#荒巻美咲[超话]#
公演終わりましたっ
ありがとうございました^._.^
前髪を真ん中だけ短くして、前髪ありもなしもできるようにしました⊂(^・^)⊃
前髪ありだと、今日メイクどれだけしたって盛れないなぁって日もましになれるからGood(:]ミ
眉毛があんまり上手くいかなかったけど、
まつ毛がいつもより綺麗に仕上がって驚き
今日は天使の日で、mcのお題が私の好きな所、で、なんかたくさん褒めてもらいました(∩´∀`∩)笑
わたし紛れもないただの人間だから、
天使修行にでなきゃ( ̄∇ ̄)[ 'ω' ]笑
帰り、はるたんさんと別れる時、
気をつけてねって言ってくださって女神や߹߹ってなりました(*´﹃`*)
公演終わりましたっ
ありがとうございました^._.^
前髪を真ん中だけ短くして、前髪ありもなしもできるようにしました⊂(^・^)⊃
前髪ありだと、今日メイクどれだけしたって盛れないなぁって日もましになれるからGood(:]ミ
眉毛があんまり上手くいかなかったけど、
まつ毛がいつもより綺麗に仕上がって驚き
今日は天使の日で、mcのお題が私の好きな所、で、なんかたくさん褒めてもらいました(∩´∀`∩)笑
わたし紛れもないただの人間だから、
天使修行にでなきゃ( ̄∇ ̄)[ 'ω' ]笑
帰り、はるたんさんと別れる時、
気をつけてねって言ってくださって女神や߹߹ってなりました(*´﹃`*)
日頃よりSILENT SIRENを応援して頂き、誠にありがとうございます。
突然のお知らせとはなりますが、2021年9月25日に開催予定の「きららリベンジ〜サイサイ10歳祭〜」をもちまして、ドラマーのひなんちゅこと梅村妃奈子がバンドを脱退することとなりました。
梅村本人より、新しい道に進むためにSILENT SIRENのドラマーとしての活動を終了させたい旨の申し入れがあり、メンバー・スタッフ共に本人の意思を受け止めたものです。
いつも応援してくださっているファンの皆様、関係者の皆様には突然のご報告となり申し訳ございませんが、どうかご理解頂けますと幸いです。
今後は別々の道を歩んでゆくこととなりますが、 どうかSILENT SIRENと梅村妃奈子に変わらぬご声援のほど、心よりお願い申し上げます。
合わせて、今回の件に関しては、メンバーへの直接の質問等は控えて頂けますと幸いです。
2021年9月24日
株式会社プラチナムピクセル
SILENT SIREN
—以下梅村妃奈子のコメント—
突然の発表で驚かせてしまい申し訳ありません。私ひなんちゅは、11年間活動してきたSILENT SIRENのドラム・リーダーという形に終止符を打つことに決めました。
SILENT SIRENは私にとって何にも変え難い大切な存在であり、青春そのものです。
しかし、30歳を機に、1人の女性として自分の生き方を改めて考え、今後は新たな道を選択してみたい、と強く思うようになりました。
今までSILENT SIRENで得た数え切れないほど大切な思い出や経験を胸に、今後はまだ見ぬ新たな道に進んでいきます。
すぅ、あいにゃん、ゆかるん、そしてサウンドプロデューサーのナオキに出逢い、大好きなサイファミのみんなと歳を重ねることができて、私のバンド人生は紛れもなく幸せでした。
野音のライブでドラマーとしてみんなの前に立つのは最後になりますが、一生懸命、そしていつも通りサイサイらしく楽しくドラムを叩かせてもらいます。
本当にありがとうございました。
梅村妃奈子
—以下メンバーのコメント—
いつも応援してくださっている皆様、この度は突然の発表で驚かせてしまい本当に申し訳ございません。
私達も先週になってこのような報告を受け非常に驚いています。
しかし、彼女の強い意思を尊重して受け止めました。
SILENT SIRENは3人になってしまいますが、いつも支えてくれている大切なファンの皆さんのためにもチームで前を向いて、日頃の感謝を変わらず届けていきたいと思っています。
応援してくださった皆様には大変心苦しい発表にはなりましたが、
明日、皆さんと4人での最後のステージを精一杯楽しく過ごせればと思っています。
私たちにとってSILENT SIRENは家みたいな存在でサイファミのみんなは大切な家族です。
いつも感謝の気持ちでいっぱいです。
今後とも4人の活動を応援頂けましたら嬉しいです。
SILENT SIREN すぅ あいにゃん ゆかるん
突然のお知らせとはなりますが、2021年9月25日に開催予定の「きららリベンジ〜サイサイ10歳祭〜」をもちまして、ドラマーのひなんちゅこと梅村妃奈子がバンドを脱退することとなりました。
梅村本人より、新しい道に進むためにSILENT SIRENのドラマーとしての活動を終了させたい旨の申し入れがあり、メンバー・スタッフ共に本人の意思を受け止めたものです。
いつも応援してくださっているファンの皆様、関係者の皆様には突然のご報告となり申し訳ございませんが、どうかご理解頂けますと幸いです。
今後は別々の道を歩んでゆくこととなりますが、 どうかSILENT SIRENと梅村妃奈子に変わらぬご声援のほど、心よりお願い申し上げます。
合わせて、今回の件に関しては、メンバーへの直接の質問等は控えて頂けますと幸いです。
2021年9月24日
株式会社プラチナムピクセル
SILENT SIREN
—以下梅村妃奈子のコメント—
突然の発表で驚かせてしまい申し訳ありません。私ひなんちゅは、11年間活動してきたSILENT SIRENのドラム・リーダーという形に終止符を打つことに決めました。
SILENT SIRENは私にとって何にも変え難い大切な存在であり、青春そのものです。
しかし、30歳を機に、1人の女性として自分の生き方を改めて考え、今後は新たな道を選択してみたい、と強く思うようになりました。
今までSILENT SIRENで得た数え切れないほど大切な思い出や経験を胸に、今後はまだ見ぬ新たな道に進んでいきます。
すぅ、あいにゃん、ゆかるん、そしてサウンドプロデューサーのナオキに出逢い、大好きなサイファミのみんなと歳を重ねることができて、私のバンド人生は紛れもなく幸せでした。
野音のライブでドラマーとしてみんなの前に立つのは最後になりますが、一生懸命、そしていつも通りサイサイらしく楽しくドラムを叩かせてもらいます。
本当にありがとうございました。
梅村妃奈子
—以下メンバーのコメント—
いつも応援してくださっている皆様、この度は突然の発表で驚かせてしまい本当に申し訳ございません。
私達も先週になってこのような報告を受け非常に驚いています。
しかし、彼女の強い意思を尊重して受け止めました。
SILENT SIRENは3人になってしまいますが、いつも支えてくれている大切なファンの皆さんのためにもチームで前を向いて、日頃の感謝を変わらず届けていきたいと思っています。
応援してくださった皆様には大変心苦しい発表にはなりましたが、
明日、皆さんと4人での最後のステージを精一杯楽しく過ごせればと思っています。
私たちにとってSILENT SIRENは家みたいな存在でサイファミのみんなは大切な家族です。
いつも感謝の気持ちでいっぱいです。
今後とも4人の活動を応援頂けましたら嬉しいです。
SILENT SIREN すぅ あいにゃん ゆかるん
#扶桑采撷录# 書簡:太宰治 致 佐藤春夫 1935年6月5日發出
【信封】
(正面)世田谷10・6・5后0‐4 3銭 小石川区関口町二〇七 佐藤春夫様
(反面)〆 世田ケ区経堂町経堂病院内 太宰治
【本文】
拝啓
このたびは、命(いのち)うれしく思ひました。
よろこびの言葉をあれこれと一昼夜ほど、えらびまよつた揚句のはてに、命うれしくといふ言葉がふいと浮んで来ましたので、もうこれ以上考へても、だんだん書きにくくなつて行くばかりであると思ひ、いそいで筆をとりました。
病気(*注1)がすつかりなほりましたなら、山岸君(*注2)に連れていつてもらはうかな、とたのしみにしてゐます。同封の手紙(*注3)をごらん下さい。山岸君はいい友人だと思ひます。私も悪くはありません。きつと好きになると思ひます。
わざとつまらないことばかりを言ふのです。うつかり気をゆるめたら、バンザイが口から出さうで、たまらないのです。
恥かしくてならない、これでしつれいいたしますけれども、決して不愉快にならないで下さい。私は精一ぱいだつたのですから。
先生もおからだを御大切に。
治 拝
佐藤春夫 様
【註解】
(1)太宰は1935年4月、盲腸炎のため阿佐ヶ谷の篠原病院に入院するが、手術後悪化させて腹膜炎を患い、そこで用いた鎮痛剤パビナールの中毒から長い苦しみが始まる。5月に経堂病院に転院、7月1日までに退院し、千葉県船橋町五日市本宿1928に転居した。
(2)山岸外史(1904-1977)。評論家。「佐藤春夫論」(『散文』1934年1月号)で佐藤に認められ入門。太宰との交流について書いた『人間太宰治』(1962年10月、筑摩書房刊)がある。
(3)山岸は佐藤の手紙(1935年6月1日付)を太宰に転送する際、一筆添えて礼状を促した。太宰はその書き添えをこの書簡に同封したのである。それは現存するが、未公開。ただし、太宰自身が翌年、自分に送られてきた手紙を加工して羅列した「虚構の春」(『文学界』1936年7月号)に、その文面を紛れ込ませている。また、前述の佐藤の手紙は、太宰の第一創作集『晩年』(1936年6月、砂子屋書房刊)の帯に印刷されている。
(實踐女子大學•近代作家資料)
【信封】
(正面)世田谷10・6・5后0‐4 3銭 小石川区関口町二〇七 佐藤春夫様
(反面)〆 世田ケ区経堂町経堂病院内 太宰治
【本文】
拝啓
このたびは、命(いのち)うれしく思ひました。
よろこびの言葉をあれこれと一昼夜ほど、えらびまよつた揚句のはてに、命うれしくといふ言葉がふいと浮んで来ましたので、もうこれ以上考へても、だんだん書きにくくなつて行くばかりであると思ひ、いそいで筆をとりました。
病気(*注1)がすつかりなほりましたなら、山岸君(*注2)に連れていつてもらはうかな、とたのしみにしてゐます。同封の手紙(*注3)をごらん下さい。山岸君はいい友人だと思ひます。私も悪くはありません。きつと好きになると思ひます。
わざとつまらないことばかりを言ふのです。うつかり気をゆるめたら、バンザイが口から出さうで、たまらないのです。
恥かしくてならない、これでしつれいいたしますけれども、決して不愉快にならないで下さい。私は精一ぱいだつたのですから。
先生もおからだを御大切に。
治 拝
佐藤春夫 様
【註解】
(1)太宰は1935年4月、盲腸炎のため阿佐ヶ谷の篠原病院に入院するが、手術後悪化させて腹膜炎を患い、そこで用いた鎮痛剤パビナールの中毒から長い苦しみが始まる。5月に経堂病院に転院、7月1日までに退院し、千葉県船橋町五日市本宿1928に転居した。
(2)山岸外史(1904-1977)。評論家。「佐藤春夫論」(『散文』1934年1月号)で佐藤に認められ入門。太宰との交流について書いた『人間太宰治』(1962年10月、筑摩書房刊)がある。
(3)山岸は佐藤の手紙(1935年6月1日付)を太宰に転送する際、一筆添えて礼状を促した。太宰はその書き添えをこの書簡に同封したのである。それは現存するが、未公開。ただし、太宰自身が翌年、自分に送られてきた手紙を加工して羅列した「虚構の春」(『文学界』1936年7月号)に、その文面を紛れ込ませている。また、前述の佐藤の手紙は、太宰の第一創作集『晩年』(1936年6月、砂子屋書房刊)の帯に印刷されている。
(實踐女子大學•近代作家資料)
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