往復書簡33
「若いうちはガンガン遊べ」と言うけれど
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡 エンタメ 芸能 2021年3月7日掲載
片寄涼太
先日銀座で行われたGIVENCHYのイベントの様子。新コレクションが始まりました。仕事モードの雰囲気もお届けさせて頂きます(他の写真を見る)
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡33
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがない。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたと片寄は言う。
拝啓 小竹正人さま
昭和の人たちはみんな口を揃えて「若いうちはガンガン遊べ」とか「若いのだから寝なくても余裕でしょう」「どれだけ食べても太らないでしょう」なんてことをとにかく言う。
この往復書簡を覗き見してくださっている方の中に、こんな台詞を使った覚えがある、あるいは言われた経験のある方はいらっしゃるでしょうか?
僕もエネルギッシュにイケイケでパワフルな人生を謳歌してみたかったな、なんて思うときがあります。
“昭和っぽい”時間の過ぎ方(そんな定義があるのかはわかりませんが)に憧れがないわけではありません。
しかしながら平成という時代に生まれたからなのか、あくまで僕の個人的見解ですが、その類の台詞はなんだかピンと来ないなあと感じます。
そういうパワフルな台詞たちは、顔面ド真ん中より少し右とか左とかに逸れて、耳のそばを豪速球で通り過ぎるみたいに聞こえてくる感じ。
正直疲れていれば多少は寝たいし、カロリーオーバーなものを食べすぎればやっぱりそれなりに太る。
まあこれが年をとっていけばそれでは済まなくなっていくということなのかもしれません。
ただ最もピンと来ないのは、ガンガン遊べということです。
このコロナ禍はもちろんですが、そうなる前から状況や時代は結構違う気がしています。
とくに昨今の芸能人は昭和のそれとは明らかに全く違うのです。
街を歩く人たち全員が写真週刊誌の記者さんだと思ってもいいくらい、誰もがスマホのカメラを自由に使いソーシャルネットワークですぐに目撃情報が呟かれる。
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがないのです。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたということです。
なら誰かに責められるようなことや非難を浴びるようなことを自制した上であれば、心地よく楽しい時間を過ごせば良いのです。
カジキマグロのグリル
ランチにカフェで食べたカジキマグロのグリル。カジキマグロは英語で「swordfish」。魚の種類を英語で覚えるのは途方に暮れる思いです…(他の写真を見る)
ですがここ数年目立つのは芸能人か政治家さんのスキャンダルのニュース。
確かにやってはいけないことをしたのであれば仕方ないとは思うのですが、何のせいと一概には言えない、集団的見えない負のループのようなものが確立されてしまっていて、本来そこまで恐ろしいものであっていいのか? と疑問に思うほど、SNSやメディアのことが恐ろしくなってきていると感じます。
このようなネガティブのループではなく、ポジティブのループを個人がそれぞれでつくっていけたらどんなに素敵な世界だろうと思います。
別にどこの国に倣えというわけではありませんが、例えばハリウッドスターのオープンな交際のように、アメリカ=自由の国と言われるだけあって、それぞれの生き方が尊重されるような文化を感じます(きっとアメリカの景色は僕より小竹さんのほうがお詳しいことでしょう)。
そのほかにも世界中の様々な国で、そういった“個”を尊重する考え方や価値観は身近に存在するように思います。
結局は集団の本質も、どんな個人が集まったものであるか、ということが大切なのです。
小竹さんの遺言と違って、平成若者男子の生意気なボヤきのような往復書簡になってしまいました…。
片寄涼太
「若いうちはガンガン遊べ」と言うけれど
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡 エンタメ 芸能 2021年3月7日掲載
片寄涼太
先日銀座で行われたGIVENCHYのイベントの様子。新コレクションが始まりました。仕事モードの雰囲気もお届けさせて頂きます(他の写真を見る)
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡33
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがない。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたと片寄は言う。
拝啓 小竹正人さま
昭和の人たちはみんな口を揃えて「若いうちはガンガン遊べ」とか「若いのだから寝なくても余裕でしょう」「どれだけ食べても太らないでしょう」なんてことをとにかく言う。
この往復書簡を覗き見してくださっている方の中に、こんな台詞を使った覚えがある、あるいは言われた経験のある方はいらっしゃるでしょうか?
僕もエネルギッシュにイケイケでパワフルな人生を謳歌してみたかったな、なんて思うときがあります。
“昭和っぽい”時間の過ぎ方(そんな定義があるのかはわかりませんが)に憧れがないわけではありません。
しかしながら平成という時代に生まれたからなのか、あくまで僕の個人的見解ですが、その類の台詞はなんだかピンと来ないなあと感じます。
そういうパワフルな台詞たちは、顔面ド真ん中より少し右とか左とかに逸れて、耳のそばを豪速球で通り過ぎるみたいに聞こえてくる感じ。
正直疲れていれば多少は寝たいし、カロリーオーバーなものを食べすぎればやっぱりそれなりに太る。
まあこれが年をとっていけばそれでは済まなくなっていくということなのかもしれません。
ただ最もピンと来ないのは、ガンガン遊べということです。
このコロナ禍はもちろんですが、そうなる前から状況や時代は結構違う気がしています。
とくに昨今の芸能人は昭和のそれとは明らかに全く違うのです。
街を歩く人たち全員が写真週刊誌の記者さんだと思ってもいいくらい、誰もがスマホのカメラを自由に使いソーシャルネットワークですぐに目撃情報が呟かれる。
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがないのです。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたということです。
なら誰かに責められるようなことや非難を浴びるようなことを自制した上であれば、心地よく楽しい時間を過ごせば良いのです。
カジキマグロのグリル
ランチにカフェで食べたカジキマグロのグリル。カジキマグロは英語で「swordfish」。魚の種類を英語で覚えるのは途方に暮れる思いです…(他の写真を見る)
ですがここ数年目立つのは芸能人か政治家さんのスキャンダルのニュース。
確かにやってはいけないことをしたのであれば仕方ないとは思うのですが、何のせいと一概には言えない、集団的見えない負のループのようなものが確立されてしまっていて、本来そこまで恐ろしいものであっていいのか? と疑問に思うほど、SNSやメディアのことが恐ろしくなってきていると感じます。
このようなネガティブのループではなく、ポジティブのループを個人がそれぞれでつくっていけたらどんなに素敵な世界だろうと思います。
別にどこの国に倣えというわけではありませんが、例えばハリウッドスターのオープンな交際のように、アメリカ=自由の国と言われるだけあって、それぞれの生き方が尊重されるような文化を感じます(きっとアメリカの景色は僕より小竹さんのほうがお詳しいことでしょう)。
そのほかにも世界中の様々な国で、そういった“個”を尊重する考え方や価値観は身近に存在するように思います。
結局は集団の本質も、どんな個人が集まったものであるか、ということが大切なのです。
小竹さんの遺言と違って、平成若者男子の生意気なボヤきのような往復書簡になってしまいました…。
片寄涼太
#往復書簡#
「若いうちはガンガン遊べ」と言うけれど
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡33
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがない。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたと片寄は言う。
***
拝啓 小竹正人さま
昭和の人たちはみんな口を揃えて「若いうちはガンガン遊べ」とか「若いのだから寝なくても余裕でしょう」「どれだけ食べても太らないでしょう」なんてことをとにかく言う。
この往復書簡を覗き見してくださっている方の中に、こんな台詞を使った覚えがある、あるいは言われた経験のある方はいらっしゃるでしょうか?
僕もエネルギッシュにイケイケでパワフルな人生を謳歌してみたかったな、なんて思うときがあります。
“昭和っぽい”時間の過ぎ方(そんな定義があるのかはわかりませんが)に憧れがないわけではありません。
しかしながら平成という時代に生まれたからなのか、あくまで僕の個人的見解ですが、その類の台詞はなんだかピンと来ないなあと感じます。
そういうパワフルな台詞たちは、顔面ド真ん中より少し右とか左とかに逸れて、耳のそばを豪速球で通り過ぎるみたいに聞こえてくる感じ。
正直疲れていれば多少は寝たいし、カロリーオーバーなものを食べすぎればやっぱりそれなりに太る。
まあこれが年をとっていけばそれでは済まなくなっていくということなのかもしれません。
ただ最もピンと来ないのは、ガンガン遊べということです。
このコロナ禍はもちろんですが、そうなる前から状況や時代は結構違う気がしています。
とくに昨今の芸能人は昭和のそれとは明らかに全く違うのです。
街を歩く人たち全員が写真週刊誌の記者さんだと思ってもいいくらい、誰もがスマホのカメラを自由に使いソーシャルネットワークですぐに目撃情報が呟かれる。
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがないのです。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたということです。
なら誰かに責められるようなことや非難を浴びるようなことを自制した上であれば、心地よく楽しい時間を過ごせば良いのです。
ですがここ数年目立つのは芸能人か政治家さんのスキャンダルのニュース。
確かにやってはいけないことをしたのであれば仕方ないとは思うのですが、何のせいと一概には言えない、集団的見えない負のループのようなものが確立されてしまっていて、本来そこまで恐ろしいものであっていいのか? と疑問に思うほど、SNSやメディアのことが恐ろしくなってきていると感じます。
このようなネガティブのループではなく、ポジティブのループを個人がそれぞれでつくっていけたらどんなに素敵な世界だろうと思います。
別にどこの国に倣えというわけではありませんが、例えばハリウッドスターのオープンな交際のように、アメリカ=自由の国と言われるだけあって、それぞれの生き方が尊重されるような文化を感じます(きっとアメリカの景色は僕より小竹さんのほうがお詳しいことでしょう)。
そのほかにも世界中の様々な国で、そういった“個”を尊重する考え方や価値観は身近に存在するように思います。
結局は集団の本質も、どんな個人が集まったものであるか、ということが大切なのです。
小竹さんの遺言と違って、平成若者男子の生意気なボヤきのような往復書簡になってしまいました…。
片寄涼太
p1 先日銀座で行われたGIVENCHYのイベントの様子。新コレクションが始まりました。仕事モードの雰囲気もお届けさせて頂きます
p2 ランチにカフェで食べたカジキマグロのグリル。カジキマグロは英語で「swordfish」。魚の種類を英語で覚えるのは途方に暮れる思いです…
原文地址https://t.cn/A6tWBkbP
「若いうちはガンガン遊べ」と言うけれど
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡33
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがない。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたと片寄は言う。
***
拝啓 小竹正人さま
昭和の人たちはみんな口を揃えて「若いうちはガンガン遊べ」とか「若いのだから寝なくても余裕でしょう」「どれだけ食べても太らないでしょう」なんてことをとにかく言う。
この往復書簡を覗き見してくださっている方の中に、こんな台詞を使った覚えがある、あるいは言われた経験のある方はいらっしゃるでしょうか?
僕もエネルギッシュにイケイケでパワフルな人生を謳歌してみたかったな、なんて思うときがあります。
“昭和っぽい”時間の過ぎ方(そんな定義があるのかはわかりませんが)に憧れがないわけではありません。
しかしながら平成という時代に生まれたからなのか、あくまで僕の個人的見解ですが、その類の台詞はなんだかピンと来ないなあと感じます。
そういうパワフルな台詞たちは、顔面ド真ん中より少し右とか左とかに逸れて、耳のそばを豪速球で通り過ぎるみたいに聞こえてくる感じ。
正直疲れていれば多少は寝たいし、カロリーオーバーなものを食べすぎればやっぱりそれなりに太る。
まあこれが年をとっていけばそれでは済まなくなっていくということなのかもしれません。
ただ最もピンと来ないのは、ガンガン遊べということです。
このコロナ禍はもちろんですが、そうなる前から状況や時代は結構違う気がしています。
とくに昨今の芸能人は昭和のそれとは明らかに全く違うのです。
街を歩く人たち全員が写真週刊誌の記者さんだと思ってもいいくらい、誰もがスマホのカメラを自由に使いソーシャルネットワークですぐに目撃情報が呟かれる。
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがないのです。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたということです。
なら誰かに責められるようなことや非難を浴びるようなことを自制した上であれば、心地よく楽しい時間を過ごせば良いのです。
ですがここ数年目立つのは芸能人か政治家さんのスキャンダルのニュース。
確かにやってはいけないことをしたのであれば仕方ないとは思うのですが、何のせいと一概には言えない、集団的見えない負のループのようなものが確立されてしまっていて、本来そこまで恐ろしいものであっていいのか? と疑問に思うほど、SNSやメディアのことが恐ろしくなってきていると感じます。
このようなネガティブのループではなく、ポジティブのループを個人がそれぞれでつくっていけたらどんなに素敵な世界だろうと思います。
別にどこの国に倣えというわけではありませんが、例えばハリウッドスターのオープンな交際のように、アメリカ=自由の国と言われるだけあって、それぞれの生き方が尊重されるような文化を感じます(きっとアメリカの景色は僕より小竹さんのほうがお詳しいことでしょう)。
そのほかにも世界中の様々な国で、そういった“個”を尊重する考え方や価値観は身近に存在するように思います。
結局は集団の本質も、どんな個人が集まったものであるか、ということが大切なのです。
小竹さんの遺言と違って、平成若者男子の生意気なボヤきのような往復書簡になってしまいました…。
片寄涼太
p1 先日銀座で行われたGIVENCHYのイベントの様子。新コレクションが始まりました。仕事モードの雰囲気もお届けさせて頂きます
p2 ランチにカフェで食べたカジキマグロのグリル。カジキマグロは英語で「swordfish」。魚の種類を英語で覚えるのは途方に暮れる思いです…
原文地址https://t.cn/A6tWBkbP
#往復書簡#
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡30
「タクシー割り込み乗車事件」に端を発し、歳を重ねること、そのことによる心身の変化について小竹が綴る。
***
拝啓 片寄涼太様
あー、わかる! わかるぞ涼太! と、何度も頷いてしまった君からの手紙。
タクシーを割り込み乗車(もはや強奪乗車?)された経験、私も数えきれないほどある。
スリや詐欺に遭ったようなあの遺憾の感じ、昨年のドラマ「M」での田中みな実嬢の怪演がごとく激昂した感じで、逃したタクシーに駆け寄って「私の方が先でしたよねえええええ???」と叫びたくなる。
実際には、沸々と湧き上がる怒りを隠し、何事もなかったように次の空車を探すが。なんかさ、そういうとき、被害者はこちらなのに、横取りされたタクシーが目の前を通り過ぎていく瞬間に妙な敗北感や羞恥心を感じて自分まで悪いことをしたような心持ちになるのは私がお人好しだからか?
そして、君同様に私も、変な気遣いをしてしまうというか、人に合わせてしまう癖があるし、人に対しての熱さが足りないどころか喜怒哀楽を他人に見せるのが恥ずかしいと思ってしまう性格だ。いつからかわからないくらい昔から。
幼い頃に身につけた自己防衛法が「笑顔」と「嘘」だった私は、なるべく笑顔でいること(笑って誤魔化すこと)を心がけ、激しく驚いたり泣いたり怒ったりするなら、ポーカーフェイスでいる方がトラブルに巻き込まれないと思うようになってしまった。
邪気のある子供だね。
だから昔からその場をパァーと明るくすることはできても、「みんなで頑張ろうぜ!」みたいな場面で熱く拳を握ったりできないし、悲しいときや悔しいときに仲間と共に涙を流すなんてこと絶対に無理だった。
何が原因か全く覚えていないのだが、小学生の頃、人前では決して泣かなかった私が教室で泣いてしまったことが1度だけあり、そのときは、「小竹ちゃんが泣いている! あの小竹ちゃんが泣いている!」と、他のクラスからも私の涙をひと目見ようとする野次馬がわんさか来るほどの珍事となった。
質が悪いことに、普段泣かない分、一度泣いてしまうと、どこからその涙と鼻水が出てくるんだ? ってくらいものすごい形相で泣き続けてしまい、誰も止めることのできない号泣妖怪のようになる私。HIROさんと上戸彩ちゃんの結婚祝いの場でもそうだった(詳しくは拙著『あの日、あの曲、あの人は』をお読みください。と、シレーっと宣伝)。
あー、恥ずかしい。
しかし、しかしだよ? これがまた、歳をとると変わってくるんだよ。この往復書簡で、歳をとったときのことばかり君に提言しているが、歳を重ねるとそれくらい心身共に興味深い変化があるんだよ。
私の場合は30代にしてやっと人見知りを克服して(それまではそりゃもうすごい人見知りだった)、ようやく少しずつ正直に生きられるようになった。
そうすると感情を表に出すのが恥ずかしくなくなってくるし(悲しいときや悔しいときには相変わらず泣けないが、感動するとボロボロ泣くようになった)、怒りの沸点が少しずつ下がっていくし、「熱さ」がみなぎらなくなる代わりに物事を達観できるようになる。何よりも、色んなことに身構えなくなる。
ホントはクールでもドライでもメロウでもない、ただ周りに気を遣って喜怒哀楽をおもむろに発露させないだけの君も、この先歳をとるにつれて、今までよりずっと感情の温度調整がしやすくなるし、周りの空気を読まなくても楽に呼吸できる場所がきっとできる。
多感な時期を頑張って生きてきた人は、熟年を迎え、肉体的には少々無理がきかなくなっても、精神的には穏やかになる術を身につけるから。
よく「無駄に忙しい」って言う人がいるが、無駄な忙しさなんてきっとない。多忙とは経験値を積むことだと私は思う。
それにしても、前回の書簡に書いた通り、最近の私は幼い子供たちと過ごす時間を異様にいとおしいと感じている。
私の周りの(特に就学前の)子供たちは、過去の私とは真逆で、本当に素直で純粋で愛らしい。
他人を欺くような嘘をついたり誰かを故意に傷つけたりする術をまだ知らない。
楽しいときには無邪気に笑い、悲しいときには思いきりせつなそうに泣く。
彼らのそういう表情を見るたびに、自分の澱んだ心が洗われていく気がする。
だから私は子供たちとの時間を嬉々として求めてしまうのだ。
幼い子供の純真さ、それよりも綺麗で大切なものってこの世に存在しないのではないだろうかと、つくづく実感する昨今なのである。
小竹正人
p1 青山のスパイラルで開催されていた向田邦子さん没後40年特別展覧会「いま、風が吹いている」。向田さんの愛用品、生原稿、写真、年表など、あまりに興味深い展示物の数々、そして会場構成の素晴らしさに思わず2度も足を運んでしまいました
p2 誕生日(2/4)をひとりで過ごすのが定例の小泉今日子氏。今年は当日たまたまYOUと3人で会う用事があったので、「せっかくだから!」と、強引かつささやかにお祝いしました。写真は最近我々が大好きなタルト屋の苺タルト(絶品!)です
原文地址https://t.cn/A6tbx7Dm
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡30
「タクシー割り込み乗車事件」に端を発し、歳を重ねること、そのことによる心身の変化について小竹が綴る。
***
拝啓 片寄涼太様
あー、わかる! わかるぞ涼太! と、何度も頷いてしまった君からの手紙。
タクシーを割り込み乗車(もはや強奪乗車?)された経験、私も数えきれないほどある。
スリや詐欺に遭ったようなあの遺憾の感じ、昨年のドラマ「M」での田中みな実嬢の怪演がごとく激昂した感じで、逃したタクシーに駆け寄って「私の方が先でしたよねえええええ???」と叫びたくなる。
実際には、沸々と湧き上がる怒りを隠し、何事もなかったように次の空車を探すが。なんかさ、そういうとき、被害者はこちらなのに、横取りされたタクシーが目の前を通り過ぎていく瞬間に妙な敗北感や羞恥心を感じて自分まで悪いことをしたような心持ちになるのは私がお人好しだからか?
そして、君同様に私も、変な気遣いをしてしまうというか、人に合わせてしまう癖があるし、人に対しての熱さが足りないどころか喜怒哀楽を他人に見せるのが恥ずかしいと思ってしまう性格だ。いつからかわからないくらい昔から。
幼い頃に身につけた自己防衛法が「笑顔」と「嘘」だった私は、なるべく笑顔でいること(笑って誤魔化すこと)を心がけ、激しく驚いたり泣いたり怒ったりするなら、ポーカーフェイスでいる方がトラブルに巻き込まれないと思うようになってしまった。
邪気のある子供だね。
だから昔からその場をパァーと明るくすることはできても、「みんなで頑張ろうぜ!」みたいな場面で熱く拳を握ったりできないし、悲しいときや悔しいときに仲間と共に涙を流すなんてこと絶対に無理だった。
何が原因か全く覚えていないのだが、小学生の頃、人前では決して泣かなかった私が教室で泣いてしまったことが1度だけあり、そのときは、「小竹ちゃんが泣いている! あの小竹ちゃんが泣いている!」と、他のクラスからも私の涙をひと目見ようとする野次馬がわんさか来るほどの珍事となった。
質が悪いことに、普段泣かない分、一度泣いてしまうと、どこからその涙と鼻水が出てくるんだ? ってくらいものすごい形相で泣き続けてしまい、誰も止めることのできない号泣妖怪のようになる私。HIROさんと上戸彩ちゃんの結婚祝いの場でもそうだった(詳しくは拙著『あの日、あの曲、あの人は』をお読みください。と、シレーっと宣伝)。
あー、恥ずかしい。
しかし、しかしだよ? これがまた、歳をとると変わってくるんだよ。この往復書簡で、歳をとったときのことばかり君に提言しているが、歳を重ねるとそれくらい心身共に興味深い変化があるんだよ。
私の場合は30代にしてやっと人見知りを克服して(それまではそりゃもうすごい人見知りだった)、ようやく少しずつ正直に生きられるようになった。
そうすると感情を表に出すのが恥ずかしくなくなってくるし(悲しいときや悔しいときには相変わらず泣けないが、感動するとボロボロ泣くようになった)、怒りの沸点が少しずつ下がっていくし、「熱さ」がみなぎらなくなる代わりに物事を達観できるようになる。何よりも、色んなことに身構えなくなる。
ホントはクールでもドライでもメロウでもない、ただ周りに気を遣って喜怒哀楽をおもむろに発露させないだけの君も、この先歳をとるにつれて、今までよりずっと感情の温度調整がしやすくなるし、周りの空気を読まなくても楽に呼吸できる場所がきっとできる。
多感な時期を頑張って生きてきた人は、熟年を迎え、肉体的には少々無理がきかなくなっても、精神的には穏やかになる術を身につけるから。
よく「無駄に忙しい」って言う人がいるが、無駄な忙しさなんてきっとない。多忙とは経験値を積むことだと私は思う。
それにしても、前回の書簡に書いた通り、最近の私は幼い子供たちと過ごす時間を異様にいとおしいと感じている。
私の周りの(特に就学前の)子供たちは、過去の私とは真逆で、本当に素直で純粋で愛らしい。
他人を欺くような嘘をついたり誰かを故意に傷つけたりする術をまだ知らない。
楽しいときには無邪気に笑い、悲しいときには思いきりせつなそうに泣く。
彼らのそういう表情を見るたびに、自分の澱んだ心が洗われていく気がする。
だから私は子供たちとの時間を嬉々として求めてしまうのだ。
幼い子供の純真さ、それよりも綺麗で大切なものってこの世に存在しないのではないだろうかと、つくづく実感する昨今なのである。
小竹正人
p1 青山のスパイラルで開催されていた向田邦子さん没後40年特別展覧会「いま、風が吹いている」。向田さんの愛用品、生原稿、写真、年表など、あまりに興味深い展示物の数々、そして会場構成の素晴らしさに思わず2度も足を運んでしまいました
p2 誕生日(2/4)をひとりで過ごすのが定例の小泉今日子氏。今年は当日たまたまYOUと3人で会う用事があったので、「せっかくだから!」と、強引かつささやかにお祝いしました。写真は最近我々が大好きなタルト屋の苺タルト(絶品!)です
原文地址https://t.cn/A6tbx7Dm
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