旭姫(朝日姫)は、安土桃山時代の女性で、秀吉の妹にあたる人物です。天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」後、家康との関係をさらに強化したいと考えた秀吉は、自身の妹・旭姫を家康の正室にしようとしたのです。
この時、旭姫にはすでに夫がいましたが、秀吉に無理やり離縁させられたそうです。家康の正室になってから数年後、病没したと伝えられている旭姫。兄・秀吉の壮大な夢に振り回されたかわいそうな妹というイメージがありますが、実際の旭姫はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、人質として家康のもとに嫁いだ、純朴で心優しい女性(演:山田真歩)として描かれます。
旭姫が生きた時代
旭姫は、天文12年(1543)に生まれます。尾張国(現在の愛知県)の百姓家に生まれ育った旭姫でしたが、長兄・秀吉と次兄・秀長が武士として生きるようになってから、彼女の人生は大きく変わっていきました。
秀吉が天下統一に向けて前進していた一方で、旭姫は有力武将の妹としての人生を強いられるようになったのです。
旭姫の足跡と主な出来事
旭姫は、天文12年(1543)に生まれ、天正18年(1590)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
家康の正室となる
旭姫は、天文12年(1543)、尾張国中村の百姓家に生まれました。母・仲とその再婚者・竹阿弥(ちくあみ)の子であるため、秀吉とは異父兄弟にあたります。その後、旭姫は尾張国の地侍・佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚したと伝えられていますが、その時期について詳しくはわかっていません。
生まれ育った尾張国で、ごく普通の生活を送っていたと考えられている旭姫。一方、兄の秀吉は主君である信長のもとで、順調に出世していました。信長の死後、彼の後継者を決めるべく「清洲会議」が開かれます。信長の敵討ちに成功し、発言力を強めていた秀吉が実質的な後継者となったことで、旭姫の運命も大きく変わっていったのです。
天正12年(1584)、家康と手を組んだ信長の次男・信雄と秀吉の間で勃発した「小牧・長久手の戦い」。戦いが膠着状態になったことを受け、秀吉は信雄に対し、和解を提案することに。信雄がこれに応じたことで戦いは終わることとなりました。
その後、家康との関係を強化しようと考えた秀吉。妹の旭姫を家康のもとに嫁がせようとしたのです。この時、秀吉は旭姫の夫・佐治日向守に対し、500石の加増を条件に旭姫と離婚するように命じたと言われています。
強引に離婚させられた佐治日向守は、その後出家したと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。いずれにせよ、納得しがたい出来事だったと考えられます。二人の離婚を確認した後、秀吉は家康に対し、旭姫を正室として迎え入れるよう説得しました。
家康はこれを承諾し、天正14年(1586)、旭姫は家康のもとへと向かうことになったのです。
短い夫婦生活の終わり
突然離縁させられ、家康の正室になることが決まった旭姫。駿府城(現在の静岡県静岡市にあった城)に移住したため、駿河御前と呼ばれるようになりました。しかし、家康との生活は長続きせず、わずか2年で京都の聚楽第(じゅらくだい)へ引き返すこととなります。
理由は、体調を崩した実母・仲の見舞いであると言われています。聚楽第にて母の看病をしていたそうですが、旭姫自身も病弱だったため、天正18年(1590)、48歳で病没してしまいました。
兄・秀吉の命で、強制的に家康の正室にさせられた旭姫。いわゆる政略結婚ですが、家康は旭姫の死後、京都の東福寺と駿府の瑞龍寺に彼女のお墓を作ったと言われています。天下人に振り回された不憫な女性というイメージが強い旭姫ですが、自分の運命を受け入れて逞しく生き、家康もまた彼女のことを理解していたのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
この時、旭姫にはすでに夫がいましたが、秀吉に無理やり離縁させられたそうです。家康の正室になってから数年後、病没したと伝えられている旭姫。兄・秀吉の壮大な夢に振り回されたかわいそうな妹というイメージがありますが、実際の旭姫はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、人質として家康のもとに嫁いだ、純朴で心優しい女性(演:山田真歩)として描かれます。
旭姫が生きた時代
旭姫は、天文12年(1543)に生まれます。尾張国(現在の愛知県)の百姓家に生まれ育った旭姫でしたが、長兄・秀吉と次兄・秀長が武士として生きるようになってから、彼女の人生は大きく変わっていきました。
秀吉が天下統一に向けて前進していた一方で、旭姫は有力武将の妹としての人生を強いられるようになったのです。
旭姫の足跡と主な出来事
旭姫は、天文12年(1543)に生まれ、天正18年(1590)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
家康の正室となる
旭姫は、天文12年(1543)、尾張国中村の百姓家に生まれました。母・仲とその再婚者・竹阿弥(ちくあみ)の子であるため、秀吉とは異父兄弟にあたります。その後、旭姫は尾張国の地侍・佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚したと伝えられていますが、その時期について詳しくはわかっていません。
生まれ育った尾張国で、ごく普通の生活を送っていたと考えられている旭姫。一方、兄の秀吉は主君である信長のもとで、順調に出世していました。信長の死後、彼の後継者を決めるべく「清洲会議」が開かれます。信長の敵討ちに成功し、発言力を強めていた秀吉が実質的な後継者となったことで、旭姫の運命も大きく変わっていったのです。
天正12年(1584)、家康と手を組んだ信長の次男・信雄と秀吉の間で勃発した「小牧・長久手の戦い」。戦いが膠着状態になったことを受け、秀吉は信雄に対し、和解を提案することに。信雄がこれに応じたことで戦いは終わることとなりました。
その後、家康との関係を強化しようと考えた秀吉。妹の旭姫を家康のもとに嫁がせようとしたのです。この時、秀吉は旭姫の夫・佐治日向守に対し、500石の加増を条件に旭姫と離婚するように命じたと言われています。
強引に離婚させられた佐治日向守は、その後出家したと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。いずれにせよ、納得しがたい出来事だったと考えられます。二人の離婚を確認した後、秀吉は家康に対し、旭姫を正室として迎え入れるよう説得しました。
家康はこれを承諾し、天正14年(1586)、旭姫は家康のもとへと向かうことになったのです。
短い夫婦生活の終わり
突然離縁させられ、家康の正室になることが決まった旭姫。駿府城(現在の静岡県静岡市にあった城)に移住したため、駿河御前と呼ばれるようになりました。しかし、家康との生活は長続きせず、わずか2年で京都の聚楽第(じゅらくだい)へ引き返すこととなります。
理由は、体調を崩した実母・仲の見舞いであると言われています。聚楽第にて母の看病をしていたそうですが、旭姫自身も病弱だったため、天正18年(1590)、48歳で病没してしまいました。
兄・秀吉の命で、強制的に家康の正室にさせられた旭姫。いわゆる政略結婚ですが、家康は旭姫の死後、京都の東福寺と駿府の瑞龍寺に彼女のお墓を作ったと言われています。天下人に振り回された不憫な女性というイメージが強い旭姫ですが、自分の運命を受け入れて逞しく生き、家康もまた彼女のことを理解していたのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
【新闻】ふらっと放送300回記念日、海外でも活躍する太鼓芸能集団「鼓童」と南波アナのB‘zスペシャルコラボメドレー!
「パンサー向井のふらっと」はTBSラジオで月曜~木曜の朝8時30分から放送中!
8月31日(木)は、まさに300回目!ですが…向井さんは隔週でお休み。 木曜パートナー・髙橋ひかるとTBSアナウンサー・喜入友浩でお届け。 そして、300回のお祝いにシンガーソングライターの関取花さん、元バレーボール日本代表の迫田さおりさん がお祝いにかけつけてくれました!
『ふらっとトピック』「ふらトピ」では、 海外でも活躍する太鼓芸能集団「鼓童」の池永レオ遼太郎さんと米山水木さんをゲストにお迎えして、 南波雅俊アナウンサーとのスペシャルコラボライブをお届けしました。
アメリカの大学の太鼓サークルで太鼓人生がスタート!
関取:池永さんは幼少期はクラシック音楽をやっていて、そこから大学一年生で、しかもアメリカで、どうして太鼓を始められようと思ったのかすごく気になって。
池永:僕、元々アメリカ出身なんですけど、日本に帰ってきた際、小学生のときにちょっとだけ太鼓を触ったことがあって。本格的に始めたのはアメリカの大学生活のときなんですけど、サークルとかで勧誘をするじゃないですか、それで演奏を観て…。日本文化とかにあんまり触れ合ってこなかったので、単純に面白そうだなと思って、打楽器もやったことないしやってみようかなっていう感じではじめました。
関取:アメリカの大学に太鼓のサークルがあったってことですか?
池永:はい、そうです。
一同:へ~!
池永:そうですね、でも日本人じゃない方の方が多いですね。
関取:おもしろ~い!
髙橋:米山さんは2歳の頃から太鼓を!?
米山: そうですね、私は池永とは真逆で、2歳の頃からもうずっと和太鼓をやり続けて。最初は、地元が盆踊りが盛んで、盆踊りと小さい夏祭りとか老人ホームで演奏したりとかそういうところから始まって…。和太鼓のコンクールみたいなのがあって学生時代はずっとジュニアコンクールっていう対抗の大会に出たり、小学生のときに鼓童の舞台を観て。鼓童は研修所があって2年間修行みたいことをするんですけど…。
迫田:修行!?
髙橋:2年間!
米山:そこを目指したいって思って。だからもうずっと太鼓です。
鼓童の研修期間は、テレビもねえ!スマホもねえ!リアル“俺ら東京さ行ぐだ”
喜入:噂に聞きし鼓童の研修所ですけれども何かエピソードってありますか?
池永:そうですね、鼓童の団員になるには2年間修行をするんです。築70年か80年ぐらいの元学校の校舎を研修所として使ってまして。禁酒、禁煙、男女のけじめだったり、あとスマホもないしネットもテレビもない…。
髙橋:ネットもねえ、テレビもねえ…。
関取:吉幾三さんじゃないから、ひかるちゃん(笑)!
池永:で、朝5時に起きて…どれくらい走るんだろうな?
米山:10キロ弱ですね、はい。
髙橋:10キロ!?毎日!?
米山:そうですね。
池永:山の上から降りて走って戻ってきてっていう生活を2年間やって。他の日本の伝統芸能もたくさんお勉強するので、その一環として米作りだったりが田植えやったり自分たちの畑をやったり、半自給自足の生活をしながら太鼓に打ち込むっていう2年間の研修があるんですけど、その間にも選考が何回かあって…。
喜入:え、途中で帰っちゃうみたいな?
池永:そうですね。1年の終わりに選考がありまして。
髙橋:耐えきるだけじゃダメなんですね、そこからまた選考があって。
池永:そうですね。生活が大変なので帰るコも結構いますね。
年間3分の1は海外公演
喜入:海外とかの反響ってどうなんですか。
池永:僕らは年の3分の1は海外にいるんですけど、和太鼓だけでなく本当に日本の文化ってすごい世界に注目されているので、やっぱどこ行っても反響はすごいいいですね。
米山:アメリカとヨーロッパと行ったんですけど、スタンディングというか歓声が海外行くとすごくて、皆さんノリも良くて。
髙橋:海外ってそうですよね。
米山:鼓童の法被を着てるんですが、最後に男性がふんどしで大太鼓をやるんですけど、そういうのを海外の方が見るとすごく喜ばれて。そういう日本の文化みたいなものも伝えられて、反応はすごくいいですね。
鼓童の放送300回記念ライブ!!
さらに…!!鼓童と南波雅俊アナによるB‘zスペシャルコラボメドレー!
難波:皆様、おはようございます。TBSアナウンサーの南波雅俊でございます。『ふらっと』ではですね、たまにニュースを読ませていただいたり、たまに出演もさせていただいたんですが、300回記念ということで、皆様にお祝いということでかけつけました。
#高桥光[超话]##高桥光##髙橋ひかる#
「パンサー向井のふらっと」はTBSラジオで月曜~木曜の朝8時30分から放送中!
8月31日(木)は、まさに300回目!ですが…向井さんは隔週でお休み。 木曜パートナー・髙橋ひかるとTBSアナウンサー・喜入友浩でお届け。 そして、300回のお祝いにシンガーソングライターの関取花さん、元バレーボール日本代表の迫田さおりさん がお祝いにかけつけてくれました!
『ふらっとトピック』「ふらトピ」では、 海外でも活躍する太鼓芸能集団「鼓童」の池永レオ遼太郎さんと米山水木さんをゲストにお迎えして、 南波雅俊アナウンサーとのスペシャルコラボライブをお届けしました。
アメリカの大学の太鼓サークルで太鼓人生がスタート!
関取:池永さんは幼少期はクラシック音楽をやっていて、そこから大学一年生で、しかもアメリカで、どうして太鼓を始められようと思ったのかすごく気になって。
池永:僕、元々アメリカ出身なんですけど、日本に帰ってきた際、小学生のときにちょっとだけ太鼓を触ったことがあって。本格的に始めたのはアメリカの大学生活のときなんですけど、サークルとかで勧誘をするじゃないですか、それで演奏を観て…。日本文化とかにあんまり触れ合ってこなかったので、単純に面白そうだなと思って、打楽器もやったことないしやってみようかなっていう感じではじめました。
関取:アメリカの大学に太鼓のサークルがあったってことですか?
池永:はい、そうです。
一同:へ~!
池永:そうですね、でも日本人じゃない方の方が多いですね。
関取:おもしろ~い!
髙橋:米山さんは2歳の頃から太鼓を!?
米山: そうですね、私は池永とは真逆で、2歳の頃からもうずっと和太鼓をやり続けて。最初は、地元が盆踊りが盛んで、盆踊りと小さい夏祭りとか老人ホームで演奏したりとかそういうところから始まって…。和太鼓のコンクールみたいなのがあって学生時代はずっとジュニアコンクールっていう対抗の大会に出たり、小学生のときに鼓童の舞台を観て。鼓童は研修所があって2年間修行みたいことをするんですけど…。
迫田:修行!?
髙橋:2年間!
米山:そこを目指したいって思って。だからもうずっと太鼓です。
鼓童の研修期間は、テレビもねえ!スマホもねえ!リアル“俺ら東京さ行ぐだ”
喜入:噂に聞きし鼓童の研修所ですけれども何かエピソードってありますか?
池永:そうですね、鼓童の団員になるには2年間修行をするんです。築70年か80年ぐらいの元学校の校舎を研修所として使ってまして。禁酒、禁煙、男女のけじめだったり、あとスマホもないしネットもテレビもない…。
髙橋:ネットもねえ、テレビもねえ…。
関取:吉幾三さんじゃないから、ひかるちゃん(笑)!
池永:で、朝5時に起きて…どれくらい走るんだろうな?
米山:10キロ弱ですね、はい。
髙橋:10キロ!?毎日!?
米山:そうですね。
池永:山の上から降りて走って戻ってきてっていう生活を2年間やって。他の日本の伝統芸能もたくさんお勉強するので、その一環として米作りだったりが田植えやったり自分たちの畑をやったり、半自給自足の生活をしながら太鼓に打ち込むっていう2年間の研修があるんですけど、その間にも選考が何回かあって…。
喜入:え、途中で帰っちゃうみたいな?
池永:そうですね。1年の終わりに選考がありまして。
髙橋:耐えきるだけじゃダメなんですね、そこからまた選考があって。
池永:そうですね。生活が大変なので帰るコも結構いますね。
年間3分の1は海外公演
喜入:海外とかの反響ってどうなんですか。
池永:僕らは年の3分の1は海外にいるんですけど、和太鼓だけでなく本当に日本の文化ってすごい世界に注目されているので、やっぱどこ行っても反響はすごいいいですね。
米山:アメリカとヨーロッパと行ったんですけど、スタンディングというか歓声が海外行くとすごくて、皆さんノリも良くて。
髙橋:海外ってそうですよね。
米山:鼓童の法被を着てるんですが、最後に男性がふんどしで大太鼓をやるんですけど、そういうのを海外の方が見るとすごく喜ばれて。そういう日本の文化みたいなものも伝えられて、反応はすごくいいですね。
鼓童の放送300回記念ライブ!!
さらに…!!鼓童と南波雅俊アナによるB‘zスペシャルコラボメドレー!
難波:皆様、おはようございます。TBSアナウンサーの南波雅俊でございます。『ふらっと』ではですね、たまにニュースを読ませていただいたり、たまに出演もさせていただいたんですが、300回記念ということで、皆様にお祝いということでかけつけました。
#高桥光[超话]##高桥光##髙橋ひかる#
唐寅
父の唐広徳は、蘇州府呉県の繁華街で営業していた肉屋(あるいは酒屋・飲食業)だった。張霊とは幼なじみであった。幼少から利発であったため教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため人々の注目を集めた。16歳のときに蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあってこちらも20年に渡る親友となった。文徴明の父の文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。 名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物であり10歳年上だったが、生涯に渡る親友となった。1488年、最初の妻:徐氏と結婚したが、6年後死別した。
青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが御覧の通りの享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず一心不乱に勉学に励んだ結果、1498年に29歳の時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため、唐解元という呼び名もここから来ている。科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆(中国語版)という人物が、嫉妬の余りに関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも2人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり建物の2階から飛び降りてそのまま帰ってしまったりという話もあり、温厚紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという。
官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した事から明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという。
唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが、1500年ごろから周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである[3]。
1512年に日本人商人の彦九郎に自作の詩を自署して贈っていて現存している「贈彦九郎詩」(京都国立博物館)。1500年ごろから文徴明と疎遠になっていたが、1513年に修好を願う手紙をに送っている。
1514年、寧王の厚い招聘に応じて、廬山や鄱陽湖に遊びつつ、南昌に至った。寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出することができ、1515年秋ごろに蘇州に帰った。その結果、1519年の寧王の乱において追及されることはなかった。その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生きた唐寅は1523年54歳でその生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう。
父の唐広徳は、蘇州府呉県の繁華街で営業していた肉屋(あるいは酒屋・飲食業)だった。張霊とは幼なじみであった。幼少から利発であったため教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため人々の注目を集めた。16歳のときに蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあってこちらも20年に渡る親友となった。文徴明の父の文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。 名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物であり10歳年上だったが、生涯に渡る親友となった。1488年、最初の妻:徐氏と結婚したが、6年後死別した。
青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが御覧の通りの享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず一心不乱に勉学に励んだ結果、1498年に29歳の時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため、唐解元という呼び名もここから来ている。科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆(中国語版)という人物が、嫉妬の余りに関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも2人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり建物の2階から飛び降りてそのまま帰ってしまったりという話もあり、温厚紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという。
官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した事から明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという。
唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが、1500年ごろから周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである[3]。
1512年に日本人商人の彦九郎に自作の詩を自署して贈っていて現存している「贈彦九郎詩」(京都国立博物館)。1500年ごろから文徴明と疎遠になっていたが、1513年に修好を願う手紙をに送っている。
1514年、寧王の厚い招聘に応じて、廬山や鄱陽湖に遊びつつ、南昌に至った。寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出することができ、1515年秋ごろに蘇州に帰った。その結果、1519年の寧王の乱において追及されることはなかった。その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生きた唐寅は1523年54歳でその生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう。
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