啊啊啊啊博主看72的巴巴托斯个人篇看到半夜大哭……也不是多难过,但是看着看着眼泪就止不住地流[悲伤]感性的弦被深深触动……明莉,世上还有什么比你的眼泪更贵重呢,面对卓越的感受性之时,人无法被理性与道理说服…………
明明只有30分钟,但真是令我再一次深切体会到了心灵之尊贵的故事[悲伤]。
长生种的吟游诗人与为了一个吻就不得不活到本应自绝的寿命尽头的少女,也真像是遥遥呼应了田在加奈里那句“願わくば、明日のわたしが、今日のわたしより優れた人間でありますように”——明日的自己与今日的自己不同,站在现在眺望未来,明天与永远有着同等的意义……少女在生命的最后一刻还是用尽全力,乘着诗的羽翼,向那广阔无垠又令无数人人望而却步的心灵世界奔去。
看这篇仿佛看到50岁的田中罗和25岁的田中罗的笔尖一同起舞…………
明明只有30分钟,但真是令我再一次深切体会到了心灵之尊贵的故事[悲伤]。
长生种的吟游诗人与为了一个吻就不得不活到本应自绝的寿命尽头的少女,也真像是遥遥呼应了田在加奈里那句“願わくば、明日のわたしが、今日のわたしより優れた人間でありますように”——明日的自己与今日的自己不同,站在现在眺望未来,明天与永远有着同等的意义……少女在生命的最后一刻还是用尽全力,乘着诗的羽翼,向那广阔无垠又令无数人人望而却步的心灵世界奔去。
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#Kiita0130[超话]##驹木根葵汰#
20231006 ins更新
本日は『たそがれ優作』の記者会見でした。
今天是《黄昏的优作》的记者招待会
改めまして川上春樹を演じます
春樹は優作のスタイリストで歳が離れている何も関わらず物怖じせずに言葉をきちんと届けられる人間です。
再次扮演川上春树
春树是优作的造型师,与优作年龄相差很大,是一个什么都不会害怕、能把语言传达给对方的人。
この役も優作がいなければきっとあそこまで色濃く演じる事ができなかったと思います
有起哉さんの底知れない遊び心に沢山救われました
这个角色如果没有优作的话,我也不会演得那么精彩。被有起哉先生深不可知的童心拯救了很多。
人生においてのちょっとした感情が満遍なく散りばめられています
お酒やジュースを片手に黄昏てみて下さい。
在人生中,有一些情感被零散地分布在各个角落
请一只手拿着果汁,一只手端着酒,一边看着黄昏吧。
BS テレ東『たそがれ優作』
放送は明日夜9時〜
BS テレ東《黄昏的优作》
明天晚上九点开始播出~
(造型师先生太池面了,Marry me!!)
20231006 ins更新
本日は『たそがれ優作』の記者会見でした。
今天是《黄昏的优作》的记者招待会
改めまして川上春樹を演じます
春樹は優作のスタイリストで歳が離れている何も関わらず物怖じせずに言葉をきちんと届けられる人間です。
再次扮演川上春树
春树是优作的造型师,与优作年龄相差很大,是一个什么都不会害怕、能把语言传达给对方的人。
この役も優作がいなければきっとあそこまで色濃く演じる事ができなかったと思います
有起哉さんの底知れない遊び心に沢山救われました
这个角色如果没有优作的话,我也不会演得那么精彩。被有起哉先生深不可知的童心拯救了很多。
人生においてのちょっとした感情が満遍なく散りばめられています
お酒やジュースを片手に黄昏てみて下さい。
在人生中,有一些情感被零散地分布在各个角落
请一只手拿着果汁,一只手端着酒,一边看着黄昏吧。
BS テレ東『たそがれ優作』
放送は明日夜9時〜
BS テレ東《黄昏的优作》
明天晚上九点开始播出~
(造型师先生太池面了,Marry me!!)
古代エジプトと現代イギリスには共通点はあるのか…新たな視座を教えてくれる“国家の起源の探求”
人類の歴史は、これまで語られてきたものと異なり、遊び心と希望に満ちた可能性に溢れていた――。考古学、人類学の画期的な研究成果に基づく 『万物の黎明』 (光文社)より一部抜粋。全世界で注目を集めている本書より、ここでは「国家」の起源を解き明かす。
【写真】この記事の写真を見る(2枚)
◆◆◆
国家とはどのように定義されるのだろうか
「国家の起源」の探求は、「社会的不平等の起源」の探求とほとんどおなじくらい古い。そして、それとおなじくらい熱い議論が交わされてきた。そしてまた、多くの点で、それとおなじように骨折り損である。今日、世界中のほとんどの人間が、国家の権威の下で暮らしているとふつうには考えられている。
おなじように、ファラオ時代のエジプト、殷の中国、インカ帝国、ベニン王国などの過去の政治体も、国家ないし、すくなくとも「初期国家」とみなしてよいという感覚は浸透している。しかし、国家とはなにかについて社会理論家のあいだにコンセンサスがないため、問題は、これらの事例をすべて包摂しながら、それでいて、ガバガバすぎて無意味にならないような定義をどのように設定するか、になる。ところが、これが意外とむずかしいのである。
「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは……
「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは、16世紀後半になってからのことである。フランスの法律家ジャン・ボダンが、この言葉をひねりだしたのがことのはじまりだ。ジャン・ボダンは、魔女、狼男、邪術師の歴史などをテーマにした、影響力のある論文を執筆した人物でもある(さらにボダンは、女性に対する極度の憎悪によっていまだに記憶されている)。しかし、おそらく最初に体系的な定義を試みたのは、ルドルフ・フォン・イェーリングというドイツの哲学者であろう。
かれは19世紀後半に、「国家とは、所与の領域内で合法的な強制力の使用を独占することを主張する機関である」とする定義を提起した(この定義は、それ以降、社会学者マックス・ヴェーバーのものとみなされるようになる)。すなわち、まずある一定の範囲の土地の領有権を主張する。そして、その境界線の内部では、人を殺害すること、殴打すること、肉体の一部を切断すること、監禁することをゆるされる唯一の機関がわれなりと宣明するイェーリングの定義によれば、そのとき、政府は「国家」となるのである。
フォン・イェーリングの定義は、近代国家にはかなり有効であった。ところが、人類史のほとんどにおいて、支配者はそのような大仰な主張をしていなかったことがすぐにあきらかになった。あるいは、われは強制力を独占するものなり、などと口ではいうが、そこにはほとんど実質がなかったのである。つまり、その主張は、われは森羅万象を支配するものなりといった言明と変わるところがなかったのだ。
フォン・イェーリングやヴェーバーの定義を保持するならば、たとえばハンムラビのバビロン、ソクラテスのアテネ、征服王ウィリアム支配下のイングランドなどは、まったく国家ではないと断じるか、あるいはもっと柔軟でニュアンスのある定義をひねりだす必要にせまられることになろう。マルクス主義者にも、国家の定義がある。
20世紀のほとんどを通して社会科学者が行なったこと
かれらによれば、国家が歴史的にはじめて登場するのは、新興支配階級がわが権力を防衛するためである。他者の労働力に依存して日常的生活をいとなむ人間があらわれるや、かれらは必然的に支配の装置を構築することになる。公式的にはみずからの所有権を守るため、実質的にはみずからの優位性を保つためにである(まったくルソー的思考の系譜に属している)。
この定義ならば、バビロン、アテネ、中世イングランドは、あらためて国家の名に値するものとなる。だが、それはまた、搾取をどのように定義するかなどといった、あたらしい概念上の問題も導入した。また、リベラル派にとっては、このような定義は、国家が善良なる機関となる可能性を排除するものであり、好ましくないものだった。
20世紀のほとんどを通じて、社会科学者たちは、国家をより純粋に機能的観点から定義することを好んだ。社会が複雑になるにつれ、あらゆるものごとを調整するため、トップダウンの指揮構造を形成する必要性が高まってきたと主張したのである。現代の社会進化論者のほとんどが、基本的にこの論理を踏襲している。そこでは「社会の複雑性」を示す証拠があれば、反射的にそれはある種の統治機構の存在を示す証拠とみなされる。(たとえば、都市、町、村落、小村といった)4段階の集落ヒエラルキーについて語るとして、それらの集落のすくなくとも一部にフルタイムの専門家(土器づくり職人、鍛冶屋、僧侶や尼僧、職業兵士や音楽家)がいたとすれば、それを管理する装置は、それがどのようなものであれ、事実上、国家でなければならない。
そして、その装置が実力の独占を主張したり、めぐまれぬ労働者の労苦で生活するエリート階級を支えたりはしていなかったとしても、遅かれ早かれそうなることは避けられなかった、とこういうわけだ。この定義にも利点はある。とりわけ、断片的な遺物からその性質や組織をあきらかにしなければならない超古代社会について推測するばあいには、この定義は役に立つ。とはいえ、その論理は完全に循環している。基本的には、それは「国家は複雑であるからして、複雑な社会組織は国家である」といっているにすぎないからである。
大規模で複雑な社会には必ず国家が必要なのか?
実のところ、前世紀の「古典的な」理論的定式化のほとんどすべてが、まさにこの想定から出発している。つまり、大規模で複雑な社会には必ず国家が必要だという想定だ。とすれば、真の争点は、以下の点にある、なぜそうなるのか? なにがしかの筋の通った実際的理由からか? それとも、そのような社会は必然的に物質的余剰を生みだすからなのか? すなわち、物質的余剰があるならば、―たとえば太平洋岸北西部の魚の燻製のように ―分け前を他より多く手に入れようとする人間たちが必然的に存在することになるからか?
第8章ですでにみてきたように、最初期の都市に対して、このような想定はとりわけ有効ではない。たとえば、初期のウルクは、いかなる意味でも「国家」ではなかったようにおもわれる。それに、古代メソポタミア地域でトップダウンの支配が出現したとしても、そこは低地の河川流域に位置する「複雑な」大都市ではなく、周辺の山麓に位置する小規模な「英雄」社会だった。
ところが、それらの社会は行政管理の原理を嫌っていたため、結果的にこれもまた「国家」とみなしえないようにおもわれる。後者のグループ[「英雄」社会]に民族誌的に比肩しうるものがあるとすれば、それは北西海岸の社会かもしれない。というのも、そこでも政治的リーダーシップは、自慢好きで虚栄心の強い戦士貴族の手にゆだねられ、かれらは、称号や財宝、平民の忠誠や奴隷の所有権をめぐって派手な争いをくり広げていたからだ。ここで想起してほしい。ハイダ族やトリンギット族らは、国家装置と呼べるものをもたないだけではなかった。かれらはフォーマルな統治機関のすべてを欠いていたのだった。
国家が不在であっても可能なこと
すると「国家」は2つの統治形態(官僚的形態と英雄的形態)が融合したときにはじめて出現したのだな、と考えるむきもあるだろう。それもありえないわけではない。しかし、それと同時に、そもそもそんな問いに本当に意味があるのか、と疑義を呈することも可能だ。
国家が不在であっても、君主支配、貴族支配、奴隷制、極端な形態の家父長制の支配は可能であり(実際にあきらかに可能であった)、国家がなくても複雑な灌漑システムを維持したり、科学や抽象的な哲学を発展させたりすることが同様に可能であるならば(これもまた実際にそうであったようにおもわれる)、ある政治体は「国家」であって、ある政治体は「国家」じゃないと区分することで、人類の歴史について本当に意味あることを学ぶことができるのだろうか? もっと退屈でなく、もっと重要な問いがあるのではないだろうか?
この章では、その可能性を探ってみたいとおもう。古代エジプトと現代イギリスの統治機関のあいだには深いところで共通するものがあるにちがいないから、それを正確に解明しなければならない、というふうに考えるのではなく、問題全体をあらたな視角から検討してみるなら、歴史はどのようにみえてくるだろう。都市が誕生したほとんどの地域で、やがて強力な王権や帝国が誕生したことはまちがいない。
しかし、それらにはどんな共通点があるのだろうか? はたして実際に共通点はあったのか? それらの出現は、人間の自由と平等、あるいはその喪失の歴史について、なにを物語っているのだろうか? それ以前のものとの根本的な断絶を示すものがあるとすれば、それはどのようなものだろうか?
デヴィッド・グレーバー,デヴィッド・ウェングロウ/Webオリジナル(外部転載)
人類の歴史は、これまで語られてきたものと異なり、遊び心と希望に満ちた可能性に溢れていた――。考古学、人類学の画期的な研究成果に基づく 『万物の黎明』 (光文社)より一部抜粋。全世界で注目を集めている本書より、ここでは「国家」の起源を解き明かす。
【写真】この記事の写真を見る(2枚)
◆◆◆
国家とはどのように定義されるのだろうか
「国家の起源」の探求は、「社会的不平等の起源」の探求とほとんどおなじくらい古い。そして、それとおなじくらい熱い議論が交わされてきた。そしてまた、多くの点で、それとおなじように骨折り損である。今日、世界中のほとんどの人間が、国家の権威の下で暮らしているとふつうには考えられている。
おなじように、ファラオ時代のエジプト、殷の中国、インカ帝国、ベニン王国などの過去の政治体も、国家ないし、すくなくとも「初期国家」とみなしてよいという感覚は浸透している。しかし、国家とはなにかについて社会理論家のあいだにコンセンサスがないため、問題は、これらの事例をすべて包摂しながら、それでいて、ガバガバすぎて無意味にならないような定義をどのように設定するか、になる。ところが、これが意外とむずかしいのである。
「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは……
「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは、16世紀後半になってからのことである。フランスの法律家ジャン・ボダンが、この言葉をひねりだしたのがことのはじまりだ。ジャン・ボダンは、魔女、狼男、邪術師の歴史などをテーマにした、影響力のある論文を執筆した人物でもある(さらにボダンは、女性に対する極度の憎悪によっていまだに記憶されている)。しかし、おそらく最初に体系的な定義を試みたのは、ルドルフ・フォン・イェーリングというドイツの哲学者であろう。
かれは19世紀後半に、「国家とは、所与の領域内で合法的な強制力の使用を独占することを主張する機関である」とする定義を提起した(この定義は、それ以降、社会学者マックス・ヴェーバーのものとみなされるようになる)。すなわち、まずある一定の範囲の土地の領有権を主張する。そして、その境界線の内部では、人を殺害すること、殴打すること、肉体の一部を切断すること、監禁することをゆるされる唯一の機関がわれなりと宣明するイェーリングの定義によれば、そのとき、政府は「国家」となるのである。
フォン・イェーリングの定義は、近代国家にはかなり有効であった。ところが、人類史のほとんどにおいて、支配者はそのような大仰な主張をしていなかったことがすぐにあきらかになった。あるいは、われは強制力を独占するものなり、などと口ではいうが、そこにはほとんど実質がなかったのである。つまり、その主張は、われは森羅万象を支配するものなりといった言明と変わるところがなかったのだ。
フォン・イェーリングやヴェーバーの定義を保持するならば、たとえばハンムラビのバビロン、ソクラテスのアテネ、征服王ウィリアム支配下のイングランドなどは、まったく国家ではないと断じるか、あるいはもっと柔軟でニュアンスのある定義をひねりだす必要にせまられることになろう。マルクス主義者にも、国家の定義がある。
20世紀のほとんどを通して社会科学者が行なったこと
かれらによれば、国家が歴史的にはじめて登場するのは、新興支配階級がわが権力を防衛するためである。他者の労働力に依存して日常的生活をいとなむ人間があらわれるや、かれらは必然的に支配の装置を構築することになる。公式的にはみずからの所有権を守るため、実質的にはみずからの優位性を保つためにである(まったくルソー的思考の系譜に属している)。
この定義ならば、バビロン、アテネ、中世イングランドは、あらためて国家の名に値するものとなる。だが、それはまた、搾取をどのように定義するかなどといった、あたらしい概念上の問題も導入した。また、リベラル派にとっては、このような定義は、国家が善良なる機関となる可能性を排除するものであり、好ましくないものだった。
20世紀のほとんどを通じて、社会科学者たちは、国家をより純粋に機能的観点から定義することを好んだ。社会が複雑になるにつれ、あらゆるものごとを調整するため、トップダウンの指揮構造を形成する必要性が高まってきたと主張したのである。現代の社会進化論者のほとんどが、基本的にこの論理を踏襲している。そこでは「社会の複雑性」を示す証拠があれば、反射的にそれはある種の統治機構の存在を示す証拠とみなされる。(たとえば、都市、町、村落、小村といった)4段階の集落ヒエラルキーについて語るとして、それらの集落のすくなくとも一部にフルタイムの専門家(土器づくり職人、鍛冶屋、僧侶や尼僧、職業兵士や音楽家)がいたとすれば、それを管理する装置は、それがどのようなものであれ、事実上、国家でなければならない。
そして、その装置が実力の独占を主張したり、めぐまれぬ労働者の労苦で生活するエリート階級を支えたりはしていなかったとしても、遅かれ早かれそうなることは避けられなかった、とこういうわけだ。この定義にも利点はある。とりわけ、断片的な遺物からその性質や組織をあきらかにしなければならない超古代社会について推測するばあいには、この定義は役に立つ。とはいえ、その論理は完全に循環している。基本的には、それは「国家は複雑であるからして、複雑な社会組織は国家である」といっているにすぎないからである。
大規模で複雑な社会には必ず国家が必要なのか?
実のところ、前世紀の「古典的な」理論的定式化のほとんどすべてが、まさにこの想定から出発している。つまり、大規模で複雑な社会には必ず国家が必要だという想定だ。とすれば、真の争点は、以下の点にある、なぜそうなるのか? なにがしかの筋の通った実際的理由からか? それとも、そのような社会は必然的に物質的余剰を生みだすからなのか? すなわち、物質的余剰があるならば、―たとえば太平洋岸北西部の魚の燻製のように ―分け前を他より多く手に入れようとする人間たちが必然的に存在することになるからか?
第8章ですでにみてきたように、最初期の都市に対して、このような想定はとりわけ有効ではない。たとえば、初期のウルクは、いかなる意味でも「国家」ではなかったようにおもわれる。それに、古代メソポタミア地域でトップダウンの支配が出現したとしても、そこは低地の河川流域に位置する「複雑な」大都市ではなく、周辺の山麓に位置する小規模な「英雄」社会だった。
ところが、それらの社会は行政管理の原理を嫌っていたため、結果的にこれもまた「国家」とみなしえないようにおもわれる。後者のグループ[「英雄」社会]に民族誌的に比肩しうるものがあるとすれば、それは北西海岸の社会かもしれない。というのも、そこでも政治的リーダーシップは、自慢好きで虚栄心の強い戦士貴族の手にゆだねられ、かれらは、称号や財宝、平民の忠誠や奴隷の所有権をめぐって派手な争いをくり広げていたからだ。ここで想起してほしい。ハイダ族やトリンギット族らは、国家装置と呼べるものをもたないだけではなかった。かれらはフォーマルな統治機関のすべてを欠いていたのだった。
国家が不在であっても可能なこと
すると「国家」は2つの統治形態(官僚的形態と英雄的形態)が融合したときにはじめて出現したのだな、と考えるむきもあるだろう。それもありえないわけではない。しかし、それと同時に、そもそもそんな問いに本当に意味があるのか、と疑義を呈することも可能だ。
国家が不在であっても、君主支配、貴族支配、奴隷制、極端な形態の家父長制の支配は可能であり(実際にあきらかに可能であった)、国家がなくても複雑な灌漑システムを維持したり、科学や抽象的な哲学を発展させたりすることが同様に可能であるならば(これもまた実際にそうであったようにおもわれる)、ある政治体は「国家」であって、ある政治体は「国家」じゃないと区分することで、人類の歴史について本当に意味あることを学ぶことができるのだろうか? もっと退屈でなく、もっと重要な問いがあるのではないだろうか?
この章では、その可能性を探ってみたいとおもう。古代エジプトと現代イギリスの統治機関のあいだには深いところで共通するものがあるにちがいないから、それを正確に解明しなければならない、というふうに考えるのではなく、問題全体をあらたな視角から検討してみるなら、歴史はどのようにみえてくるだろう。都市が誕生したほとんどの地域で、やがて強力な王権や帝国が誕生したことはまちがいない。
しかし、それらにはどんな共通点があるのだろうか? はたして実際に共通点はあったのか? それらの出現は、人間の自由と平等、あるいはその喪失の歴史について、なにを物語っているのだろうか? それ以前のものとの根本的な断絶を示すものがあるとすれば、それはどのようなものだろうか?
デヴィッド・グレーバー,デヴィッド・ウェングロウ/Webオリジナル(外部転載)
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