NHK大河ドラマの見せ場で“最大級の歴史の歪曲”…「築山殿の死」に無理がある3つの点
「これ以上の悲劇はない」「つらすぎる」といった書き込みがネット上にあふれた。NHK大河ドラマ『どうする家康』の第25話「はるかに遠い夢」。そのラストシーンでは、有村架純演じる家康の正室、築山殿(ドラマでは瀬名)が、家康の目の前で自刃したのである。
【写真6枚】築山殿を演じた有村架純
ときは天正7年(1579)8月29日。大河ドラマ中盤における最大の見せ場は、実際、見ていてつらい場面だった。しかし、「本当にこんなことがあったのか」と問われれば、「歴史的にはありえなかった」と答えるほかない。それほど史実とはかけ離れた場面だった。
この場面にいたるまでドラマの筋を追うと――。
家康の説得も虚しく自害――という展開だが
瀬名が住まう岡崎城下(愛知県岡崎市)の築山に、武田勝頼の重臣の穴山信君(田辺誠一)のほか、今川氏真(道端淳平)をはじめ多くの要人が出入りしていた。彼らは徳川と武田、北条などがたがいに不足するものを補い合って「慈愛の国」を作る、という築山殿と嫡男の信康(細田佳央太)の構想に同調する人々だった。
宿敵である武田方が出入りしている、という状況は放置できず、家康や重臣たちが築山に踏み込むが、彼らまでが瀬名の構想に同調してしまった。
だが、結局は、徳川と織田のあいだを割きたい武田勝頼が、瀬名らが武田に内通しているという噂を流し、それは織田信長(岡田准一)の知るところになる。
信長は家康に「お前が自分で決めろ」というが、重臣の佐久間信盛(立川談春)が「なにをなさらねばならぬかわかっておられるでしょうな」と補う。要は家康に、妻子の命を奪うように圧力をかけたのだ。それを受けて家康は、信長をあざむく決意をする。すなわち、瀬名と信康それぞれに身代わりを立て、本人たちは逃がそうと考えたのだ。
しかし、家康の妻子は生きながらえるのをよしとしなかった。瀬名は、信康の正室で信長の長女である五徳(久保史緒里)に、瀬名と信康の悪行を書き連ねた手紙を送るよう に指示し、自分が悪役になってすべての責任を負おうとする。
信康は止める家臣を振り切って自刃。続いて、その半月ほど前の場面が描かれた。家康は瀬名が送られた佐鳴湖畔(静岡県浜松市)に出向き、「生きてくれ」と説得するが、彼女は受け入れない。家康が「世間はそなたを悪辣な妻と語り継ぐことになるぞ」と言っても、「平気です。ほんとうの私はあなたの心におります」と答える。
家康は仕方なく、本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)に連れられて戻っていくが、やはり耐えられずに引き返す。だが、家康が見ている前で、瀬名は短刀でみずからの首をかき切り、大鼠(松本まりか)が介錯する。
史実を無視した三つの点
戦国大名の妻と嫡男がともに死に追いやられるという、当時としてもあまりに異常な事件について、同時代の史料はほとんど残されていない。徳川家の黒歴史だから、ストレートに語り継ぐことがはばかられたのだと思われるが、関連史料や状況証拠から、一定の推測をすることはできる。
そうした推測の結果、まちがいないと考えられる事柄と照らして、『どうする家康』の筋書きのどこに無理があるかだが、主に以下の3点を指摘できる。
ひとつは、築山殿と家康は不仲だったと考えられる点である。それに関しては、ほとんどの研究者の見解が一致しているのに、大河ドラマでは二人が最後まで仲睦まじく、別居しても頻繁に行き来があったように描かれていた。
二つめは、戦国時代の常識を無視していること。築山殿は、大名たちが「奪い合うのではなく与え合う」という「慈愛の国」をつくれば戦争がなくなる、と訴えたが、弱みを見せたらすぐにつけ込まれるあの時代に、そんな妄想が通用するはずがない。
三つめは、妻子を処罰するという判断は、信長から圧力をかけられたせいではなく、家康が自分で判断したと思われる点である。自身の決断であるなら、替え玉を殺してほんとうの妻子は逃がそうとしたり、みずから築山殿に生きるように説得しにいったりするとは考えられない。
家康と瀬名の夫婦仲は断絶していた
もう少し詳しく見ていこう。最初に、夫婦は不仲だったという点から。
築山殿は今川家の御一家衆、関口氏純の娘なので、家康が織田信長と同盟を結んで今川家と敵対した時点で、二人の関係は悪化したという見方は根強い。事実、この夫婦のあいだには永禄2年(1559)に生まれた信康と、同3年(1560)に生まれた亀姫の二人の子供がいたが、家康が今川家と敵対した同4年(1561)以降は、一人も産まれていないのだ。
もっとも、それだけで夫婦が不仲だったと断定することはできないが、家康が元亀元年(1570)、居城を岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)に移した際、築山殿は岡崎にとどまり、以後、二人は二度と同居していない。
その後、天正三年(1575)に発覚した、武田勝頼を岡崎城に迎え入れようとした「岡崎クーデター」こと大岡弥四郎事件で、築山殿は主導的な役割を果たしたと見られている。これに関して、『どうする家康』の時代考証を担当する平山優氏も「このクーデター計画は発覚し、一味は逃亡した一人を除き根絶やしにされたが、築山殿だけは家康正室でもあり命を許されたのだろう」と記し、続いて「恐らく、これが契機で、家康との夫婦仲は断絶したとみられる」と書いている(『徳川家康と武田勝頼 』幻冬舎新書)。
加えていえば、築山殿は『岡崎東泉記』などによれば、出身である関口家の主家である今川義元を討った織田信長の長女だという理由で、信康の嫁の五徳ともずっと不仲だったとされる。
家康は謀反を繰り返す妻を放置できなかった
では、築山殿はどうして武田家と内通したのか。当時の徳川家は武田信玄、その死後は勝頼の攻勢の前にずっと劣勢で、領土は次第に侵食され、このままでは滅亡してもおかしくなかった。そんななかで息子の信康を守るためには、武田に近づくしかないと考えた――。それが多くの研究者の見解である。付記すれば、徳川家の家臣団自体が、対武田主戦派と武田家と接触しようとする側に分かれた、と考えられる。
だが、武田に近づけば織田を敵に回しかねなかった。また、敵対する勢力との国境付近では、国衆たちはより力がある側にすぐに寝返ったから、気を抜くことは許されなかった。「奪い合うのではなく与え合う」などと夢物語を語った瞬間に、国を守れなくなるのがこの時代だった。
ところが、そんなことは百も承知のはずの家康がドラマでは、瀬名に「私たちはなぜ戦をするのでありましょう」と問われ、「わしは生まれたときからこの世は戦だらけじゃ。考えたこともない」と答えたのだ。その時点で『どうする家康』は、戦国時代を描いた歴史ドラマではない。
さて、築山殿の武田方への内通は、五徳からの書状で信長に知られてしまった。これについて、築山殿がすべての責任を負うために、不仲であった五徳に父への手紙を書かせた、という展開にはかなりの無理があるが、ともかく、追い詰められつつあった築山殿は、どういう行動をとったか。
徳川家の家臣、松平家忠が記した『家忠日記』には、築山殿が命を断つ1年半前の天正6年(1578)年2月4日の条に、築山殿から便りがあった旨が書かれている。大名の妻が家臣に手紙を出すなど、当時の社会通念からすると異例中の異例である。また、2月11日には信康が家忠を訪ねている。
武田家への内通がバレて処分されかねないことを恐れた築山殿と信康が、家臣への多数派工作を試みたのだ、と解釈する研究者が多い。本多隆成 氏は「築山殿は弥四郎事件の際には罪を免れたものの、再度の謀反の疑いで、女性でありながら生害を免れなかったのであろう」と書く(『徳川家康の決断』中公新書)。むろん、家康の判断である。
第25話「はるかに遠い夢」では、番組の最後に流される関連場所の紀行「どうする家康ツアーズ」で、松本潤と有村架純が築山殿の最期の地とされる佐鳴湖、彼女が埋葬されたという西来院、そして浜松城を訪れた。
松重豊が「瀬名は悪女であるという記述は、すべて江戸時代のもの。同時代の史料には残っていません」とナレーションした。それを受けて松本が「あれだけ残っていないって不思議だし」と言うと、有村が「だからほんとうに歴史というのは、その間にどういう感情があって、どう働いてたかっていうのは」とつなぎ、松本が「わかんないね」と閉めた。
築山殿は悪女ではなかった可能性が高い、という脚本家、またはNHKサイドの言いわけだろうか。たしかに、築山殿を「悪辣な妻」と「語り継」 いだのは、みな江戸時代の史料である。
しかし、問題は彼女が悪女かどうかではない。徳川家が武田にひねりつぶされそうな状況下で、築山殿が息子を守るために武田と内通したことには、彼女なりの「正義」があったはずである。ドラマもそこを堂々と押せばよかったのではないだろうか。
大河ドラマもドラマである以上、「わかんない」ところは想像力で補う必要があり、脚本家の腕の見せどころである。しかし、悲劇を美しく描いて涙を誘うために、最新の研究成果を無視し、曲げようがない史実をねじ曲げていいという話ではないだろう。それでは大河ドラマを歴史ドラマと認識している多くの視聴者に対する裏切りになり、結局は、視聴率によって手痛いしっぺ返しを食らうはずである。
香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
新潮社
「これ以上の悲劇はない」「つらすぎる」といった書き込みがネット上にあふれた。NHK大河ドラマ『どうする家康』の第25話「はるかに遠い夢」。そのラストシーンでは、有村架純演じる家康の正室、築山殿(ドラマでは瀬名)が、家康の目の前で自刃したのである。
【写真6枚】築山殿を演じた有村架純
ときは天正7年(1579)8月29日。大河ドラマ中盤における最大の見せ場は、実際、見ていてつらい場面だった。しかし、「本当にこんなことがあったのか」と問われれば、「歴史的にはありえなかった」と答えるほかない。それほど史実とはかけ離れた場面だった。
この場面にいたるまでドラマの筋を追うと――。
家康の説得も虚しく自害――という展開だが
瀬名が住まう岡崎城下(愛知県岡崎市)の築山に、武田勝頼の重臣の穴山信君(田辺誠一)のほか、今川氏真(道端淳平)をはじめ多くの要人が出入りしていた。彼らは徳川と武田、北条などがたがいに不足するものを補い合って「慈愛の国」を作る、という築山殿と嫡男の信康(細田佳央太)の構想に同調する人々だった。
宿敵である武田方が出入りしている、という状況は放置できず、家康や重臣たちが築山に踏み込むが、彼らまでが瀬名の構想に同調してしまった。
だが、結局は、徳川と織田のあいだを割きたい武田勝頼が、瀬名らが武田に内通しているという噂を流し、それは織田信長(岡田准一)の知るところになる。
信長は家康に「お前が自分で決めろ」というが、重臣の佐久間信盛(立川談春)が「なにをなさらねばならぬかわかっておられるでしょうな」と補う。要は家康に、妻子の命を奪うように圧力をかけたのだ。それを受けて家康は、信長をあざむく決意をする。すなわち、瀬名と信康それぞれに身代わりを立て、本人たちは逃がそうと考えたのだ。
しかし、家康の妻子は生きながらえるのをよしとしなかった。瀬名は、信康の正室で信長の長女である五徳(久保史緒里)に、瀬名と信康の悪行を書き連ねた手紙を送るよう に指示し、自分が悪役になってすべての責任を負おうとする。
信康は止める家臣を振り切って自刃。続いて、その半月ほど前の場面が描かれた。家康は瀬名が送られた佐鳴湖畔(静岡県浜松市)に出向き、「生きてくれ」と説得するが、彼女は受け入れない。家康が「世間はそなたを悪辣な妻と語り継ぐことになるぞ」と言っても、「平気です。ほんとうの私はあなたの心におります」と答える。
家康は仕方なく、本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)に連れられて戻っていくが、やはり耐えられずに引き返す。だが、家康が見ている前で、瀬名は短刀でみずからの首をかき切り、大鼠(松本まりか)が介錯する。
史実を無視した三つの点
戦国大名の妻と嫡男がともに死に追いやられるという、当時としてもあまりに異常な事件について、同時代の史料はほとんど残されていない。徳川家の黒歴史だから、ストレートに語り継ぐことがはばかられたのだと思われるが、関連史料や状況証拠から、一定の推測をすることはできる。
そうした推測の結果、まちがいないと考えられる事柄と照らして、『どうする家康』の筋書きのどこに無理があるかだが、主に以下の3点を指摘できる。
ひとつは、築山殿と家康は不仲だったと考えられる点である。それに関しては、ほとんどの研究者の見解が一致しているのに、大河ドラマでは二人が最後まで仲睦まじく、別居しても頻繁に行き来があったように描かれていた。
二つめは、戦国時代の常識を無視していること。築山殿は、大名たちが「奪い合うのではなく与え合う」という「慈愛の国」をつくれば戦争がなくなる、と訴えたが、弱みを見せたらすぐにつけ込まれるあの時代に、そんな妄想が通用するはずがない。
三つめは、妻子を処罰するという判断は、信長から圧力をかけられたせいではなく、家康が自分で判断したと思われる点である。自身の決断であるなら、替え玉を殺してほんとうの妻子は逃がそうとしたり、みずから築山殿に生きるように説得しにいったりするとは考えられない。
家康と瀬名の夫婦仲は断絶していた
もう少し詳しく見ていこう。最初に、夫婦は不仲だったという点から。
築山殿は今川家の御一家衆、関口氏純の娘なので、家康が織田信長と同盟を結んで今川家と敵対した時点で、二人の関係は悪化したという見方は根強い。事実、この夫婦のあいだには永禄2年(1559)に生まれた信康と、同3年(1560)に生まれた亀姫の二人の子供がいたが、家康が今川家と敵対した同4年(1561)以降は、一人も産まれていないのだ。
もっとも、それだけで夫婦が不仲だったと断定することはできないが、家康が元亀元年(1570)、居城を岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)に移した際、築山殿は岡崎にとどまり、以後、二人は二度と同居していない。
その後、天正三年(1575)に発覚した、武田勝頼を岡崎城に迎え入れようとした「岡崎クーデター」こと大岡弥四郎事件で、築山殿は主導的な役割を果たしたと見られている。これに関して、『どうする家康』の時代考証を担当する平山優氏も「このクーデター計画は発覚し、一味は逃亡した一人を除き根絶やしにされたが、築山殿だけは家康正室でもあり命を許されたのだろう」と記し、続いて「恐らく、これが契機で、家康との夫婦仲は断絶したとみられる」と書いている(『徳川家康と武田勝頼 』幻冬舎新書)。
加えていえば、築山殿は『岡崎東泉記』などによれば、出身である関口家の主家である今川義元を討った織田信長の長女だという理由で、信康の嫁の五徳ともずっと不仲だったとされる。
家康は謀反を繰り返す妻を放置できなかった
では、築山殿はどうして武田家と内通したのか。当時の徳川家は武田信玄、その死後は勝頼の攻勢の前にずっと劣勢で、領土は次第に侵食され、このままでは滅亡してもおかしくなかった。そんななかで息子の信康を守るためには、武田に近づくしかないと考えた――。それが多くの研究者の見解である。付記すれば、徳川家の家臣団自体が、対武田主戦派と武田家と接触しようとする側に分かれた、と考えられる。
だが、武田に近づけば織田を敵に回しかねなかった。また、敵対する勢力との国境付近では、国衆たちはより力がある側にすぐに寝返ったから、気を抜くことは許されなかった。「奪い合うのではなく与え合う」などと夢物語を語った瞬間に、国を守れなくなるのがこの時代だった。
ところが、そんなことは百も承知のはずの家康がドラマでは、瀬名に「私たちはなぜ戦をするのでありましょう」と問われ、「わしは生まれたときからこの世は戦だらけじゃ。考えたこともない」と答えたのだ。その時点で『どうする家康』は、戦国時代を描いた歴史ドラマではない。
さて、築山殿の武田方への内通は、五徳からの書状で信長に知られてしまった。これについて、築山殿がすべての責任を負うために、不仲であった五徳に父への手紙を書かせた、という展開にはかなりの無理があるが、ともかく、追い詰められつつあった築山殿は、どういう行動をとったか。
徳川家の家臣、松平家忠が記した『家忠日記』には、築山殿が命を断つ1年半前の天正6年(1578)年2月4日の条に、築山殿から便りがあった旨が書かれている。大名の妻が家臣に手紙を出すなど、当時の社会通念からすると異例中の異例である。また、2月11日には信康が家忠を訪ねている。
武田家への内通がバレて処分されかねないことを恐れた築山殿と信康が、家臣への多数派工作を試みたのだ、と解釈する研究者が多い。本多隆成 氏は「築山殿は弥四郎事件の際には罪を免れたものの、再度の謀反の疑いで、女性でありながら生害を免れなかったのであろう」と書く(『徳川家康の決断』中公新書)。むろん、家康の判断である。
第25話「はるかに遠い夢」では、番組の最後に流される関連場所の紀行「どうする家康ツアーズ」で、松本潤と有村架純が築山殿の最期の地とされる佐鳴湖、彼女が埋葬されたという西来院、そして浜松城を訪れた。
松重豊が「瀬名は悪女であるという記述は、すべて江戸時代のもの。同時代の史料には残っていません」とナレーションした。それを受けて松本が「あれだけ残っていないって不思議だし」と言うと、有村が「だからほんとうに歴史というのは、その間にどういう感情があって、どう働いてたかっていうのは」とつなぎ、松本が「わかんないね」と閉めた。
築山殿は悪女ではなかった可能性が高い、という脚本家、またはNHKサイドの言いわけだろうか。たしかに、築山殿を「悪辣な妻」と「語り継」 いだのは、みな江戸時代の史料である。
しかし、問題は彼女が悪女かどうかではない。徳川家が武田にひねりつぶされそうな状況下で、築山殿が息子を守るために武田と内通したことには、彼女なりの「正義」があったはずである。ドラマもそこを堂々と押せばよかったのではないだろうか。
大河ドラマもドラマである以上、「わかんない」ところは想像力で補う必要があり、脚本家の腕の見せどころである。しかし、悲劇を美しく描いて涙を誘うために、最新の研究成果を無視し、曲げようがない史実をねじ曲げていいという話ではないだろう。それでは大河ドラマを歴史ドラマと認識している多くの視聴者に対する裏切りになり、結局は、視聴率によって手痛いしっぺ返しを食らうはずである。
香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
新潮社
『どうする家康』諸説ある「築山殿・信康事件」で斬新な解釈を打ち出した背景
NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第24回「築山へ集え!」では、瀬名と信康が各方面に密書を送り、多くの者が築山を訪ねていることを家康は知る。訪問者のなかには武田方の者もいて、いよいよ見過ごせないと家康が瀬名のもとに向かうが・・・。今回の見所について『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
家康の息子・信康が自刃した二俣城跡
■ カオス状態の岡崎城に置き去りにされた築山殿
大河ドラマ『どうする家康』の放送が始まるやいなや、注目されたのが、徳川家康と正室の築山殿(瀬名)との運命である。
家康は天正7(1579)年9月15日に、嫡男である信康を自害させた。それに先立って、8月29日には家康の正妻で信康の生母である築山殿も、家康は自害させている。
そんな凄惨な事件を思えば、家康と築山殿の夫婦仲はよくなかった、もしくは、どこかですれ違ったと考えるのが自然だが、『どうする家康』での松本潤演じる家康と、有村架純演じる築山殿は仲むつまじい夫婦として描かれてきた。
最初のターニングポイントは、やはり家康が桶狭間の戦い後、今川方から離れて岡崎城で独立し、織田方についたことだろう。
というのも、築山殿は今川氏の重臣である関口氏純の娘にあたる。夫の家康が今川方を見限るとは、婚姻時には全く想定していなかったに違いない。結果的には、築山殿と子ども達は岡崎城に迎え入れられるが、そのあたりから家康への不信感があってもおかしくはない。
しかも、岡崎城には、家康の生母である於大の方が、夫の久松俊勝とともにすでに入っていた。さらに、息子・信康の妻として迎えることになったのは、織田信長の娘、徳姫である。
そんなカオス状態のなか、家康は築山殿を岡崎城に置き去りにして、新たに居城とした浜松城へと移ってしまう。岡崎で何も対立が起きないほうが難しいような状態といってよいだろう。
案の定、徳姫は夫の信康とも、姑の築山殿とも折り合いが悪くなり、父の信長に「十二カ条の弾劾状」を書いて送ることになる。そのことが信康と築山殿の処断につながった、とされてきた。
文献ではキーパーソンだった大賀弥四郎の暗躍ぶり
だが、『どうする家康』では、築山殿はむしろ岡崎城で生き生きと過ごしている。家康が側室を迎えることにも理解を示し、姑や嫁との軋轢も深刻化することなく、穏やかに過ごしていた。
家康と築山殿との間に、これという対立ポイントがないまま武田信玄が病死し、長篠の戦いでは家康軍と織田軍が連合して、勝頼率いる武田勢に大勝するところまで来てしまった。
そうなると、家康が築山殿と信康を処断せねばならなくなる理由としては、「武田との内通」ということになるだろう。
その場合にキーパーソンとなるのが、大賀弥四郎である。大賀弥四郎については、江戸時代初期に旗本の大久保忠教の著作『三河物語』や、徳川幕府の正史『徳川実紀』などで説明されているが、とりわけ詳しいのが、家康の言行録『東照宮御遺訓』である。
『東照宮御遺訓』によると、浜松城にいる家康のもとに、大賀弥四郎なる人物が現れた。弥四郎は立ち居振る舞いも美しく、文筆に優れ、年貢勘定など財政実務にも長けていたため、家康は大喜びでいつもそばに置いていたという。
だが、実は弥四郎は武田家のスパイで、岡崎城にいる築山殿に近づくと、息子の信康とともに取り込んでしまい、武田と家康とで密約を結ばせる寸前まで事が運んだという。
そんななか、信康の妻、徳姫がこの陰謀を知り、父の信長に書状で知らせたために、築山殿と信康は処断されたというものだ。『東照宮御遺訓』自体は信頼性の高い史料ではないものの、弥四郎の動きについては『三河物語』や『徳川実紀』の記述と合わせても、それほど違和感はない。
しかし、大賀弥四郎が事件を巻き起こしたのは、長篠の決戦の目前で、信康と築山殿の事件が起きる時期は異なるという説もあり、今回のドラマでもそのように描かれている。大賀弥四郎の乱が、築山殿や信康に与えた動揺は大きかったが、事件としての直接的な関係は、ドラマ上では持たされていない。
そのほかの説として、家康と信康との間で、父子関係の悪化が事件の背景にあり、家康の家臣団と信康の家臣団との間に、いさかいがあったとも言われている。
だが、この説も今回のドラマでは採用されていない。信康が勇猛さを見せて、何かと慎重な家康と険悪になる場面があったものの、自分の家臣たちを従えて、父と対立軸をつくるほどの求心力は信康に見られなかった。
築山殿と信康の「クーデター説」を採用せず
そうなると、今回のドラマでは、築山殿と信康の事件について一体どんな見解が打ち出されるのか。注目が高まるなか、いよいよ瀬名が動き出したのが、今回の第24回「築山へ集え!」であった。
ドラマの冒頭から、築山殿は武田家の人間と接触し、交流を始めたことから、信康と築山殿のクーデター説をとったかと思いきやそうではなかった。
ドラマでは、築山殿が長年胸に秘めていた夢が語られる。それは、戦をなくして、各戦国大名が手を取り合い、自分たちの土地ではとれないものを物々交換によって補い合い、平和的な外交を行うというもの。同じ通貨を用いての経済圏の構想まで飛び出して、築山殿は家康らに頭を下げてこう言った。
「どうかわたくしたちと、同じ夢を見てくださいませ」
築山殿の頬には、涙が一筋流れる。感動的なシーンのように見えるが、すでにこの段階で、築山殿は信康と共に、各方面へ勝手に働きかけていた。不穏な雰囲気を信長に指摘されて、家康が岡崎に向かったところ、築山殿から壮大な構想を打ち明けられることとなったのである。
まさかの事後報告を受けた家康だったが、意外なほどすんなりとそれに乗り、家臣たちもそんな家康に追従。武田と手を結びながら表面上の戦を続け、信長には内密にしたまま各方面と連携を進める。そんな予想外の展開となった。
築山殿の真意を知った家康が「そなたは途方もないことを考える」とこぼす場面があったが、視聴者も同様の感想を持ったことだろう。
■ 家康が築山殿の謀をすんなり受け入れた「違和感」
しかし、結局ドラマの展開としては、築山殿のもくろみは織田側に露見してしまう。キーパーソンとなったのは、眞栄田郷敦演じる武田勝頼である。
勝頼は築山殿の壮大な構想に賛同し、家康と連携したふりをしていただけで、腹の底では「父・信玄を超える」という野心を捨ててはいなかった。古川琴音演じる千代と、田辺誠一演じる穴山信君を呼び出して、まさかの指令を出すことになる。
「すべてを明るみに出す頃合いよ。噂を振りまけ。徳川は織田を騙し、武田と裏で結んでおると」
これで築山殿の謀(はかりごと)は露見することとなる。ここからは怒れる信長のターンとなり、次回を迎えることになった。
これまでの歴史ドラマで、これほど勝頼が存在感を発揮したことはなかった。てっきり勝頼は良い役どころを与えられたと思いきや、まさかの裏切りとなった。だが、勝頼の次の言葉に「ごもっとも」とうなずいた視聴者のほうがむしろ多かったのではないか。少なくとも筆者はその一人である。
「すまんな。やはりわしは、女子(おなご)のままごとのごとき謀には乗れん」
築山殿が実は、戦のない世を夢見ていたというのは、これまでのドラマ上の流れからも納得がいく。また、築山殿から夢を託された家康が江戸幕府を開くことで、それを実現させるという壮大な物語も斬新ではある。しかし、築山殿が家康に相談せずにここまで動いていたこと、またこれほどの大きな方針の転換を、家康や家康の重臣たちが受け入れて、すぐさま実行に移したのは違和感がある。
今回の大河は回想シーンが多用されるのも特徴の一つだ。次回で、家康や家康の家臣たちが、築山殿の構想に賛同した背景が描かれることを期待したい。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉 現代語訳徳川実紀 』(吉川弘文館)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
中村孝也『徳川家康文書の研究』(吉川弘文館)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
真山 知幸
NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第24回「築山へ集え!」では、瀬名と信康が各方面に密書を送り、多くの者が築山を訪ねていることを家康は知る。訪問者のなかには武田方の者もいて、いよいよ見過ごせないと家康が瀬名のもとに向かうが・・・。今回の見所について『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
家康の息子・信康が自刃した二俣城跡
■ カオス状態の岡崎城に置き去りにされた築山殿
大河ドラマ『どうする家康』の放送が始まるやいなや、注目されたのが、徳川家康と正室の築山殿(瀬名)との運命である。
家康は天正7(1579)年9月15日に、嫡男である信康を自害させた。それに先立って、8月29日には家康の正妻で信康の生母である築山殿も、家康は自害させている。
そんな凄惨な事件を思えば、家康と築山殿の夫婦仲はよくなかった、もしくは、どこかですれ違ったと考えるのが自然だが、『どうする家康』での松本潤演じる家康と、有村架純演じる築山殿は仲むつまじい夫婦として描かれてきた。
最初のターニングポイントは、やはり家康が桶狭間の戦い後、今川方から離れて岡崎城で独立し、織田方についたことだろう。
というのも、築山殿は今川氏の重臣である関口氏純の娘にあたる。夫の家康が今川方を見限るとは、婚姻時には全く想定していなかったに違いない。結果的には、築山殿と子ども達は岡崎城に迎え入れられるが、そのあたりから家康への不信感があってもおかしくはない。
しかも、岡崎城には、家康の生母である於大の方が、夫の久松俊勝とともにすでに入っていた。さらに、息子・信康の妻として迎えることになったのは、織田信長の娘、徳姫である。
そんなカオス状態のなか、家康は築山殿を岡崎城に置き去りにして、新たに居城とした浜松城へと移ってしまう。岡崎で何も対立が起きないほうが難しいような状態といってよいだろう。
案の定、徳姫は夫の信康とも、姑の築山殿とも折り合いが悪くなり、父の信長に「十二カ条の弾劾状」を書いて送ることになる。そのことが信康と築山殿の処断につながった、とされてきた。
文献ではキーパーソンだった大賀弥四郎の暗躍ぶり
だが、『どうする家康』では、築山殿はむしろ岡崎城で生き生きと過ごしている。家康が側室を迎えることにも理解を示し、姑や嫁との軋轢も深刻化することなく、穏やかに過ごしていた。
家康と築山殿との間に、これという対立ポイントがないまま武田信玄が病死し、長篠の戦いでは家康軍と織田軍が連合して、勝頼率いる武田勢に大勝するところまで来てしまった。
そうなると、家康が築山殿と信康を処断せねばならなくなる理由としては、「武田との内通」ということになるだろう。
その場合にキーパーソンとなるのが、大賀弥四郎である。大賀弥四郎については、江戸時代初期に旗本の大久保忠教の著作『三河物語』や、徳川幕府の正史『徳川実紀』などで説明されているが、とりわけ詳しいのが、家康の言行録『東照宮御遺訓』である。
『東照宮御遺訓』によると、浜松城にいる家康のもとに、大賀弥四郎なる人物が現れた。弥四郎は立ち居振る舞いも美しく、文筆に優れ、年貢勘定など財政実務にも長けていたため、家康は大喜びでいつもそばに置いていたという。
だが、実は弥四郎は武田家のスパイで、岡崎城にいる築山殿に近づくと、息子の信康とともに取り込んでしまい、武田と家康とで密約を結ばせる寸前まで事が運んだという。
そんななか、信康の妻、徳姫がこの陰謀を知り、父の信長に書状で知らせたために、築山殿と信康は処断されたというものだ。『東照宮御遺訓』自体は信頼性の高い史料ではないものの、弥四郎の動きについては『三河物語』や『徳川実紀』の記述と合わせても、それほど違和感はない。
しかし、大賀弥四郎が事件を巻き起こしたのは、長篠の決戦の目前で、信康と築山殿の事件が起きる時期は異なるという説もあり、今回のドラマでもそのように描かれている。大賀弥四郎の乱が、築山殿や信康に与えた動揺は大きかったが、事件としての直接的な関係は、ドラマ上では持たされていない。
そのほかの説として、家康と信康との間で、父子関係の悪化が事件の背景にあり、家康の家臣団と信康の家臣団との間に、いさかいがあったとも言われている。
だが、この説も今回のドラマでは採用されていない。信康が勇猛さを見せて、何かと慎重な家康と険悪になる場面があったものの、自分の家臣たちを従えて、父と対立軸をつくるほどの求心力は信康に見られなかった。
築山殿と信康の「クーデター説」を採用せず
そうなると、今回のドラマでは、築山殿と信康の事件について一体どんな見解が打ち出されるのか。注目が高まるなか、いよいよ瀬名が動き出したのが、今回の第24回「築山へ集え!」であった。
ドラマの冒頭から、築山殿は武田家の人間と接触し、交流を始めたことから、信康と築山殿のクーデター説をとったかと思いきやそうではなかった。
ドラマでは、築山殿が長年胸に秘めていた夢が語られる。それは、戦をなくして、各戦国大名が手を取り合い、自分たちの土地ではとれないものを物々交換によって補い合い、平和的な外交を行うというもの。同じ通貨を用いての経済圏の構想まで飛び出して、築山殿は家康らに頭を下げてこう言った。
「どうかわたくしたちと、同じ夢を見てくださいませ」
築山殿の頬には、涙が一筋流れる。感動的なシーンのように見えるが、すでにこの段階で、築山殿は信康と共に、各方面へ勝手に働きかけていた。不穏な雰囲気を信長に指摘されて、家康が岡崎に向かったところ、築山殿から壮大な構想を打ち明けられることとなったのである。
まさかの事後報告を受けた家康だったが、意外なほどすんなりとそれに乗り、家臣たちもそんな家康に追従。武田と手を結びながら表面上の戦を続け、信長には内密にしたまま各方面と連携を進める。そんな予想外の展開となった。
築山殿の真意を知った家康が「そなたは途方もないことを考える」とこぼす場面があったが、視聴者も同様の感想を持ったことだろう。
■ 家康が築山殿の謀をすんなり受け入れた「違和感」
しかし、結局ドラマの展開としては、築山殿のもくろみは織田側に露見してしまう。キーパーソンとなったのは、眞栄田郷敦演じる武田勝頼である。
勝頼は築山殿の壮大な構想に賛同し、家康と連携したふりをしていただけで、腹の底では「父・信玄を超える」という野心を捨ててはいなかった。古川琴音演じる千代と、田辺誠一演じる穴山信君を呼び出して、まさかの指令を出すことになる。
「すべてを明るみに出す頃合いよ。噂を振りまけ。徳川は織田を騙し、武田と裏で結んでおると」
これで築山殿の謀(はかりごと)は露見することとなる。ここからは怒れる信長のターンとなり、次回を迎えることになった。
これまでの歴史ドラマで、これほど勝頼が存在感を発揮したことはなかった。てっきり勝頼は良い役どころを与えられたと思いきや、まさかの裏切りとなった。だが、勝頼の次の言葉に「ごもっとも」とうなずいた視聴者のほうがむしろ多かったのではないか。少なくとも筆者はその一人である。
「すまんな。やはりわしは、女子(おなご)のままごとのごとき謀には乗れん」
築山殿が実は、戦のない世を夢見ていたというのは、これまでのドラマ上の流れからも納得がいく。また、築山殿から夢を託された家康が江戸幕府を開くことで、それを実現させるという壮大な物語も斬新ではある。しかし、築山殿が家康に相談せずにここまで動いていたこと、またこれほどの大きな方針の転換を、家康や家康の重臣たちが受け入れて、すぐさま実行に移したのは違和感がある。
今回の大河は回想シーンが多用されるのも特徴の一つだ。次回で、家康や家康の家臣たちが、築山殿の構想に賛同した背景が描かれることを期待したい。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉 現代語訳徳川実紀 』(吉川弘文館)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
中村孝也『徳川家康文書の研究』(吉川弘文館)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
真山 知幸
本郷和人 なぜ7人で房総へ逃げのびた源頼朝がたった42日で5万の軍勢を集められたのか? 頼朝はあくまで在地の武士に担ぎあげられた「神輿」だった
松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」になる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。たとえば「征夷大将軍」に任命されたことで有名な源頼朝ですが、本郷先生いわく、そもそも彼を担ぎ上げたのはむしろ在地の武士側だったそうで――。
【絵】源頼朝は真鶴を経て海路で安房国(千葉県)へ逃げる。絵は逃走する源頼朝を追う平氏方の武将たち
* * * * * * *
◆源頼朝の挙兵と奇跡の四二日間
十代前半に流人となった源頼朝は、二〇年もの月日を配流地である伊豆で過ごすことになりました。そしてついに治承四(一一八〇)年八月一七日、頼朝は平氏追討の兵を挙げます。
伊豆守目代の山木兼隆を討ち、初戦に勝利するも、大庭景親・伊東祐親らの軍勢に石橋山で敗れ、土肥実平らの助けを受けて、わずか七人で船に乗って房総半島に逃れます。そこで千葉常胤や上総広常ら、父・義朝にかつて従った武士たちを味方につけて再起を図り、鎌倉入りを果たすのです。石橋山の敗戦からわずか四二日後のことでした。
『吾妻鏡』によれば、四二日間のうちに兵の規模は五万人に膨れ上がったとされています。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の執権となった北条氏の命で作成された記録ですから、軍勢の数も幕府側に都合のよいように「盛って」あると考えてよいでしょう。だいたい実数は一〇分の一くらいだったと考えると、およそ五〇〇〇人程度と推定できます。それでも、当時としてはたいへんな大軍だったことに間違いはありません。鎌倉入りした頼朝は、房総半島だけでなく、武蔵、相模、伊豆、駿河を従え、かつて父・義朝が実績を挙げた南関東を平定しました。まさに奇跡の四二日間だったわけです。
◆なぜ頼朝は鎌倉入りを果たすことができたのか
私は学生の頃、わずか四二日の間に、なぜ頼朝は東国の武士たちを次々と従え、ほとんど奇跡とも呼べる鎌倉入りを果たすことができたのか、恩師である石井進先生に聞いたことがあります。
日本中世史の研究者のなかでも特に「えらい」学者だった石井先生ですから、一介の学生にすぎない私たちは、おいそれと口を利くなんて、とてもではないですができません。ですから、本当にわからない問題しか石井先生に質問したことはありませんでした。
その数少ない私の問いかけに対して、石井先生は、「いや本郷くん、それが説明できたらあの時代を理解することができたということなんだよ」と答えて、それ以上は教えてくれませんでした。
このときに石井先生がどんな解答を持っていたかは、私にはいまだにわかりません。ですから、あらためて私なりに考えざるを得ません。◆頼朝の挙兵は武士たちの不満の表れでもあった
東国の武士たちにとってみれば、やはりさまざまなかたちで西国の朝廷から搾取を受けていたのだろうと思います。頼朝の挙兵は、まさに朝廷から搾取されることに対する武士たちの不満の爆発と捉えられます。
自分たちの代表となってくれる神輿として頼朝を担ぎ出したのではないかと私は考えます。
頼朝は平家追討を目的として兵を挙げたとされますが、実のところ、源氏対平氏という対立は根本的な問題ではありません。このときの平家政権は、いわば朝廷という外皮をまとっているわけですから、言うなれば、頼朝の挙兵はそのまま朝廷に対する異議申し立てだったと思うのです。
そうだとすると、在地領主である武士たちとしては、自分の土地を守り、自分の利益を守りたいと考えていたわけです。
しかし、自分たちは文字の読み書きもできない。朝廷と交渉しようにもそれはできない。だから、源頼朝を自分たちの代表として押し立てて、代わりに朝廷との交渉をやってもらおうとした。だから頼朝を担ぐというのは、第一に自分たちの利害を考えてのことだったのです。
◆武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めた
ここに至って意識してもらいたいのは「家臣の合意」が武家の棟梁を決めるということです。
在地領主である武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めている。それは頼朝の父・義朝が南関東で活躍したときと実態はまるで変わっていません。
義朝の下に集った武士たちも、頼朝の下に集った武士たちも、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」というかたちで自分たちの利益のために行動し、義朝や頼朝を担ぎ上げたということになります。
※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
本郷和人
松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」になる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。たとえば「征夷大将軍」に任命されたことで有名な源頼朝ですが、本郷先生いわく、そもそも彼を担ぎ上げたのはむしろ在地の武士側だったそうで――。
【絵】源頼朝は真鶴を経て海路で安房国(千葉県)へ逃げる。絵は逃走する源頼朝を追う平氏方の武将たち
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◆源頼朝の挙兵と奇跡の四二日間
十代前半に流人となった源頼朝は、二〇年もの月日を配流地である伊豆で過ごすことになりました。そしてついに治承四(一一八〇)年八月一七日、頼朝は平氏追討の兵を挙げます。
伊豆守目代の山木兼隆を討ち、初戦に勝利するも、大庭景親・伊東祐親らの軍勢に石橋山で敗れ、土肥実平らの助けを受けて、わずか七人で船に乗って房総半島に逃れます。そこで千葉常胤や上総広常ら、父・義朝にかつて従った武士たちを味方につけて再起を図り、鎌倉入りを果たすのです。石橋山の敗戦からわずか四二日後のことでした。
『吾妻鏡』によれば、四二日間のうちに兵の規模は五万人に膨れ上がったとされています。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の執権となった北条氏の命で作成された記録ですから、軍勢の数も幕府側に都合のよいように「盛って」あると考えてよいでしょう。だいたい実数は一〇分の一くらいだったと考えると、およそ五〇〇〇人程度と推定できます。それでも、当時としてはたいへんな大軍だったことに間違いはありません。鎌倉入りした頼朝は、房総半島だけでなく、武蔵、相模、伊豆、駿河を従え、かつて父・義朝が実績を挙げた南関東を平定しました。まさに奇跡の四二日間だったわけです。
◆なぜ頼朝は鎌倉入りを果たすことができたのか
私は学生の頃、わずか四二日の間に、なぜ頼朝は東国の武士たちを次々と従え、ほとんど奇跡とも呼べる鎌倉入りを果たすことができたのか、恩師である石井進先生に聞いたことがあります。
日本中世史の研究者のなかでも特に「えらい」学者だった石井先生ですから、一介の学生にすぎない私たちは、おいそれと口を利くなんて、とてもではないですができません。ですから、本当にわからない問題しか石井先生に質問したことはありませんでした。
その数少ない私の問いかけに対して、石井先生は、「いや本郷くん、それが説明できたらあの時代を理解することができたということなんだよ」と答えて、それ以上は教えてくれませんでした。
このときに石井先生がどんな解答を持っていたかは、私にはいまだにわかりません。ですから、あらためて私なりに考えざるを得ません。◆頼朝の挙兵は武士たちの不満の表れでもあった
東国の武士たちにとってみれば、やはりさまざまなかたちで西国の朝廷から搾取を受けていたのだろうと思います。頼朝の挙兵は、まさに朝廷から搾取されることに対する武士たちの不満の爆発と捉えられます。
自分たちの代表となってくれる神輿として頼朝を担ぎ出したのではないかと私は考えます。
頼朝は平家追討を目的として兵を挙げたとされますが、実のところ、源氏対平氏という対立は根本的な問題ではありません。このときの平家政権は、いわば朝廷という外皮をまとっているわけですから、言うなれば、頼朝の挙兵はそのまま朝廷に対する異議申し立てだったと思うのです。
そうだとすると、在地領主である武士たちとしては、自分の土地を守り、自分の利益を守りたいと考えていたわけです。
しかし、自分たちは文字の読み書きもできない。朝廷と交渉しようにもそれはできない。だから、源頼朝を自分たちの代表として押し立てて、代わりに朝廷との交渉をやってもらおうとした。だから頼朝を担ぐというのは、第一に自分たちの利害を考えてのことだったのです。
◆武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めた
ここに至って意識してもらいたいのは「家臣の合意」が武家の棟梁を決めるということです。
在地領主である武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めている。それは頼朝の父・義朝が南関東で活躍したときと実態はまるで変わっていません。
義朝の下に集った武士たちも、頼朝の下に集った武士たちも、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」というかたちで自分たちの利益のために行動し、義朝や頼朝を担ぎ上げたということになります。
※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
本郷和人
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