或夫妻),相处的时间长了,都会产生一些摩擦,出现一些问题,发生一些矛盾。而解决这些矛盾需要双方加强沟通,了解,换位思考一下,再找找自身的问题,然后再理性的看待出现的问题。如果真的是对方的问题也应多给对方一些宽容和体谅,这样才有利于解决彼此之间的矛盾。真正的爱是互敬互爱,真正的爱是宽容忍让,真正的爱是处处想着对方。
#情感# 情感问题,私信必回。
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《易经》第25卦——天雷无妄卦
无妄:元,亨,利,貞。其匪正有眚,不利有攸往。
初九:无妄,往吉。
六二:不耕獲,不菑畲,則利有攸往。
六三:无妄之災,或系之牛,行人之得,邑人之災。
九四:可貞,无咎。
九五:无妄之疾,勿藥有喜。
上九:无妄,行有眚,无攸利。
天雷无妄卦,上乾☰下震☳。
无妄:“元亨利贞。其匪正有眚,不利有攸往。”
上乾为天,下震为雷,动而健。天与雷,皆言天之事,雷之动即天之意,此是自然之理。
天意无私,视万物为刍狗,无私即正,有私则为不正,不正则为妄,妄作则为凶。所以卦辞说“非正有眚”,这是一个条件语句:若不正则有眚,眚即灾也。以此,则“不利有攸往”。
元亨利贞本是乾之四德,无妄卦上为天,《彖》曰:刚自外来。指初爻之阳由外卦而来,为一卦之主。
高岛曰:动以天则无妄,动以人则妄矣。指天之无私,人之为己的差异。若顺天之意则吉,掺以私欲则凶。又曰:无妄者浑全实理,绝无意外期望之谓也。遵循自然之理而行,则无往不利,出乎自然之道,则动必得咎。
无妄卦皆主天之象,若有私,所得之事多出意外,出乎意料,外来之祸,非是由自身所起。意外之祸最难把握,是谓“获罪于天”,此卦于人之警戒甚大。
初九:无妄,往吉
初九爻:“无妄,往吉。”
无妄即没有妄念。无妄卦前一卦为复卦,复为回复,将一切意图放下,回复到本心,固守本源。如此则可以做到没有妄念。
上卦乾为健,下卦震为动,《彖辞》曰“动而健,刚中而应,大亨以正,天之命也”。乾为天,震卦初爻为震之主,随天而动,顺天之命,是无妄卦初爻的主旨。
初爻为卦主,《彖辞》说“刚自外来”,指外卦为乾,乾三阳为纯刚,乾为父,震为长子,长子随父,因此刚自外来,长子授天之命。由内而外为往,长子随父是天经地义,因此往吉。
乾健主动,震亦为动,内外两卦意志相同,犹如君王将来会把王位传给太子,又如太子随君王出征历练。往,是震卦顺应天时所接受的天意,是顺理成章的安排,而非自主谋求的结果。
无妄,并无贪恋之望,而自然得到。《象传》曰“无妄之往,得志也”,自我的志向得以实现。在六爻纳甲系统中,乾卦初爻纳子水,震卦初爻也是纳子水,其理论依据即是长子随父,这是符合人文伦理的规矩的。
六二:不耕获,不菑畬,则利有攸往
六二爻:“不耕获,不菑畬,则利有攸往。”
不耕作而有收获,不打理却有适于耕种的田地。菑[zī]是初耕的田地,畬[yú]是开垦了三年的田地,也叫生地和熟地。开荒的田地需要一个养的过程,初时并不能有好的收获,多年之后才会逐渐适宜耕作,产量提升。
二爻所描述的情形是一种不劳而获的状态,是人们常说的天上掉馅饼。易经告诉我们,天上真的会掉馅饼,躺在家里就会有好事上门。这似乎也在说明意外收获的合理性,而这种意料之外的好事在客观世界同样客观存在。
上卦乾为健,下卦震为动,以乾之健带动震之随动,二爻居中得正,与九五爻相应,而又乘初九之利,占尽天机。初九耕作的成果,由六二轻易的承接,得到了不劳而获的果实。
《象传》曰“不耕获,未富也”,是在说明不劳而获并非致富之道,是不可依赖的,不能坐等天上掉馅饼,而不去人为的努力。
“则利有攸往”,即便如此也应当有所前往,主动与九五相应,即使天上掉馅饼,也需要主动伸出手去接,这也说明好运也需要人的主观能动性才能把握住,否则错过了只是自己的错。“则”字即为点睛之笔。
六三:无妄之灾
六三爻:“无妄之灾,或系之牛,行人之得,邑人之灾。”
六三爻阴居阳位,不中不正,与六二形成鲜明的对比。无妄之灾,即意外的灾祸。邑人,即村子里耕作之人,把牛拴在了路边,有过往的行人顺手牵走了牛,邑人失去了用于耕作的牛,这真是意外的灾祸啊。
六二为无妄之福,六三为无妄之灾,都说明出现了意外情况。易经讲的是规律之学,难道规律也有意外?规律是自然,是事物发展的必然,但在必然中也存在偶然,偶然事件的出现也是合乎宇宙的规律的。
在大量的规律数据中,也会存在极少量的离散意外数据,离散的出现也是一种必然,但并不影响归纳整体规律,也不影响规律在大多数情况下的适用性。
一个人丢了钱,而另一个人捡到钱,丢了钱的沮丧,捡到钱的惊喜,但丢钱和捡钱并不在同一个人身上时常发生,只是个意外而已。
没有妄念而得到灾祸,对于君子而言,自然能够坦然相对,对于小人而言,懊恼难免。但“塞翁失马焉知非福”,有一个好的心态,事物的结局也常常可以改变,也许行人会把牛交给警察叔叔呢,因为六三与上九相应,那牛并未真正的丢失。
九四:可贞,无咎
九四爻:“可贞,无咎。”
九四爻阳居阴位,不中不正,且四爻位置多惧,为近君之位,时常战战兢兢,面临不可预知的状况,此时做到可贞,坚守正固,则没有过错。
处在无妄卦的大背景下,需做到摒除妄念,去除非分之想,所求愈少,愈可以躲避无妄之灾祸。《象传》曰“可贞,无咎,固有之也”,固久的持守,是保证不出差错的方法。
六二无妄之福,是意外惊喜,六三无妄之灾,是意外灾祸。九四爻出震入乾,有健行的动力,但同时居于阴位,懂得守贞,在行与守之间能够把握好尺度,因此避免意外的出现,始终能保持没有过错的状态。不求意外所得,也没有意外灾祸,保持住自己的状态,“无咎无誉”。
下互卦艮,艮为山为止,止住欲望,止住行为,身心皆有所止。《心经》所言:“依般若波罗蜜多故,心无挂碍,无挂碍故,无有恐怖,远离颠倒梦想,究竟涅槃。”超脱出生与死,放下一切,即得到一切,远离颠倒梦想即是无妄,无妄即可明心见性,即可到达涅槃的彼岸。
九五:无妄之疾,勿药有喜
九五爻:“无妄之疾,勿药有喜。”
九五爻居中履正,与六二相应,五爻为君,君臣上下均能够各得其位。但是,即便如此也难免会有小的意外的发生。疾为疾病,泛指灾祸。
通常情况下,各得其位,各谋其政,一切都是是井然有序的,然而意外的状况仍旧存在。无妄卦整体都在阐述意外的发生与处理,无妄之疾是完全没有意料到的疾病,此病并非来自于自身体内,而是偶然的外部环境变化导致的肌体侵染疾病。
比如天气变化偶感风寒,这完全出于防备,来之不觉。但是这并不是什么大麻烦,不需要服药即可自行痊愈,即勿药有喜。
君王处理政务也是如此,偶然出现的小瑕疵根本不需插手处理,系统自身会优化解决。相反,贸然处理只会让事情变得更糟。因此五爻是说,对于突发出现的状况,不用主动去应对,即可自行消除。
此爻值得关注的是“有喜”,不服药而病好,可称“不药而愈”,为何爻辞讲“勿药有喜”?不要吃药并且会因祸得福,这是说明虽然出现了突发疾病,但是却因此会带来意外的惊喜。
《象传》曰“无妄之药,不可试也”,告诫不可以服药,否则也就不会有喜了。
上九:无妄,行有眚,无攸利
上九爻:“无妄,行有眚,无攸利。”
上九爻处无妄卦的最后一个状态,是接近尾声、退出的状态。无妄即没有妄念,没有妄念通常是会得到好的结果的,这也符合易经的大的原理。但是,处在最后一爻的位置,这个无妄的达成太过迟了。
人的一生都在追逐名利、金钱财富,周身充满了欲望,到了人生的最后阶段,没有得到的终究还是没有得到,无奈之下向命运低头,放下了那一直没有追逐到的,这算不上什么彻悟。
“行有眚,无攸利”,此时若还是放不下,还要有所行动,则会有疾病、灾祸的发生,前行没有什么利益好处可以得到。
上卦乾,上九爻动变为兑,兑为毁折,引申为眚,乾健变为兑缺,无所利。
初爻往吉,二爻利有攸往,三爻行人得牛,下卦三爻在有所行动的情况下都能得到好的结果。四爻可贞,贞是守是静;五爻有疾,宜静;上爻行有眚。上卦三爻宜守静不宜有所行动,动则不利。
《象传》曰“无妄之行,穷之灾也”,穷是穷尽,即指最后阶段。妄念、欲望,人生应当尽早识破,尽早放下,免得穷其一生的追逐,到头来却是一场空,还造得一身的疾病。
《金刚经》云:一切有为法,如梦幻泡影,如露亦如电,应作如视观
无妄:元,亨,利,貞。其匪正有眚,不利有攸往。
初九:无妄,往吉。
六二:不耕獲,不菑畲,則利有攸往。
六三:无妄之災,或系之牛,行人之得,邑人之災。
九四:可貞,无咎。
九五:无妄之疾,勿藥有喜。
上九:无妄,行有眚,无攸利。
天雷无妄卦,上乾☰下震☳。
无妄:“元亨利贞。其匪正有眚,不利有攸往。”
上乾为天,下震为雷,动而健。天与雷,皆言天之事,雷之动即天之意,此是自然之理。
天意无私,视万物为刍狗,无私即正,有私则为不正,不正则为妄,妄作则为凶。所以卦辞说“非正有眚”,这是一个条件语句:若不正则有眚,眚即灾也。以此,则“不利有攸往”。
元亨利贞本是乾之四德,无妄卦上为天,《彖》曰:刚自外来。指初爻之阳由外卦而来,为一卦之主。
高岛曰:动以天则无妄,动以人则妄矣。指天之无私,人之为己的差异。若顺天之意则吉,掺以私欲则凶。又曰:无妄者浑全实理,绝无意外期望之谓也。遵循自然之理而行,则无往不利,出乎自然之道,则动必得咎。
无妄卦皆主天之象,若有私,所得之事多出意外,出乎意料,外来之祸,非是由自身所起。意外之祸最难把握,是谓“获罪于天”,此卦于人之警戒甚大。
初九:无妄,往吉
初九爻:“无妄,往吉。”
无妄即没有妄念。无妄卦前一卦为复卦,复为回复,将一切意图放下,回复到本心,固守本源。如此则可以做到没有妄念。
上卦乾为健,下卦震为动,《彖辞》曰“动而健,刚中而应,大亨以正,天之命也”。乾为天,震卦初爻为震之主,随天而动,顺天之命,是无妄卦初爻的主旨。
初爻为卦主,《彖辞》说“刚自外来”,指外卦为乾,乾三阳为纯刚,乾为父,震为长子,长子随父,因此刚自外来,长子授天之命。由内而外为往,长子随父是天经地义,因此往吉。
乾健主动,震亦为动,内外两卦意志相同,犹如君王将来会把王位传给太子,又如太子随君王出征历练。往,是震卦顺应天时所接受的天意,是顺理成章的安排,而非自主谋求的结果。
无妄,并无贪恋之望,而自然得到。《象传》曰“无妄之往,得志也”,自我的志向得以实现。在六爻纳甲系统中,乾卦初爻纳子水,震卦初爻也是纳子水,其理论依据即是长子随父,这是符合人文伦理的规矩的。
六二:不耕获,不菑畬,则利有攸往
六二爻:“不耕获,不菑畬,则利有攸往。”
不耕作而有收获,不打理却有适于耕种的田地。菑[zī]是初耕的田地,畬[yú]是开垦了三年的田地,也叫生地和熟地。开荒的田地需要一个养的过程,初时并不能有好的收获,多年之后才会逐渐适宜耕作,产量提升。
二爻所描述的情形是一种不劳而获的状态,是人们常说的天上掉馅饼。易经告诉我们,天上真的会掉馅饼,躺在家里就会有好事上门。这似乎也在说明意外收获的合理性,而这种意料之外的好事在客观世界同样客观存在。
上卦乾为健,下卦震为动,以乾之健带动震之随动,二爻居中得正,与九五爻相应,而又乘初九之利,占尽天机。初九耕作的成果,由六二轻易的承接,得到了不劳而获的果实。
《象传》曰“不耕获,未富也”,是在说明不劳而获并非致富之道,是不可依赖的,不能坐等天上掉馅饼,而不去人为的努力。
“则利有攸往”,即便如此也应当有所前往,主动与九五相应,即使天上掉馅饼,也需要主动伸出手去接,这也说明好运也需要人的主观能动性才能把握住,否则错过了只是自己的错。“则”字即为点睛之笔。
六三:无妄之灾
六三爻:“无妄之灾,或系之牛,行人之得,邑人之灾。”
六三爻阴居阳位,不中不正,与六二形成鲜明的对比。无妄之灾,即意外的灾祸。邑人,即村子里耕作之人,把牛拴在了路边,有过往的行人顺手牵走了牛,邑人失去了用于耕作的牛,这真是意外的灾祸啊。
六二为无妄之福,六三为无妄之灾,都说明出现了意外情况。易经讲的是规律之学,难道规律也有意外?规律是自然,是事物发展的必然,但在必然中也存在偶然,偶然事件的出现也是合乎宇宙的规律的。
在大量的规律数据中,也会存在极少量的离散意外数据,离散的出现也是一种必然,但并不影响归纳整体规律,也不影响规律在大多数情况下的适用性。
一个人丢了钱,而另一个人捡到钱,丢了钱的沮丧,捡到钱的惊喜,但丢钱和捡钱并不在同一个人身上时常发生,只是个意外而已。
没有妄念而得到灾祸,对于君子而言,自然能够坦然相对,对于小人而言,懊恼难免。但“塞翁失马焉知非福”,有一个好的心态,事物的结局也常常可以改变,也许行人会把牛交给警察叔叔呢,因为六三与上九相应,那牛并未真正的丢失。
九四:可贞,无咎
九四爻:“可贞,无咎。”
九四爻阳居阴位,不中不正,且四爻位置多惧,为近君之位,时常战战兢兢,面临不可预知的状况,此时做到可贞,坚守正固,则没有过错。
处在无妄卦的大背景下,需做到摒除妄念,去除非分之想,所求愈少,愈可以躲避无妄之灾祸。《象传》曰“可贞,无咎,固有之也”,固久的持守,是保证不出差错的方法。
六二无妄之福,是意外惊喜,六三无妄之灾,是意外灾祸。九四爻出震入乾,有健行的动力,但同时居于阴位,懂得守贞,在行与守之间能够把握好尺度,因此避免意外的出现,始终能保持没有过错的状态。不求意外所得,也没有意外灾祸,保持住自己的状态,“无咎无誉”。
下互卦艮,艮为山为止,止住欲望,止住行为,身心皆有所止。《心经》所言:“依般若波罗蜜多故,心无挂碍,无挂碍故,无有恐怖,远离颠倒梦想,究竟涅槃。”超脱出生与死,放下一切,即得到一切,远离颠倒梦想即是无妄,无妄即可明心见性,即可到达涅槃的彼岸。
九五:无妄之疾,勿药有喜
九五爻:“无妄之疾,勿药有喜。”
九五爻居中履正,与六二相应,五爻为君,君臣上下均能够各得其位。但是,即便如此也难免会有小的意外的发生。疾为疾病,泛指灾祸。
通常情况下,各得其位,各谋其政,一切都是是井然有序的,然而意外的状况仍旧存在。无妄卦整体都在阐述意外的发生与处理,无妄之疾是完全没有意料到的疾病,此病并非来自于自身体内,而是偶然的外部环境变化导致的肌体侵染疾病。
比如天气变化偶感风寒,这完全出于防备,来之不觉。但是这并不是什么大麻烦,不需要服药即可自行痊愈,即勿药有喜。
君王处理政务也是如此,偶然出现的小瑕疵根本不需插手处理,系统自身会优化解决。相反,贸然处理只会让事情变得更糟。因此五爻是说,对于突发出现的状况,不用主动去应对,即可自行消除。
此爻值得关注的是“有喜”,不服药而病好,可称“不药而愈”,为何爻辞讲“勿药有喜”?不要吃药并且会因祸得福,这是说明虽然出现了突发疾病,但是却因此会带来意外的惊喜。
《象传》曰“无妄之药,不可试也”,告诫不可以服药,否则也就不会有喜了。
上九:无妄,行有眚,无攸利
上九爻:“无妄,行有眚,无攸利。”
上九爻处无妄卦的最后一个状态,是接近尾声、退出的状态。无妄即没有妄念,没有妄念通常是会得到好的结果的,这也符合易经的大的原理。但是,处在最后一爻的位置,这个无妄的达成太过迟了。
人的一生都在追逐名利、金钱财富,周身充满了欲望,到了人生的最后阶段,没有得到的终究还是没有得到,无奈之下向命运低头,放下了那一直没有追逐到的,这算不上什么彻悟。
“行有眚,无攸利”,此时若还是放不下,还要有所行动,则会有疾病、灾祸的发生,前行没有什么利益好处可以得到。
上卦乾,上九爻动变为兑,兑为毁折,引申为眚,乾健变为兑缺,无所利。
初爻往吉,二爻利有攸往,三爻行人得牛,下卦三爻在有所行动的情况下都能得到好的结果。四爻可贞,贞是守是静;五爻有疾,宜静;上爻行有眚。上卦三爻宜守静不宜有所行动,动则不利。
《象传》曰“无妄之行,穷之灾也”,穷是穷尽,即指最后阶段。妄念、欲望,人生应当尽早识破,尽早放下,免得穷其一生的追逐,到头来却是一场空,还造得一身的疾病。
《金刚经》云:一切有为法,如梦幻泡影,如露亦如电,应作如视观
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