电子版采访也来一遍
メジャーデビューから6年、一層エネルギッシュなパフォーマンスで覚醒している、THE RAMPAGE。
現在は、5度目となるアリーナツアーの真っ只中。16人グループの中でボーカルを務めるRIKUさんは、その熱い歌声で会場を沸かせている。
“肉好き”を公言する彼をお連れしたのは、由緒正しい鴨料理の名店。焼きたての鴨を堪能したあと、私生活から仕事まで、29歳のリアルを伺った。
1️⃣「鴨とワインのマリアージュって、こんな幸せな気持ちになるんですね」
出演者と店舗のマッチングが100%と言っていい撮影だった。RIKUさんが筋金入りの鴨好きだったからだ。
「実は、ついこの間も自分で鴨せいろを作って食べたんですよ。スーパーで鴨を買って低温調理をして、鴨だしと鰹昆布だしをブレンドしてつゆも作りました。
体づくりはトレーニングも大事ですけど、一番は食事。鴨は高タンパクで低脂肪なのでよく食べますね」
実食すると、「本当に幸せです。もう将軍になった気持ち(笑)。取材が終わったら(武知)海青とかに連絡して“出合ってしまった”と伝えます」と口にする。
この鴨は誰と一緒に食べたいか聞くと、答えはメンバーかと思いきや、「まずはここにいるスタッフさんたちと。僕だけ食べてズルいですから」と優し過ぎる。
麻布十番に来たのは久しぶりだが、デビュー当時の思い出の街だとか。
「デビューして2〜3年は一ノ橋の交番近くでレコーディングをしていたのでよく来ていました。当時は自分たちでの電車移動。ボーカル3人で寮を出て地下鉄に乗り、六本木で乗り換えて麻布十番駅まで。
3人とも歌唱力が未熟でレコーディングに時間がかかってしまい、ようやく終わった後にディレクターが近くのラーメン屋さんでご馳走してくれたのがいい思い出です。
夏は駅まで汗だくになって歩き、電車で涼んで、スタジオまでまた汗ばんでという記憶。近くのコンビニではいつもフライドチキンを買っていましたね」
2️⃣物理的な距離を、心の距離とイコールにしたくない
数年経ち、今は鴨とワインのマリアージュを知る29歳に。
普段の外食は個室が多くなったが、地元の友達と下北沢でハシゴ酒をして相席になった客と乾杯なんて夜もある。
外食も楽しみつつ、基本は自炊。最近では鯖の味噌煮や豆腐入りハンバーグを作ったという。
メンバーとも互いの家を行き来して料理を楽しむ。
「少し前に海青の家ですき焼きパーティをしました。その時いたのは(神谷)健太とやましょー(山本彰吾)。
海青がいい肉を用意してくれたので、僕と健太はちょっといいウイスキーを持っていき、割り下はやましょーが手際よく作ってくれました」
ライブ直前はアスリートの食生活だ。「本番4時間前までにお米とたまごと鶏肉とサラダといった栄養価の高い固形物を摂り、以降は水分だけ」と、1回で体重が2キロ落ちるほどハードなライブに備える。
加えて格闘技にジョギング、自重トレーニングを行い、8割以上のハイパワーの持続を目指す。そうして備えても、稼働が大きい、とあるパーツの筋肉痛は防げない。
「ファンのみなさんを煽る時は、手を上げて動かすので、実は背中が1番重要。ライブが終わった後の筋肉痛も背中が一番きついです。
ただ大きく煽ればいいわけではなく、自分が一番後ろの席にいたらどう見えるかを意識して動きます。
僕は学生時代、親にEXILEの大きな会場のライブに連れて行ってもらっていて、あの時の端からの景色を知っているからこそ、最前列も後ろの席も同じように楽しんでいただきたい。
物理的な距離を心の距離とイコールにしたくないんです。だから分かりやすく動き、分かりやすく歌うことを心がけています」
昔、遠くから見た憧れのワンシーンが鮮明に残っているから、逆の立場になった時に広い視野でみんなを見ることができる。
元は歌が好きなファンのひとり。少年時代、歌詞カードがぐちゃぐちゃになるまで真似して歌っていた。
サッカー選手を夢見たこともあったが、周りがボーカルの可能性に気づかせてくれた。
「とにかく誰かの“夢”になりたかった。何かをして人を喜ばせたり笑わせたりするのが好きで、じゃあ自分は何なら人に喜んでもらえる可能性が高いかって考えていた中学2年生の頃。
カラオケに行ったら、友達が“RIKUって歌上手いよね”と褒めてくれました。採点ゲームも高得点が出る。
もしかして僕、人より歌うことに長けているのかなって子供ながらに思って、じゃあ本格的にやってみようとネットで調べて、動画で発声の真似を始めました。些細な言葉から前に進めました」
3️⃣「僕たちの“雑草魂”の強さは、LDH随一だと思います」
高校の文化祭では千人の前で歌い、2014年には遂にTHE RAMPAGEのメンバーに。
でも、すんなりスポットライトを浴びたわけではない。
「デビュー前は自分たちでビラを配ってフリーライブをやっても、5人しか来ない日もありました。
デビューしても寮時代、プロのアーティストとして1番忙しくあるべき年末年始にお仕事がなくて、先輩方がテレビの音楽番組で活躍している姿を指をくわえて見ていただけ。
あの悔しさを絶対に忘れないようにしようと当時から話していたから、僕たちの“雑草魂”の強さはLDH随一だと思います。
だから、どこまでいっても満足することはないし、満足したら終わり。常に腹を空かしたハイエナのようでいないと(笑)」
ツアーで全国のアリーナを周る今もストイックな姿勢は揺るがない。
「エンターテインメントはそれぐらい極めていくことに貪欲でないといけないと思うし、ライブを何度も見てくださる方に、お会いする度に強く大きく進化した姿で再会するのが、僕らプロのアーティストの筋。
そこに向かって頑張るエネルギーをくれるのもRAVERS(ファンネーム)であって、本当に素敵な関係を築けていると感謝しかないです。
だから、会場にいる全員が同じ満足度で帰るのは難しいことかもしれないですけど、不可能で終わらせないのがTHE RAMPAGEですよっていう感じです。絶対やってやるんだって気持ちで、僕らは舞台に立っています」
今号のタイトルは「麻布十番の熱気」だが、改めてベストな巡り合わせであった。
RIKUさんの熱気はこれからも冷めることはないだろう。貪欲さというガソリンを絶やさず、同じく熱い仲間とファンが味方でいるからだ。
■プロフィール
RIKU 1994年生まれ、埼玉県出身。2014年にTHE RAMPAGEのメンバーとなり、2017年にメジャーデビュー。この8月2日に「Summer Riot~熱帯夜~ / Everest」が両A面シングルとして発売された。和太鼓演奏グループDRUM TAOとのコラボ、ワイルドなヒップホップと異なる個性で魅了する。
■衣装
ジャケット 115,500円〈タリアトーレ/トレメッツォ TEL:03-5464-1158〉、シャツ 55,000円、パンツ 53,900円〈ともにピーティートリノ/PT JAPAN TEL:03-5485-0058〉、その他スタイリスト私物
メジャーデビューから6年、一層エネルギッシュなパフォーマンスで覚醒している、THE RAMPAGE。
現在は、5度目となるアリーナツアーの真っ只中。16人グループの中でボーカルを務めるRIKUさんは、その熱い歌声で会場を沸かせている。
“肉好き”を公言する彼をお連れしたのは、由緒正しい鴨料理の名店。焼きたての鴨を堪能したあと、私生活から仕事まで、29歳のリアルを伺った。
1️⃣「鴨とワインのマリアージュって、こんな幸せな気持ちになるんですね」
出演者と店舗のマッチングが100%と言っていい撮影だった。RIKUさんが筋金入りの鴨好きだったからだ。
「実は、ついこの間も自分で鴨せいろを作って食べたんですよ。スーパーで鴨を買って低温調理をして、鴨だしと鰹昆布だしをブレンドしてつゆも作りました。
体づくりはトレーニングも大事ですけど、一番は食事。鴨は高タンパクで低脂肪なのでよく食べますね」
実食すると、「本当に幸せです。もう将軍になった気持ち(笑)。取材が終わったら(武知)海青とかに連絡して“出合ってしまった”と伝えます」と口にする。
この鴨は誰と一緒に食べたいか聞くと、答えはメンバーかと思いきや、「まずはここにいるスタッフさんたちと。僕だけ食べてズルいですから」と優し過ぎる。
麻布十番に来たのは久しぶりだが、デビュー当時の思い出の街だとか。
「デビューして2〜3年は一ノ橋の交番近くでレコーディングをしていたのでよく来ていました。当時は自分たちでの電車移動。ボーカル3人で寮を出て地下鉄に乗り、六本木で乗り換えて麻布十番駅まで。
3人とも歌唱力が未熟でレコーディングに時間がかかってしまい、ようやく終わった後にディレクターが近くのラーメン屋さんでご馳走してくれたのがいい思い出です。
夏は駅まで汗だくになって歩き、電車で涼んで、スタジオまでまた汗ばんでという記憶。近くのコンビニではいつもフライドチキンを買っていましたね」
2️⃣物理的な距離を、心の距離とイコールにしたくない
数年経ち、今は鴨とワインのマリアージュを知る29歳に。
普段の外食は個室が多くなったが、地元の友達と下北沢でハシゴ酒をして相席になった客と乾杯なんて夜もある。
外食も楽しみつつ、基本は自炊。最近では鯖の味噌煮や豆腐入りハンバーグを作ったという。
メンバーとも互いの家を行き来して料理を楽しむ。
「少し前に海青の家ですき焼きパーティをしました。その時いたのは(神谷)健太とやましょー(山本彰吾)。
海青がいい肉を用意してくれたので、僕と健太はちょっといいウイスキーを持っていき、割り下はやましょーが手際よく作ってくれました」
ライブ直前はアスリートの食生活だ。「本番4時間前までにお米とたまごと鶏肉とサラダといった栄養価の高い固形物を摂り、以降は水分だけ」と、1回で体重が2キロ落ちるほどハードなライブに備える。
加えて格闘技にジョギング、自重トレーニングを行い、8割以上のハイパワーの持続を目指す。そうして備えても、稼働が大きい、とあるパーツの筋肉痛は防げない。
「ファンのみなさんを煽る時は、手を上げて動かすので、実は背中が1番重要。ライブが終わった後の筋肉痛も背中が一番きついです。
ただ大きく煽ればいいわけではなく、自分が一番後ろの席にいたらどう見えるかを意識して動きます。
僕は学生時代、親にEXILEの大きな会場のライブに連れて行ってもらっていて、あの時の端からの景色を知っているからこそ、最前列も後ろの席も同じように楽しんでいただきたい。
物理的な距離を心の距離とイコールにしたくないんです。だから分かりやすく動き、分かりやすく歌うことを心がけています」
昔、遠くから見た憧れのワンシーンが鮮明に残っているから、逆の立場になった時に広い視野でみんなを見ることができる。
元は歌が好きなファンのひとり。少年時代、歌詞カードがぐちゃぐちゃになるまで真似して歌っていた。
サッカー選手を夢見たこともあったが、周りがボーカルの可能性に気づかせてくれた。
「とにかく誰かの“夢”になりたかった。何かをして人を喜ばせたり笑わせたりするのが好きで、じゃあ自分は何なら人に喜んでもらえる可能性が高いかって考えていた中学2年生の頃。
カラオケに行ったら、友達が“RIKUって歌上手いよね”と褒めてくれました。採点ゲームも高得点が出る。
もしかして僕、人より歌うことに長けているのかなって子供ながらに思って、じゃあ本格的にやってみようとネットで調べて、動画で発声の真似を始めました。些細な言葉から前に進めました」
3️⃣「僕たちの“雑草魂”の強さは、LDH随一だと思います」
高校の文化祭では千人の前で歌い、2014年には遂にTHE RAMPAGEのメンバーに。
でも、すんなりスポットライトを浴びたわけではない。
「デビュー前は自分たちでビラを配ってフリーライブをやっても、5人しか来ない日もありました。
デビューしても寮時代、プロのアーティストとして1番忙しくあるべき年末年始にお仕事がなくて、先輩方がテレビの音楽番組で活躍している姿を指をくわえて見ていただけ。
あの悔しさを絶対に忘れないようにしようと当時から話していたから、僕たちの“雑草魂”の強さはLDH随一だと思います。
だから、どこまでいっても満足することはないし、満足したら終わり。常に腹を空かしたハイエナのようでいないと(笑)」
ツアーで全国のアリーナを周る今もストイックな姿勢は揺るがない。
「エンターテインメントはそれぐらい極めていくことに貪欲でないといけないと思うし、ライブを何度も見てくださる方に、お会いする度に強く大きく進化した姿で再会するのが、僕らプロのアーティストの筋。
そこに向かって頑張るエネルギーをくれるのもRAVERS(ファンネーム)であって、本当に素敵な関係を築けていると感謝しかないです。
だから、会場にいる全員が同じ満足度で帰るのは難しいことかもしれないですけど、不可能で終わらせないのがTHE RAMPAGEですよっていう感じです。絶対やってやるんだって気持ちで、僕らは舞台に立っています」
今号のタイトルは「麻布十番の熱気」だが、改めてベストな巡り合わせであった。
RIKUさんの熱気はこれからも冷めることはないだろう。貪欲さというガソリンを絶やさず、同じく熱い仲間とファンが味方でいるからだ。
■プロフィール
RIKU 1994年生まれ、埼玉県出身。2014年にTHE RAMPAGEのメンバーとなり、2017年にメジャーデビュー。この8月2日に「Summer Riot~熱帯夜~ / Everest」が両A面シングルとして発売された。和太鼓演奏グループDRUM TAOとのコラボ、ワイルドなヒップホップと異なる個性で魅了する。
■衣装
ジャケット 115,500円〈タリアトーレ/トレメッツォ TEL:03-5464-1158〉、シャツ 55,000円、パンツ 53,900円〈ともにピーティートリノ/PT JAPAN TEL:03-5485-0058〉、その他スタイリスト私物
唐寅
父の唐広徳は、蘇州府呉県の繁華街で営業していた肉屋(あるいは酒屋・飲食業)だった。張霊とは幼なじみであった。幼少から利発であったため教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため人々の注目を集めた。16歳のときに蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあってこちらも20年に渡る親友となった。文徴明の父の文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。 名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物であり10歳年上だったが、生涯に渡る親友となった。1488年、最初の妻:徐氏と結婚したが、6年後死別した。
青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが御覧の通りの享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず一心不乱に勉学に励んだ結果、1498年に29歳の時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため、唐解元という呼び名もここから来ている。科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆(中国語版)という人物が、嫉妬の余りに関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも2人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり建物の2階から飛び降りてそのまま帰ってしまったりという話もあり、温厚紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという。
官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した事から明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという。
唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが、1500年ごろから周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである[3]。
1512年に日本人商人の彦九郎に自作の詩を自署して贈っていて現存している「贈彦九郎詩」(京都国立博物館)。1500年ごろから文徴明と疎遠になっていたが、1513年に修好を願う手紙をに送っている。
1514年、寧王の厚い招聘に応じて、廬山や鄱陽湖に遊びつつ、南昌に至った。寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出することができ、1515年秋ごろに蘇州に帰った。その結果、1519年の寧王の乱において追及されることはなかった。その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生きた唐寅は1523年54歳でその生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう。
父の唐広徳は、蘇州府呉県の繁華街で営業していた肉屋(あるいは酒屋・飲食業)だった。張霊とは幼なじみであった。幼少から利発であったため教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため人々の注目を集めた。16歳のときに蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあってこちらも20年に渡る親友となった。文徴明の父の文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。 名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物であり10歳年上だったが、生涯に渡る親友となった。1488年、最初の妻:徐氏と結婚したが、6年後死別した。
青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが御覧の通りの享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず一心不乱に勉学に励んだ結果、1498年に29歳の時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため、唐解元という呼び名もここから来ている。科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆(中国語版)という人物が、嫉妬の余りに関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも2人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり建物の2階から飛び降りてそのまま帰ってしまったりという話もあり、温厚紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという。
官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した事から明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという。
唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが、1500年ごろから周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである[3]。
1512年に日本人商人の彦九郎に自作の詩を自署して贈っていて現存している「贈彦九郎詩」(京都国立博物館)。1500年ごろから文徴明と疎遠になっていたが、1513年に修好を願う手紙をに送っている。
1514年、寧王の厚い招聘に応じて、廬山や鄱陽湖に遊びつつ、南昌に至った。寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出することができ、1515年秋ごろに蘇州に帰った。その結果、1519年の寧王の乱において追及されることはなかった。その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生きた唐寅は1523年54歳でその生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう。
北斗的solo曲·玻璃花
试着尽量去合上韵律,自翻仅供参考[收到]
ガラス花(Hokuto Matsumura)
玻璃花(松村北斗)
Music &Lyrics: AiNA THE END Arrangement: Kei Kawano
僕のことを笑ってくれよ
就像往常那样 倒是来笑我啊
君と僕は それでいいんだ
你和我就这样 这样就好了吧
風邪を引いた夜の夢のよう
像伤了风的 夜晚的梦境一样
忙しない街 残されていく
忙忙碌碌的城市 被遗弃在那里
君と僕 それでいい それでいいんだ
你和我啊 这样就好 这样就够了啊
生意気な季節のまま
就像任性无常的季节一样
瞳からすんなり転げ落ちた
湿润的眼眸 泪水停留不住往下落
涙は一粒 君のポッケ
有一颗闪闪的泪珠 掉进你的口袋
掌に春をのせてあげたかった あぁ
让那掌心间开出了一片灿烂的春色 啊
放つ夜に そっと
轻轻地 在夜里 盛开
さよなら
再见了吧
君はガラス花
你就是一支玻璃花
枯れずに割れていった
还没枯萎就破碎了啊
僕の大切
我最重要的人
さよなら
再见了吧
かけらを拾うから
我会将碎片拾起啊
僕のことを笑ってくれよ ほら
快像往常那样 来笑我吧 来啊
僕の前だけ泣いてくれよ
只在我的面前 落下你的泪水吧
優しさは時には いじらしいね
所谓的温柔 有时就是 可爱又可怜啊
美しからぬ季節です
这完完全全不美好的季节
まだ若葉だった影を撫でる日々
那些还轻抚着嫩叶般身影的每一天
咳払いじゃもう 拭えないや
就算以清嗓敷衍也 已无法拭去了
全て投げ捨てて 叫びたいけれど
虽然想大声叫着喊着 干脆放弃一切
ちっぽけだ 僕は あぁ
但我还是 渺小可怜呐 啊
さよなら
再见了吧
僕のガラス花
曾属于我的玻璃花
遠くで咲いてたら
在远方盛开了的话
見守ってね
请注视守护它
さよなら
再见了吧
夢の中ゆらり
在睡梦中轻轻摇曳
僕の前だけで泣いてくれよ
只在我的面前 落下你的泪水吧
深い空が 鼓動飲み込んで
深邃的天空啊 将心跳全部吞没
割れてく 消えてく 音がしてる
正在发出 渐渐破碎 慢慢消逝的声音
まだそちらには いけないよ
可还不能去往那边的世界啊
透明な夜 明けるかな
透明的夜晚 会迎来 黎明吗
さよなら
再见了吧
僕もガラス花
我也是一支玻璃花
空に放つ春よ
向天空盛开的春天啊
届いてくれ
一定要传达到
ありがとう
谢谢你呀
忘れられないや
永远都无法忘记吧
僕のこと笑ってくれよ ほら ほら
快像往常那样 来笑我吧 来啊 来吧
试着尽量去合上韵律,自翻仅供参考[收到]
ガラス花(Hokuto Matsumura)
玻璃花(松村北斗)
Music &Lyrics: AiNA THE END Arrangement: Kei Kawano
僕のことを笑ってくれよ
就像往常那样 倒是来笑我啊
君と僕は それでいいんだ
你和我就这样 这样就好了吧
風邪を引いた夜の夢のよう
像伤了风的 夜晚的梦境一样
忙しない街 残されていく
忙忙碌碌的城市 被遗弃在那里
君と僕 それでいい それでいいんだ
你和我啊 这样就好 这样就够了啊
生意気な季節のまま
就像任性无常的季节一样
瞳からすんなり転げ落ちた
湿润的眼眸 泪水停留不住往下落
涙は一粒 君のポッケ
有一颗闪闪的泪珠 掉进你的口袋
掌に春をのせてあげたかった あぁ
让那掌心间开出了一片灿烂的春色 啊
放つ夜に そっと
轻轻地 在夜里 盛开
さよなら
再见了吧
君はガラス花
你就是一支玻璃花
枯れずに割れていった
还没枯萎就破碎了啊
僕の大切
我最重要的人
さよなら
再见了吧
かけらを拾うから
我会将碎片拾起啊
僕のことを笑ってくれよ ほら
快像往常那样 来笑我吧 来啊
僕の前だけ泣いてくれよ
只在我的面前 落下你的泪水吧
優しさは時には いじらしいね
所谓的温柔 有时就是 可爱又可怜啊
美しからぬ季節です
这完完全全不美好的季节
まだ若葉だった影を撫でる日々
那些还轻抚着嫩叶般身影的每一天
咳払いじゃもう 拭えないや
就算以清嗓敷衍也 已无法拭去了
全て投げ捨てて 叫びたいけれど
虽然想大声叫着喊着 干脆放弃一切
ちっぽけだ 僕は あぁ
但我还是 渺小可怜呐 啊
さよなら
再见了吧
僕のガラス花
曾属于我的玻璃花
遠くで咲いてたら
在远方盛开了的话
見守ってね
请注视守护它
さよなら
再见了吧
夢の中ゆらり
在睡梦中轻轻摇曳
僕の前だけで泣いてくれよ
只在我的面前 落下你的泪水吧
深い空が 鼓動飲み込んで
深邃的天空啊 将心跳全部吞没
割れてく 消えてく 音がしてる
正在发出 渐渐破碎 慢慢消逝的声音
まだそちらには いけないよ
可还不能去往那边的世界啊
透明な夜 明けるかな
透明的夜晚 会迎来 黎明吗
さよなら
再见了吧
僕もガラス花
我也是一支玻璃花
空に放つ春よ
向天空盛开的春天啊
届いてくれ
一定要传达到
ありがとう
谢谢你呀
忘れられないや
永远都无法忘记吧
僕のこと笑ってくれよ ほら ほら
快像往常那样 来笑我吧 来啊 来吧
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