「鰻丼」を食べる人が知らない“昔の驚きのタブー” かつて鰻飯と呼ばれ、今とは外見も中身も違う
土用の丑の日といえば、鰻丼。この鰻丼、江戸時代には「鰻飯(うなぎめし)」とよばれていました。
この江戸時代の鰻飯、名前だけでなくその外見や内容も、現在の鰻丼とはまるで違っていました。
19世紀に江戸時代の風俗を描いた喜田川守貞『守貞漫稿』によると、江戸時代の鰻飯には、頭を取り除いた長さが3~4寸(約9~12センチ)という、ドジョウのように小さな子供のウナギの蒲焼が使われていました。
■昔の丼鉢はとても小さかった
鰻飯を盛る器は「丼鉢」といいましたが、この丼鉢も現在の鰻丼の器「どんぶり」とは異なるものでした。とても小さかったのです。
大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが丼鉢の写真を残していますが、その大きさは現在の茶碗程度の大きさしかありません(小西四郎、岡秀行構成『百年前の日本』)。
茶碗ぐらいの小さな丼鉢にフィットするように、9~12センチの子供のウナギが選ばれたのです。これを何杯もおかわりして食べるのが、江戸時代の鰻飯でした。
なぜ現在のような大きな「どんぶり」を使わなかったのか。それは江戸時代には現在の「どんぶり」にあたる食器が普及していなかったからなのです。
江戸遺跡研究会世話人代表であった寺島孝一は、次のように述べます。
“今私たちが「どんぶり」という言葉で思いうかべるような器が、発掘調査でほとんどみつかっていない”(寺島孝一『アスファルトの下の江戸』)
我々が現在鰻丼に使っているあの器「どんぶり」は、江戸時代の地層からはほとんど発掘されていない、つまり普及していなかったのです。
民俗学者の柳田國男・直江広治も、どんぶりという器および鰻丼のようなどんぶりものは、明治時代になって生まれた新しい食文化であったと観察しています。
“どんぶりといふ器が飯椀に代つて、天どん牛どん親子どんなどの奇抜な名稱が全國的になつたのも、すべてこの時代の新現象である”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)
明治8年生まれの柳田國男は、どんぶりという大きな食器、天丼や親子丼という「どんぶりもの」というジャンルが普及するさまを、リアルタイムに体験していました。
■江戸時代にどんぶりものが普及しなかった理由
それではなぜ、江戸時代にはどんぶりという器およびどんぶりものが普及しなかったのでしょうか?
柳田國男はその理由を次のように説明します。
“一膳飯はもと不吉な聯想(れんそう)があつて、御幣(ごへい)を擔(かつ)ぐ者にはいやがられて居たが、もうそんな事は構ふ人がなくなつた”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)
日本にはかつて、「一膳飯」という非常に強力なタブーが存在しました。どんぶり一杯で満腹にさせる、おかわりなしの「どんぶりもの」は、一膳飯というタブーに触れる不吉な食べ物として忌み嫌われていたのです。
文明開化の明治時代になり、一膳飯のタブーという迷信から人々が解き放たれたために、どんぶりという器およびどんぶりものが普及したと、柳田國男と直江広治(『明治文化史第13巻』)は主張するのです。
一膳飯とは何か。民俗学者の瀬川清子は次のように説明します。
“身内の者がなくなった場合には、生き残った者がこれに対して食い別れの式をする。葬送の出棺時のデタチの膳というのがそれで、一杯きりの飯を食ったり、一本箸で食ったり、わかれのおみきといって椀の蓋で酒を飲んだり、ふだんは決してしない食べ方で死者のまわりで食事をして、今まで同じ火で炊いた同じ鍋の飯を食った死者に対して、もはや共食者でないことを宣言する”
“こういう時には一膳飯を食べたり温かい御飯におつけをかけたり一本箸で食べたりするので、常の日にそんなことをするのを嫌うのは、それが死者との絶縁のための作法だからである”(瀬川清子『食生活の歴史』)
かつての日本では、葬式の時に一杯だけご飯を食べて死者と別れるという儀式が広範囲に行われていました。そのために、普段の食事においておかわりをせずに一杯だけのご飯で済ますことは、葬式を連想させる行為として非常に忌み嫌われていたのです。
居候(いそうろう)三杯目にはそっと出し、という川柳があります。
タダ飯を食べさせてもらっている居候は肩身が狭いので、ご飯のおかわりをするにも遠慮がちになるという川柳ですが、なぜ2杯目ではなく3杯目なのかというと、2杯目は一膳飯のタブーを回避するための義務なので、堂々とおかわりすることができたからなのです。
その居候を描いたのが上方落語家林家染二の「湯屋番」ですが、居候にはなるべくご飯を食べさせない主義の大工の女房も、一膳飯はだめだというので2杯目まではおかわりを出しています。
この一膳飯がいかに強力なタブーであったかについては、民俗学の研究成果および様々な実例を拙著『牛丼の戦前史』に載せていますので、興味のある方はご覧ください。
■鰻飯から鰻丼への変化
明治時代のベストセラー小説、明治36年出版の村井弦斎『食道楽』に、鰻飯の「大丼」というものが登場します。従来の小さな丼鉢入の鰻飯に加え、大きな丼に入れた鰻飯があらわれたのです。
容器が変わるとともに名称にも変化が起こります。拙著『牛丼の戦前史』では様々な資料における名称の推移を記録していますが、明治時代中頃に現れた「鰻丼」という名称は、昭和時代になると多数を占め「鰻飯」を圧倒するようになります。
その背景には、人々が一膳飯のタブーから開放され、おかわりなしのどんぶりものに慣れていったことがありますが、もう一つ理由があると思われます。ウナギの養殖です。
明治時代に始まったウナギの養殖ですが、昭和10年には養殖物のウナギが総供給量の70%を超え、天然物を上回るようになります(増井好男『ウナギ養殖業の歴史』)。
■大人のウナギを使う鰻丼が普及
かつて鰻飯に使われていた安い子供のウナギは、養殖用として買われ値段が上がり、昭和時代になると銀座の竹葉亭などの高級鰻店の料理となります。
一方で大人のウナギの値段は、養殖の発展により手頃になっていきます。こうして高価になっていった子供ウナギを使う鰻飯は次第に廃れ、現在のような大人のウナギを使った鰻丼が普及していったものと思われます。
近代食文化研究会 :食文化史研究家
土用の丑の日といえば、鰻丼。この鰻丼、江戸時代には「鰻飯(うなぎめし)」とよばれていました。
この江戸時代の鰻飯、名前だけでなくその外見や内容も、現在の鰻丼とはまるで違っていました。
19世紀に江戸時代の風俗を描いた喜田川守貞『守貞漫稿』によると、江戸時代の鰻飯には、頭を取り除いた長さが3~4寸(約9~12センチ)という、ドジョウのように小さな子供のウナギの蒲焼が使われていました。
■昔の丼鉢はとても小さかった
鰻飯を盛る器は「丼鉢」といいましたが、この丼鉢も現在の鰻丼の器「どんぶり」とは異なるものでした。とても小さかったのです。
大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが丼鉢の写真を残していますが、その大きさは現在の茶碗程度の大きさしかありません(小西四郎、岡秀行構成『百年前の日本』)。
茶碗ぐらいの小さな丼鉢にフィットするように、9~12センチの子供のウナギが選ばれたのです。これを何杯もおかわりして食べるのが、江戸時代の鰻飯でした。
なぜ現在のような大きな「どんぶり」を使わなかったのか。それは江戸時代には現在の「どんぶり」にあたる食器が普及していなかったからなのです。
江戸遺跡研究会世話人代表であった寺島孝一は、次のように述べます。
“今私たちが「どんぶり」という言葉で思いうかべるような器が、発掘調査でほとんどみつかっていない”(寺島孝一『アスファルトの下の江戸』)
我々が現在鰻丼に使っているあの器「どんぶり」は、江戸時代の地層からはほとんど発掘されていない、つまり普及していなかったのです。
民俗学者の柳田國男・直江広治も、どんぶりという器および鰻丼のようなどんぶりものは、明治時代になって生まれた新しい食文化であったと観察しています。
“どんぶりといふ器が飯椀に代つて、天どん牛どん親子どんなどの奇抜な名稱が全國的になつたのも、すべてこの時代の新現象である”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)
明治8年生まれの柳田國男は、どんぶりという大きな食器、天丼や親子丼という「どんぶりもの」というジャンルが普及するさまを、リアルタイムに体験していました。
■江戸時代にどんぶりものが普及しなかった理由
それではなぜ、江戸時代にはどんぶりという器およびどんぶりものが普及しなかったのでしょうか?
柳田國男はその理由を次のように説明します。
“一膳飯はもと不吉な聯想(れんそう)があつて、御幣(ごへい)を擔(かつ)ぐ者にはいやがられて居たが、もうそんな事は構ふ人がなくなつた”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)
日本にはかつて、「一膳飯」という非常に強力なタブーが存在しました。どんぶり一杯で満腹にさせる、おかわりなしの「どんぶりもの」は、一膳飯というタブーに触れる不吉な食べ物として忌み嫌われていたのです。
文明開化の明治時代になり、一膳飯のタブーという迷信から人々が解き放たれたために、どんぶりという器およびどんぶりものが普及したと、柳田國男と直江広治(『明治文化史第13巻』)は主張するのです。
一膳飯とは何か。民俗学者の瀬川清子は次のように説明します。
“身内の者がなくなった場合には、生き残った者がこれに対して食い別れの式をする。葬送の出棺時のデタチの膳というのがそれで、一杯きりの飯を食ったり、一本箸で食ったり、わかれのおみきといって椀の蓋で酒を飲んだり、ふだんは決してしない食べ方で死者のまわりで食事をして、今まで同じ火で炊いた同じ鍋の飯を食った死者に対して、もはや共食者でないことを宣言する”
“こういう時には一膳飯を食べたり温かい御飯におつけをかけたり一本箸で食べたりするので、常の日にそんなことをするのを嫌うのは、それが死者との絶縁のための作法だからである”(瀬川清子『食生活の歴史』)
かつての日本では、葬式の時に一杯だけご飯を食べて死者と別れるという儀式が広範囲に行われていました。そのために、普段の食事においておかわりをせずに一杯だけのご飯で済ますことは、葬式を連想させる行為として非常に忌み嫌われていたのです。
居候(いそうろう)三杯目にはそっと出し、という川柳があります。
タダ飯を食べさせてもらっている居候は肩身が狭いので、ご飯のおかわりをするにも遠慮がちになるという川柳ですが、なぜ2杯目ではなく3杯目なのかというと、2杯目は一膳飯のタブーを回避するための義務なので、堂々とおかわりすることができたからなのです。
その居候を描いたのが上方落語家林家染二の「湯屋番」ですが、居候にはなるべくご飯を食べさせない主義の大工の女房も、一膳飯はだめだというので2杯目まではおかわりを出しています。
この一膳飯がいかに強力なタブーであったかについては、民俗学の研究成果および様々な実例を拙著『牛丼の戦前史』に載せていますので、興味のある方はご覧ください。
■鰻飯から鰻丼への変化
明治時代のベストセラー小説、明治36年出版の村井弦斎『食道楽』に、鰻飯の「大丼」というものが登場します。従来の小さな丼鉢入の鰻飯に加え、大きな丼に入れた鰻飯があらわれたのです。
容器が変わるとともに名称にも変化が起こります。拙著『牛丼の戦前史』では様々な資料における名称の推移を記録していますが、明治時代中頃に現れた「鰻丼」という名称は、昭和時代になると多数を占め「鰻飯」を圧倒するようになります。
その背景には、人々が一膳飯のタブーから開放され、おかわりなしのどんぶりものに慣れていったことがありますが、もう一つ理由があると思われます。ウナギの養殖です。
明治時代に始まったウナギの養殖ですが、昭和10年には養殖物のウナギが総供給量の70%を超え、天然物を上回るようになります(増井好男『ウナギ養殖業の歴史』)。
■大人のウナギを使う鰻丼が普及
かつて鰻飯に使われていた安い子供のウナギは、養殖用として買われ値段が上がり、昭和時代になると銀座の竹葉亭などの高級鰻店の料理となります。
一方で大人のウナギの値段は、養殖の発展により手頃になっていきます。こうして高価になっていった子供ウナギを使う鰻飯は次第に廃れ、現在のような大人のウナギを使った鰻丼が普及していったものと思われます。
近代食文化研究会 :食文化史研究家
【blog】2023.02.17
祈冬
とても自分勝手な文章です。
何を書いても、そう感じる。
今の僕をよく表している気がする。
こんな赤裸々な自分を公開することに、意味があるのかわからない。
それでもやってみる。
誇りもプライドも捨てて、たった一つの大切な何かが、手元に残るのか知りたい。
/
思いやりを持った人間になりたい。
自分を脱却し、誰かを楽しませる人になりたい。
このLINEブログも6月にはサービスが終了されることが決まっている。
その先のことは決めていない。
こんなに好き勝手な表現をするのは、もうそろそろ最後かもしれないと思う。
思いやりに欠けるほど、僕が書きたいことを書き、
僕が読みたい詩を、読みたいように読む。
その難しさや責任に苦しみ、大切な生活を犠牲にするような表現は卒業すべきかもしれない。
一人黙々と、独りよがりな稽古をするのも、もう終わりだ。
今回の朗読は、観に来てくださった人々と、改めて繋がることができた朗読だった。その存在の大切さに深く気付かされ、感謝した。
僕が一人で完成させようとしていた表現は、決して一人じゃ完成しなかった。
共にステージにいる高井息吹さんの楽音に耳を澄ませ、僕らを見つめる一人一人の心にアクセスする。
その術を知るまでに、時間がかかってしまった。
僕が一人だったからだ。
/
独りよがりの文章も
「祈冬」も、もうすぐ終わる。
もうすぐ春が来る。
書きたいように、最後まで書きます。
今回の朗読で僕が読んだのは、
童話「雪渡り」と
「春と修羅」のなかにあるいくつかの心象スケッチだ。
宮沢賢治は自分の詩を、詩ではなく心象スケッチと呼んだ。
スケッチだからとても生々しい、その時の心が書かれている。
僕が読んだのは、宮沢賢治の妹のトシが亡くなった当日、その日に書かれた悲しみのスケッチだ。
そしてその翌年、花巻から北海道を旅した鉄道の中でトシを想いながら書いたスケッチだ。
/
宮沢賢治を読もうと決めたのは、2022年の11月末だった。後から知ったのだが、賢治の妹のトシが亡くなったのは1922年の11月27日だった。奇しくも、ちょうど百年の時が経っていた。
「百年待っていてください。きっと会いに来ますから」
いつかの朗読で読んだ夏目漱石の「夢十夜」において、死にゆく女が叫ぶ台詞だ。百年という言葉を聞くと、この台詞を思い出す。
宮沢賢治の言葉たちは、トシがかくれている雲の向こうの、天の青に向かって昇ってゆく。
もしくはそのさらに向こうの銀河まで。
亡くなった少年と、その友人は鉄道に乗って銀河を旅をした。
かなしみに満ちた世界を、美しく強さに変えてゆく。それが宮沢賢治の言葉だ。
/
一方僕は日々、言葉を失っている。
トルコとシリアで亡くなった人たちの数を思えば、その悲しみは想像力の外にある。
悲しみは海の向こう側だ。
最近友人に「お節介」と言われた。
雑誌かなんかに載っていた星占いに、
「お節介を、励ましや静かな祈りに変えて」
みたいなことが書かれていた。
励ましや、静かな祈りのいかに難しいことか。
でも、そんな人間になりたいな。
落ち込んでいる人がいたら
「大丈夫。君はめちゃくちゃ最高だ。今まで出会ったことないくらいイケてるよ」
と励まして抱きしめてあげたい。
苦しんでいる人がいたら、何もしてやることが出来なくても、静かに祈りたい。そうして自分の生活を明るく送りたい。
僕のお節介は、どうしたら助けてあげられるんだろうと、自分まで苦しんでしまうことだ。
おかげでずいぶんスマートじゃない生き方をしてきてしまった。
それに気づいたのが、最近だ。
僕はこれから変わっていってしまうかもしれない。
痛みに鈍感になるかもしれない。
人の弱さにも鈍感になるかもしれない。
そのことを、少し悲しく思う。
/
童話「雪渡り」は少年の四郎と妹のかん子の冒険物語だ。
この物語を読みながら、僕は少年に返った。
きっと心をシンクロして音楽を奏でていた高井息吹さんも童心に返っていたかもしれない。
青白い銀世界で歌い踊りながら、自分はこれからどんな人間になるんだろうと思った。
純真な心はどこまでも傷つきやすく、脆い。
悲しみに満ちた世界の暗闇と、少年と妹がキラキラの瞳で見つめた光明、その間に僕は立っていた。
/
なんかわからないけど。
負けたくないな。
なんかわからないけど。
負けてたまるか。
朝、目が覚める。
このまま眠っていたら本番は中止だろうな。
劇場に着く。
このまま逃げ出せばこの緊張から解放される。
幕が開き、舞台袖で出番が来る。
この足を進めなければ、朗読は始まらないんだ。
全ての自由が、全ての選択が、僕のこの足にある。
それでも僕は進んだ。進んでいった。
この反省も、恥も、友愛も、絶望も、希望も、暖かい拍手も、涙も、三日間で味わい尽くした。
/
たくさんの人と出会った。
花巻の人々、闘病中の大切な人、友達、家族や親戚。
この公演をやるために、宮沢賢治の言葉を考え続け、何日も何日も列車に乗って、旅をしながら、たくさんの人と出会った。
そうして劇場に辿り着いた。
劇場には友達であり企画者の八十嶋淳(ヤソシマジュン)がいて、高井息吹さんがいて、スタッフたちがいた。
そして観客のみんながいた。
たくさんの出会いだ。
/
もうすぐ、季節と朗読「祈冬」が終わる。
明日からの一週間、千秋楽公演の配信をもってして、僕の宮沢賢治との旅は終わる。
終わって、また始まる。
少しだけ、少しだけ、貴方の悲しみに触れた。
土沢駅。
銀河鉄道の始発駅のモデルになった列車に乗って、僕はこっそり泣いた。
この客車の窓が水族館の窓になって、
大きな水素のりんごの中をかけていって、
サザンクロスを目指して昇っていったんだ。
/
かなしみはちからに。
負けない。悲しみに負けるな。
勝たなくていい。負けるな。
悲しみは心にあっていい。
それを美しく強さに変えるんだ。
僕が物語を読むから。
明日読む物語があれば生きられる。
明日聴く物語があれば生きられる。
がんばろうよ。
君は最高だ。
最高にイケてる。
思慮深くて賢くて優しい人間だ。
部屋の片隅でスマホに文字を打ち込みながら、
僕は静かに祈っている。
この物語と、自分勝手な表現が、誰か一人の心に届きますように。
花巻で出会った七十七歳の伊藤諒子さんは、
僕のために、かつて宮沢賢治がいた川岸で、朗読をしてくれた。
僕の心はあのとき救われた。
役所の人に「宮沢賢治は古い」と言われて落ち込んでいた諒子さん。
「古くなんかないですよ。こんなに歳が離れて、遠くに住んでいる僕たちが賢治を通して出会ったんですよ。すごいことじゃないですか」
/
「朗読、緊張してるんですよね」
「なるようにしかならね。
努力した上で、なるようにしかならね。
みんなじゃなくて、
誰か一人でも感動してくれればいいんだから」
読み続ける。
下手くそでも。誰もいなくなってしまっても。
世界で戦争していても。海の向こうで悲しみが広がっても。
目の前のたった一人のために。
あの諒子さんの川岸に立つ凛とした姿と声を思い出して。
昨夜、配信の映像を見た。
高井息吹さんの歌う曲が、最後まで素晴らしかった。
こんなにまでも心がシンクロして、物語を歌い上げていたんだと改めて知った。
そして自分が高井さんの歌に、ピアノに、無意識のうちにどれだけ助けられていたかを知った。
高井息吹さん、音を捧げてくださって、ほんとうに、ありがとうございました。
/
ご来場いただいた皆さま、心から、ありがとうございました。
あの暖かい拍手を忘れません。
よければまたあの空間に会いに来てください。もっと成長します。
そして、まだ物語を届けることが出来ていない全国の皆さまも、「祈冬」をどうぞよろしくお願いします。
感想があれば、ぜひここに書き込んでください。
ブログのサービスが終了しても、いただいたコメントは保管したいです。
パーソナルBOOKもコツコツ執筆中です。
少しでも恩返しになればと、ひーひー言いながら書いています。
「祈冬」の配信は明日から一週間です。
寂しいとき、眠る前、料理を作りながら、ぜひ何度でも再生してお楽しみください。
https://t.cn/A69hgnp7
本日もおつかれさまでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
2023年2月17日
藤原季節
写真:垂水佳菜
https://t.cn/A6C2nJb0
祈冬
とても自分勝手な文章です。
何を書いても、そう感じる。
今の僕をよく表している気がする。
こんな赤裸々な自分を公開することに、意味があるのかわからない。
それでもやってみる。
誇りもプライドも捨てて、たった一つの大切な何かが、手元に残るのか知りたい。
/
思いやりを持った人間になりたい。
自分を脱却し、誰かを楽しませる人になりたい。
このLINEブログも6月にはサービスが終了されることが決まっている。
その先のことは決めていない。
こんなに好き勝手な表現をするのは、もうそろそろ最後かもしれないと思う。
思いやりに欠けるほど、僕が書きたいことを書き、
僕が読みたい詩を、読みたいように読む。
その難しさや責任に苦しみ、大切な生活を犠牲にするような表現は卒業すべきかもしれない。
一人黙々と、独りよがりな稽古をするのも、もう終わりだ。
今回の朗読は、観に来てくださった人々と、改めて繋がることができた朗読だった。その存在の大切さに深く気付かされ、感謝した。
僕が一人で完成させようとしていた表現は、決して一人じゃ完成しなかった。
共にステージにいる高井息吹さんの楽音に耳を澄ませ、僕らを見つめる一人一人の心にアクセスする。
その術を知るまでに、時間がかかってしまった。
僕が一人だったからだ。
/
独りよがりの文章も
「祈冬」も、もうすぐ終わる。
もうすぐ春が来る。
書きたいように、最後まで書きます。
今回の朗読で僕が読んだのは、
童話「雪渡り」と
「春と修羅」のなかにあるいくつかの心象スケッチだ。
宮沢賢治は自分の詩を、詩ではなく心象スケッチと呼んだ。
スケッチだからとても生々しい、その時の心が書かれている。
僕が読んだのは、宮沢賢治の妹のトシが亡くなった当日、その日に書かれた悲しみのスケッチだ。
そしてその翌年、花巻から北海道を旅した鉄道の中でトシを想いながら書いたスケッチだ。
/
宮沢賢治を読もうと決めたのは、2022年の11月末だった。後から知ったのだが、賢治の妹のトシが亡くなったのは1922年の11月27日だった。奇しくも、ちょうど百年の時が経っていた。
「百年待っていてください。きっと会いに来ますから」
いつかの朗読で読んだ夏目漱石の「夢十夜」において、死にゆく女が叫ぶ台詞だ。百年という言葉を聞くと、この台詞を思い出す。
宮沢賢治の言葉たちは、トシがかくれている雲の向こうの、天の青に向かって昇ってゆく。
もしくはそのさらに向こうの銀河まで。
亡くなった少年と、その友人は鉄道に乗って銀河を旅をした。
かなしみに満ちた世界を、美しく強さに変えてゆく。それが宮沢賢治の言葉だ。
/
一方僕は日々、言葉を失っている。
トルコとシリアで亡くなった人たちの数を思えば、その悲しみは想像力の外にある。
悲しみは海の向こう側だ。
最近友人に「お節介」と言われた。
雑誌かなんかに載っていた星占いに、
「お節介を、励ましや静かな祈りに変えて」
みたいなことが書かれていた。
励ましや、静かな祈りのいかに難しいことか。
でも、そんな人間になりたいな。
落ち込んでいる人がいたら
「大丈夫。君はめちゃくちゃ最高だ。今まで出会ったことないくらいイケてるよ」
と励まして抱きしめてあげたい。
苦しんでいる人がいたら、何もしてやることが出来なくても、静かに祈りたい。そうして自分の生活を明るく送りたい。
僕のお節介は、どうしたら助けてあげられるんだろうと、自分まで苦しんでしまうことだ。
おかげでずいぶんスマートじゃない生き方をしてきてしまった。
それに気づいたのが、最近だ。
僕はこれから変わっていってしまうかもしれない。
痛みに鈍感になるかもしれない。
人の弱さにも鈍感になるかもしれない。
そのことを、少し悲しく思う。
/
童話「雪渡り」は少年の四郎と妹のかん子の冒険物語だ。
この物語を読みながら、僕は少年に返った。
きっと心をシンクロして音楽を奏でていた高井息吹さんも童心に返っていたかもしれない。
青白い銀世界で歌い踊りながら、自分はこれからどんな人間になるんだろうと思った。
純真な心はどこまでも傷つきやすく、脆い。
悲しみに満ちた世界の暗闇と、少年と妹がキラキラの瞳で見つめた光明、その間に僕は立っていた。
/
なんかわからないけど。
負けたくないな。
なんかわからないけど。
負けてたまるか。
朝、目が覚める。
このまま眠っていたら本番は中止だろうな。
劇場に着く。
このまま逃げ出せばこの緊張から解放される。
幕が開き、舞台袖で出番が来る。
この足を進めなければ、朗読は始まらないんだ。
全ての自由が、全ての選択が、僕のこの足にある。
それでも僕は進んだ。進んでいった。
この反省も、恥も、友愛も、絶望も、希望も、暖かい拍手も、涙も、三日間で味わい尽くした。
/
たくさんの人と出会った。
花巻の人々、闘病中の大切な人、友達、家族や親戚。
この公演をやるために、宮沢賢治の言葉を考え続け、何日も何日も列車に乗って、旅をしながら、たくさんの人と出会った。
そうして劇場に辿り着いた。
劇場には友達であり企画者の八十嶋淳(ヤソシマジュン)がいて、高井息吹さんがいて、スタッフたちがいた。
そして観客のみんながいた。
たくさんの出会いだ。
/
もうすぐ、季節と朗読「祈冬」が終わる。
明日からの一週間、千秋楽公演の配信をもってして、僕の宮沢賢治との旅は終わる。
終わって、また始まる。
少しだけ、少しだけ、貴方の悲しみに触れた。
土沢駅。
銀河鉄道の始発駅のモデルになった列車に乗って、僕はこっそり泣いた。
この客車の窓が水族館の窓になって、
大きな水素のりんごの中をかけていって、
サザンクロスを目指して昇っていったんだ。
/
かなしみはちからに。
負けない。悲しみに負けるな。
勝たなくていい。負けるな。
悲しみは心にあっていい。
それを美しく強さに変えるんだ。
僕が物語を読むから。
明日読む物語があれば生きられる。
明日聴く物語があれば生きられる。
がんばろうよ。
君は最高だ。
最高にイケてる。
思慮深くて賢くて優しい人間だ。
部屋の片隅でスマホに文字を打ち込みながら、
僕は静かに祈っている。
この物語と、自分勝手な表現が、誰か一人の心に届きますように。
花巻で出会った七十七歳の伊藤諒子さんは、
僕のために、かつて宮沢賢治がいた川岸で、朗読をしてくれた。
僕の心はあのとき救われた。
役所の人に「宮沢賢治は古い」と言われて落ち込んでいた諒子さん。
「古くなんかないですよ。こんなに歳が離れて、遠くに住んでいる僕たちが賢治を通して出会ったんですよ。すごいことじゃないですか」
/
「朗読、緊張してるんですよね」
「なるようにしかならね。
努力した上で、なるようにしかならね。
みんなじゃなくて、
誰か一人でも感動してくれればいいんだから」
読み続ける。
下手くそでも。誰もいなくなってしまっても。
世界で戦争していても。海の向こうで悲しみが広がっても。
目の前のたった一人のために。
あの諒子さんの川岸に立つ凛とした姿と声を思い出して。
昨夜、配信の映像を見た。
高井息吹さんの歌う曲が、最後まで素晴らしかった。
こんなにまでも心がシンクロして、物語を歌い上げていたんだと改めて知った。
そして自分が高井さんの歌に、ピアノに、無意識のうちにどれだけ助けられていたかを知った。
高井息吹さん、音を捧げてくださって、ほんとうに、ありがとうございました。
/
ご来場いただいた皆さま、心から、ありがとうございました。
あの暖かい拍手を忘れません。
よければまたあの空間に会いに来てください。もっと成長します。
そして、まだ物語を届けることが出来ていない全国の皆さまも、「祈冬」をどうぞよろしくお願いします。
感想があれば、ぜひここに書き込んでください。
ブログのサービスが終了しても、いただいたコメントは保管したいです。
パーソナルBOOKもコツコツ執筆中です。
少しでも恩返しになればと、ひーひー言いながら書いています。
「祈冬」の配信は明日から一週間です。
寂しいとき、眠る前、料理を作りながら、ぜひ何度でも再生してお楽しみください。
https://t.cn/A69hgnp7
本日もおつかれさまでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
2023年2月17日
藤原季節
写真:垂水佳菜
https://t.cn/A6C2nJb0
竹书房出版池谷仙克老师设计画集《池谷仙克 Art Works》预定于2022年12月22日发售,售价4378日元(含税),A4,192页,收录设计图约450幅。
ガッツ星人、ペロリンガ星人、タッコング、ツインテール、キルギス星人-ー
斬新な発想で、怪獣デザインの可能性を広げたその偉業を一冊に!
2022年10月に七回忌を迎えた池谷仙克氏は特殊美術デザイナー、美術監督として、円谷プロダクションや宣弘社などの特撮テレビ番組の美術、キャラクターデザインに携わったほか、映画美術やCMの世界でも活躍。日本の美をたくみに取り入れた独特の世界観で多くのファンを獲得しました。本書は、その池谷氏が残した様々なデザイン画、イメージボードを初出も含め可能な限り蒐集、掲載するものです。古くは放送開始55周年を迎えた『ウルトラセブン』や『シルバー仮面』といった往年の特撮作品から、平成ウルトラマン第一弾となった『ウルトラマンティガ』まで、現存する怪獣デザインを余すところなく収録。これらに加え、鈴木清順監督作品『陽炎座』『夢二』や、日本アカデミー賞最優秀美術賞を受賞した『写楽』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』などの映画やCMのアートワークス、さらにはオリジナル怪獣や私的スケッチまでを収録。池谷氏のファンや特撮ファンはもちろんのこと、映画好きの読者さまにもご愛顧いただけるアートワーク集になっております。
収録作品
『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』『帰ってきたウルトラマン』『シルバー仮面』『ミラーマン』『アイアンキング』『ファイヤーマン』『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』『大怪獣奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』『あさき夢みし』『歌麿 夢と知りせば』『陽炎座』『さらば箱舟』『悪徳の栄え』『帝都物語』『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』『夢二』『写楽』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』『D坂の殺人事件』『姑獲鳥の夏』『シルバー假面』ほか/その他CM作品、京都撮影時の寺院スケッチ、オリジナル怪獣画など。
池谷仙克小伝
原口智生/藤澤順一/樋口尚文
ガッツ星人、ペロリンガ星人、タッコング、ツインテール、キルギス星人-ー
斬新な発想で、怪獣デザインの可能性を広げたその偉業を一冊に!
2022年10月に七回忌を迎えた池谷仙克氏は特殊美術デザイナー、美術監督として、円谷プロダクションや宣弘社などの特撮テレビ番組の美術、キャラクターデザインに携わったほか、映画美術やCMの世界でも活躍。日本の美をたくみに取り入れた独特の世界観で多くのファンを獲得しました。本書は、その池谷氏が残した様々なデザイン画、イメージボードを初出も含め可能な限り蒐集、掲載するものです。古くは放送開始55周年を迎えた『ウルトラセブン』や『シルバー仮面』といった往年の特撮作品から、平成ウルトラマン第一弾となった『ウルトラマンティガ』まで、現存する怪獣デザインを余すところなく収録。これらに加え、鈴木清順監督作品『陽炎座』『夢二』や、日本アカデミー賞最優秀美術賞を受賞した『写楽』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』などの映画やCMのアートワークス、さらにはオリジナル怪獣や私的スケッチまでを収録。池谷氏のファンや特撮ファンはもちろんのこと、映画好きの読者さまにもご愛顧いただけるアートワーク集になっております。
収録作品
『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』『帰ってきたウルトラマン』『シルバー仮面』『ミラーマン』『アイアンキング』『ファイヤーマン』『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』『大怪獣奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』『あさき夢みし』『歌麿 夢と知りせば』『陽炎座』『さらば箱舟』『悪徳の栄え』『帝都物語』『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』『夢二』『写楽』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』『D坂の殺人事件』『姑獲鳥の夏』『シルバー假面』ほか/その他CM作品、京都撮影時の寺院スケッチ、オリジナル怪獣画など。
池谷仙克小伝
原口智生/藤澤順一/樋口尚文
✋热门推荐