【web MAGAZINE】QUI
#中村屋酒店の兄弟
藤原季節×白磯大知 – 伝えたい、届けたい
映画本編とラジオドラマという2本立てでの全国劇場公開が決定した『中村屋酒店の兄弟』。その新しい映画体験を通して、大切な人や場所との“距離感”について改めて考えさせてくれる佳作だ。主演の藤原季節、監督の白磯大知へのインタビュー。
この映画を必要としてくれる人がいることが嬉しい(藤原)
— 映画『中村屋酒店の兄弟』拝見させていただいて、いま映画館で上映することにすごく意味のある作品だと思いました。お二人としては初上映から3年たって全国で公開されることに対して、どのような思いがありますか? 白磯監督にとっては初監督作品でもありますが。
白磯大知(以下、白磯):ありがたい気持ちはもちろんあるんですけど、それ以上に驚いているというか。中村屋酒店さんのご夫婦をはじめいろんな方の協力があって撮れた作品なので、その感謝を全国公開っていうかたちで返せるのはすごく嬉しく思っています。
— 藤原さんは?
藤原季節(以下、藤原):中村屋酒屋はもう閉店してるんですけど、でもそこに確かにあったものとか、消えていってしまうものとか、大知君は目に見えない何かを撮りたかったんじゃないかと思っていて。それが撮影から3年を経ていま全国に届くっていうのは、この映画に可能性を感じて届けたいと思ってくれた人や、消えていくものに対して思うところがある人がいるってことなんですよね。この映画を必要としてくれる人がいるんだっていうことが嬉しいです。
— すごいことですよね。『中村屋酒店の兄弟』は、映画本編とその前日譚となるラジオドラマ、そしてドキュメンタリーという3本の作品に展開されています。今回はドキュメンタリーの上映はないそうですが、ドキュメンタリーは中村屋酒店が閉店することを映画の撮影中に知ってから撮ることを決めたそうですね。
白磯:そうです。中村屋酒店の閉店は季節君が教えてくれたんですけど、最初に奥さんから「映像で残せたら嬉しい」って言われたのはそういう意味だったのかと気づいて。閉店するまでの3ヵ月間で何回かお邪魔して撮らせていただきました。
— ラジオドラマの制作はどういった経緯で?
白磯:「田辺・弁慶映画祭」でTBSラジオ賞を受賞した時に、「この作品はラジオドラマにしたら面白いんじゃないか」というご提案をいただきました。せっかくだから映画をそのままラジオドラマにするのではなく、映画をより楽しめるような作品を作れたらいいなと。映画本編より過去の話にして、ラジオドラマを聴きながら想像した情景が本編を観ている時に回想として浮かんだらすごく面白いんじゃないかなと思って。
— 実際にすごくユニークな体験でした。ラジオドラマを聴いているときは画があまり浮かばなかったんですけど、映画を観ていると鮮明な思い出に感じられてくるのが不思議な感覚で。僕は自宅で視聴したのですが、映画館だと感じ方がだいぶ違いそうですね。
藤原:テアトル新宿で経験した時は感動的でした。暗闇の中でみんなが耳を澄まして声だけを聴くって初体験でしたから。
— ですよね。その体験だけでも映画館に行く価値があるなと思いました。
書かれていないことが山ほど書かれた本だと気づいた(藤原)
— 中村屋酒店は実在した酒屋なんですよね。脚本の制作段階から、中村屋酒店を舞台として想定されてたんですか?
白磯:そうではなく、タイトルももともと違うお店の名前だったんです。でも本当にいろんな酒屋さんにお願いに行ってもなかなかロケ地が決まらずで。もうどうしようって状態のある日、赤羽の酒屋さんからの帰り道…そこも断られてしまったんですが、携帯で調べたら近隣にもう1件酒屋さんがあって、そこの写真が理想的だったんです。定休日となっていたんですけど行ってみたらたまたま開いていて、ご主人とお話させていただいたんですが、やっぱり唐突なお願いだったので「いやいや…」と。そしたら奥さんも出てきて、「残せるんだったらなんでも協力します」と言ってくださって。「残せる」に込められた意味は、その時はまだ知らなかったですけど。
— 中村屋酒店に決まった時にはもう本はできあがっていたんですね。
白磯:ほぼできていました。でも中村屋酒店の雰囲気や染みついた匂いみたいなものが、役者や作品に十二分に影響したとは思います。
— 藤原さんとはもともとお知り合いだったんですか?
白磯:ほぼ知り合いじゃないといっていい。
藤原:面識はあるぐらいでした。
— なぜ藤原さんにオファーを?
白磯:キャスティングで入っていただいた方が共通の知人で提案していただきました。「いや、そもそもいける?」と思いながらも脚本を送って、まず季節くんに読んでもらえたことが僕は嬉しかったんですが、やっぱり「ちょっと何が面白いかわからない」という答えで。じゃあまた別の方を探さないと、と思っていたら「直接監督と会って話をしたい」と電話をいただいたんです。新宿だっけ?
藤原:いや、渋谷。
白磯:渋谷のカフェで会ってコーヒーを飲みながら、「もう1回読んでいい?」って目の前で本を読み始めて。
藤原:カフェの喫煙所でタバコを吸ってる時に、大知君がぽろっと「兄弟の距離感を描きたいんですよね」って言ったんですよ。それがピンって琴線を弾いて。もう1回だけ読ませてくださいって、その場で心が変わりました。
— 藤原さんの中に、兄弟の距離感に対する興味・関心がもともとあったんですか?
藤原:というよりは、脚本をしっかり読めてなかったかもしれないと思ったんですよね。3年前の自分の未熟さによるものなんですけど、書かれてあることをそのまま読むことしかできないとか、読もうとする努力をしていなかったというのがあって。新しい監督だし、年齢も僕より3つぐらい若いし、ちょっと大知君のことをなめてる気持ちもあった。だから兄弟の距離感を描きたいって言われた時に、ひょっとしたら一行のセリフに込められた裏の感情がたくさん眠ってるんじゃないかと読んでみたら、案の定書かれていないことが山ほど書かれた本だなっていうことに気づいて。それで、もうその場で「はぁ、すごいな」と。
— 白磯監督が兄弟の距離感を描きたいという思いに至ったのはなぜでしょう?
白磯:距離感が近くなればなるほど本当に伝えたいことってなかなか言えない。逆に隠したい気持ちは、本当に言ったかのように伝わっちゃう。兄弟とか両親とか、お互いの信頼関係があるから起こるちぐはぐさなんですよね。両親とかなんも言ってないのに急に「元気?」みたいな電話がかかってきたりするじゃないですか。そういうことが面白いし不思議だなと。自分は兄弟がいるし、男兄弟の話を書いてみようと思って脚本にしました。
自分自身を深掘りすることがコミュニケーションに繋がる(白磯)
— 男兄弟って距離感の難しさが顕著に表れると思うんですけど、男兄弟に限らず人と人の距離感ってこういう感じあるよなって映画を観ていてすごく共感できました。お二人が普段、人との関係性で意識していることや大事にしていることはありますか?
藤原:むしろ、それしか大事にしてないですね。
— 距離感を?
藤原:そう。自分が思ってることをそのまま相手に伝えると、コミュニケーションが成立しないので。相手にもらおうとするばかりじゃなくて、自分はこの人に何を与えられるんだろうって考える時間が積み重なると自然と距離感も考えるようになって、自分の思っていることをどう伝えればこの人に届くだろうっていうことを考えるようになる。それはもう日々、毎日、毎秒考えています。
— 疲れることはないですか? ずっと考え続けていたら。
藤原:でもそうじゃないと。果てしない問題です、それが。
— 白磯さんも人との距離感で気を使うところはありますか?
白磯:僕は自分の気持ちをストレートに言うことが苦手なんです。「好き」って思った時にパッと感情のまま言葉にして、自分の100%を全部ぶつけても相手には2%とか3%しか伝わらないこともあるなと思って。そこでどういう伝え方をしたら相手が聞いてくれるか、理解してもらえるのか。それにはまず自分がどう見られているか…別に体面を気にするっていうわけではなく、自分自身をどれぐらい深掘りできるかということが、結局他人とのコミュニケーションに繋がっていくのかなと。毎分毎秒考えているわけじゃないですけど、自分はどういう人間なんだろうと考えるのは大事だなと思っています。
— 面白いですね。人がどう見ているかじゃなくて自分が自分をどう見るかっていうことを深く考えるっていうのが。
白磯:まさにそうですね。
— では最後に、これから映画をご覧になる方へのメッセージをお願いします。
藤原:ラジオドラマは音で聴いて想像で楽しむもので、映画は視覚でも感じるもの。いろんな面から中村屋酒店っていう場所のことを45分間考え続ける時間っていうのは、言葉にするのは難しいけど意味があるし、価値があるものなんじゃないかなと僕は信じたいですね。
白磯:僕はこの映画を見終わった後に、自分の家族に連絡してみようかなとか、久々に思い出すようなきっかけになればいいなっていうのはすごく感じていて。それは家族なのか、兄弟なのか、友人なのか。その人と酒飲みたいなって思えるのが一番いいいなと。あとはやっぱり普通の酒屋さん、町の小さい酒屋さんにふらっとそこにお酒を買いに行ってもらえたら嬉しいかな。
藤原:買うものはコンビニと同じでも。
白磯:ちょっと覗いてみようかなっていうきっかけになればいいかなとは思います。
藤原:さっき大知君が100%伝えたいと思ったことが2%しか届かないみたいな話をしてたけど、この映画を観て0%よりは2%でも伝わってくれるといいよね。
白磯:それはそうだね。
#中村屋酒店の兄弟
藤原季節×白磯大知 – 伝えたい、届けたい
映画本編とラジオドラマという2本立てでの全国劇場公開が決定した『中村屋酒店の兄弟』。その新しい映画体験を通して、大切な人や場所との“距離感”について改めて考えさせてくれる佳作だ。主演の藤原季節、監督の白磯大知へのインタビュー。
この映画を必要としてくれる人がいることが嬉しい(藤原)
— 映画『中村屋酒店の兄弟』拝見させていただいて、いま映画館で上映することにすごく意味のある作品だと思いました。お二人としては初上映から3年たって全国で公開されることに対して、どのような思いがありますか? 白磯監督にとっては初監督作品でもありますが。
白磯大知(以下、白磯):ありがたい気持ちはもちろんあるんですけど、それ以上に驚いているというか。中村屋酒店さんのご夫婦をはじめいろんな方の協力があって撮れた作品なので、その感謝を全国公開っていうかたちで返せるのはすごく嬉しく思っています。
— 藤原さんは?
藤原季節(以下、藤原):中村屋酒屋はもう閉店してるんですけど、でもそこに確かにあったものとか、消えていってしまうものとか、大知君は目に見えない何かを撮りたかったんじゃないかと思っていて。それが撮影から3年を経ていま全国に届くっていうのは、この映画に可能性を感じて届けたいと思ってくれた人や、消えていくものに対して思うところがある人がいるってことなんですよね。この映画を必要としてくれる人がいるんだっていうことが嬉しいです。
— すごいことですよね。『中村屋酒店の兄弟』は、映画本編とその前日譚となるラジオドラマ、そしてドキュメンタリーという3本の作品に展開されています。今回はドキュメンタリーの上映はないそうですが、ドキュメンタリーは中村屋酒店が閉店することを映画の撮影中に知ってから撮ることを決めたそうですね。
白磯:そうです。中村屋酒店の閉店は季節君が教えてくれたんですけど、最初に奥さんから「映像で残せたら嬉しい」って言われたのはそういう意味だったのかと気づいて。閉店するまでの3ヵ月間で何回かお邪魔して撮らせていただきました。
— ラジオドラマの制作はどういった経緯で?
白磯:「田辺・弁慶映画祭」でTBSラジオ賞を受賞した時に、「この作品はラジオドラマにしたら面白いんじゃないか」というご提案をいただきました。せっかくだから映画をそのままラジオドラマにするのではなく、映画をより楽しめるような作品を作れたらいいなと。映画本編より過去の話にして、ラジオドラマを聴きながら想像した情景が本編を観ている時に回想として浮かんだらすごく面白いんじゃないかなと思って。
— 実際にすごくユニークな体験でした。ラジオドラマを聴いているときは画があまり浮かばなかったんですけど、映画を観ていると鮮明な思い出に感じられてくるのが不思議な感覚で。僕は自宅で視聴したのですが、映画館だと感じ方がだいぶ違いそうですね。
藤原:テアトル新宿で経験した時は感動的でした。暗闇の中でみんなが耳を澄まして声だけを聴くって初体験でしたから。
— ですよね。その体験だけでも映画館に行く価値があるなと思いました。
書かれていないことが山ほど書かれた本だと気づいた(藤原)
— 中村屋酒店は実在した酒屋なんですよね。脚本の制作段階から、中村屋酒店を舞台として想定されてたんですか?
白磯:そうではなく、タイトルももともと違うお店の名前だったんです。でも本当にいろんな酒屋さんにお願いに行ってもなかなかロケ地が決まらずで。もうどうしようって状態のある日、赤羽の酒屋さんからの帰り道…そこも断られてしまったんですが、携帯で調べたら近隣にもう1件酒屋さんがあって、そこの写真が理想的だったんです。定休日となっていたんですけど行ってみたらたまたま開いていて、ご主人とお話させていただいたんですが、やっぱり唐突なお願いだったので「いやいや…」と。そしたら奥さんも出てきて、「残せるんだったらなんでも協力します」と言ってくださって。「残せる」に込められた意味は、その時はまだ知らなかったですけど。
— 中村屋酒店に決まった時にはもう本はできあがっていたんですね。
白磯:ほぼできていました。でも中村屋酒店の雰囲気や染みついた匂いみたいなものが、役者や作品に十二分に影響したとは思います。
— 藤原さんとはもともとお知り合いだったんですか?
白磯:ほぼ知り合いじゃないといっていい。
藤原:面識はあるぐらいでした。
— なぜ藤原さんにオファーを?
白磯:キャスティングで入っていただいた方が共通の知人で提案していただきました。「いや、そもそもいける?」と思いながらも脚本を送って、まず季節くんに読んでもらえたことが僕は嬉しかったんですが、やっぱり「ちょっと何が面白いかわからない」という答えで。じゃあまた別の方を探さないと、と思っていたら「直接監督と会って話をしたい」と電話をいただいたんです。新宿だっけ?
藤原:いや、渋谷。
白磯:渋谷のカフェで会ってコーヒーを飲みながら、「もう1回読んでいい?」って目の前で本を読み始めて。
藤原:カフェの喫煙所でタバコを吸ってる時に、大知君がぽろっと「兄弟の距離感を描きたいんですよね」って言ったんですよ。それがピンって琴線を弾いて。もう1回だけ読ませてくださいって、その場で心が変わりました。
— 藤原さんの中に、兄弟の距離感に対する興味・関心がもともとあったんですか?
藤原:というよりは、脚本をしっかり読めてなかったかもしれないと思ったんですよね。3年前の自分の未熟さによるものなんですけど、書かれてあることをそのまま読むことしかできないとか、読もうとする努力をしていなかったというのがあって。新しい監督だし、年齢も僕より3つぐらい若いし、ちょっと大知君のことをなめてる気持ちもあった。だから兄弟の距離感を描きたいって言われた時に、ひょっとしたら一行のセリフに込められた裏の感情がたくさん眠ってるんじゃないかと読んでみたら、案の定書かれていないことが山ほど書かれた本だなっていうことに気づいて。それで、もうその場で「はぁ、すごいな」と。
— 白磯監督が兄弟の距離感を描きたいという思いに至ったのはなぜでしょう?
白磯:距離感が近くなればなるほど本当に伝えたいことってなかなか言えない。逆に隠したい気持ちは、本当に言ったかのように伝わっちゃう。兄弟とか両親とか、お互いの信頼関係があるから起こるちぐはぐさなんですよね。両親とかなんも言ってないのに急に「元気?」みたいな電話がかかってきたりするじゃないですか。そういうことが面白いし不思議だなと。自分は兄弟がいるし、男兄弟の話を書いてみようと思って脚本にしました。
自分自身を深掘りすることがコミュニケーションに繋がる(白磯)
— 男兄弟って距離感の難しさが顕著に表れると思うんですけど、男兄弟に限らず人と人の距離感ってこういう感じあるよなって映画を観ていてすごく共感できました。お二人が普段、人との関係性で意識していることや大事にしていることはありますか?
藤原:むしろ、それしか大事にしてないですね。
— 距離感を?
藤原:そう。自分が思ってることをそのまま相手に伝えると、コミュニケーションが成立しないので。相手にもらおうとするばかりじゃなくて、自分はこの人に何を与えられるんだろうって考える時間が積み重なると自然と距離感も考えるようになって、自分の思っていることをどう伝えればこの人に届くだろうっていうことを考えるようになる。それはもう日々、毎日、毎秒考えています。
— 疲れることはないですか? ずっと考え続けていたら。
藤原:でもそうじゃないと。果てしない問題です、それが。
— 白磯さんも人との距離感で気を使うところはありますか?
白磯:僕は自分の気持ちをストレートに言うことが苦手なんです。「好き」って思った時にパッと感情のまま言葉にして、自分の100%を全部ぶつけても相手には2%とか3%しか伝わらないこともあるなと思って。そこでどういう伝え方をしたら相手が聞いてくれるか、理解してもらえるのか。それにはまず自分がどう見られているか…別に体面を気にするっていうわけではなく、自分自身をどれぐらい深掘りできるかということが、結局他人とのコミュニケーションに繋がっていくのかなと。毎分毎秒考えているわけじゃないですけど、自分はどういう人間なんだろうと考えるのは大事だなと思っています。
— 面白いですね。人がどう見ているかじゃなくて自分が自分をどう見るかっていうことを深く考えるっていうのが。
白磯:まさにそうですね。
— では最後に、これから映画をご覧になる方へのメッセージをお願いします。
藤原:ラジオドラマは音で聴いて想像で楽しむもので、映画は視覚でも感じるもの。いろんな面から中村屋酒店っていう場所のことを45分間考え続ける時間っていうのは、言葉にするのは難しいけど意味があるし、価値があるものなんじゃないかなと僕は信じたいですね。
白磯:僕はこの映画を見終わった後に、自分の家族に連絡してみようかなとか、久々に思い出すようなきっかけになればいいなっていうのはすごく感じていて。それは家族なのか、兄弟なのか、友人なのか。その人と酒飲みたいなって思えるのが一番いいいなと。あとはやっぱり普通の酒屋さん、町の小さい酒屋さんにふらっとそこにお酒を買いに行ってもらえたら嬉しいかな。
藤原:買うものはコンビニと同じでも。
白磯:ちょっと覗いてみようかなっていうきっかけになればいいかなとは思います。
藤原:さっき大知君が100%伝えたいと思ったことが2%しか届かないみたいな話をしてたけど、この映画を観て0%よりは2%でも伝わってくれるといいよね。
白磯:それはそうだね。
人一旦開悟能看到什麼?非常震撼!
原創 水木然
1
科技越發達,人類對世界的認知越清晰,越接近世界的真相。
"元宇宙"是當前人類最大的科技趨勢,勢不可擋,人人都在關注。
其實,我們生活的這個世界,就是一個"元宇宙"。
只要"元宇宙"的技術成熟,人類就會虛構出一個"新世界",然後就可以把很多人塞進去,讓他們在裡面繁衍。
或者當地球面臨日益惡化的環境危機,核危機,疫情等等,就會有一批人構建一個新世界,然後移民進去,開啟新生活。
這不就是當年諾亞方舟的故事嗎?地球發生了洪水,最後只有一小撮人才通過船隻實現了逃生......
按照這個邏輯,人類世界很可能就是一個被高維生命設計出來的"元宇宙"。
為什麼這麼說呢?
首先,我們思考一個問題:網路遊戲的本質是什麼?
人類只要構建一個虛擬的場景/角色和故事,然後設定了各種打怪和升級的程式,再設置各種各樣的角色,讓一個個ID帶入其中,這就類比了一個虛擬的世界:裡面各種角色互相鬥爭/合作,這讓很多角色沉浸其中不可自拔,但是所有角色的命運都是被人類設定好的,誰都逃不了這個虛擬世界的邏輯。
按照這個邏輯,我們該如何證明人生不是被高維生物虛擬出來的遊戲?
馬斯克一直認為:人類可能生活在一個被虛擬的計算機場景中,他堅信更高維度的生物很有可能是我們的造物主,就像人類也在製造更低維的虛擬世界(網路遊戲)一樣。
宇宙已存在了近140億年,而人類出現在地球上的歷史才不到一萬年,從統計學角度看,在如此漫長的時間內,很有可能多個維度的文明。
每一個維度的生命,都是由上一個高維生命創造出來的。高維生物是低維生物的造物主,低維生物都被設計好了程序,然後各自運轉,這就是低維生物的宿命。
用心感受下人生,是不是總是被宿命包圍,它讓我們無法掙脫,我們經常講造化弄人,生死輪迴,這種宿命很可能就是被高維文明設定的程式,成為了世界萬物運轉客觀規律。
2
在人類看來,人間的起起伏伏都是隨機的,但是對高維生物來說,一切都是按照他們設定的程式在演繹,一切都逃不出他們的手掌心。
先有程式,後有了世界萬物。老子發現了這個程式,把它稱為"道"。 (有物混成,先天地生。 吾不知其名,字之曰道)
遊戲中的角色,只能遵守這個秩序。在他們眼中,程式是永遠獨立運行的,永遠無法更改的,迴圈運轉,生生不息。我們這個世界的"道"也是一樣(獨立而不改,周行而不殆,可以為天下母)。
至於這個「道」究竟是誰編寫的?老子說也不知道(吾不知誰之子,象帝之先)。
一直有悟性極高的人試圖破譯這個程式,比如中國人的八卦圖、河圖洛書、奇門遁甲等等,就是對這個程式的破譯。
當然,世界上的絕大多數人只對遊戲規則感興趣,比如怎麼打怪升級的?而對遊戲本身的程序設計並不感興趣。也就是說,沒有幾個人願意研究世界背後的"道",大家都是為了現實世界的名利而奔波。
高維生命看待我們,就像我們看待一群螞蟻一樣,看到我們整日忙碌奔波,最終只是為了一場名利,就覺的人類非常可笑。
當然,高維生命也不想我們參透這個"道",他們通過一系列遊戲規則迷惑我們,讓我們沉迷遊戲規則不可自拔,而不是天天去研究遊戲背後的程式是怎麼來的。
然而,隨著人類科技水準的進步,我們對世界的認知越來越深刻,越來越能去接近那個"道"。 人類不斷的悟道,問道,都是為了解讀這個"道"。
一旦參透了這個"道",就掌握了真相和命運,從此平步青雲。也叫"一人得道,雞犬升天。 ”
3
人類是高維生物的投影,世界是高維空間的監獄。
那些在犯了錯的高維生物都被流放到了人間,成為凡夫俗子,所以上帝說:你們每個人都有罪。至於要關多久,就看你自己的改造(修行)了。
有的人在世間誠心修行,積德行善,如果贖罪成功 ,下一世就會回到到高維空間。有的人修行不夠,或者犯的錯太嚴重,被關押一輩子都不夠,就會不斷的在人間輪迴,不停的接受改造。
所以佛曰:眾生皆苦,做人就是要受罪的。當然,還有很多人淪落到了人間依然不思悔改,反而在人間繼續造孽,那麼下一輩子就會被繼續打入更低維度的空間——地獄,成為鬼怪;或者畜生道,成為畜生。
所以畜生要修行幾百年才能成為人,而人要修行很多世才能回到高維生物,就像遊戲裡的打怪升級一樣,要經過累生累世的修行才能升級。
有的人不刻苦修行,反而偷偷的尋找各種捷徑,比如求神搞鬼,迷信各種魔道,這就叫"越獄",這種人必遭天遣。
高維世界為了管理世間的這些囚犯,也會經常派人下來,比如有的人是來傳道的,目的是為了感化這些囚犯,這就是佈道者。
還有人下來是管理人類的,這就是政治家;還有人下來是體驗生活的,這往往就是藝術家等等,這些人在世間算是異類了,當然他們也往往不被世人理解。
因此在人間的狀態各不相同,有的人功成名就,有的人碌碌無為,有的人操勞奔波,有的人榮華富貴,其實都是早已註定。
4
人要想徹底擺脫痛苦,重新回到高維世界,只有兩大通道:
第一種是"開悟",屬於佛家。第一種是"得道",屬於道家。
道家修的是今生,靠的是符合規律,順勢而為,也叫"合其道",不需要再做無妄的努力,完全順其自然,這就是無為。
佛家修的是來世,靠的是因果關係,為了某個結果就得去種這個因,這就是發心,發心之後就要堅持初心,要放棄很多慾望,刻苦修行。
如果一個人能掌握了萬事萬物的規律,那麼就可以不用再吃生活里的各種苦,也就是說:抓住了規律就可以跳出"因果"這個局。這就是"得道",即:掌握了規律,這種人就是"真人",從此逍遙。
同樣的邏輯:如果你能堅守發心,忍受生活裡的各種痛苦,百般忍耐,也可以超越規律這個局。這就是"開悟",即:看到了真相。這種人就是「覺者」。
所以,世界上真正的牛人往往有兩種能力:或者能一下抓到規律和本質,或者能瞬間看到真相,這種人就是"神人"。
這兩種能力可以讓我們從高維俯瞰自己,俯瞰眾生。這就像你在玩遊戲,之前你總以為自己是主角,一直在邊界外努力打怪,後來有一天你忽然變成了那個玩遊戲的人。
於是一瞬間你就看清了自己所有的問題,能站在高維審視自己,從此開始遊刃有餘。
5
人生最重要的能力,是"開悟"。"開悟"也是人生最美妙的感覺,就像撥開烏雲見天日,讓你刹那間看透萬物的真諦和人生的真相,簡直妙不可言。
開悟分為兩種,一種是"漸悟",另一種是"頓悟"。
"漸悟"是隨著人認知的提升和閱歷的增長,逐漸抵達的一種境界,需要的是後天的努力。
"頓悟"是人生的某一刻忽然衝出了之前的思維牢籠,這種讓往往先天就有較高的悟性。
如果一個人開悟了,那麼所有的事情都迎刃而解,如果一個人執迷不悟,即便把所有的好機會/資源給他,他也接不住。
無論是孔孟、佛祖、老莊,還是瑜伽,上帝,都有存在的終極目的只有一個:引導我們進入"開悟"的狀態。
開悟靠修行,真正的修行,既不需要藏在深山老林,也不需要躲在寺院廟宇。水木然經常說:最好的修行道場就是「紅塵俗世」,最好的修行方式就是「紅塵煉心」。。
現在很多人,動不動就想著逃避現實社會,經常去深山寺廟去修行,這是最大的認知誤區。六祖禪師有句話:心平何須持戒,身正何須坐禪。
意思是:如果能把心修好了,還需要持戒嗎?如果能把人做正了,就需要坐禪嗎?
真正的修行,既不需要藏在深山老林,也不需要躲在寺院廟宇。而是在滾滾紅塵中,你若能借各種凡人俗事把心修平了,把人做正了,就行修行成功了。
我們經歷的每一件事(好事或壞事),遇到的每一個人(好人或壞人),都是來度我們的,我們經歷的每一份驚喜,遭受的每一份痛苦,都是讓我們覺悟的。或好或壞,或痛苦或開心,都只是為了讓我們覺醒。
修行的目的不是為了絕塵而去,而是為了一種人生的灑脫,因為你將擁有一種看穿事物的能力,能對世事和人心抽絲剝繭,一眼看穿人心,直達事物本質,於是你將看到最真實的世界。
開悟之前,是"我在活著",開悟之後,是"我看著我在活著"。它可以讓我們從高維俯瞰自己,俯瞰眾生。跳出三界外,不在五行中。
這就像你在玩遊戲,之前你總以為你是主角,一直在努力打怪,後來有一天你忽然變成了玩遊戲的那個人,於是一瞬間你就看清了自己所有的問題。這就找到了自己的"元神",可自照,亦可照人。
人生一旦開悟(得道),就看到了真相,就認清了人生本質,這種人從此只能自己做主了,因為沒有人再能給他們提供雞湯了。
原創 水木然
1
科技越發達,人類對世界的認知越清晰,越接近世界的真相。
"元宇宙"是當前人類最大的科技趨勢,勢不可擋,人人都在關注。
其實,我們生活的這個世界,就是一個"元宇宙"。
只要"元宇宙"的技術成熟,人類就會虛構出一個"新世界",然後就可以把很多人塞進去,讓他們在裡面繁衍。
或者當地球面臨日益惡化的環境危機,核危機,疫情等等,就會有一批人構建一個新世界,然後移民進去,開啟新生活。
這不就是當年諾亞方舟的故事嗎?地球發生了洪水,最後只有一小撮人才通過船隻實現了逃生......
按照這個邏輯,人類世界很可能就是一個被高維生命設計出來的"元宇宙"。
為什麼這麼說呢?
首先,我們思考一個問題:網路遊戲的本質是什麼?
人類只要構建一個虛擬的場景/角色和故事,然後設定了各種打怪和升級的程式,再設置各種各樣的角色,讓一個個ID帶入其中,這就類比了一個虛擬的世界:裡面各種角色互相鬥爭/合作,這讓很多角色沉浸其中不可自拔,但是所有角色的命運都是被人類設定好的,誰都逃不了這個虛擬世界的邏輯。
按照這個邏輯,我們該如何證明人生不是被高維生物虛擬出來的遊戲?
馬斯克一直認為:人類可能生活在一個被虛擬的計算機場景中,他堅信更高維度的生物很有可能是我們的造物主,就像人類也在製造更低維的虛擬世界(網路遊戲)一樣。
宇宙已存在了近140億年,而人類出現在地球上的歷史才不到一萬年,從統計學角度看,在如此漫長的時間內,很有可能多個維度的文明。
每一個維度的生命,都是由上一個高維生命創造出來的。高維生物是低維生物的造物主,低維生物都被設計好了程序,然後各自運轉,這就是低維生物的宿命。
用心感受下人生,是不是總是被宿命包圍,它讓我們無法掙脫,我們經常講造化弄人,生死輪迴,這種宿命很可能就是被高維文明設定的程式,成為了世界萬物運轉客觀規律。
2
在人類看來,人間的起起伏伏都是隨機的,但是對高維生物來說,一切都是按照他們設定的程式在演繹,一切都逃不出他們的手掌心。
先有程式,後有了世界萬物。老子發現了這個程式,把它稱為"道"。 (有物混成,先天地生。 吾不知其名,字之曰道)
遊戲中的角色,只能遵守這個秩序。在他們眼中,程式是永遠獨立運行的,永遠無法更改的,迴圈運轉,生生不息。我們這個世界的"道"也是一樣(獨立而不改,周行而不殆,可以為天下母)。
至於這個「道」究竟是誰編寫的?老子說也不知道(吾不知誰之子,象帝之先)。
一直有悟性極高的人試圖破譯這個程式,比如中國人的八卦圖、河圖洛書、奇門遁甲等等,就是對這個程式的破譯。
當然,世界上的絕大多數人只對遊戲規則感興趣,比如怎麼打怪升級的?而對遊戲本身的程序設計並不感興趣。也就是說,沒有幾個人願意研究世界背後的"道",大家都是為了現實世界的名利而奔波。
高維生命看待我們,就像我們看待一群螞蟻一樣,看到我們整日忙碌奔波,最終只是為了一場名利,就覺的人類非常可笑。
當然,高維生命也不想我們參透這個"道",他們通過一系列遊戲規則迷惑我們,讓我們沉迷遊戲規則不可自拔,而不是天天去研究遊戲背後的程式是怎麼來的。
然而,隨著人類科技水準的進步,我們對世界的認知越來越深刻,越來越能去接近那個"道"。 人類不斷的悟道,問道,都是為了解讀這個"道"。
一旦參透了這個"道",就掌握了真相和命運,從此平步青雲。也叫"一人得道,雞犬升天。 ”
3
人類是高維生物的投影,世界是高維空間的監獄。
那些在犯了錯的高維生物都被流放到了人間,成為凡夫俗子,所以上帝說:你們每個人都有罪。至於要關多久,就看你自己的改造(修行)了。
有的人在世間誠心修行,積德行善,如果贖罪成功 ,下一世就會回到到高維空間。有的人修行不夠,或者犯的錯太嚴重,被關押一輩子都不夠,就會不斷的在人間輪迴,不停的接受改造。
所以佛曰:眾生皆苦,做人就是要受罪的。當然,還有很多人淪落到了人間依然不思悔改,反而在人間繼續造孽,那麼下一輩子就會被繼續打入更低維度的空間——地獄,成為鬼怪;或者畜生道,成為畜生。
所以畜生要修行幾百年才能成為人,而人要修行很多世才能回到高維生物,就像遊戲裡的打怪升級一樣,要經過累生累世的修行才能升級。
有的人不刻苦修行,反而偷偷的尋找各種捷徑,比如求神搞鬼,迷信各種魔道,這就叫"越獄",這種人必遭天遣。
高維世界為了管理世間的這些囚犯,也會經常派人下來,比如有的人是來傳道的,目的是為了感化這些囚犯,這就是佈道者。
還有人下來是管理人類的,這就是政治家;還有人下來是體驗生活的,這往往就是藝術家等等,這些人在世間算是異類了,當然他們也往往不被世人理解。
因此在人間的狀態各不相同,有的人功成名就,有的人碌碌無為,有的人操勞奔波,有的人榮華富貴,其實都是早已註定。
4
人要想徹底擺脫痛苦,重新回到高維世界,只有兩大通道:
第一種是"開悟",屬於佛家。第一種是"得道",屬於道家。
道家修的是今生,靠的是符合規律,順勢而為,也叫"合其道",不需要再做無妄的努力,完全順其自然,這就是無為。
佛家修的是來世,靠的是因果關係,為了某個結果就得去種這個因,這就是發心,發心之後就要堅持初心,要放棄很多慾望,刻苦修行。
如果一個人能掌握了萬事萬物的規律,那麼就可以不用再吃生活里的各種苦,也就是說:抓住了規律就可以跳出"因果"這個局。這就是"得道",即:掌握了規律,這種人就是"真人",從此逍遙。
同樣的邏輯:如果你能堅守發心,忍受生活裡的各種痛苦,百般忍耐,也可以超越規律這個局。這就是"開悟",即:看到了真相。這種人就是「覺者」。
所以,世界上真正的牛人往往有兩種能力:或者能一下抓到規律和本質,或者能瞬間看到真相,這種人就是"神人"。
這兩種能力可以讓我們從高維俯瞰自己,俯瞰眾生。這就像你在玩遊戲,之前你總以為自己是主角,一直在邊界外努力打怪,後來有一天你忽然變成了那個玩遊戲的人。
於是一瞬間你就看清了自己所有的問題,能站在高維審視自己,從此開始遊刃有餘。
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人生最重要的能力,是"開悟"。"開悟"也是人生最美妙的感覺,就像撥開烏雲見天日,讓你刹那間看透萬物的真諦和人生的真相,簡直妙不可言。
開悟分為兩種,一種是"漸悟",另一種是"頓悟"。
"漸悟"是隨著人認知的提升和閱歷的增長,逐漸抵達的一種境界,需要的是後天的努力。
"頓悟"是人生的某一刻忽然衝出了之前的思維牢籠,這種讓往往先天就有較高的悟性。
如果一個人開悟了,那麼所有的事情都迎刃而解,如果一個人執迷不悟,即便把所有的好機會/資源給他,他也接不住。
無論是孔孟、佛祖、老莊,還是瑜伽,上帝,都有存在的終極目的只有一個:引導我們進入"開悟"的狀態。
開悟靠修行,真正的修行,既不需要藏在深山老林,也不需要躲在寺院廟宇。水木然經常說:最好的修行道場就是「紅塵俗世」,最好的修行方式就是「紅塵煉心」。。
現在很多人,動不動就想著逃避現實社會,經常去深山寺廟去修行,這是最大的認知誤區。六祖禪師有句話:心平何須持戒,身正何須坐禪。
意思是:如果能把心修好了,還需要持戒嗎?如果能把人做正了,就需要坐禪嗎?
真正的修行,既不需要藏在深山老林,也不需要躲在寺院廟宇。而是在滾滾紅塵中,你若能借各種凡人俗事把心修平了,把人做正了,就行修行成功了。
我們經歷的每一件事(好事或壞事),遇到的每一個人(好人或壞人),都是來度我們的,我們經歷的每一份驚喜,遭受的每一份痛苦,都是讓我們覺悟的。或好或壞,或痛苦或開心,都只是為了讓我們覺醒。
修行的目的不是為了絕塵而去,而是為了一種人生的灑脫,因為你將擁有一種看穿事物的能力,能對世事和人心抽絲剝繭,一眼看穿人心,直達事物本質,於是你將看到最真實的世界。
開悟之前,是"我在活著",開悟之後,是"我看著我在活著"。它可以讓我們從高維俯瞰自己,俯瞰眾生。跳出三界外,不在五行中。
這就像你在玩遊戲,之前你總以為你是主角,一直在努力打怪,後來有一天你忽然變成了玩遊戲的那個人,於是一瞬間你就看清了自己所有的問題。這就找到了自己的"元神",可自照,亦可照人。
人生一旦開悟(得道),就看到了真相,就認清了人生本質,這種人從此只能自己做主了,因為沒有人再能給他們提供雞湯了。
以前总觉得人声鼎沸,车水马龙的街道甚是聒噪,可现在却想看看生鸡活鸭,新鲜水灵的瓜菜,彤红的辣椒,想遇到桥底下卖大葱的老奶奶,想听小贩们扯着嗓门大声叫卖,想看到每次下班途径的街道,满是人间烟火气。一场疫情才让我们知道其实挨挨挤挤,热热闹闹的才是人间美好。那些防疫工作者数不清的凌晨三四点,熬过的夜,和穿梭在我们城市里最美的逆行者,每一次驰援时的目光坚定和勇往直前,都让我们突然被按下暂停键的城市变得鲜活温良,“若似月轮终皎洁,不辞冰雪为卿热”,每一场重大灾难都是考验人性的时候,而我们也经受住了时代的考验。少年,就该以身试天下深浅,就该快马扬鞭,道阻且长行则将至,就该骑难训的马,踏未开的田,要永远热泪盈眶,要永远不负使命,要永远一骑当千。
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