金色の壁や天井、シャンデリア、鈍く黒光りする銘木の重厚な外観――。政財界の重鎮が訪れたという明治期の和洋折衷の豪華な木造建築が、新潟県新発田市に移築、復元された。4月から一般公開が始まる。
【写真】「蔵春閣」の堂々たる外観
帝国ホテルや大成建設、サッポロビールなど多くの企業を設立した実業家、大倉喜八郎(1837~1928)の別邸の迎賓施設だった「蔵春閣」だ。
1912(明治45)年4月に隅田川沿いの東京・向島に建てられた。延べ床面積296・87平方メートルの2階建て。33畳の大広間や食堂などがある。
復元を担当した大成建設によると、別邸には「中国革命の父」孫文、東京市長や内相を歴任した後藤新平、財界人の渋沢栄一や安田善次郎らが訪れたという。
関東大震災や東京大空襲をくぐり抜け、戦後は千葉県船橋市へ移築されて飲食店やホテルの付属施設として使われていた。移築を前提に2012年に解体後、部材を管理していた大倉文化財団の申し出で、喜八郎の故郷・新発田に復元されることになった。
JR新発田駅近くの東公園で大成建設が復元工事を手がけた。新潟の雪の重みにも耐えられるよう、見えない形で屋根部分を補強しているという。(迫和義)
朝日新聞社
【写真】「蔵春閣」の堂々たる外観
帝国ホテルや大成建設、サッポロビールなど多くの企業を設立した実業家、大倉喜八郎(1837~1928)の別邸の迎賓施設だった「蔵春閣」だ。
1912(明治45)年4月に隅田川沿いの東京・向島に建てられた。延べ床面積296・87平方メートルの2階建て。33畳の大広間や食堂などがある。
復元を担当した大成建設によると、別邸には「中国革命の父」孫文、東京市長や内相を歴任した後藤新平、財界人の渋沢栄一や安田善次郎らが訪れたという。
関東大震災や東京大空襲をくぐり抜け、戦後は千葉県船橋市へ移築されて飲食店やホテルの付属施設として使われていた。移築を前提に2012年に解体後、部材を管理していた大倉文化財団の申し出で、喜八郎の故郷・新発田に復元されることになった。
JR新発田駅近くの東公園で大成建設が復元工事を手がけた。新潟の雪の重みにも耐えられるよう、見えない形で屋根部分を補強しているという。(迫和義)
朝日新聞社
昨日は特別の日だった、、
【侍ジャパン】の佐々木朗希、父を祖父母を失った「3・11」(東北大震災)に世界デビュー…チェコ戦先発「できることを最大限」
キャッチボールで調整する佐々木朗希(カメラ・岩田 大補)
侍ジャパンのロッテ・佐々木朗希投手(21)が運命の3・11にWBCデビューを果たす。11日のチェコ戦で先発予定の右腕は、12年前の2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災で父・功太さん(享年37)と祖父母を亡くした。当時9歳だった少年は計り知れない悲しみを乗り越えながら、12年の時を経て、同じ日に世界の舞台に立つ。
被災した故郷のために、自身の夢をかなえるために―。朗希が運命の3・11、ついにWBCで“世界デビュー”を果たす。
韓国戦前の東京Dで50メートルダッシュやキャッチボールで最終調整。試合中はベンチで大勝劇を見届けると、「緊張感のある中で試合が見られている。明日、いいパフォーマンスが発揮できるようにしたい」と、勝てば1次R突破が決まる可能性もあるチェコ戦へ、静かな闘志を口にしてドームを後にした。大会前から「個人がどうこうよりもチームの勝ち負けが本当に大事。結果的にチームが勝てればそれが100点」と、日の丸を背負う覚悟を語っていた右腕。大会初マウンドへ、心身ともに準備は整った。
12年前、当たり前だった日常が奪われた。東日本大震災。地震発生当時、朗希少年は陸前高田市内の小学校にいた。すぐに近くの高台に避難したが、自宅は津波で流され、愛する父・功太さんと祖父母を失った。その後は母・陽子さんの親族の住む大船渡市に引っ越し、老人ホームでの生活を余儀なくされた。当時9歳の少年には背負いきれない悲しみ。それでも、「やっぱり野球してる時が一番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで大変な時もつらい時も頑張れた。本当に野球があって野球を知れてよかったと思う」。その野球の楽しさを教えてくれたのは父・功太さんだった。
成長した朗希は大船渡高で剛腕として脚光を浴びた。「何を取ってもNO1の投手になりたい」と目標を掲げてきた右腕は、プロの世界に飛び込み、昨季は史上最年少で完全試合を達成。そして、ついにWBC日本代表にまで上り詰めた。そんな朗希に用意された初の舞台。3・11は忘れられない過去であると同時に、世界一の投手になるためのスタート地点になる。
いつでも心の中には地元・岩手がある。「(震災時は)人から支えられ、勇気や希望をもらいながら頑張ることしかできなかった。今はその時とは違って勇気や希望を与える立場にある」。当日は故郷の陸前高田市と大船渡市の2か所でパブリックビューイング(PV)が開催され、地元の知人・友人らも朗希の背中を押す。だからこそ、「活躍することが一番の恩返し」。4日の壮行試合・中日戦(バンテリンD)で日本選手最速タイの165キロをマークした右腕は、特別な日に、佐々木朗希の名を世界にとどろかせる。(小田原 実穂)
◆佐々木 朗希(ささき・ろうき)2001年11月3日、岩手・陸前高田市生まれ。21歳。小学3年で野球を始め、大船渡高では甲子園出場なしも19年のU―18日本代表に選出。4球団の競合の末に19年ドラフト1位でロッテに入団。3年目の昨季は20試合に登板し9勝4敗、防御率2・02。192センチ、92キロ。右投右打。
*侍ジャパン⇒「日本武士」日本⚾️棒球代表隊的名字
#棒球##日本##侍ジャパン##日本代表#
【侍ジャパン】の佐々木朗希、父を祖父母を失った「3・11」(東北大震災)に世界デビュー…チェコ戦先発「できることを最大限」
キャッチボールで調整する佐々木朗希(カメラ・岩田 大補)
侍ジャパンのロッテ・佐々木朗希投手(21)が運命の3・11にWBCデビューを果たす。11日のチェコ戦で先発予定の右腕は、12年前の2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災で父・功太さん(享年37)と祖父母を亡くした。当時9歳だった少年は計り知れない悲しみを乗り越えながら、12年の時を経て、同じ日に世界の舞台に立つ。
被災した故郷のために、自身の夢をかなえるために―。朗希が運命の3・11、ついにWBCで“世界デビュー”を果たす。
韓国戦前の東京Dで50メートルダッシュやキャッチボールで最終調整。試合中はベンチで大勝劇を見届けると、「緊張感のある中で試合が見られている。明日、いいパフォーマンスが発揮できるようにしたい」と、勝てば1次R突破が決まる可能性もあるチェコ戦へ、静かな闘志を口にしてドームを後にした。大会前から「個人がどうこうよりもチームの勝ち負けが本当に大事。結果的にチームが勝てればそれが100点」と、日の丸を背負う覚悟を語っていた右腕。大会初マウンドへ、心身ともに準備は整った。
12年前、当たり前だった日常が奪われた。東日本大震災。地震発生当時、朗希少年は陸前高田市内の小学校にいた。すぐに近くの高台に避難したが、自宅は津波で流され、愛する父・功太さんと祖父母を失った。その後は母・陽子さんの親族の住む大船渡市に引っ越し、老人ホームでの生活を余儀なくされた。当時9歳の少年には背負いきれない悲しみ。それでも、「やっぱり野球してる時が一番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで大変な時もつらい時も頑張れた。本当に野球があって野球を知れてよかったと思う」。その野球の楽しさを教えてくれたのは父・功太さんだった。
成長した朗希は大船渡高で剛腕として脚光を浴びた。「何を取ってもNO1の投手になりたい」と目標を掲げてきた右腕は、プロの世界に飛び込み、昨季は史上最年少で完全試合を達成。そして、ついにWBC日本代表にまで上り詰めた。そんな朗希に用意された初の舞台。3・11は忘れられない過去であると同時に、世界一の投手になるためのスタート地点になる。
いつでも心の中には地元・岩手がある。「(震災時は)人から支えられ、勇気や希望をもらいながら頑張ることしかできなかった。今はその時とは違って勇気や希望を与える立場にある」。当日は故郷の陸前高田市と大船渡市の2か所でパブリックビューイング(PV)が開催され、地元の知人・友人らも朗希の背中を押す。だからこそ、「活躍することが一番の恩返し」。4日の壮行試合・中日戦(バンテリンD)で日本選手最速タイの165キロをマークした右腕は、特別な日に、佐々木朗希の名を世界にとどろかせる。(小田原 実穂)
◆佐々木 朗希(ささき・ろうき)2001年11月3日、岩手・陸前高田市生まれ。21歳。小学3年で野球を始め、大船渡高では甲子園出場なしも19年のU―18日本代表に選出。4球団の競合の末に19年ドラフト1位でロッテに入団。3年目の昨季は20試合に登板し9勝4敗、防御率2・02。192センチ、92キロ。右投右打。
*侍ジャパン⇒「日本武士」日本⚾️棒球代表隊的名字
#棒球##日本##侍ジャパン##日本代表#
チェコ監督「日本のファンは世界一」 満員ドームに万感…試合後はナインと感謝の拍手
随所で見せた清々しいプレーはSNS上でも話題に
「カーネクスト 2023 WORLD BASEBALL CLASSIC 1次ラウンド 東京プール」で11日、チェコ共和国は東京ドームでの日本戦に2-10で敗れた。大敗となったが、試合後には観客、日本の選手に向かって拍手を送るなど、チェコベンチは皆清々しい表情だった。試合後、ハジム監督は「日本のファンは世界一だと思います」と場内のファンにも感謝を述べた。
【実際の様子】泣いちゃうよ…完敗したチェコ代表が素敵すぎ、ベンチを出て侍ジャパンに拍手を送る
随所に見えた清々しさは、ネット上でも話題となった。4回、佐々木朗希投手(ロッテ)の162キロが膝に直撃した7番エスカラは、悶絶するもすぐさま立ち上がって一塁へ。ファウルゾーンで全力疾走を見せて場内にアピールすると、ファンからは温かい拍手が送られていた。その後帽子をとって謝罪する佐々木に対しても、事も無げに振舞った。
試合後には選手全員がベンチ前で、スタンドの観客と、日本代表の選手に向かって拍手を送っていた。ハジム監督は「本当に満席の会場でプレーできたこと。そして、この大会で試合ができたこと。感激の感情以外何もありません」と感謝した。印象に残ったシーンを問われると、「象徴的なシーンは日本と試合をできたこと。そして日本のファンは、ファンの質としても世界一だと思います」と語った。
#世界杯##棒球##捷克##日本##球迷#
随所で見せた清々しいプレーはSNS上でも話題に
「カーネクスト 2023 WORLD BASEBALL CLASSIC 1次ラウンド 東京プール」で11日、チェコ共和国は東京ドームでの日本戦に2-10で敗れた。大敗となったが、試合後には観客、日本の選手に向かって拍手を送るなど、チェコベンチは皆清々しい表情だった。試合後、ハジム監督は「日本のファンは世界一だと思います」と場内のファンにも感謝を述べた。
【実際の様子】泣いちゃうよ…完敗したチェコ代表が素敵すぎ、ベンチを出て侍ジャパンに拍手を送る
随所に見えた清々しさは、ネット上でも話題となった。4回、佐々木朗希投手(ロッテ)の162キロが膝に直撃した7番エスカラは、悶絶するもすぐさま立ち上がって一塁へ。ファウルゾーンで全力疾走を見せて場内にアピールすると、ファンからは温かい拍手が送られていた。その後帽子をとって謝罪する佐々木に対しても、事も無げに振舞った。
試合後には選手全員がベンチ前で、スタンドの観客と、日本代表の選手に向かって拍手を送っていた。ハジム監督は「本当に満席の会場でプレーできたこと。そして、この大会で試合ができたこと。感激の感情以外何もありません」と感謝した。印象に残ったシーンを問われると、「象徴的なシーンは日本と試合をできたこと。そして日本のファンは、ファンの質としても世界一だと思います」と語った。
#世界杯##棒球##捷克##日本##球迷#
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