食存五观 :
佛门吃饭时要思考的五件事
《 杂阿含经 》中说 :
“ 有四食资益众生,
令得住世摄受长养。”
这就是佛陀说的十句法的第一句
“ 一切有情皆依食住 ”。
可见凡是有情众生,
他的生存是以饮食为其根本保障的,
尽管有段食、
触食、
思食、
识食的四种差别。
当然,
本文并不是要向大家介绍吃什么,
如何吃,
而是重新解读一下,
我们在吃饭之前必须要做的一件事 ——
食存五观。
本篇文章原是妙一法师对学僧的谆谆诫导,
但其字里行间的智慧与劝勉之语,
对我们普通人也同样适用。
文 / 妙一法师
计功多少,
量彼来处
这是说,
当我们看到手中的那一份食物时,
应该思量它的来之不易,
要经过诸如经过播种、
施功、
乃至善信的布施等等。
同样,
当我们接受前辈法师、
善知识给我们讲解佛法的时候,
是否也曾思其来处呢?
自佛陀勤苦难行、
三祗始证,
历代西去东来取经、
译经、
释经的祖师们,
再到耳提面命的教授师讲给我们时,
还有人是否曾因之生起稀有难遭之想呢?
若是
“ 受之不谨,
行由何籍 ”?
我们的禅堂、
念佛堂,
又还有多少人能安心地坐下去、
念下去?
这是对
“ 法食 ” 的冷漠!
佛教
“ 农禅并重 ” 的
优良传统又怎样传承下去?
太虚大师曾说 :
“ 佛教的特质在禅。”
其意思是行禅,
而非说禅。
然而,
现今国内常年坐香的道场也不过四五家,
许多寺院都建有禅堂、
念佛堂,
绝大多数都是徒有施设,
无人问津。
再者,
多数学禅的人,
只是停留在语言文字的学术层面,
不是将之作为解决烦恼,
开发智慧的圣教门。
这一份禅悦之食恐怕已不被更多人所念及它的殊胜作用与来历了。
忖己德行,
全缺应供
在应供之时,
应当思考忖度一下自己的道德行持,
是否有所缺失。
若是营三宝事,
克己利人是为圆全,
当受此食。
古有
“ 一日不做,
一日不食 ”,
即是最好的例子。
若是不念三宝、
随心侵损,
就是缺失、
应愧受此食,
说的就是
“ 尸位素餐 ” 之流,
其中心意思就是要名副其实,
当之无愧。
请诸位想一想,
寺院要修建、
常住要维持、
佛教事业要发展,
是离不开教内外的支持和帮助的,
这种支持和帮助完全来自我们自身经过努力得来的。
若是
“ 不为三宝事,
专搞沽名钓誉 ”,
那么有什么资格接受别人的信任?
当名不符实的真面目被别人识破后,
佛教的尊严和神圣就会被玷污和亵渎,
佛教未来的发展将会受到无法预计的阻碍。
防心离过,
贪等为宗
在吃饭的时候,
应该防止自己对食物生起三种过失。
哪三种呢?
即是对上味起贪,
对中味起痴,
对下味起嗔。
执着以贪为首,
所以总标在前。
众生对事物总是以情执贪着不舍,
比如对金钱、
名誉的追逐,
僧人在这方面应该是看得淡、
放得下的。
虽是这样说,
在一切以经济建设为中心的社会浪潮中,
竟有人被
“ 上味 ”
所吸引不能自拔,
且引生出种种
“ 食病 ”。
若是一己之私欲不得所偿,
就难保不会生起
“ 嗔心 ”。
那么如何避免这贪、嗔、痴的三味过失呢?
就是明确自己的发心是为佛教、
为众生,
认清当前大势,
即是如法
“ 受食 ” 的想法了。
正视良药,
为疗形枯
比丘三名之中,
“ 乞士 ” 意谓 :
上乞如来法食以资法身,
下乞众生之食以养色身。
要把食物当作一剂良药,
来疗养色身,
最终证得法身。
这是强调食物只不过是起到药物的作用,
不要执着、
若是执着便是贪爱。
吉藏大师常说 :
“ 破执不破法,
病去药不留。”
佛法是疗众生八万四千烦恼病的良药,
而僧人即是传持佛法的决定性因素,
也就是会给人开方抓药的医生,
那么我们对
“ 药理药性 ”
了解吗?
对于常见病有经验吗?
是不是抓了一副救人的药,
反而害了人呢?
《 净名经·佛道品 》云 :
“ 先以欲钩牵,
后令入佛智。”
佛法运用方便是为了引导众生得到根本智,
其旨趣在于出世。
不是给众生一粒长生不死、
满足诸欲的灵丹,
而是教之以解决根本问题的出世法药。
所以有法师郑重提出
“ 方便不是随便,
圆融不是圆滑 ” 的根本原则。
正如 《 中观论疏 》 上说
“ 般若将出毕竟空,
严土化人;
方便将入毕竟空,
绝诸戏论 ”。
虽然能令众生因方便得到利益,
但还要令其
“ 正直舍方便 ”。
能否教之以佛法出世的根本精神,
关键在于施与
“ 法药 ” 的
“ 医生们 ”,
能不能舍去自身对于
“ 药 ” 的执着。
否则,
“ 医生 ”
本为救人,
却与
“ 病人 ”
同悲。
为成道业,
应受此食
《 思益经·菩萨正问品 》云 :
“ 谁知报佛恩,
不断佛种者。”
我们每吃一餐饭,
其目的都是为了成就无上佛道,
不令佛种断绝,
是为报佛深恩。
诸佛出世,
其本怀也无非是开示悟入佛之知见,
与众生皆共成佛道。
这最后一条一方面告诉我们尽管前四观不解,
只要心存有佛道可求的概念,
也可受食;
另一方面是告诉我们受食不是为了裹腹充饥,
而是有更高层次的追求,
是为了众生而成就佛道。
自利利他,
令人始种善根,
于未来劫,
终因此缘,
获得出世。
此处文义明了,
兹不赘言。
总之,
“ 五观若成金易化,
三心未了信难消 ”。
“ 五观若成 ”
即是自利利他的佛法行。
上来 “ 五观 ” 重申,
文义不周,
愿不允者,
权作空响;
若肯者,
也是仁者见仁,
智者见智。
睹此文者,
愿受食时,
五观常成。
食之以后,
犹若维摩诘的香积饭,
尽未来际,
受用不尽,
道化无穷。
佛门吃饭时要思考的五件事
《 杂阿含经 》中说 :
“ 有四食资益众生,
令得住世摄受长养。”
这就是佛陀说的十句法的第一句
“ 一切有情皆依食住 ”。
可见凡是有情众生,
他的生存是以饮食为其根本保障的,
尽管有段食、
触食、
思食、
识食的四种差别。
当然,
本文并不是要向大家介绍吃什么,
如何吃,
而是重新解读一下,
我们在吃饭之前必须要做的一件事 ——
食存五观。
本篇文章原是妙一法师对学僧的谆谆诫导,
但其字里行间的智慧与劝勉之语,
对我们普通人也同样适用。
文 / 妙一法师
计功多少,
量彼来处
这是说,
当我们看到手中的那一份食物时,
应该思量它的来之不易,
要经过诸如经过播种、
施功、
乃至善信的布施等等。
同样,
当我们接受前辈法师、
善知识给我们讲解佛法的时候,
是否也曾思其来处呢?
自佛陀勤苦难行、
三祗始证,
历代西去东来取经、
译经、
释经的祖师们,
再到耳提面命的教授师讲给我们时,
还有人是否曾因之生起稀有难遭之想呢?
若是
“ 受之不谨,
行由何籍 ”?
我们的禅堂、
念佛堂,
又还有多少人能安心地坐下去、
念下去?
这是对
“ 法食 ” 的冷漠!
佛教
“ 农禅并重 ” 的
优良传统又怎样传承下去?
太虚大师曾说 :
“ 佛教的特质在禅。”
其意思是行禅,
而非说禅。
然而,
现今国内常年坐香的道场也不过四五家,
许多寺院都建有禅堂、
念佛堂,
绝大多数都是徒有施设,
无人问津。
再者,
多数学禅的人,
只是停留在语言文字的学术层面,
不是将之作为解决烦恼,
开发智慧的圣教门。
这一份禅悦之食恐怕已不被更多人所念及它的殊胜作用与来历了。
忖己德行,
全缺应供
在应供之时,
应当思考忖度一下自己的道德行持,
是否有所缺失。
若是营三宝事,
克己利人是为圆全,
当受此食。
古有
“ 一日不做,
一日不食 ”,
即是最好的例子。
若是不念三宝、
随心侵损,
就是缺失、
应愧受此食,
说的就是
“ 尸位素餐 ” 之流,
其中心意思就是要名副其实,
当之无愧。
请诸位想一想,
寺院要修建、
常住要维持、
佛教事业要发展,
是离不开教内外的支持和帮助的,
这种支持和帮助完全来自我们自身经过努力得来的。
若是
“ 不为三宝事,
专搞沽名钓誉 ”,
那么有什么资格接受别人的信任?
当名不符实的真面目被别人识破后,
佛教的尊严和神圣就会被玷污和亵渎,
佛教未来的发展将会受到无法预计的阻碍。
防心离过,
贪等为宗
在吃饭的时候,
应该防止自己对食物生起三种过失。
哪三种呢?
即是对上味起贪,
对中味起痴,
对下味起嗔。
执着以贪为首,
所以总标在前。
众生对事物总是以情执贪着不舍,
比如对金钱、
名誉的追逐,
僧人在这方面应该是看得淡、
放得下的。
虽是这样说,
在一切以经济建设为中心的社会浪潮中,
竟有人被
“ 上味 ”
所吸引不能自拔,
且引生出种种
“ 食病 ”。
若是一己之私欲不得所偿,
就难保不会生起
“ 嗔心 ”。
那么如何避免这贪、嗔、痴的三味过失呢?
就是明确自己的发心是为佛教、
为众生,
认清当前大势,
即是如法
“ 受食 ” 的想法了。
正视良药,
为疗形枯
比丘三名之中,
“ 乞士 ” 意谓 :
上乞如来法食以资法身,
下乞众生之食以养色身。
要把食物当作一剂良药,
来疗养色身,
最终证得法身。
这是强调食物只不过是起到药物的作用,
不要执着、
若是执着便是贪爱。
吉藏大师常说 :
“ 破执不破法,
病去药不留。”
佛法是疗众生八万四千烦恼病的良药,
而僧人即是传持佛法的决定性因素,
也就是会给人开方抓药的医生,
那么我们对
“ 药理药性 ”
了解吗?
对于常见病有经验吗?
是不是抓了一副救人的药,
反而害了人呢?
《 净名经·佛道品 》云 :
“ 先以欲钩牵,
后令入佛智。”
佛法运用方便是为了引导众生得到根本智,
其旨趣在于出世。
不是给众生一粒长生不死、
满足诸欲的灵丹,
而是教之以解决根本问题的出世法药。
所以有法师郑重提出
“ 方便不是随便,
圆融不是圆滑 ” 的根本原则。
正如 《 中观论疏 》 上说
“ 般若将出毕竟空,
严土化人;
方便将入毕竟空,
绝诸戏论 ”。
虽然能令众生因方便得到利益,
但还要令其
“ 正直舍方便 ”。
能否教之以佛法出世的根本精神,
关键在于施与
“ 法药 ” 的
“ 医生们 ”,
能不能舍去自身对于
“ 药 ” 的执着。
否则,
“ 医生 ”
本为救人,
却与
“ 病人 ”
同悲。
为成道业,
应受此食
《 思益经·菩萨正问品 》云 :
“ 谁知报佛恩,
不断佛种者。”
我们每吃一餐饭,
其目的都是为了成就无上佛道,
不令佛种断绝,
是为报佛深恩。
诸佛出世,
其本怀也无非是开示悟入佛之知见,
与众生皆共成佛道。
这最后一条一方面告诉我们尽管前四观不解,
只要心存有佛道可求的概念,
也可受食;
另一方面是告诉我们受食不是为了裹腹充饥,
而是有更高层次的追求,
是为了众生而成就佛道。
自利利他,
令人始种善根,
于未来劫,
终因此缘,
获得出世。
此处文义明了,
兹不赘言。
总之,
“ 五观若成金易化,
三心未了信难消 ”。
“ 五观若成 ”
即是自利利他的佛法行。
上来 “ 五观 ” 重申,
文义不周,
愿不允者,
权作空响;
若肯者,
也是仁者见仁,
智者见智。
睹此文者,
愿受食时,
五观常成。
食之以后,
犹若维摩诘的香积饭,
尽未来际,
受用不尽,
道化无穷。
一根稻草,
跟白菜捆在一起,
那它就是白菜的价格;
跟大闸蟹捆在一起,
那它就是大闸蟹的价格。
与什么人在一起,
就决定了你是什么人。
成年之后,
只需有这三个最好的朋友,
便足矣。
1.出世的智者。
万两黄金容易得,
知心一个也难求。
2.入世的强者。
强者与强者联手,
往往能走得更远,
行得更快。
3.正直而阳光的普通人。
他们脚踏实地,
积极向上,
跟他们在一起,
让我们根本找不到可以丧的理由。
人生有知己,
足以慰风尘。
跟白菜捆在一起,
那它就是白菜的价格;
跟大闸蟹捆在一起,
那它就是大闸蟹的价格。
与什么人在一起,
就决定了你是什么人。
成年之后,
只需有这三个最好的朋友,
便足矣。
1.出世的智者。
万两黄金容易得,
知心一个也难求。
2.入世的强者。
强者与强者联手,
往往能走得更远,
行得更快。
3.正直而阳光的普通人。
他们脚踏实地,
积极向上,
跟他们在一起,
让我们根本找不到可以丧的理由。
人生有知己,
足以慰风尘。
【わたし達はおとな】
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー(1)
理解し合えないまま生きること、を考える。
突如として訪れる関係性の破綻。あれだけ親密な時間があったのに、修復しようと努めたのに、一体どこで間違えたのか…。私たちの多くが思っている、「話し合えばわかりあえる」という考えは誤解なのかもしれません。
大学でデザインの勉強をする大学生と演劇サークルに所属する大学生の恋愛模様が描かれる映画『わたし達はおとな』(2022年6月10日公開)。どこにでもいる恋人たちの日常風景の中にある、コミュニケーションのすれ違いや、言っていることとやっていることのズレ、見えない本音など、少しずつ積み重なっていく二人の齟齬を、俯瞰した視点から描き出します。
今回主人公の優美を演じた木竜麻生さんと、優美と恋人関係のようになっていく直哉を演じた藤原季節さん、本作がオリジナル脚本による監督デビュー作となった加藤拓也監督に、映画を観た残るザラッとした違和感を出発点にお話を伺いました。
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー
私たちの「日常」を覗き見すると、見えてくるもの
映画で描かれるのは、かつての自分にも思い当たるような、一見すると「何気ない大学生の日常風景」です。しかし、観終わったあと、「おもしろかった」で済ましていいのか迷ってしまいました。
藤原その感想、めちゃくちゃわかります。体感としては、109分が一瞬で過ぎ去っちゃうくらいおもしろいんですが、おもしろいでは片付けられないというか。「この作品をおもしろいって言ってるやつ、大丈夫?」ってなりますよね(笑)。だけどやっぱり、おもしろいっていう感想になってしまうんですけど…。
覗き見するように人間を客観視してみると、行動とか言葉とか突っかかるし、納得できないところがこんなにあるんだなって。その不思議さなんですかね。「恋愛も人間もおもしろいな」と思いました。
木竜人がいて、生活があって、映画の中の出来事を見つめられる映画ですよね。私は、自分が出ているのに、他人を見ているような感覚になったんです。これまで、そんなことはほとんどなかったので、驚きました。
撮影中はどんなお話をされていたんですか? 繊細なやりとりが交わされるシーンが多かったので、監督と話し合うことも多かったのでしょうか。
藤原くだらない話ばかりしてました。
加藤ここで思い出せないくらい、どうでもいい話しかしてないです。
木竜個々に「ここは話しておきたい」という場面はあったと思うんですけど、3人揃って真面目に話す、ということはなかったですね。
藤原核心には触れられないですよね。核心に触れちゃうと、「これです」って決まっちゃうじゃないですか。かっこいいこと言っちゃったな(笑)。
加藤わかんないけど僕が「このシーンは、こう」って外側のことを言い切ってしまうと、僕の代わりを演じることになってしまうじゃないですか。僕の役割は、あくまで役者が考えたり行動したりするきっかけを演出すること。
ある花を咲かせたいと思っていたとして、どれだけ水をあげて、太陽に当てて、どんな肥料を与えるかっていうことはするけれど、結果花の咲き方みたいなものは俳優次第。
藤原そうですね。一緒に中華料理食べに行ったりしたけど、会話の内容は一つも覚えてない。
木竜私もまったく覚えてないです。
加藤僕が、頼んだメニューの3/4くらい残したんですよ。それを、季節が全部食べてくれて。
木竜そうそう、加藤さんが全然食べきれなくて。
藤原僕は、加藤さんが残したものを食べることがよくあります。加藤さんが脚本・演出を務める「劇団た組」の公演には何度か出させてもらっているので、ご飯に行くことも多いんですけど、よく残すんですよ。そういう話を延々してました。
加藤木竜さんは、撮影中にどんどん痩せていきましたね。
木竜意識的にというより無意識に、どんどん役に入り込んでしまったんですよね。
大学生の優美は直哉と半同棲状態になるものの、突然別れを告げられるなど関係性は不明瞭なまま。そんな中で予期せぬ妊娠がわかり、優美はどんどん体調を崩していきます。その過程で、痩せてしまったんですね。
木竜ふたりは「食べな!」と言ってくれてたんですけど、お弁当も2、3口とかしか食べられなくて。これまでの現場で、一番痩せてしまいました。
加藤似顔絵を台本に描たりしました。10日目くらいかな、砂時計みたいな女の子を描きました。
木竜ふたりはよく一緒に作品を作っているから、やり方もわかっているし、本番に入っていくスイッチングもほぼ同時なんですよ。
藤原さんは、加藤監督主宰「劇団た組」の舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)『貴方なら生き残れるわ』(18)『誰にも知られず死ぬ朝』(20)『ぽに』(21)に出演されていて、加藤監督も「僕の現場や作品におけるトーン&マナーみたいなことを十分理解してくれている」とコメントされていました。
木竜ふたりは控え室でたくさん盛り上がっていたのに、急に本番モードになる。それを1週間毎日やられると情緒がおかしくなりそうで、ほんとにやめてほしくて。初めて監督という存在に言いました、「バーカ!」って(笑)。
でも、そういうことを正直に言えるくらい信頼していました。藤原さんも知っていたので、ふたりを信頼して、身を委ねて現場に立てたのは大きかったと思います。
正常と異常は両極端ではない。
重なり合ったり、近くに存在したり。
映画では何度もふたりでコミュニケーションを図るシーンが描かれているのに、演じているふたりもボロボロになるぐらい、ふたりの関係性が破綻していきます。おふたりは「わかりあうこと」について、どう思われますか? 役を演じる中で、考えられたことはありますか。
藤原映画の中のふたりは、自分たちでは「理解し合っている」と思っているんですよ。第三者的に見ている僕たちからしたら「全然、わかりあえていないな」って思うけれど。だけど、優実と直哉にもわかりあえないことも愛しい、もしかしたらわかりあえていたかもしれない幸せな時間があった、というのが大事なことなんだと思います。
わかりあえない方ばかりに目が行きがちですけど、ふたりがわかりあえない互いを理解して、心を通わせていた時間もたしかにあったので。幸せな時間も忘れちゃいけないなって思います。
木竜そうですね。それはきっと、いろんな人間関係があるからで。優実にも恋人以外に、友人、家族といった人間関係が描かれて、それぞれ気持ちや立ち振る舞いが違う。だけど、時々別のグループに別の私を持ち込んでしまうから、理解できないことが生まれるのかもしれないですよね。
藤原つまり、「わかりあうこと」について考えるきっかけになるということ?
木竜「わかりあえないこと」についても考えられる。両方の側面があるかな。
藤原監督はどうですか?
木竜どうですか?
加藤いや、「わかりあう/わかりあえない」ということではなくて大前提、他人のことは絶対にわからないですよね。その「わからない」ということを、理解しているかどうかが大事なのではないかと思います。
藤原他人のことはわからなくて、当然?
加藤わからないでしょう。
木竜たしかにこの映画は、「“理解し合えないまま生きていること”は大前提としてある」を考えるきっかけになりますよね。
お互いに本音をずっと言わないから、理解し合えないのではないかと考えていました。
木竜優実はあけすけに本音を話すような子ではなかったと思います。話す相手がどんな人で、どんな状態か、他人を探る女の子だと思いました。ただ、どんな人も、今話したことが「ほんとの本音か」わからないと思うので、優実みたいな人はいっぱいいますよね。
藤原直哉も、本音はほぼ話さない。自分が悪者にならないように、計算し尽くした本音を相手にぶつけるんです。一度相手の意見に同意して、それから自分の意見を言う。
木竜肯定しているようで、してないんだよね。
藤原そうそう。「仮にそうだったとして、でも〜」って、自分の意見をうまく通そうとするんですよ。
監督の作品のベースには「伝えたいことと言っていることとやっていることは違う」という考えがあると拝見しました。今作のように日常生活を覗き見すると、日常にあるズレが浮かび上がり、こんなにも「異常」があることを感じました。
藤原僕も加藤さんの作品を観ていると、普通の延長に異常があるなっていうのは思います。この前まで上演されていた舞台『もはやしずか』でも、成人男性が包丁を振り回すシーンがあったんですけど、明日は我が身だと思わされるような場面で。
そこだけ切り取れば異常なんだけど、普通の延長に異常とされる行動があるんだと思いました。あと、普段から僕自身が「行動が異常」って言われます。
加藤水を飲んでいたら、急に吐き出したりするんですよ。
藤原みんなが笑うから、楽しくて(笑)。木竜さんは言われますか?
木竜私は「異常」と言われたことはないですけど、正常と異常が両極端に位置しているわけじゃなくて、実は重なり合ったりものすごく近くに存在していたりするんだなってことは思います。監督の舞台を観ても、そう思いました。
加藤僕は異常だとも、普通だとも思ってないです。普通だとか異常だとかカテゴライズはしてないし、そう思うことはあまりないです。
今回の映画は、恋愛で、しかも望まない妊娠をした女性とその恋人という何度も描かれてきたテーマでした。そうしたものを書くときに、加藤監督として決めていたことはありますか?
加藤ラブストーリーという主題は依頼としてあったので、そこから僕が思う「ラブストーリー」を書いた感じです。決めていたことを聞かれると難しいですね。
藤原何度も描かれてきたテーマですけど、描かれているものは極めて個人的な気がします。正常も異常も、人によって価値観や視点が全然違いますから。
その違いを真摯に見つめて、一人の人間を描いた結果、他人から見ると異常に見えるのかもしれない。人によっては、普通に見えるかもしれない。普通に見える女子大生のお腹には子どもが宿っていて、そこに正常や異常では片付けられない感情があるってことですよね。
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー(1)
理解し合えないまま生きること、を考える。
突如として訪れる関係性の破綻。あれだけ親密な時間があったのに、修復しようと努めたのに、一体どこで間違えたのか…。私たちの多くが思っている、「話し合えばわかりあえる」という考えは誤解なのかもしれません。
大学でデザインの勉強をする大学生と演劇サークルに所属する大学生の恋愛模様が描かれる映画『わたし達はおとな』(2022年6月10日公開)。どこにでもいる恋人たちの日常風景の中にある、コミュニケーションのすれ違いや、言っていることとやっていることのズレ、見えない本音など、少しずつ積み重なっていく二人の齟齬を、俯瞰した視点から描き出します。
今回主人公の優美を演じた木竜麻生さんと、優美と恋人関係のようになっていく直哉を演じた藤原季節さん、本作がオリジナル脚本による監督デビュー作となった加藤拓也監督に、映画を観た残るザラッとした違和感を出発点にお話を伺いました。
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー
私たちの「日常」を覗き見すると、見えてくるもの
映画で描かれるのは、かつての自分にも思い当たるような、一見すると「何気ない大学生の日常風景」です。しかし、観終わったあと、「おもしろかった」で済ましていいのか迷ってしまいました。
藤原その感想、めちゃくちゃわかります。体感としては、109分が一瞬で過ぎ去っちゃうくらいおもしろいんですが、おもしろいでは片付けられないというか。「この作品をおもしろいって言ってるやつ、大丈夫?」ってなりますよね(笑)。だけどやっぱり、おもしろいっていう感想になってしまうんですけど…。
覗き見するように人間を客観視してみると、行動とか言葉とか突っかかるし、納得できないところがこんなにあるんだなって。その不思議さなんですかね。「恋愛も人間もおもしろいな」と思いました。
木竜人がいて、生活があって、映画の中の出来事を見つめられる映画ですよね。私は、自分が出ているのに、他人を見ているような感覚になったんです。これまで、そんなことはほとんどなかったので、驚きました。
撮影中はどんなお話をされていたんですか? 繊細なやりとりが交わされるシーンが多かったので、監督と話し合うことも多かったのでしょうか。
藤原くだらない話ばかりしてました。
加藤ここで思い出せないくらい、どうでもいい話しかしてないです。
木竜個々に「ここは話しておきたい」という場面はあったと思うんですけど、3人揃って真面目に話す、ということはなかったですね。
藤原核心には触れられないですよね。核心に触れちゃうと、「これです」って決まっちゃうじゃないですか。かっこいいこと言っちゃったな(笑)。
加藤わかんないけど僕が「このシーンは、こう」って外側のことを言い切ってしまうと、僕の代わりを演じることになってしまうじゃないですか。僕の役割は、あくまで役者が考えたり行動したりするきっかけを演出すること。
ある花を咲かせたいと思っていたとして、どれだけ水をあげて、太陽に当てて、どんな肥料を与えるかっていうことはするけれど、結果花の咲き方みたいなものは俳優次第。
藤原そうですね。一緒に中華料理食べに行ったりしたけど、会話の内容は一つも覚えてない。
木竜私もまったく覚えてないです。
加藤僕が、頼んだメニューの3/4くらい残したんですよ。それを、季節が全部食べてくれて。
木竜そうそう、加藤さんが全然食べきれなくて。
藤原僕は、加藤さんが残したものを食べることがよくあります。加藤さんが脚本・演出を務める「劇団た組」の公演には何度か出させてもらっているので、ご飯に行くことも多いんですけど、よく残すんですよ。そういう話を延々してました。
加藤木竜さんは、撮影中にどんどん痩せていきましたね。
木竜意識的にというより無意識に、どんどん役に入り込んでしまったんですよね。
大学生の優美は直哉と半同棲状態になるものの、突然別れを告げられるなど関係性は不明瞭なまま。そんな中で予期せぬ妊娠がわかり、優美はどんどん体調を崩していきます。その過程で、痩せてしまったんですね。
木竜ふたりは「食べな!」と言ってくれてたんですけど、お弁当も2、3口とかしか食べられなくて。これまでの現場で、一番痩せてしまいました。
加藤似顔絵を台本に描たりしました。10日目くらいかな、砂時計みたいな女の子を描きました。
木竜ふたりはよく一緒に作品を作っているから、やり方もわかっているし、本番に入っていくスイッチングもほぼ同時なんですよ。
藤原さんは、加藤監督主宰「劇団た組」の舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)『貴方なら生き残れるわ』(18)『誰にも知られず死ぬ朝』(20)『ぽに』(21)に出演されていて、加藤監督も「僕の現場や作品におけるトーン&マナーみたいなことを十分理解してくれている」とコメントされていました。
木竜ふたりは控え室でたくさん盛り上がっていたのに、急に本番モードになる。それを1週間毎日やられると情緒がおかしくなりそうで、ほんとにやめてほしくて。初めて監督という存在に言いました、「バーカ!」って(笑)。
でも、そういうことを正直に言えるくらい信頼していました。藤原さんも知っていたので、ふたりを信頼して、身を委ねて現場に立てたのは大きかったと思います。
正常と異常は両極端ではない。
重なり合ったり、近くに存在したり。
映画では何度もふたりでコミュニケーションを図るシーンが描かれているのに、演じているふたりもボロボロになるぐらい、ふたりの関係性が破綻していきます。おふたりは「わかりあうこと」について、どう思われますか? 役を演じる中で、考えられたことはありますか。
藤原映画の中のふたりは、自分たちでは「理解し合っている」と思っているんですよ。第三者的に見ている僕たちからしたら「全然、わかりあえていないな」って思うけれど。だけど、優実と直哉にもわかりあえないことも愛しい、もしかしたらわかりあえていたかもしれない幸せな時間があった、というのが大事なことなんだと思います。
わかりあえない方ばかりに目が行きがちですけど、ふたりがわかりあえない互いを理解して、心を通わせていた時間もたしかにあったので。幸せな時間も忘れちゃいけないなって思います。
木竜そうですね。それはきっと、いろんな人間関係があるからで。優実にも恋人以外に、友人、家族といった人間関係が描かれて、それぞれ気持ちや立ち振る舞いが違う。だけど、時々別のグループに別の私を持ち込んでしまうから、理解できないことが生まれるのかもしれないですよね。
藤原つまり、「わかりあうこと」について考えるきっかけになるということ?
木竜「わかりあえないこと」についても考えられる。両方の側面があるかな。
藤原監督はどうですか?
木竜どうですか?
加藤いや、「わかりあう/わかりあえない」ということではなくて大前提、他人のことは絶対にわからないですよね。その「わからない」ということを、理解しているかどうかが大事なのではないかと思います。
藤原他人のことはわからなくて、当然?
加藤わからないでしょう。
木竜たしかにこの映画は、「“理解し合えないまま生きていること”は大前提としてある」を考えるきっかけになりますよね。
お互いに本音をずっと言わないから、理解し合えないのではないかと考えていました。
木竜優実はあけすけに本音を話すような子ではなかったと思います。話す相手がどんな人で、どんな状態か、他人を探る女の子だと思いました。ただ、どんな人も、今話したことが「ほんとの本音か」わからないと思うので、優実みたいな人はいっぱいいますよね。
藤原直哉も、本音はほぼ話さない。自分が悪者にならないように、計算し尽くした本音を相手にぶつけるんです。一度相手の意見に同意して、それから自分の意見を言う。
木竜肯定しているようで、してないんだよね。
藤原そうそう。「仮にそうだったとして、でも〜」って、自分の意見をうまく通そうとするんですよ。
監督の作品のベースには「伝えたいことと言っていることとやっていることは違う」という考えがあると拝見しました。今作のように日常生活を覗き見すると、日常にあるズレが浮かび上がり、こんなにも「異常」があることを感じました。
藤原僕も加藤さんの作品を観ていると、普通の延長に異常があるなっていうのは思います。この前まで上演されていた舞台『もはやしずか』でも、成人男性が包丁を振り回すシーンがあったんですけど、明日は我が身だと思わされるような場面で。
そこだけ切り取れば異常なんだけど、普通の延長に異常とされる行動があるんだと思いました。あと、普段から僕自身が「行動が異常」って言われます。
加藤水を飲んでいたら、急に吐き出したりするんですよ。
藤原みんなが笑うから、楽しくて(笑)。木竜さんは言われますか?
木竜私は「異常」と言われたことはないですけど、正常と異常が両極端に位置しているわけじゃなくて、実は重なり合ったりものすごく近くに存在していたりするんだなってことは思います。監督の舞台を観ても、そう思いました。
加藤僕は異常だとも、普通だとも思ってないです。普通だとか異常だとかカテゴライズはしてないし、そう思うことはあまりないです。
今回の映画は、恋愛で、しかも望まない妊娠をした女性とその恋人という何度も描かれてきたテーマでした。そうしたものを書くときに、加藤監督として決めていたことはありますか?
加藤ラブストーリーという主題は依頼としてあったので、そこから僕が思う「ラブストーリー」を書いた感じです。決めていたことを聞かれると難しいですね。
藤原何度も描かれてきたテーマですけど、描かれているものは極めて個人的な気がします。正常も異常も、人によって価値観や視点が全然違いますから。
その違いを真摯に見つめて、一人の人間を描いた結果、他人から見ると異常に見えるのかもしれない。人によっては、普通に見えるかもしれない。普通に見える女子大生のお腹には子どもが宿っていて、そこに正常や異常では片付けられない感情があるってことですよね。
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