「武田家が滅亡」裏切り者が続出した“きっかけ” 窮地に立たされた勝頼、信用を失ったその理由
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
■同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。
そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。
■織田信長は高天神城の降伏を認めず
しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。
『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。
彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。
『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。
『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
■武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
甲斐の府中(甲府市)に人質としてあった梅雪の妻子は、雨夜に紛れて密かに脱出させたという(2月25日)。梅雪は武田一族であり(生母は武田信玄の姉)、その裏切りは武田勝頼にとってショックだっただろう。
■重臣にも裏切られた勝頼
梅雪が織田方に降ったことによって、甲斐への進軍は容易となった。勝頼は新府に戻るが、館に火をかけ(3月3日)、重臣の小山田信茂を頼ろうとした。しかし、信茂にも裏切られて、3月11日、追い詰められた勝頼は、妻子とともに田野(甲州市)で自害して果てる。名族・武田家はついに滅亡した。
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
■同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。
そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。
■織田信長は高天神城の降伏を認めず
しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。
『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。
彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。
『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。
『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
■武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
甲斐の府中(甲府市)に人質としてあった梅雪の妻子は、雨夜に紛れて密かに脱出させたという(2月25日)。梅雪は武田一族であり(生母は武田信玄の姉)、その裏切りは武田勝頼にとってショックだっただろう。
■重臣にも裏切られた勝頼
梅雪が織田方に降ったことによって、甲斐への進軍は容易となった。勝頼は新府に戻るが、館に火をかけ(3月3日)、重臣の小山田信茂を頼ろうとした。しかし、信茂にも裏切られて、3月11日、追い詰められた勝頼は、妻子とともに田野(甲州市)で自害して果てる。名族・武田家はついに滅亡した。
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
「長篠の戦い」のスゴい伝令役は、鳥居強右衛門だけじゃない!
織田・徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦いを繰り広げた長篠の戦い、その激しい戦いのさなか、命を賭けて主家の窮地を救わんとした人物がいた。それが、後世「武士の鑑」とまで称えられた鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)であったことは、よく知られるところである(「どうする家康」では岡崎体育が演じた)。しかし、その陰に隠れているが、もう一人の伝令役・鈴木金七郎(きんしちろう)がいたことも忘れてはならないだろう。その活躍ぶりとは、いったいどのようなものだったのだろうか?
■足軽から「武士の鑑」へ
もともとこの鳥居強右衛門、身分は武士と農民の間に位置するような足軽にすぎなかった。にもかかわらず後世、「武士の鑑」として賞賛されたのはなぜか? それは、彼が自らの命をもものともせず、主家である奥平家の窮地を救ったからであった。今回はその経緯を振り返ってみることにしよう。
時は、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼とが戦いを繰り広げた「長篠の戦い」のさなか、天正3(1575)年5月のことであった。前月には武田信玄が入滅。息子・勝頼が跡を継ぐも、その傘下にいた奥平(おくだいら)家の当主・貞能(さだよし)が徳川家に寝返ったことで、強右衛門も徳川方として、この戦いに加わっていた。
三河国の東端に位置する長篠城を守るのは、奥平貞能の長男・貞昌(さだまさ)であった。500の兵をもって守りを固めるも、勝頼率いる1万5000もの武田軍が押し寄せてきたからたまらない。兵糧庫も焼かれて絶体絶命。もはや降伏するしか手立てがない、というところまで追い詰められていたのである。そして最後の手段が、「家康がいる岡崎城へ、援軍を要請する」ということ。その使者としての役目を仰せつかったのが、この強右衛門であった。しかし、その頃の長篠城といえば、周囲をぐるりと武田軍に取り囲まれ、一分の隙も見当たらないという状況である。
そんな中の、強行突破。手立ては、下水口に潜り込んで、豊川をたどって脱出するという、実に危険極まりない方法であった。さらにそこから片道50キロはゆうに超えそうな道のり(65キロとも)を一気に駆け抜けて岡崎城へたどり着いたというから、驚くばかりの体力である。ともあれ援軍を要請、その確約を得るや、休む暇もなく再び長篠城へと駆け出した。
■武田軍に「ウソ」を強要されるも…
しかし、運悪く鳥居強右衛門は、長篠城を前にして武田軍に捕まってしまった。徳川勢が援軍として押しかけてくることを知った勝頼は、その到着前に長篠城を落とす必要があると判断。
そして強右衛門に対し、「援軍が来ないから早々に城を明け渡すように」とのニセ情報を伝えるよう強要した。その方法が、強右衛門を磔にしたまま、長篠城に向かって叫ばせるというものであった(長篠城間際まで引っ立てて叫ばせたとの説も)。万が一、かれが本当のことを言えば、即座に斬り殺そうと待ち構えていたのである。
これに対して、表向きは勝頼の言う通りにするとして磔にされる強右衛門。その姿のまま、長篠城に向かって叫び始めたのである。しかし、彼の口から発せられた言葉は、なんと、家康が援軍としてやってくるという事実そのものであった。「2~3日のうちに援軍がやってくるから、それまで持ちこたえるように」と。
もちろん、勝頼が激怒したことはいうまでもない。即座に斬り殺されてしまった。しかし、強右衛門の命を賭けたひと言によって長篠城内は湧きたち、武田軍の猛攻をかろうじて凌ぐことができたのであった。 もともと三河の小豪族に過ぎなかった奥平家も、この家臣・強右衛門らの活躍によって主家としての名も高まり、江戸時代には10万石の大名にまで上り詰めたという。
■もう一人の伝令役・鈴木金七郎
さて、以上が鳥居強右衛門にまつわるお話であるが、本題とすべきはここから。奥平家の窮地を救わんと長篠城からの脱出を試みたのは、強右衛門だけではなかった。もう一人、鈴木金七郎(重政)なる人物にも、「強右衛門だけでは心もとない」として、同行するよう命が下されていたのである。
当時の記録『長篠日記』によれば、「水練上手なり。その上、物馴れし者」だったことが選ばれた理由だったとか。「水練」、つまり泳ぎが達者で、加えて「物馴れし者」というから、おそらくは狼煙(のろし)をあげる手筈を心得ていたことによるものだったのだろう。土地勘があったことも、選ばれた条件だったはずである。
強右衛門に続いて金七郎も、豊川を泳ぎわたって広瀬に上陸。金七郎の家(愛知県新城市富永屋川)に立ち寄って装束を整え、狼煙をあげるのに必要な材料を背負って628mの雁峰山(がんぼうさん)に登り、ひとまず脱出成功を知らせる狼煙をあげた。また、それに先立って鈴木家の守り神である白山社に無事を祈願することも忘れなかったというから、憎いばかりに落ち着いた心持ちである。ただし、豊川に潜り込んだ際には相当苦労したようで、鳴子(触れると音が鳴る縄)や仕掛け網に引っかからぬよう、慎重かつ迅速に動いた末の脱出劇だったと言う。
ともあれ、岡崎城へと無事たどり着いた金七郎。明日にも援軍が出立できそうだと知らされるや否や、長篠城の北西1キロほどのところに位置する涼み松という松林に入った。長篠城下の人々の目に触れることを祈りながら、「援軍来る」の狼煙を上げたのである(狼煙を上げたのは強右衛門で、金七郎は岡崎城に留まっていたとの説も)。
大役を成し遂げた金七郎は、岡崎城に戻り、嫡子でなかったこともあって帰農したと伝えられている。前述の強右衛門が「武士の鑑」とまでもてはやされたのに対して、金七郎の存在はいつしか忘れられ、知る人ぞ知る状況になってしまったことは哀しいとしか言いようがない。
ただ、その子孫が今も存命というばかりか、金七郎の功績を見直そうとの機運が高まりつつあるというのが、わずかな救いである。もう一人の伝令役として活躍した金七郎なる人物がいたことも、是非とも頭に入れておいていただきたいと思うのだ。
・画像…落合左平次道次背旗(東京大学史料編纂所所蔵)を編集部にて一部トリミング
藤井勝彦
織田・徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦いを繰り広げた長篠の戦い、その激しい戦いのさなか、命を賭けて主家の窮地を救わんとした人物がいた。それが、後世「武士の鑑」とまで称えられた鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)であったことは、よく知られるところである(「どうする家康」では岡崎体育が演じた)。しかし、その陰に隠れているが、もう一人の伝令役・鈴木金七郎(きんしちろう)がいたことも忘れてはならないだろう。その活躍ぶりとは、いったいどのようなものだったのだろうか?
■足軽から「武士の鑑」へ
もともとこの鳥居強右衛門、身分は武士と農民の間に位置するような足軽にすぎなかった。にもかかわらず後世、「武士の鑑」として賞賛されたのはなぜか? それは、彼が自らの命をもものともせず、主家である奥平家の窮地を救ったからであった。今回はその経緯を振り返ってみることにしよう。
時は、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼とが戦いを繰り広げた「長篠の戦い」のさなか、天正3(1575)年5月のことであった。前月には武田信玄が入滅。息子・勝頼が跡を継ぐも、その傘下にいた奥平(おくだいら)家の当主・貞能(さだよし)が徳川家に寝返ったことで、強右衛門も徳川方として、この戦いに加わっていた。
三河国の東端に位置する長篠城を守るのは、奥平貞能の長男・貞昌(さだまさ)であった。500の兵をもって守りを固めるも、勝頼率いる1万5000もの武田軍が押し寄せてきたからたまらない。兵糧庫も焼かれて絶体絶命。もはや降伏するしか手立てがない、というところまで追い詰められていたのである。そして最後の手段が、「家康がいる岡崎城へ、援軍を要請する」ということ。その使者としての役目を仰せつかったのが、この強右衛門であった。しかし、その頃の長篠城といえば、周囲をぐるりと武田軍に取り囲まれ、一分の隙も見当たらないという状況である。
そんな中の、強行突破。手立ては、下水口に潜り込んで、豊川をたどって脱出するという、実に危険極まりない方法であった。さらにそこから片道50キロはゆうに超えそうな道のり(65キロとも)を一気に駆け抜けて岡崎城へたどり着いたというから、驚くばかりの体力である。ともあれ援軍を要請、その確約を得るや、休む暇もなく再び長篠城へと駆け出した。
■武田軍に「ウソ」を強要されるも…
しかし、運悪く鳥居強右衛門は、長篠城を前にして武田軍に捕まってしまった。徳川勢が援軍として押しかけてくることを知った勝頼は、その到着前に長篠城を落とす必要があると判断。
そして強右衛門に対し、「援軍が来ないから早々に城を明け渡すように」とのニセ情報を伝えるよう強要した。その方法が、強右衛門を磔にしたまま、長篠城に向かって叫ばせるというものであった(長篠城間際まで引っ立てて叫ばせたとの説も)。万が一、かれが本当のことを言えば、即座に斬り殺そうと待ち構えていたのである。
これに対して、表向きは勝頼の言う通りにするとして磔にされる強右衛門。その姿のまま、長篠城に向かって叫び始めたのである。しかし、彼の口から発せられた言葉は、なんと、家康が援軍としてやってくるという事実そのものであった。「2~3日のうちに援軍がやってくるから、それまで持ちこたえるように」と。
もちろん、勝頼が激怒したことはいうまでもない。即座に斬り殺されてしまった。しかし、強右衛門の命を賭けたひと言によって長篠城内は湧きたち、武田軍の猛攻をかろうじて凌ぐことができたのであった。 もともと三河の小豪族に過ぎなかった奥平家も、この家臣・強右衛門らの活躍によって主家としての名も高まり、江戸時代には10万石の大名にまで上り詰めたという。
■もう一人の伝令役・鈴木金七郎
さて、以上が鳥居強右衛門にまつわるお話であるが、本題とすべきはここから。奥平家の窮地を救わんと長篠城からの脱出を試みたのは、強右衛門だけではなかった。もう一人、鈴木金七郎(重政)なる人物にも、「強右衛門だけでは心もとない」として、同行するよう命が下されていたのである。
当時の記録『長篠日記』によれば、「水練上手なり。その上、物馴れし者」だったことが選ばれた理由だったとか。「水練」、つまり泳ぎが達者で、加えて「物馴れし者」というから、おそらくは狼煙(のろし)をあげる手筈を心得ていたことによるものだったのだろう。土地勘があったことも、選ばれた条件だったはずである。
強右衛門に続いて金七郎も、豊川を泳ぎわたって広瀬に上陸。金七郎の家(愛知県新城市富永屋川)に立ち寄って装束を整え、狼煙をあげるのに必要な材料を背負って628mの雁峰山(がんぼうさん)に登り、ひとまず脱出成功を知らせる狼煙をあげた。また、それに先立って鈴木家の守り神である白山社に無事を祈願することも忘れなかったというから、憎いばかりに落ち着いた心持ちである。ただし、豊川に潜り込んだ際には相当苦労したようで、鳴子(触れると音が鳴る縄)や仕掛け網に引っかからぬよう、慎重かつ迅速に動いた末の脱出劇だったと言う。
ともあれ、岡崎城へと無事たどり着いた金七郎。明日にも援軍が出立できそうだと知らされるや否や、長篠城の北西1キロほどのところに位置する涼み松という松林に入った。長篠城下の人々の目に触れることを祈りながら、「援軍来る」の狼煙を上げたのである(狼煙を上げたのは強右衛門で、金七郎は岡崎城に留まっていたとの説も)。
大役を成し遂げた金七郎は、岡崎城に戻り、嫡子でなかったこともあって帰農したと伝えられている。前述の強右衛門が「武士の鑑」とまでもてはやされたのに対して、金七郎の存在はいつしか忘れられ、知る人ぞ知る状況になってしまったことは哀しいとしか言いようがない。
ただ、その子孫が今も存命というばかりか、金七郎の功績を見直そうとの機運が高まりつつあるというのが、わずかな救いである。もう一人の伝令役として活躍した金七郎なる人物がいたことも、是非とも頭に入れておいていただきたいと思うのだ。
・画像…落合左平次道次背旗(東京大学史料編纂所所蔵)を編集部にて一部トリミング
藤井勝彦
「どうする家康」甲斐はスパルタ?最強信玄も体調不良…勝頼・眞栄田郷敦と出陣!ネット「無敵感半端ない」
嵐の松本潤(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は4月30日、第16話が放送された。話題のシーンを振り返る。
【写真】大河ドラマ「どうする家康」第16話。武田信玄の言伝は…徳川家康(松本潤)に耳打ちする久松源三郎勝俊(長尾謙杜・右)(C)NHK
<※以下、ネタバレ有>
「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどのヒット作を生み続ける古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。江戸幕府初代将軍を単独主役にした大河は1983年「徳川家康」以来、実に40年ぶり。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となる。
第16話は「信玄を怒らせるな」。浜松に居城を移した徳川家康(松本潤)だが、城下で少年に襲われ、九死に一生を得る。それは井伊虎松(板垣李光人)と名乗る少年だった。そして武田信玄(阿部寛)に対抗し、上杉謙信との同盟を探るが、武田方に漏れ、信玄は激怒。決戦は避けられないと覚悟を決め、人質として武田に送っている義弟・久松源三郎勝俊(長尾謙杜)を救出したものの、すべては武田信玄(阿部寛)の思惑通りだった…という展開。
源三郎は浜松城にたどり着いたものの、凍傷により足の指を失った。家康による源三郎救出作戦は想定内。源三郎は信玄から預かった言伝を家康に伝えた。
「弱き主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり。生き延びたければ我が家臣となれ。手を差し伸べるは一度だけぞ」信玄の最後通牒。家康は家臣団に判断を委ねたが、鼓舞され、涙ながらに出陣を決意した。
冒頭、小雪の舞う岩の上に続き、お堂の信玄は苦しそうに左下腹部を押さえる。そこへ四男・武田四郎勝頼(眞栄田郷敦)。信玄は「この山々に囲まれた国になぜわしは生まれついたのかと、よう恨んだ。もっと田畑があれば。海が、港があれば。もっと富があれば。わしは瞬く間に世を平らかにしたものを。四郎、それをそなたに残す。これが我が生涯、最大の戦となろう」――。
いよいよ織田信長(岡田准一)討ちへ。「赤備え」の部隊を前に「これより浜松を目指し、徳川家康を討つ!いざ風の如く進め!」――。
源三郎へのスパルタ教育や眞栄田郷敦の初登場に、SNS上には「阿部寛信玄と眞栄田郷敦勝頼、親子2ショットが濃い!無敵感半端なし」「甲斐国は日本のスパルタだった」「ローマ人がスパルタ兵率いているなんて、最強じゃないですか」「この信玄、病さえなければ、日ノ本どこでも勝ち取りそう」「家康にあって信玄に足りなかったのは健康と寿命」などの声が上がった。
「三河一向一揆」「伊賀越え」と並び、徳川家康の“3大危機”に数えられ、人生最大のピンチとされる「三方ヶ原の戦い」(元亀3年、1573年)が迫る。
嵐の松本潤(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は4月30日、第16話が放送された。話題のシーンを振り返る。
【写真】大河ドラマ「どうする家康」第16話。武田信玄の言伝は…徳川家康(松本潤)に耳打ちする久松源三郎勝俊(長尾謙杜・右)(C)NHK
<※以下、ネタバレ有>
「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどのヒット作を生み続ける古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。江戸幕府初代将軍を単独主役にした大河は1983年「徳川家康」以来、実に40年ぶり。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となる。
第16話は「信玄を怒らせるな」。浜松に居城を移した徳川家康(松本潤)だが、城下で少年に襲われ、九死に一生を得る。それは井伊虎松(板垣李光人)と名乗る少年だった。そして武田信玄(阿部寛)に対抗し、上杉謙信との同盟を探るが、武田方に漏れ、信玄は激怒。決戦は避けられないと覚悟を決め、人質として武田に送っている義弟・久松源三郎勝俊(長尾謙杜)を救出したものの、すべては武田信玄(阿部寛)の思惑通りだった…という展開。
源三郎は浜松城にたどり着いたものの、凍傷により足の指を失った。家康による源三郎救出作戦は想定内。源三郎は信玄から預かった言伝を家康に伝えた。
「弱き主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり。生き延びたければ我が家臣となれ。手を差し伸べるは一度だけぞ」信玄の最後通牒。家康は家臣団に判断を委ねたが、鼓舞され、涙ながらに出陣を決意した。
冒頭、小雪の舞う岩の上に続き、お堂の信玄は苦しそうに左下腹部を押さえる。そこへ四男・武田四郎勝頼(眞栄田郷敦)。信玄は「この山々に囲まれた国になぜわしは生まれついたのかと、よう恨んだ。もっと田畑があれば。海が、港があれば。もっと富があれば。わしは瞬く間に世を平らかにしたものを。四郎、それをそなたに残す。これが我が生涯、最大の戦となろう」――。
いよいよ織田信長(岡田准一)討ちへ。「赤備え」の部隊を前に「これより浜松を目指し、徳川家康を討つ!いざ風の如く進め!」――。
源三郎へのスパルタ教育や眞栄田郷敦の初登場に、SNS上には「阿部寛信玄と眞栄田郷敦勝頼、親子2ショットが濃い!無敵感半端なし」「甲斐国は日本のスパルタだった」「ローマ人がスパルタ兵率いているなんて、最強じゃないですか」「この信玄、病さえなければ、日ノ本どこでも勝ち取りそう」「家康にあって信玄に足りなかったのは健康と寿命」などの声が上がった。
「三河一向一揆」「伊賀越え」と並び、徳川家康の“3大危機”に数えられ、人生最大のピンチとされる「三方ヶ原の戦い」(元亀3年、1573年)が迫る。
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