【DIVOC-12】Interview 1/2
チャンスは自分から作っていくしかない 藤原季節
歩の年表を埋めたり衣装を着て生活することで余白をひとつひとつ埋めていった
――今作に参加されたきっかけを教えてください。
藤原 僕がW主演を務めた短編映画『中村屋酒店の兄弟』(20)が、「東京学生映画祭」というコンテストでグランプリをいただいたんですが、そのときの審査員が三島有紀子監督で、そこでご挨拶させて頂いたことがありました。いつか三島監督の作品に出演したいと思っていたので、この作品のお話をいただいたときはうれしかったですね。
――実際に作品をご覧になって、いかがでしたか?
藤原 この作品は世界の片隅で誰にも知られず生きている人たちが出会う物語だなと思っています。その人たちを取り巻く環境は閉塞しているけど、こういった状況を出会いという物語で打ち倒すんだという気概というか、気持ちにあふれた映画になっていて。現実を厳しく見つめながらも、物語にロマンを持っている三島監督だからこそ撮れた作品だと思いました。他の『DIVOC-12』の作品とはいい意味で全然似ていなくて、この作品に出演できて本当に幸せです。
――短編だけに余白が多く、説明されない部分も多かったと思います。
藤原 台本から読み取れることは本当に少なかったです。三島さんと初めて打ち合わせをしたときに、主人公の歩という人物に何があったのかが書かれた年表みたいなものをもらって、「どんどん自分で埋めていっていいから」と言われて。衣装が決まってからは普段から歩の衣装を着て生活させてもらって、歩という人物を自分の中に馴染ませていきました。最初に本を読んだ段階では余白の部分が多くて、「なぜこのセリフになってるんだろう」と簡単には結びつかなかったので、三島さんと相談しながら一つ一つ埋めていった感じです。
――それを演技で伝える難しさはありましたか?
藤原 画面の向こう側にどう届けるかというのは、監督や見てくださるお客さんにゆだねた部分は大きいです。自分自身がリアリティーを感じ、それを信じることが大切だと思いました。一つ一つ、目に見えないものを埋めていくことでようやく信じる気持ちが強くなっていくというか。自分の中でそういうものが弱いと、自分の存在は正解なのだろうかみたいな気持ちになって、立っているだけで不安になるような気がします。それを埋めていくことで初めて、現場に立っても怖くなくなるのかなと思っています。
――改めて三島監督の印象をお聞かせください。
藤原 現場でも、われ先に行くというか、誰よりも率先して傷つきにいく姿を見せてくださいます。三島さんが撮った『ぶどうのなみだ』(14)という映画は、大泉洋さん演じるアオがもがき苦しみながらやっと一本のワインを誕生させるという物語なんですけど、その主人公を地で体現している監督というか。10分の映画を撮るためにここまで魂を削っているんだなというのを間近で見せて頂きましたね。感受性が豊かな方ってたくさんいらっしゃると思うんですけど、三島さんは感受性がせき止められずにあふれ出ちゃっている感じです。
――共演した富司純子さんに対する印象を教えてください。
藤原 去年の緊急事態宣言中に、家でずっと高倉健さんの映画を見ていたんです。その中で富司さんが主演を務められている作品もあって、「この女優さん素晴らしいな」と思っていた矢先のことだったので、体が震えました。そんな伝説の方とご一緒できるんだ、と思って。でも実際にお会いするとすごく優しい方でした。完成した映画を見たときに一番驚いたのは、富司さんがあまりに軽やかに演じられていたことです。懸命さやひたむきさという分かりやすいことはさておき、もっともっとリアリティーを持って生活されていて。必死に生きていて、辛くて辛くてという人が何かを変えようとする映画じゃなくて、たくましく生きているけど「焼肉食べたい、ハーゲンダッツ食べたい」と思ったときに、人生を変えようとするっていうのはこの作品っぽいなと思いました。
一つの作品を通過するたびに大切な出会いが増えている
――富司さん演じる冬海さんと出会ったことで、歩が生き生きしてきたように思えました。
藤原 お金だとか目に見えるもの……、そういうものでしか大切なことを語れなくなっちゃっていたんだろうなと思います。僕もこの1年間でそうなってしまいそうだったんですけど、そのたびにこういう作品が人間らしいところに引き戻してくれている感じがしました。だから多分、歩にとっては冬海さんがまさにそういう存在だったのかな。大切なものはそれだけじゃないんだよと、心というものを取り戻すきっかけになったんだと思います。
――出演が発表されたときに、「この作品のことを思い出そうとすると頭が真っ白になります」とコメントされていたのも印象的です。
藤原 この作品のタイトルが入る場面を撮ったときに、余計なことは何も考えられなくなりました。自分自身がこの物語にすごく救われているんだなと思ったんです。それまで悶々とした生活を送っていて、携帯とかテレビから入ってくるいろいろな情報に自分自身が踊らされて、アタフタして暮らしていたんです。でも、あの海に立った瞬間だけは冬海さんの姿しか見えなかったので、そこに向かって駆け出していくときは、開放感に満ち溢れていました。三島さんが泥だらけになりながらそういう環境を与えてくださって、本当に頭が真っ白になるような感覚でしたね。たった2日間の撮影であそこまでひとつの役に入れ込んだことは初めてかもしれないですし、仮に撮影期間の長い作品であっても、現場に入る前に10日間役として生活するというのはやったことがなかったので、不思議な体験でした。この作品に自分自身が何かを懸けて臨んでいたな、と思います。
――『よろこびのうた』が伝えたいテーマは何だと思いますか?
藤原 言葉にするとちょっと簡単に聞こえてしまうかもしれないんですけど、不安や喜びを分かち合うということ。生きていると、一緒にいることでより悲しくなったりとか、よりうれしくなったりすることもありますよね。この人と出会わなければこんな苦しい思いをせずに済んだのにと思いつつ、この人と過ごしたから自分は豊かさを知ることができたなという。豊かさを知るのは痛みを伴うことだと思うんですけど、それがまさに歩にとって冬海さんと経験したことで、その後のカラオケのシーンでは涙が止まらなくなる。知らなくてもよかったかもしれないんですけど、僕は歩にとって必要な時間だったのかなと思いました。実はあのカラオケのシーン、ザ・ブルーハーツを歌っているんですよ。三島さんと一緒に決めたんです。
――歩が冬海さんに出会ったように、今までの人生で藤原さんにとって印象的な出会いはありますか?
藤原 たくさんありましたね。この映画でいえば冬海さん、三島監督との出会い、あと『DIVOC-12』には12本の映画が集まっていて、同世代の俳優や新しい監督たちともたくさん出会うことができました。僕の人生でいえば、二十歳のときの松田美由紀さんとの出会い、『his』(20)という映画で宮沢氷魚という男に出会ったこと、『佐々木、イン、マイマイン』(20)の細川岳。一つの作品を通過するたびに大切な出会いがどんどん増えている感じがします。逆にそれがあるから続けていられるのかもしれません。
――具体的にお名前があがった松田さんと宮沢さんとの出会いは、藤原さんにとってどんな出来事だったのでしょうか。
藤原 最近『his』を見直したんですけど、宮沢くんは一滴の涙も流さずに悲しみを表現していたんだなと思ったんです。なんて正々堂々と演技する人だろう、とすごい発見でした。一方の僕は、すべてのシーンでめそめそ泣きそうな感じで芝居していたんですけど、それを包むように宮沢くんは演技してくれたんだなと思って。撮影が終わって数年経って、こんなに支えてもらっていたんだなと彼の優しさに改めて気づきました。あんな俳優になりたいという意味でもすごく尊敬しています。高倉健さんの映画にハマっているときは、彼の家の前に「高倉健さんの映画観て」と置き手紙したこともありました(笑)。美由紀さんは僕にとって、唯一怒ってくれる存在。僕が熊本の天草で撮影していた「のさりの島」という映画の現場に会いに来てくれたこともあります。言葉では尽くせない恩がありますね。
https://t.cn/A6M6b0Pd
チャンスは自分から作っていくしかない 藤原季節
歩の年表を埋めたり衣装を着て生活することで余白をひとつひとつ埋めていった
――今作に参加されたきっかけを教えてください。
藤原 僕がW主演を務めた短編映画『中村屋酒店の兄弟』(20)が、「東京学生映画祭」というコンテストでグランプリをいただいたんですが、そのときの審査員が三島有紀子監督で、そこでご挨拶させて頂いたことがありました。いつか三島監督の作品に出演したいと思っていたので、この作品のお話をいただいたときはうれしかったですね。
――実際に作品をご覧になって、いかがでしたか?
藤原 この作品は世界の片隅で誰にも知られず生きている人たちが出会う物語だなと思っています。その人たちを取り巻く環境は閉塞しているけど、こういった状況を出会いという物語で打ち倒すんだという気概というか、気持ちにあふれた映画になっていて。現実を厳しく見つめながらも、物語にロマンを持っている三島監督だからこそ撮れた作品だと思いました。他の『DIVOC-12』の作品とはいい意味で全然似ていなくて、この作品に出演できて本当に幸せです。
――短編だけに余白が多く、説明されない部分も多かったと思います。
藤原 台本から読み取れることは本当に少なかったです。三島さんと初めて打ち合わせをしたときに、主人公の歩という人物に何があったのかが書かれた年表みたいなものをもらって、「どんどん自分で埋めていっていいから」と言われて。衣装が決まってからは普段から歩の衣装を着て生活させてもらって、歩という人物を自分の中に馴染ませていきました。最初に本を読んだ段階では余白の部分が多くて、「なぜこのセリフになってるんだろう」と簡単には結びつかなかったので、三島さんと相談しながら一つ一つ埋めていった感じです。
――それを演技で伝える難しさはありましたか?
藤原 画面の向こう側にどう届けるかというのは、監督や見てくださるお客さんにゆだねた部分は大きいです。自分自身がリアリティーを感じ、それを信じることが大切だと思いました。一つ一つ、目に見えないものを埋めていくことでようやく信じる気持ちが強くなっていくというか。自分の中でそういうものが弱いと、自分の存在は正解なのだろうかみたいな気持ちになって、立っているだけで不安になるような気がします。それを埋めていくことで初めて、現場に立っても怖くなくなるのかなと思っています。
――改めて三島監督の印象をお聞かせください。
藤原 現場でも、われ先に行くというか、誰よりも率先して傷つきにいく姿を見せてくださいます。三島さんが撮った『ぶどうのなみだ』(14)という映画は、大泉洋さん演じるアオがもがき苦しみながらやっと一本のワインを誕生させるという物語なんですけど、その主人公を地で体現している監督というか。10分の映画を撮るためにここまで魂を削っているんだなというのを間近で見せて頂きましたね。感受性が豊かな方ってたくさんいらっしゃると思うんですけど、三島さんは感受性がせき止められずにあふれ出ちゃっている感じです。
――共演した富司純子さんに対する印象を教えてください。
藤原 去年の緊急事態宣言中に、家でずっと高倉健さんの映画を見ていたんです。その中で富司さんが主演を務められている作品もあって、「この女優さん素晴らしいな」と思っていた矢先のことだったので、体が震えました。そんな伝説の方とご一緒できるんだ、と思って。でも実際にお会いするとすごく優しい方でした。完成した映画を見たときに一番驚いたのは、富司さんがあまりに軽やかに演じられていたことです。懸命さやひたむきさという分かりやすいことはさておき、もっともっとリアリティーを持って生活されていて。必死に生きていて、辛くて辛くてという人が何かを変えようとする映画じゃなくて、たくましく生きているけど「焼肉食べたい、ハーゲンダッツ食べたい」と思ったときに、人生を変えようとするっていうのはこの作品っぽいなと思いました。
一つの作品を通過するたびに大切な出会いが増えている
――富司さん演じる冬海さんと出会ったことで、歩が生き生きしてきたように思えました。
藤原 お金だとか目に見えるもの……、そういうものでしか大切なことを語れなくなっちゃっていたんだろうなと思います。僕もこの1年間でそうなってしまいそうだったんですけど、そのたびにこういう作品が人間らしいところに引き戻してくれている感じがしました。だから多分、歩にとっては冬海さんがまさにそういう存在だったのかな。大切なものはそれだけじゃないんだよと、心というものを取り戻すきっかけになったんだと思います。
――出演が発表されたときに、「この作品のことを思い出そうとすると頭が真っ白になります」とコメントされていたのも印象的です。
藤原 この作品のタイトルが入る場面を撮ったときに、余計なことは何も考えられなくなりました。自分自身がこの物語にすごく救われているんだなと思ったんです。それまで悶々とした生活を送っていて、携帯とかテレビから入ってくるいろいろな情報に自分自身が踊らされて、アタフタして暮らしていたんです。でも、あの海に立った瞬間だけは冬海さんの姿しか見えなかったので、そこに向かって駆け出していくときは、開放感に満ち溢れていました。三島さんが泥だらけになりながらそういう環境を与えてくださって、本当に頭が真っ白になるような感覚でしたね。たった2日間の撮影であそこまでひとつの役に入れ込んだことは初めてかもしれないですし、仮に撮影期間の長い作品であっても、現場に入る前に10日間役として生活するというのはやったことがなかったので、不思議な体験でした。この作品に自分自身が何かを懸けて臨んでいたな、と思います。
――『よろこびのうた』が伝えたいテーマは何だと思いますか?
藤原 言葉にするとちょっと簡単に聞こえてしまうかもしれないんですけど、不安や喜びを分かち合うということ。生きていると、一緒にいることでより悲しくなったりとか、よりうれしくなったりすることもありますよね。この人と出会わなければこんな苦しい思いをせずに済んだのにと思いつつ、この人と過ごしたから自分は豊かさを知ることができたなという。豊かさを知るのは痛みを伴うことだと思うんですけど、それがまさに歩にとって冬海さんと経験したことで、その後のカラオケのシーンでは涙が止まらなくなる。知らなくてもよかったかもしれないんですけど、僕は歩にとって必要な時間だったのかなと思いました。実はあのカラオケのシーン、ザ・ブルーハーツを歌っているんですよ。三島さんと一緒に決めたんです。
――歩が冬海さんに出会ったように、今までの人生で藤原さんにとって印象的な出会いはありますか?
藤原 たくさんありましたね。この映画でいえば冬海さん、三島監督との出会い、あと『DIVOC-12』には12本の映画が集まっていて、同世代の俳優や新しい監督たちともたくさん出会うことができました。僕の人生でいえば、二十歳のときの松田美由紀さんとの出会い、『his』(20)という映画で宮沢氷魚という男に出会ったこと、『佐々木、イン、マイマイン』(20)の細川岳。一つの作品を通過するたびに大切な出会いがどんどん増えている感じがします。逆にそれがあるから続けていられるのかもしれません。
――具体的にお名前があがった松田さんと宮沢さんとの出会いは、藤原さんにとってどんな出来事だったのでしょうか。
藤原 最近『his』を見直したんですけど、宮沢くんは一滴の涙も流さずに悲しみを表現していたんだなと思ったんです。なんて正々堂々と演技する人だろう、とすごい発見でした。一方の僕は、すべてのシーンでめそめそ泣きそうな感じで芝居していたんですけど、それを包むように宮沢くんは演技してくれたんだなと思って。撮影が終わって数年経って、こんなに支えてもらっていたんだなと彼の優しさに改めて気づきました。あんな俳優になりたいという意味でもすごく尊敬しています。高倉健さんの映画にハマっているときは、彼の家の前に「高倉健さんの映画観て」と置き手紙したこともありました(笑)。美由紀さんは僕にとって、唯一怒ってくれる存在。僕が熊本の天草で撮影していた「のさりの島」という映画の現場に会いに来てくれたこともあります。言葉では尽くせない恩がありますね。
https://t.cn/A6M6b0Pd
陈峰终究没有从海航帝国轰塌中全身而退。想当初,他和王健带领海航从1000万的资产起家,纵横驰骋二十余年,全球收并购,市值膨胀一万倍,创立起海航的日不落神话。
陈峰曾定过一个小目标,海航要在2024年前赶超国航,南航和东航,成为世界最大的航空公司。但资本的畸形饕餮盛宴终将散场,自王健死于异国他乡,海航的挽歌就无法挽回地响起。
陈峰是一个虔诚的佛教徒,甚至连海航大厦也修成佛像形状。但他在面对bbc镜头时,还说自己是个马克思主义者。看来就算脚踏两只信仰之舟,也阻挡不了人生的倾覆。#海航集团董事长陈峰被采取强制措施#
陈峰曾定过一个小目标,海航要在2024年前赶超国航,南航和东航,成为世界最大的航空公司。但资本的畸形饕餮盛宴终将散场,自王健死于异国他乡,海航的挽歌就无法挽回地响起。
陈峰是一个虔诚的佛教徒,甚至连海航大厦也修成佛像形状。但他在面对bbc镜头时,还说自己是个马克思主义者。看来就算脚踏两只信仰之舟,也阻挡不了人生的倾覆。#海航集团董事长陈峰被采取强制措施#
《我的父亲》(十六)
又是中秋节了,又想起父亲用麻袋装上乡下送来的芋头,在门前青石板上反复来回地摔打,不一会儿,芋头皮就基本上脱落了。母亲用刀削干净,再将芋头浸在水里,然后她就会去炉子上烤烤手,因为削了皮的芋头渗出来的白汁,沾在手上就会很痒,在火上烤烤就会好许多。父亲用麻袋摔打芋头,目的就是让母亲削起皮来轻松些,这个方法很管用,真的可以轻松许多。浸过的芋头被父亲倒进大锅里,然后放一小块碱,等到锅开的时候,整锅的水都是红色的,连芋头也染上了红色,煞是诱人。父亲将锅里的芋头连汤带水舀出来,然后把水去掉,再洗一遍后,将芋头重新放入锅中,加水后再煮,滚了几滚后,父亲会放入许多红糖,再加些许糖精,然后盖上锅盖又滚上二十来分钟,就不再动它,灶堂里添上几块硬柴,任由它燃烧,烧尽后,炭的余温会一直暖着锅里的芋头,到第二天早上还是热气腾腾的。八月半的早上,父亲会拿出一个二寸左右的小塑袋,那里面装着盐渍的糖桂花,当年东门合作社里有的卖,几分钱一袋,我去买过。父亲将糖桂花撒在锅里,吃上一碗热腾腾的甜甜糯糯的飘着桂花香的红糖芋头上学,那心情真叫一个好。
小时候曾问过父亲,糖桂花是怎么做出来的,父亲说桂花从树上采下来后,挑净晾干,撒上盐拌进白糖就行。就这么简单的几句话,我一直记在心里,等到我搬到锦江苑,差不多三十年后才有机会自己做糖挂花,小区里的桂花树相当粗壮茂盛,花盛时花朵随风而落,铺一块布张在桂花树下,四周用砖压实,一日下来能接着许多,金桂最为芬芳,丹桂和银桂稍逊,所以接的都是金桂,放少数丹桂只是做的糖桂花比较好看些。我自己按照父亲所说的方法,曾经做过糖挂花,可是等到糖桂花做成,父亲却已离我们而去,但他的话语却一直在我耳边回想,他教的方法让我受用终身。父亲虽然没有尝过他儿子做的糖桂花,但是我一看到桂花,就会想起老来慈祥的父亲。想想从前,别说有机会得到桂花,就是看到桂花闻到花香都不易,不比现在,无锡城乡一到中秋,到处都能闻到沁人心脾的桂花香。自从搬到新安,居家附近处处都见桂花树,花开花落,差不多有一个月时间可以沉浸在花香之中。今又中秋,佳节思亲,今年的桂花比往年迟开了,可思念父亲的心情并没有花迟而减落。
说到中秋,想到桂花,也就不得不提到月饼,儿时的月饼多为苏式,品种不外乎百果,豆沙和玫瑰,我最喜欢百果味,最喜欢的就是一个月饼到手,一层一层剥着酥皮吃,掉落一点点都会心痛。不过一个人独吃一只月饼,在困难年代那绝对是奢望。我们小时候,家里再穷,父亲在中秋节的时候,总会应节应景把凭票供应的一卷月饼买回来,十五早上吃糖芋头,晚上吃月饼,父亲会拆开纸卷,拿出一个月饼,用小刀一切四,我们兄妹三人一人一块,剩下一块父亲咬一点点尝尝味道就给母亲。父亲说:食多无滋味,一人一块月饼,一顿吃完就没有了,明天再想吃,只能吞呑口水了,爸爸给你们每人一小块,你们明天有的吃,后天还有的吃,那该多好啊,过日子也是这样,要精打细算,要细水长流。那个时候,一卷月饼是通常是五个,我们就可以连续五天吃到月饼,第一天吃完了,惦着第二天,第二天惦着第三天,那感觉还真的不错。我们兄妹三人每人分得一个角的月饼,从不舍得一口吃掉,而是先吃点皮,然后藏到睡觉的时候再慢慢吃完。这种感觉,长大了以后,直至现在都觉得很甜美,我们从不抱怨儿时的艰难,也不对儿时吃的苦发牢骚,相比更艰苦的人家,我们算是非常非常幸运的,就像父亲而言,咱们是有福之人。
等到真的有整只月饼吃的时候,我已十来岁,父母亲都进了厂,有了稳定的收入,市场供应也有了少少松动,父亲会买二卷月饼了,他也不再用刀切开分了,而是每人直接给一个了,但是,我们还是留恋父亲给我们一人一小块的日子。花甲之年的我,大家的生活发生了翻天覆地的变化,条件好的比小康更小康,月饼的种类也是多种多样,五花八门,但总觉得少了儿时的味道。不过裴颖姨表妹每年赠送的月饼,回回都能勾起乡愁,想起从前。舍妹在香港,每到中秋都会想办法,让哥嫂尝到荣华或美心的莲蓉蛋黄月饼,但是由于疫情,去年没吃到,今年也吃不到了。儿媳单位发的月饼,她总是首先想着我,她孝顺,知道我好这口。儿子公司华为总部和南非部分别寄来了月饼和慰问品,给了我们莫大的安慰和鼓励,虽然儿子和我们远隔万里,不能和家人同度中秋,但是非洲的月亮同我们一样皎洁一样圆,他和数万华为海外将士一样,与同事们共度佳节,也算美事一桩,更丰富了他的人生经历。今日正逢中秋,我一边怀念着爷娘,一边惦记着儿郎。
因为月饼高糖高油,如今反而不敢多吃,但我还是钟情于它,尤其喜欢百果。我仍旧喜欢将月饼切成四块,然后吃完一块再吃一块,少食多餐,每天限量,这样吃有益健康,而且觉得这样吃最有味道,这样吃又能想到父亲,想到父亲分月饼,我们在一旁焦急等待的温馨时光。
(图二祖母和两个姑姑、叔婶和我父母亲。)
又是中秋节了,又想起父亲用麻袋装上乡下送来的芋头,在门前青石板上反复来回地摔打,不一会儿,芋头皮就基本上脱落了。母亲用刀削干净,再将芋头浸在水里,然后她就会去炉子上烤烤手,因为削了皮的芋头渗出来的白汁,沾在手上就会很痒,在火上烤烤就会好许多。父亲用麻袋摔打芋头,目的就是让母亲削起皮来轻松些,这个方法很管用,真的可以轻松许多。浸过的芋头被父亲倒进大锅里,然后放一小块碱,等到锅开的时候,整锅的水都是红色的,连芋头也染上了红色,煞是诱人。父亲将锅里的芋头连汤带水舀出来,然后把水去掉,再洗一遍后,将芋头重新放入锅中,加水后再煮,滚了几滚后,父亲会放入许多红糖,再加些许糖精,然后盖上锅盖又滚上二十来分钟,就不再动它,灶堂里添上几块硬柴,任由它燃烧,烧尽后,炭的余温会一直暖着锅里的芋头,到第二天早上还是热气腾腾的。八月半的早上,父亲会拿出一个二寸左右的小塑袋,那里面装着盐渍的糖桂花,当年东门合作社里有的卖,几分钱一袋,我去买过。父亲将糖桂花撒在锅里,吃上一碗热腾腾的甜甜糯糯的飘着桂花香的红糖芋头上学,那心情真叫一个好。
小时候曾问过父亲,糖桂花是怎么做出来的,父亲说桂花从树上采下来后,挑净晾干,撒上盐拌进白糖就行。就这么简单的几句话,我一直记在心里,等到我搬到锦江苑,差不多三十年后才有机会自己做糖挂花,小区里的桂花树相当粗壮茂盛,花盛时花朵随风而落,铺一块布张在桂花树下,四周用砖压实,一日下来能接着许多,金桂最为芬芳,丹桂和银桂稍逊,所以接的都是金桂,放少数丹桂只是做的糖桂花比较好看些。我自己按照父亲所说的方法,曾经做过糖挂花,可是等到糖桂花做成,父亲却已离我们而去,但他的话语却一直在我耳边回想,他教的方法让我受用终身。父亲虽然没有尝过他儿子做的糖桂花,但是我一看到桂花,就会想起老来慈祥的父亲。想想从前,别说有机会得到桂花,就是看到桂花闻到花香都不易,不比现在,无锡城乡一到中秋,到处都能闻到沁人心脾的桂花香。自从搬到新安,居家附近处处都见桂花树,花开花落,差不多有一个月时间可以沉浸在花香之中。今又中秋,佳节思亲,今年的桂花比往年迟开了,可思念父亲的心情并没有花迟而减落。
说到中秋,想到桂花,也就不得不提到月饼,儿时的月饼多为苏式,品种不外乎百果,豆沙和玫瑰,我最喜欢百果味,最喜欢的就是一个月饼到手,一层一层剥着酥皮吃,掉落一点点都会心痛。不过一个人独吃一只月饼,在困难年代那绝对是奢望。我们小时候,家里再穷,父亲在中秋节的时候,总会应节应景把凭票供应的一卷月饼买回来,十五早上吃糖芋头,晚上吃月饼,父亲会拆开纸卷,拿出一个月饼,用小刀一切四,我们兄妹三人一人一块,剩下一块父亲咬一点点尝尝味道就给母亲。父亲说:食多无滋味,一人一块月饼,一顿吃完就没有了,明天再想吃,只能吞呑口水了,爸爸给你们每人一小块,你们明天有的吃,后天还有的吃,那该多好啊,过日子也是这样,要精打细算,要细水长流。那个时候,一卷月饼是通常是五个,我们就可以连续五天吃到月饼,第一天吃完了,惦着第二天,第二天惦着第三天,那感觉还真的不错。我们兄妹三人每人分得一个角的月饼,从不舍得一口吃掉,而是先吃点皮,然后藏到睡觉的时候再慢慢吃完。这种感觉,长大了以后,直至现在都觉得很甜美,我们从不抱怨儿时的艰难,也不对儿时吃的苦发牢骚,相比更艰苦的人家,我们算是非常非常幸运的,就像父亲而言,咱们是有福之人。
等到真的有整只月饼吃的时候,我已十来岁,父母亲都进了厂,有了稳定的收入,市场供应也有了少少松动,父亲会买二卷月饼了,他也不再用刀切开分了,而是每人直接给一个了,但是,我们还是留恋父亲给我们一人一小块的日子。花甲之年的我,大家的生活发生了翻天覆地的变化,条件好的比小康更小康,月饼的种类也是多种多样,五花八门,但总觉得少了儿时的味道。不过裴颖姨表妹每年赠送的月饼,回回都能勾起乡愁,想起从前。舍妹在香港,每到中秋都会想办法,让哥嫂尝到荣华或美心的莲蓉蛋黄月饼,但是由于疫情,去年没吃到,今年也吃不到了。儿媳单位发的月饼,她总是首先想着我,她孝顺,知道我好这口。儿子公司华为总部和南非部分别寄来了月饼和慰问品,给了我们莫大的安慰和鼓励,虽然儿子和我们远隔万里,不能和家人同度中秋,但是非洲的月亮同我们一样皎洁一样圆,他和数万华为海外将士一样,与同事们共度佳节,也算美事一桩,更丰富了他的人生经历。今日正逢中秋,我一边怀念着爷娘,一边惦记着儿郎。
因为月饼高糖高油,如今反而不敢多吃,但我还是钟情于它,尤其喜欢百果。我仍旧喜欢将月饼切成四块,然后吃完一块再吃一块,少食多餐,每天限量,这样吃有益健康,而且觉得这样吃最有味道,这样吃又能想到父亲,想到父亲分月饼,我们在一旁焦急等待的温馨时光。
(图二祖母和两个姑姑、叔婶和我父母亲。)
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