上洛した家康は秀吉から諸大名の前で一芝居打つよう頼まれる/「どうする家康」第35回あらすじ
NHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜午後8時)。松本潤演じる徳川家康が、個性派ぞろいの家臣団と数々の困難を乗り越えていく姿を描く。
【写真】「どうする家康」トークショーを行った大森南朋
岡崎城主の子として生まれた竹千代(のちの家康)は、戦乱で父を失い、母とも離れ、今川家の人質として孤独に生涯を終えるつもりでいた。しかし三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として織田信長、武田信玄ら群雄割拠の乱世に飛び込む。生死を賭けたピンチ、計算違いの連続に見舞われながら、家臣団とともに天下統一を目指していく。
脚本は「コンフィデンスマンJP」シリーズなどで知られる古沢良太氏が担当する。
◆第35回「欲望の怪物」
秀吉(ムロツヨシ)は母・仲(高畑淳子)を、家康(松本潤)の上洛(じょうらく)と引き換えに人質として岡崎へ送る。秀吉は家康を歓待する中、妻の寧々(和久井映見)や弟の秀長(佐藤隆太)を紹介し、諸大名の前で一芝居打ってくれと頼みこむ。大坂をたつ前夜、秀吉から北条・真田の手綱を握る役目を任された家康は、一人の男と出会い興味を持つ。それは豊臣一の切れ者と名高い石田三成(中村七之助)だった。
NHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜午後8時)。松本潤演じる徳川家康が、個性派ぞろいの家臣団と数々の困難を乗り越えていく姿を描く。
【写真】「どうする家康」トークショーを行った大森南朋
岡崎城主の子として生まれた竹千代(のちの家康)は、戦乱で父を失い、母とも離れ、今川家の人質として孤独に生涯を終えるつもりでいた。しかし三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として織田信長、武田信玄ら群雄割拠の乱世に飛び込む。生死を賭けたピンチ、計算違いの連続に見舞われながら、家臣団とともに天下統一を目指していく。
脚本は「コンフィデンスマンJP」シリーズなどで知られる古沢良太氏が担当する。
◆第35回「欲望の怪物」
秀吉(ムロツヨシ)は母・仲(高畑淳子)を、家康(松本潤)の上洛(じょうらく)と引き換えに人質として岡崎へ送る。秀吉は家康を歓待する中、妻の寧々(和久井映見)や弟の秀長(佐藤隆太)を紹介し、諸大名の前で一芝居打ってくれと頼みこむ。大坂をたつ前夜、秀吉から北条・真田の手綱を握る役目を任された家康は、一人の男と出会い興味を持つ。それは豊臣一の切れ者と名高い石田三成(中村七之助)だった。
賤ヶ岳の戦い
3月12日。柴田勝家は前田利家、佐久間盛政(さくまもりまさ)らを率いて30,000の軍勢で北近江に布陣しました。対する豊臣秀吉は、長島城からの襲撃を避けるため10,000の兵を伊勢に置き、3月19日に50,000の兵を率いて近江の木ノ本に布陣。両者とも直ぐに攻撃をすることなく、陣地や砦の構築を行っていました。
しかし豊臣秀吉軍は、伊勢の滝川一益に南から、近江の柴田勝家に北から挟み込まれた形になりました。そうしたところ、豊臣秀吉に降伏した織田信孝がこれを知り、伊勢の滝川一益と結託して4月16日に美濃から挙兵。北近江、伊勢、美濃の3方面からの攻撃を守る必要に迫られた豊臣秀吉は、守備隊を近江に残し、翌4月17日に美濃へと進軍したのです。しかし、揖斐川の氾濫によって足止めを受けたため、大垣城に入って情勢が変化することを待ちました。
これを好機と見た柴田勝家は、4月19日、佐久間盛政に出陣するよう命令。佐久間盛政は、中川清秀(なかがわきよひで)が守る最前線の大岩山砦を攻撃し、陥落しました。勢い付いた佐久間盛政は黒田孝高(黒田官兵衛)を攻撃しましたが、堅い守りに陥落をあきらめ、岩崎山に布陣していた高山右近(たかやまうこん)を攻撃し撃破したのです。
一方、賤ヶ岳砦を守っていた豊臣秀吉軍の桑山重晴(くわやましげはる)は戦況が劣勢と判断し、4月20日に撤退を開始しました。ここで深追いは危険と判断した柴田勝家は、佐久間盛政に撤退するよう命令。しかし、調子付いた佐久間盛政はそれに従わず敵陣に留まり続けます。この判断が勝敗の分かれ目となりました。
ちょうどその頃、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀は、豊臣秀吉の前線が崩されたことを知り参戦を決意。撤退し始めていた重晴と遭遇したため、合流して賤ヶ岳周辺にいた佐久間盛政の軍勢に攻撃を仕掛けて撃破し、賤ヶ岳砦の奪還に成功しました。
美濃大返し
大垣城で情勢の変化を待っていた豊臣秀吉ですが、各所の砦が陥落していくのを知り、賤ヶ岳へ行軍。ただし、通常の行軍ではありません。午後2時に大垣を出発した豊臣秀吉軍は、午後7時には賤ヶ岳付近に到着していたのです。52kmをわずか5時間で走破。これを「美濃大返し」と言います。
一方の佐久間盛政は、豊臣秀吉が戻ってくるのを知っており、早くても翌日であろうと高を括っていました。しかし、数々の不可能を可能にしてきた豊臣秀吉。大岩山にいた佐久間盛政は、虚を付かれて包囲されてしまいました。
撤退する佐久間盛政
翌日の4月21日未明、ついに佐久間盛政は撤退を開始しました。それを知った豊臣秀吉軍は追撃。しかし、そこは数々の戦で功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれた佐久間盛政です。撤退しながらも反撃し、簡単には崩壊しませんでした。そこで豊臣秀吉は、標的を柴田勝政(しばたかつまさ)に変更。それに佐久間盛政が加わり、大激戦となったのです。
前田利家が戦線離脱
豊臣秀吉軍と柴田勝政・佐久間盛政が激戦を繰り広げる中、茂山の背後にいた前田利家が突如として戦線を離脱。
前田利家は、佐久間盛政の後方に位置していただけに、戦況にとても大きな影響を与えました。前田利家が戦線離脱したことで、そのあとに続いていた長近と直光も撤退。個人の逃走も増え、歯止めが効かなくなった状態になったのです。そこで余呉湖の北側に陣を置いていた豊臣秀吉軍の木下一元(きのしたかずもと)や木村隼人正(きむらはやとのしょう)の部隊が、佐久間盛政を攻撃。ついに総崩れとなりました。
なお、戦線離脱した前田利家と続いて撤退した長近と直光の3名は、柴田勝家からの和睦交渉で派遣された際、豊臣秀吉に調略された者。そのため、3名の離脱・撤退が戦況が変わるきっかけになってしまったのです。
柴田勝家敗退と自害
豊臣秀吉軍は、残った佐久間盛政の部隊を撃破。そして、豊臣秀吉軍のすべての部隊がいよいよ残る柴田勝家本隊に殺到し、集中攻撃を仕掛けました。このときの柴田勝家本隊は、わずか3,000ほど。さすがの柴田勝家もこれを支えきれず、越前の北ノ庄城に逃走し、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉が勝利しました。
そして2日後の4月23日。戦線離脱した前田利家が、豊臣秀吉軍の先鋒として北ノ庄城を包囲したのです。前田利家は、賤ヶ岳から撤退したあと府中城に立てこもっていましたが、豊臣秀吉からの説得に応じ降伏したのでした。先鋒となったのは、豊臣秀吉の味方であることを証明するためです。
このとき柴田勝家は、わずか200の兵とともに北ノ庄城に立て籠もり、防戦。抵抗に抵抗を重ねましたが、ついに天守へ追い込まれてしまいました。柴田勝家は天守に火を点け、妻のお市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城。
これで織田家のトップ争いに終止符が打たれ、豊臣秀吉は織田家中随一の実力者となったのです。
なお、お市の方には娘である浅井三姉妹の茶々、初、江がいましたが、豊臣秀吉に託されました。茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼(とよとみひでより/幼名:捨丸)を生みます。
3月12日。柴田勝家は前田利家、佐久間盛政(さくまもりまさ)らを率いて30,000の軍勢で北近江に布陣しました。対する豊臣秀吉は、長島城からの襲撃を避けるため10,000の兵を伊勢に置き、3月19日に50,000の兵を率いて近江の木ノ本に布陣。両者とも直ぐに攻撃をすることなく、陣地や砦の構築を行っていました。
しかし豊臣秀吉軍は、伊勢の滝川一益に南から、近江の柴田勝家に北から挟み込まれた形になりました。そうしたところ、豊臣秀吉に降伏した織田信孝がこれを知り、伊勢の滝川一益と結託して4月16日に美濃から挙兵。北近江、伊勢、美濃の3方面からの攻撃を守る必要に迫られた豊臣秀吉は、守備隊を近江に残し、翌4月17日に美濃へと進軍したのです。しかし、揖斐川の氾濫によって足止めを受けたため、大垣城に入って情勢が変化することを待ちました。
これを好機と見た柴田勝家は、4月19日、佐久間盛政に出陣するよう命令。佐久間盛政は、中川清秀(なかがわきよひで)が守る最前線の大岩山砦を攻撃し、陥落しました。勢い付いた佐久間盛政は黒田孝高(黒田官兵衛)を攻撃しましたが、堅い守りに陥落をあきらめ、岩崎山に布陣していた高山右近(たかやまうこん)を攻撃し撃破したのです。
一方、賤ヶ岳砦を守っていた豊臣秀吉軍の桑山重晴(くわやましげはる)は戦況が劣勢と判断し、4月20日に撤退を開始しました。ここで深追いは危険と判断した柴田勝家は、佐久間盛政に撤退するよう命令。しかし、調子付いた佐久間盛政はそれに従わず敵陣に留まり続けます。この判断が勝敗の分かれ目となりました。
ちょうどその頃、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀は、豊臣秀吉の前線が崩されたことを知り参戦を決意。撤退し始めていた重晴と遭遇したため、合流して賤ヶ岳周辺にいた佐久間盛政の軍勢に攻撃を仕掛けて撃破し、賤ヶ岳砦の奪還に成功しました。
美濃大返し
大垣城で情勢の変化を待っていた豊臣秀吉ですが、各所の砦が陥落していくのを知り、賤ヶ岳へ行軍。ただし、通常の行軍ではありません。午後2時に大垣を出発した豊臣秀吉軍は、午後7時には賤ヶ岳付近に到着していたのです。52kmをわずか5時間で走破。これを「美濃大返し」と言います。
一方の佐久間盛政は、豊臣秀吉が戻ってくるのを知っており、早くても翌日であろうと高を括っていました。しかし、数々の不可能を可能にしてきた豊臣秀吉。大岩山にいた佐久間盛政は、虚を付かれて包囲されてしまいました。
撤退する佐久間盛政
翌日の4月21日未明、ついに佐久間盛政は撤退を開始しました。それを知った豊臣秀吉軍は追撃。しかし、そこは数々の戦で功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれた佐久間盛政です。撤退しながらも反撃し、簡単には崩壊しませんでした。そこで豊臣秀吉は、標的を柴田勝政(しばたかつまさ)に変更。それに佐久間盛政が加わり、大激戦となったのです。
前田利家が戦線離脱
豊臣秀吉軍と柴田勝政・佐久間盛政が激戦を繰り広げる中、茂山の背後にいた前田利家が突如として戦線を離脱。
前田利家は、佐久間盛政の後方に位置していただけに、戦況にとても大きな影響を与えました。前田利家が戦線離脱したことで、そのあとに続いていた長近と直光も撤退。個人の逃走も増え、歯止めが効かなくなった状態になったのです。そこで余呉湖の北側に陣を置いていた豊臣秀吉軍の木下一元(きのしたかずもと)や木村隼人正(きむらはやとのしょう)の部隊が、佐久間盛政を攻撃。ついに総崩れとなりました。
なお、戦線離脱した前田利家と続いて撤退した長近と直光の3名は、柴田勝家からの和睦交渉で派遣された際、豊臣秀吉に調略された者。そのため、3名の離脱・撤退が戦況が変わるきっかけになってしまったのです。
柴田勝家敗退と自害
豊臣秀吉軍は、残った佐久間盛政の部隊を撃破。そして、豊臣秀吉軍のすべての部隊がいよいよ残る柴田勝家本隊に殺到し、集中攻撃を仕掛けました。このときの柴田勝家本隊は、わずか3,000ほど。さすがの柴田勝家もこれを支えきれず、越前の北ノ庄城に逃走し、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉が勝利しました。
そして2日後の4月23日。戦線離脱した前田利家が、豊臣秀吉軍の先鋒として北ノ庄城を包囲したのです。前田利家は、賤ヶ岳から撤退したあと府中城に立てこもっていましたが、豊臣秀吉からの説得に応じ降伏したのでした。先鋒となったのは、豊臣秀吉の味方であることを証明するためです。
このとき柴田勝家は、わずか200の兵とともに北ノ庄城に立て籠もり、防戦。抵抗に抵抗を重ねましたが、ついに天守へ追い込まれてしまいました。柴田勝家は天守に火を点け、妻のお市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城。
これで織田家のトップ争いに終止符が打たれ、豊臣秀吉は織田家中随一の実力者となったのです。
なお、お市の方には娘である浅井三姉妹の茶々、初、江がいましたが、豊臣秀吉に託されました。茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼(とよとみひでより/幼名:捨丸)を生みます。
世界の常識では日本の「終戦記念日」8月15日には何の意味もない…日本人が誰も知らない「終戦の日」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
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