铃木爱理
ハロプロ25周年ライブありがとうございました!!!!♡
幸せすぎる時間で、ハロプロ出身であることに最高の誇りを感じた日でした。
歴史はつないでいきます。
次は何周年の時なんだろうー!!!!
・ベリキュー
・あぁ!の時
・Buono!の時
またゆっくりと写真とかあげますね☺️
#ハロプロ25周年
ハロプロ25周年ライブありがとうございました!!!!♡
幸せすぎる時間で、ハロプロ出身であることに最高の誇りを感じた日でした。
歴史はつないでいきます。
次は何周年の時なんだろうー!!!!
・ベリキュー
・あぁ!の時
・Buono!の時
またゆっくりと写真とかあげますね☺️
#ハロプロ25周年
賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)とは?
「賤ヶ岳の七本槍」とは、「しずがたけのしちほんやり」と読み、「賤ヶ岳の戦い」において功名をあげた「七人の若武者」のことを指します。
「賤ヶ岳の戦い」は1583年(天正11年)に賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で起きた、「羽柴秀吉」と「柴田勝家」の戦いで、その後の日本の歴史を変える大きな転機となった戦です。この戦に勝利した豊臣秀吉が、「本能寺の変」で亡くなった織田信長がそれまでに築き上げた権力や体制などを継承。天下人への第一歩が開かれる、大きなきっかけとなりました。
この大切な合戦で功名を立て、賤ヶ岳の戦い後に豊臣秀吉から称えられた七人の若武者たちのことを、「賤ヶ岳の七本槍」と呼んでいます。功名をあげた”七人”というのは、ただの語呂合わせで実は九人いたという説や、昔から「七本槍」が虚名に近いという認識があった等、「賤ヶ岳の七本槍」については諸説あるのも事実です。
しかし、一般的に「七本槍」といわれた七人の武将の名が、「賤ヶ岳の七本槍」として広く定着しています。
【賤ヶ岳の七本槍】の武将たち
「賤ヶ岳の戦い」で勇猛果敢な働きをみせた七人の武将達。
実は「七本槍」には、「石河兵助」と「桜井佐吉」を加えた九人の武将がいたという説もあります。
ここからは、「賤ヶ岳の七本槍」と言われ広く定着している、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元、七人の武将についてご紹介します。
「賤ヶ岳の七本槍」とは、「しずがたけのしちほんやり」と読み、「賤ヶ岳の戦い」において功名をあげた「七人の若武者」のことを指します。
「賤ヶ岳の戦い」は1583年(天正11年)に賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で起きた、「羽柴秀吉」と「柴田勝家」の戦いで、その後の日本の歴史を変える大きな転機となった戦です。この戦に勝利した豊臣秀吉が、「本能寺の変」で亡くなった織田信長がそれまでに築き上げた権力や体制などを継承。天下人への第一歩が開かれる、大きなきっかけとなりました。
この大切な合戦で功名を立て、賤ヶ岳の戦い後に豊臣秀吉から称えられた七人の若武者たちのことを、「賤ヶ岳の七本槍」と呼んでいます。功名をあげた”七人”というのは、ただの語呂合わせで実は九人いたという説や、昔から「七本槍」が虚名に近いという認識があった等、「賤ヶ岳の七本槍」については諸説あるのも事実です。
しかし、一般的に「七本槍」といわれた七人の武将の名が、「賤ヶ岳の七本槍」として広く定着しています。
【賤ヶ岳の七本槍】の武将たち
「賤ヶ岳の戦い」で勇猛果敢な働きをみせた七人の武将達。
実は「七本槍」には、「石河兵助」と「桜井佐吉」を加えた九人の武将がいたという説もあります。
ここからは、「賤ヶ岳の七本槍」と言われ広く定着している、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元、七人の武将についてご紹介します。
世界の常識では日本の「終戦記念日」8月15日には何の意味もない…日本人が誰も知らない「終戦の日」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
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矢部 宏治
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