#king&prince# キンプリ#高橋海人# 、#平野紫耀# らが脱退した「5人最後の5月22日」に見せていた“相方とのコンビ愛” (週刊女性)
「高橋さんはこの日、日本テレビ系で放送中の主演ドラマ『だが、情熱はある』の撮影に参加していました。昼ごろから夜遅くまでの長丁場で、メンバーと会う時間は作れなかったのかもしれません」(目撃したファン、以下同)
ドラマは、オードリー若林正恭と南海キャンディーズ山里亮太によるユニット『たりないふたり』の半生を描く物語。この日、撮影していたのは、オードリーがブレイクするきっかけとなった『M-1グランプリ2008』の敗者復活戦のシーンだ。オードリーは、この年の敗者復活戦で勝ち上がり、決勝に参加して、準優勝を果たす。以降、テレビに欠かせない存在となった。
高橋が演じているのがオードリー若林。春日俊彰役の戸塚純貴が相方を務めており、当時のオードリーが披露した、実際のネタを演じてみせた。
“5人最後の日”も仕事に集中する高橋
「実際の敗者復活戦が行われている『大井競馬場』を模して、神奈川県内にある別の競馬場にセットが建てられていました。昼間は、敗者復活戦でネタをやるシーンを撮影していました。共演者も高橋さんも“5人最後の日”ということをとくに意識せず、目の前の撮影に集中していたように見えました」
「高橋さんの衣装はスーツだったので、本番中以外はジャケットを脱いでワイシャツ姿になっていました。“コンビ愛”が芽生えているのか、戸塚さんとはとにかく仲がよさそうな様子。合間に談笑したり、カメラで遊ぶ戸塚さんを見て、高橋さんが笑う場面もありました」
率先して現場を盛り上げた高橋暗くなっても撮影は続いた。
「実際にオードリーが勝ち上がったときの写真をスタッフと一緒に見ながら、動作の確認をしていたようです。撮影も終盤が近づくと、現場の空気を盛り上げようとしたのか、高橋さんが率先してテンションをあげていたようでした」
元キンプリ #平野紫耀# の海外進出を阻んだのは… ジャニーズ事務所が「正式回答」(東スポWEB)
「King&Prince」(キンプリ)メンバーだった平野紫耀(26)が22日夜に記述した有料会員制サイトのブログが物議を醸している。グループとして目指した海外進出に周囲からNGを突きつけられたといわんばかりの内容だったからだ。では、平野は誰からNGを…。ジャニーズ事務所は取材に関与を否定した。
平野はキンプリを脱退し、ジャニーズを退所する22日、有料会員制サイトのブログでキンプリファン「ティアラ」へ感謝の思いをつづった。そのなかで「ジャニーさんごめんねー! 目標届かなかった!!! ただできないといわれたら仕方がない!!!」とサラッと記述。「目標」が何で、誰から「できない」と言われたのか明かさず、物議を醸している。
キンプリは、2019年7月に亡くなったジャニー喜多川前社長が生涯最後にデビューさせたグループ。メンバーはジャニー氏に、将来的な海外進出を目標に掲げた。平野のブログの「目標」は、海外進出を指すのだろう。
ただ、平野らがこの目標を抱き続けたのに対し、永瀬廉(24)らは国内のテレビ、映画出演への志向を強め、平野らのグループ脱退とジャニーズ退所に至った。テレビ局関係者の話。
「その前段でかねて関係者の間で指摘されたのが、キンプリのメンバーがジャニーズ側に海外進出を訴えたけど、なかなか聞き入れられなかったという話でした。ジャニーさんの死後、海外進出が遅々として進まないと焦り、ジャニーズ側に不満を抱くように。それで、海外を目指したいメンバーと国内で活躍したいメンバーで温度差が生まれたと言われました」
つまり、海外進出という「目標」の挑戦に「できない」としたのは、ジャニーズ側だったという見立てだ。平野がキンプリメンバーとして最後に放った〝告白〟はティアラに称賛され、SNSでバズった。
ジャニーズ側が平野に海外進出は厳しい旨を伝えたとの情報は事実か――とジャニーズに取材すると、「海外進出に対して厳しいと明言した事実は一切ございません」と断固否定した。では、平野のブログは何だったのか…。
平野はキンプリを飛び出したが、グループのことが大好きだった。特に、20日に終了した日本テレビ系冠バラエティー番組「King&Princeる。」の収録を楽しみにしていた。
「収録は水曜日で、平野さんは全メンバーがそろってユニークな企画に挑戦する水曜日を楽しみにしていました。直近の収録日は4月は12、26日で5月は10日。この日に特番を収録し、すべての収録を終えました。平野さんが『もう水曜の収録はないか…』と力なく笑ったのが印象的です。5人体制で続いていれば、24日が収録日でした」
永瀬らは23日、SNSでライブ配信を行い、「きんぷる」の後継として7月1日から、新番組「キントレ(仮)」を始めると発表した。
「高橋さんはこの日、日本テレビ系で放送中の主演ドラマ『だが、情熱はある』の撮影に参加していました。昼ごろから夜遅くまでの長丁場で、メンバーと会う時間は作れなかったのかもしれません」(目撃したファン、以下同)
ドラマは、オードリー若林正恭と南海キャンディーズ山里亮太によるユニット『たりないふたり』の半生を描く物語。この日、撮影していたのは、オードリーがブレイクするきっかけとなった『M-1グランプリ2008』の敗者復活戦のシーンだ。オードリーは、この年の敗者復活戦で勝ち上がり、決勝に参加して、準優勝を果たす。以降、テレビに欠かせない存在となった。
高橋が演じているのがオードリー若林。春日俊彰役の戸塚純貴が相方を務めており、当時のオードリーが披露した、実際のネタを演じてみせた。
“5人最後の日”も仕事に集中する高橋
「実際の敗者復活戦が行われている『大井競馬場』を模して、神奈川県内にある別の競馬場にセットが建てられていました。昼間は、敗者復活戦でネタをやるシーンを撮影していました。共演者も高橋さんも“5人最後の日”ということをとくに意識せず、目の前の撮影に集中していたように見えました」
「高橋さんの衣装はスーツだったので、本番中以外はジャケットを脱いでワイシャツ姿になっていました。“コンビ愛”が芽生えているのか、戸塚さんとはとにかく仲がよさそうな様子。合間に談笑したり、カメラで遊ぶ戸塚さんを見て、高橋さんが笑う場面もありました」
率先して現場を盛り上げた高橋暗くなっても撮影は続いた。
「実際にオードリーが勝ち上がったときの写真をスタッフと一緒に見ながら、動作の確認をしていたようです。撮影も終盤が近づくと、現場の空気を盛り上げようとしたのか、高橋さんが率先してテンションをあげていたようでした」
元キンプリ #平野紫耀# の海外進出を阻んだのは… ジャニーズ事務所が「正式回答」(東スポWEB)
「King&Prince」(キンプリ)メンバーだった平野紫耀(26)が22日夜に記述した有料会員制サイトのブログが物議を醸している。グループとして目指した海外進出に周囲からNGを突きつけられたといわんばかりの内容だったからだ。では、平野は誰からNGを…。ジャニーズ事務所は取材に関与を否定した。
平野はキンプリを脱退し、ジャニーズを退所する22日、有料会員制サイトのブログでキンプリファン「ティアラ」へ感謝の思いをつづった。そのなかで「ジャニーさんごめんねー! 目標届かなかった!!! ただできないといわれたら仕方がない!!!」とサラッと記述。「目標」が何で、誰から「できない」と言われたのか明かさず、物議を醸している。
キンプリは、2019年7月に亡くなったジャニー喜多川前社長が生涯最後にデビューさせたグループ。メンバーはジャニー氏に、将来的な海外進出を目標に掲げた。平野のブログの「目標」は、海外進出を指すのだろう。
ただ、平野らがこの目標を抱き続けたのに対し、永瀬廉(24)らは国内のテレビ、映画出演への志向を強め、平野らのグループ脱退とジャニーズ退所に至った。テレビ局関係者の話。
「その前段でかねて関係者の間で指摘されたのが、キンプリのメンバーがジャニーズ側に海外進出を訴えたけど、なかなか聞き入れられなかったという話でした。ジャニーさんの死後、海外進出が遅々として進まないと焦り、ジャニーズ側に不満を抱くように。それで、海外を目指したいメンバーと国内で活躍したいメンバーで温度差が生まれたと言われました」
つまり、海外進出という「目標」の挑戦に「できない」としたのは、ジャニーズ側だったという見立てだ。平野がキンプリメンバーとして最後に放った〝告白〟はティアラに称賛され、SNSでバズった。
ジャニーズ側が平野に海外進出は厳しい旨を伝えたとの情報は事実か――とジャニーズに取材すると、「海外進出に対して厳しいと明言した事実は一切ございません」と断固否定した。では、平野のブログは何だったのか…。
平野はキンプリを飛び出したが、グループのことが大好きだった。特に、20日に終了した日本テレビ系冠バラエティー番組「King&Princeる。」の収録を楽しみにしていた。
「収録は水曜日で、平野さんは全メンバーがそろってユニークな企画に挑戦する水曜日を楽しみにしていました。直近の収録日は4月は12、26日で5月は10日。この日に特番を収録し、すべての収録を終えました。平野さんが『もう水曜の収録はないか…』と力なく笑ったのが印象的です。5人体制で続いていれば、24日が収録日でした」
永瀬らは23日、SNSでライブ配信を行い、「きんぷる」の後継として7月1日から、新番組「キントレ(仮)」を始めると発表した。
#健康身体 健康地球 健康生活#
〔老いをみるまなざし〕
第65回 ETCパニック
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
新車を買った。
週に一度近郊の町の病院の外来診察に通っているが、その帰路のことであった。
金曜日、のどかな午後だった。伊勢湾岸道路から港に停泊する船がみえて、鈴鹿山脈の上空は晴れていた。
高速道路を降りるインターチェンジの料金所のETCゲートが閉鎖されていた。
直前になるまでゲートの閉鎖に気が付かず、私は慌てて一般用のゲートに車を入れた。
「ETCカードを出してください」と係員に言われた。
突然カードを出せと言われて困った。
カードが収まっている車内の場所を知らなかったのである。
運転席の右側の下のレバーを引っ張ってみたがそこにはカードは無かった。
その上を開けてみたがそこにもなかった。
一番上の段にカードを発見して係員に渡すと、「後ろのトランクが開いていますよ」と言った。
私が最初に触った下のレバーが後ろのトランク用であったのだ。
「悪いけど閉めてくれない」というと「わかりました」と言って人の良さそうな係員がボックスから出てきた。
後ろに回ってトランクを閉めてくれたが、その前に渡したETCカードを私に戻すのを忘れてしまっていた。
催促すると慌てて返してくれた。
そのカードを元の位置に戻そうと隙間に差し込むと刺さったままで戻ってこなくなってしまった。
差し込み口の横に付いている緑のランプも消えてしまっていた。私は不安になった。このままでは次からETCカードが使えない。
焦っているうちにゲートが開いた。
問題を残したままゲートを出ると赤いランプが点滅していることに気がついた。
ボンネットが開いていたのだ。
ETCカードを探して触ったスイッチにボンネットオープナースイッチがあったのだ。ボンネットが開いたまま運転すると危険である。前が見えなくなる。
この辺りから私の意識は異次元の世界に入ったようだ。
運よく近くにコンビニがあって駐車場に車を入れた。
車から降りてボンネットを閉めてから車を買った販売店へ「ETCカードが抜けなくなったので、直ぐにいく!」と電話をした。
販売店へ直行する途中で、眼前のディスプレイ画面が暗くなってしまったことに気が付いた。
何かわからぬが車全体に異常事態が発生したのではないかと思った。
販売店に着くと丸顔の若い女性が対応してくれた。彼女は落ち着いていた。
「ディスプレイの地図画面が暗くなるのは通常の現象で、車が明るいところへ出ると自然にそうなるのです」と懇切丁寧に説明されたが、私には懇切丁寧過ぎて何のことか理解できなかった。
彼女の言葉を反芻(はんすう)して「通常の状態では周囲が明るくなれば画面が暗くなるのだ」という事を理解した。いつもそうであり、前からそうであり、今日突然そうなったのではないとわかるまで時間がかかった。
そうかそういえばそうだったと納得した。
ETCカードが取り出せなくなったのは、所定の箇所の上方の隙間へ強引に押し込んだのが原因であったと、別の店員が説明してくれた。
車には何の故障も生じてはいなかったのであった。
どこか一か所に不安を感じると「体全体が病気になってしまったような気分になる」患者の心境が理解できた。
図:老いをみるまなざし_第65回_ETCパニック_車の不安がパニックを引き起こす様子を表す図。
(イラスト:茶畑和也)
〔老いをみるまなざし〕
第65回 ETCパニック
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
新車を買った。
週に一度近郊の町の病院の外来診察に通っているが、その帰路のことであった。
金曜日、のどかな午後だった。伊勢湾岸道路から港に停泊する船がみえて、鈴鹿山脈の上空は晴れていた。
高速道路を降りるインターチェンジの料金所のETCゲートが閉鎖されていた。
直前になるまでゲートの閉鎖に気が付かず、私は慌てて一般用のゲートに車を入れた。
「ETCカードを出してください」と係員に言われた。
突然カードを出せと言われて困った。
カードが収まっている車内の場所を知らなかったのである。
運転席の右側の下のレバーを引っ張ってみたがそこにはカードは無かった。
その上を開けてみたがそこにもなかった。
一番上の段にカードを発見して係員に渡すと、「後ろのトランクが開いていますよ」と言った。
私が最初に触った下のレバーが後ろのトランク用であったのだ。
「悪いけど閉めてくれない」というと「わかりました」と言って人の良さそうな係員がボックスから出てきた。
後ろに回ってトランクを閉めてくれたが、その前に渡したETCカードを私に戻すのを忘れてしまっていた。
催促すると慌てて返してくれた。
そのカードを元の位置に戻そうと隙間に差し込むと刺さったままで戻ってこなくなってしまった。
差し込み口の横に付いている緑のランプも消えてしまっていた。私は不安になった。このままでは次からETCカードが使えない。
焦っているうちにゲートが開いた。
問題を残したままゲートを出ると赤いランプが点滅していることに気がついた。
ボンネットが開いていたのだ。
ETCカードを探して触ったスイッチにボンネットオープナースイッチがあったのだ。ボンネットが開いたまま運転すると危険である。前が見えなくなる。
この辺りから私の意識は異次元の世界に入ったようだ。
運よく近くにコンビニがあって駐車場に車を入れた。
車から降りてボンネットを閉めてから車を買った販売店へ「ETCカードが抜けなくなったので、直ぐにいく!」と電話をした。
販売店へ直行する途中で、眼前のディスプレイ画面が暗くなってしまったことに気が付いた。
何かわからぬが車全体に異常事態が発生したのではないかと思った。
販売店に着くと丸顔の若い女性が対応してくれた。彼女は落ち着いていた。
「ディスプレイの地図画面が暗くなるのは通常の現象で、車が明るいところへ出ると自然にそうなるのです」と懇切丁寧に説明されたが、私には懇切丁寧過ぎて何のことか理解できなかった。
彼女の言葉を反芻(はんすう)して「通常の状態では周囲が明るくなれば画面が暗くなるのだ」という事を理解した。いつもそうであり、前からそうであり、今日突然そうなったのではないとわかるまで時間がかかった。
そうかそういえばそうだったと納得した。
ETCカードが取り出せなくなったのは、所定の箇所の上方の隙間へ強引に押し込んだのが原因であったと、別の店員が説明してくれた。
車には何の故障も生じてはいなかったのであった。
どこか一か所に不安を感じると「体全体が病気になってしまったような気分になる」患者の心境が理解できた。
図:老いをみるまなざし_第65回_ETCパニック_車の不安がパニックを引き起こす様子を表す図。
(イラスト:茶畑和也)
徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」とは⁉
徳川家康の人生において最大の屈辱戦といわれる「三方ヶ原の戦い」。どのような戦いだったのか、ここで改めて紹介する。
■徳川家康自身の自尊心のため無謀な戦いを挑む
元亀3年(1572)10月3日、武田信玄(たけだしんげん)は上洛するため、本拠の甲斐(かい)・甲府(山梨県甲府市)を出発した。そして、遠江(とおとうみ)・三河への侵攻を目論み、軍事行動を起こした。
武田の重臣・山県昌景(やまがたかげ)は約5000の軍勢を率い、信濃国から東三河に攻め込み、長篠城(ながしのじょう/愛知県新城市)などを攻略した。これにより、家康は窮地に陥り、大いに焦ったに違いない。その勢いでもって、山県勢は遠江国へ向かったのである。
秋山虎繁(あきやまとらしげ)は約2500の軍勢を率いて、居城の高遠城(たかとうじょう/長野県伊那市)を出発すると、遠山氏が籠る岩村城(いわむらじょう/岐阜県恵那市)を攻略した。一方の信玄は、約2万5000の軍勢で信濃国を通過し、遠江国との境にある青崩峠から攻め込んだ。
10月13日、別働部隊を率いた馬場信春(ばばのぶはる)は、徳川方の只来城(ただらいじょう/静岡県浜松市)を落とした。そして、信玄の本隊と馬場氏が目指したのは、二俣城(ふたまたじょう/同)である。
二俣城は、家康の本拠がある浜松城、そして支城となる掛川城(かけがわじょう/静岡県掛川市)、高天神城(たかてんじんじょう/同)を結ぶ中間地点にあった。二俣城は、支城ネットワークを構成する重要な城だったのである。家康は二俣城を守るため、本多忠勝(ほんだただかつ)らを出陣させるが、一言坂(ひとことざか/静岡県磐田市)の戦いで武田軍に敗北した。家康の焦りは、頂点に達しただろう。勢いを得た武田軍は、そのまま二俣城を攻囲した。二俣城には城代の中根正照(なかねまさてる)以下、約1200の軍勢が籠っていたが、武田方の降伏勧告にも従わず、粘り強く戦った。
しかし、しょせんは多勢に無勢で、しかも天竜川の水の手を断たれたこともあり、12月19日に二俣城は降伏・開城を余儀なくされた。一連の戦いによって、信玄は遠江国北部を制圧したのである。
12月22日、武田方は二俣城を出発し、西へと進路を取った。そして、家康も浜松城を発つと、織田軍の援軍とともに武田方を迎え撃とうとした。家康の軍勢は約1万、武田軍は約2万5000といわれ、戦場となったのが三方ヶ原である。数的に家康は不利だった。
家康はいかに武田軍が多勢とはいえ、素通りさせることはプライドが許さなかった。「合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である」と諸将に檄を飛ばしたという。まさしく命懸けの強い覚悟だった。
戦いは午後4時頃にはじまり、2時間余りで武田軍の勝利に終わった。徳川方は2000もの戦死者を出して敗走した。一方の武田方の戦死者は、わずか200余にすぎなかった。徳川方は、夏目広次(なつめひろつぐ)、本多忠真(ほんだただざね)、鳥居忠広(とりいただひろ)など、多くの有力な家臣を失い大打撃を受けたのである。
歴史人編集部
徳川家康の人生において最大の屈辱戦といわれる「三方ヶ原の戦い」。どのような戦いだったのか、ここで改めて紹介する。
■徳川家康自身の自尊心のため無謀な戦いを挑む
元亀3年(1572)10月3日、武田信玄(たけだしんげん)は上洛するため、本拠の甲斐(かい)・甲府(山梨県甲府市)を出発した。そして、遠江(とおとうみ)・三河への侵攻を目論み、軍事行動を起こした。
武田の重臣・山県昌景(やまがたかげ)は約5000の軍勢を率い、信濃国から東三河に攻め込み、長篠城(ながしのじょう/愛知県新城市)などを攻略した。これにより、家康は窮地に陥り、大いに焦ったに違いない。その勢いでもって、山県勢は遠江国へ向かったのである。
秋山虎繁(あきやまとらしげ)は約2500の軍勢を率いて、居城の高遠城(たかとうじょう/長野県伊那市)を出発すると、遠山氏が籠る岩村城(いわむらじょう/岐阜県恵那市)を攻略した。一方の信玄は、約2万5000の軍勢で信濃国を通過し、遠江国との境にある青崩峠から攻め込んだ。
10月13日、別働部隊を率いた馬場信春(ばばのぶはる)は、徳川方の只来城(ただらいじょう/静岡県浜松市)を落とした。そして、信玄の本隊と馬場氏が目指したのは、二俣城(ふたまたじょう/同)である。
二俣城は、家康の本拠がある浜松城、そして支城となる掛川城(かけがわじょう/静岡県掛川市)、高天神城(たかてんじんじょう/同)を結ぶ中間地点にあった。二俣城は、支城ネットワークを構成する重要な城だったのである。家康は二俣城を守るため、本多忠勝(ほんだただかつ)らを出陣させるが、一言坂(ひとことざか/静岡県磐田市)の戦いで武田軍に敗北した。家康の焦りは、頂点に達しただろう。勢いを得た武田軍は、そのまま二俣城を攻囲した。二俣城には城代の中根正照(なかねまさてる)以下、約1200の軍勢が籠っていたが、武田方の降伏勧告にも従わず、粘り強く戦った。
しかし、しょせんは多勢に無勢で、しかも天竜川の水の手を断たれたこともあり、12月19日に二俣城は降伏・開城を余儀なくされた。一連の戦いによって、信玄は遠江国北部を制圧したのである。
12月22日、武田方は二俣城を出発し、西へと進路を取った。そして、家康も浜松城を発つと、織田軍の援軍とともに武田方を迎え撃とうとした。家康の軍勢は約1万、武田軍は約2万5000といわれ、戦場となったのが三方ヶ原である。数的に家康は不利だった。
家康はいかに武田軍が多勢とはいえ、素通りさせることはプライドが許さなかった。「合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である」と諸将に檄を飛ばしたという。まさしく命懸けの強い覚悟だった。
戦いは午後4時頃にはじまり、2時間余りで武田軍の勝利に終わった。徳川方は2000もの戦死者を出して敗走した。一方の武田方の戦死者は、わずか200余にすぎなかった。徳川方は、夏目広次(なつめひろつぐ)、本多忠真(ほんだただざね)、鳥居忠広(とりいただひろ)など、多くの有力な家臣を失い大打撃を受けたのである。
歴史人編集部
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