実は徳川家康は、桶狭間の戦いで今川方として獅子奮迅の活躍をしていた!
織田信長と駿河の今川義元が激突した桶狭間の戦い。この戦いで徳川家康は今川方として大きな活躍を見せた。
■国境の国衆として出陣 前哨戦で勝利を収める
今川義元(いまがわよしもと)は尾張の熱田に近い鳴海城(なるみじょう)や大高城(おおたかじょう)までを勢力下に加えていたが、織田信長は鳴海城の周囲に丹下砦(たんげとりで)・善照寺砦(ぜんしょうじとりで)・中島砦(なかしまとりで)、大高城の周囲に鷲津・丸根砦(まるねとりで)などを築いて包囲をしていた。そこで、永禄3年(1560)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を出立し、両城の解放に向かったのである。
このとき徳川家康は、今川方の武将として義元から先鋒を命じられている。尾張は三河の隣国であり、義元が家康に先鋒を命じたのは、正当な判断だったろう。なお、このとき家康は、大高城を守る鵜殿長照(うどのながてる)からの依頼により、大高城に兵糧を運び入れることを義元に命じられたという。これが有名な大高城兵糧入れであるが、年次については異説もあり、実態はよくわかっていない。『家忠日記増補』では1年前にあたる永禄2年のこととしており、大高城兵糧入れに参加した徳川家臣の家伝でも、すべて永禄2年としている。実際には、桶狭間(おけはざま)の戦い以前に行われたものであろう。そもそも、大高城を解放することを目的に出陣しているわけだから、わざわざその前日に兵糧を運び込む意味を見いだせない。
5月19日の早暁、今川方は大高城の付城である丸根砦と鷲津砦を陥落させた。丸根砦を落としたのが家康で、鷲津砦を落としたのが朝比奈泰朝だった。大高城を解放した家康は、そのまま大高城に入っている。
このあと、大高城には沓掛城を出立した今川義元が入る予定であったらしい。しかし、大高道を経由して桶狭間で休息していたところ、織田信長に急襲されて討ち死にしてしまったのである。大高城に入っていた家康は、夕方、織田方に属していた伯父水野信元(みずののぶもと)の使者として派遣されてきた浅井道忠(あさいみちただ)から義元の敗死を知らされたという。信元は、そのころは織田信長に従っていたが、家康に目をかけていたのかもしれない。
ただ、義元の敗死が虚報であったとしたら、取り返しのつかないことになる。そのため、家康は物見を出して戦況を確認し、人目に付かない夜半になってから大高城を退城した。家康は、とことん慎重だったわけで、『甲陽軍鑑』によれば、これを聞いた武田信玄が、「武道分別両方達したる人也」と評価したという。
大高城を退城した徳川軍は、浅井道忠を嚮導(きょうどう)として岡崎に向かった。途中の池鯉鮒(ちりゅう/知立)では、水野氏の軍勢に阻まれたが、浅井道忠が同行していたため、攻撃をされることはなかったという。こうして難を逃れた家康は、翌20日、岡崎城外の大樹寺(だいじゅじ)に入った。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)
歴史人編集部
織田信長と駿河の今川義元が激突した桶狭間の戦い。この戦いで徳川家康は今川方として大きな活躍を見せた。
■国境の国衆として出陣 前哨戦で勝利を収める
今川義元(いまがわよしもと)は尾張の熱田に近い鳴海城(なるみじょう)や大高城(おおたかじょう)までを勢力下に加えていたが、織田信長は鳴海城の周囲に丹下砦(たんげとりで)・善照寺砦(ぜんしょうじとりで)・中島砦(なかしまとりで)、大高城の周囲に鷲津・丸根砦(まるねとりで)などを築いて包囲をしていた。そこで、永禄3年(1560)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を出立し、両城の解放に向かったのである。
このとき徳川家康は、今川方の武将として義元から先鋒を命じられている。尾張は三河の隣国であり、義元が家康に先鋒を命じたのは、正当な判断だったろう。なお、このとき家康は、大高城を守る鵜殿長照(うどのながてる)からの依頼により、大高城に兵糧を運び入れることを義元に命じられたという。これが有名な大高城兵糧入れであるが、年次については異説もあり、実態はよくわかっていない。『家忠日記増補』では1年前にあたる永禄2年のこととしており、大高城兵糧入れに参加した徳川家臣の家伝でも、すべて永禄2年としている。実際には、桶狭間(おけはざま)の戦い以前に行われたものであろう。そもそも、大高城を解放することを目的に出陣しているわけだから、わざわざその前日に兵糧を運び込む意味を見いだせない。
5月19日の早暁、今川方は大高城の付城である丸根砦と鷲津砦を陥落させた。丸根砦を落としたのが家康で、鷲津砦を落としたのが朝比奈泰朝だった。大高城を解放した家康は、そのまま大高城に入っている。
このあと、大高城には沓掛城を出立した今川義元が入る予定であったらしい。しかし、大高道を経由して桶狭間で休息していたところ、織田信長に急襲されて討ち死にしてしまったのである。大高城に入っていた家康は、夕方、織田方に属していた伯父水野信元(みずののぶもと)の使者として派遣されてきた浅井道忠(あさいみちただ)から義元の敗死を知らされたという。信元は、そのころは織田信長に従っていたが、家康に目をかけていたのかもしれない。
ただ、義元の敗死が虚報であったとしたら、取り返しのつかないことになる。そのため、家康は物見を出して戦況を確認し、人目に付かない夜半になってから大高城を退城した。家康は、とことん慎重だったわけで、『甲陽軍鑑』によれば、これを聞いた武田信玄が、「武道分別両方達したる人也」と評価したという。
大高城を退城した徳川軍は、浅井道忠を嚮導(きょうどう)として岡崎に向かった。途中の池鯉鮒(ちりゅう/知立)では、水野氏の軍勢に阻まれたが、浅井道忠が同行していたため、攻撃をされることはなかったという。こうして難を逃れた家康は、翌20日、岡崎城外の大樹寺(だいじゅじ)に入った。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)
歴史人編集部
白嫖的创业补贴
申请条件:
1.五年内毕业生
2.深户
3.港澳台居民
4.残疾人
5.退役军人/随军家属
1.初创补贴:出资人每人一次性补贴一万元,初创企业补贴总金额不超过十万元。
2.场租补贴:第一年:1560元/月第二年:1300元/月 第三年:910元/月
3.社保补贴:按我市当年度最低缴纳社保标准单位承担补贴36个月
4.创业带动就业补贴:招用3人(含3人)以下的按每人2000元给予补贴;招用3人以上的每净增1人给予3000元的补贴,总额不超过3万元。
5.担保贷款:申请创业担保贷款的最高额度为30万元
有什么不懂都可以问我哟!!
#创业补贴##创业##深圳创业##大学生创业#
申请条件:
1.五年内毕业生
2.深户
3.港澳台居民
4.残疾人
5.退役军人/随军家属
1.初创补贴:出资人每人一次性补贴一万元,初创企业补贴总金额不超过十万元。
2.场租补贴:第一年:1560元/月第二年:1300元/月 第三年:910元/月
3.社保补贴:按我市当年度最低缴纳社保标准单位承担补贴36个月
4.创业带动就业补贴:招用3人(含3人)以下的按每人2000元给予补贴;招用3人以上的每净增1人给予3000元的补贴,总额不超过3万元。
5.担保贷款:申请创业担保贷款的最高额度为30万元
有什么不懂都可以问我哟!!
#创业补贴##创业##深圳创业##大学生创业#
黑龙江 2896万吨 386万公顷,单产7.5
安徽 1560万吨 251万公顷,单产6.2
广西 1013万吨 176万公顷,单产5.8
按理水稻是南方强项,从雨热条件来看,黑龙江只能一年一熟,安徽两熟,广西三熟。
但亩产量却反过来,黑龙江大于安徽大于广西。而黑龙江恰好是最接近美国大平原大农业的模式,安徽就是大平原但分割成小地块农业,广西则是小块平原加梯田。
可想而知,堆人力的精耕细作,确实还是会远不如机械化的农业管理了。
安徽 1560万吨 251万公顷,单产6.2
广西 1013万吨 176万公顷,单产5.8
按理水稻是南方强项,从雨热条件来看,黑龙江只能一年一熟,安徽两熟,广西三熟。
但亩产量却反过来,黑龙江大于安徽大于广西。而黑龙江恰好是最接近美国大平原大农业的模式,安徽就是大平原但分割成小地块农业,广西则是小块平原加梯田。
可想而知,堆人力的精耕细作,确实还是会远不如机械化的农业管理了。
✋热门推荐