「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、病と闘いながら戦国の乱世を生き抜いた武将として知られています。戦場では顔を白い布で覆い、類稀な才能を発揮。「小田原征伐」などで活躍しました。その才能は、豊臣秀吉からも認められたほど。ここでは、ミステリアスな部分も多い武将・大谷吉継についてご紹介します。
大谷吉継とは
病を患いながらも、戦国の乱世を戦い抜いた知将「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の生涯は、波乱万丈でした。

異例とも言えるスピードで大出世を果たした一方、最期を迎えた「関ヶ原の戦い」では、盟友「石田三成」との友情に殉じて西軍で参戦。

「小早川秀秋」の裏切りによって追い込まれ、自刃しました。

大谷吉継の出生
大谷吉継の出生に関しては、諸説入り乱れている状況です。

父親が病気療養のために赴いた豊後(現在の大分市)で大友氏の家臣になっていたときに生まれた息子だという説や、「豊臣秀吉」の正室「高台院」(こうだいいん=おね)の侍女が母親だったという説もあります。
また、大谷吉継が異例とも言える出世を果たしたことから「豊臣秀吉の隠し子」という説も。

しかし、これに関しては都市伝説的な物だという受け取り方が一般的です。

さらに、前述した母と高台院との関係から、大谷吉継の「吉」の字は、豊臣秀吉の「吉」から与えられたのではないかという説もあります。

この説が正しければ、大谷吉継と豊臣秀吉は、全くの無関係ではなく、豊臣秀吉にとっての大谷吉継は、自らの名前の一文字を与えても良いほどの存在となったと言え、異例のスピード出世にも説明が付くのです。

大谷吉継の幼名は「慶松」(けいまつ)。この名前には伝説があります。

なかなか子どもを授からなかった大谷吉継の両親は、夢の中で「神社の松の実を食べよ」という宣託を受け、夢の通りに神社の松の前に落ちていた松の実を食べたことで、子宝に恵まれました。これにちなんで両親は、息子を慶松と名付けたのです。
義理の息子は真田幸村(真田信繁)
「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)と言えば、2016年(平成28年)の大河ドラマ「真田丸」の主人公としても知られている、人気の高い戦国武将です。
そんな真田幸村(真田信繁)の正室は、大谷吉継の娘「竹林院」(ちくりんいん)。

大谷吉継にとって、真田幸村(真田信繁)は義理の息子でした。

2人を含めた両家の関係は良好だったと言われ、関ヶ原の戦いが行なわれた際、大谷吉継は、真田幸村(真田信繁)の父「真田昌幸」(さなだまさゆき)の正室「山手殿」(やまのてどの)を人質という名目で保護しています。
知将として知られた才覚
大谷吉継は、武器を手に戦場に赴いて自ら戦うこともありましたが、才覚を発揮したのは、兵を動かす「軍師」としての役割でした。

その才覚は、天下人・豊臣秀吉をして「大谷吉継に100万の兵を与え、自由に指揮させてみたいものだ」と言わしめたと伝えられるほど。

これが本当であれば、大谷吉継の知略が非常に高く評価されていたことを窺い知ることのできるエピソードです。

石田三成との友情
大谷吉継の生涯を語る上で、欠かせない人物が石田三成です。大谷吉継と石田三成が深い友情で結ばれていたことは、よく知られています。石田三成は、大谷吉継の生き方に大きな影響を与えたのです。

友情の証
大谷吉継と石田三成との友情が深まるきっかけになったのは、「大坂城」で催された茶会での出来事だったと言われています。
その席では、お茶が入った茶碗をひとり1口ずつ飲んで、次の人に回すという飲み方をしていました。問題は、この席に大谷吉継がいたこと。

病に侵されていた大谷吉継が口を付けたあと、他の武将は茶碗に口を付けることを嫌がったのです。そして、ほとんどの者が、茶碗に口を付けたふりをして、次に回したと言われています。

しかし、石田三成だけは違いました。皆が嫌がった茶碗を受け取ると、そのままいつもと同じように飲み干しました。大谷吉継が口を付けたあとの茶碗には膿が浮いていたとも言われていますが、石田三成は気に留める様子もなく一飲みすると、おかわりを要求したとも伝えられています。

大谷吉継と石田三成の友情を示すものとして有名な逸話ですが、はっきりとした出所は分かっていません。しかし、関ヶ原の戦い直前において、東軍に合流するはずだった大谷吉継が、石田三成の要請を聞き入れ、一転して西軍に与したことから見ても、2人の間ではこれに近い出来事があったと推測することができるのです。
西軍への合流
豊臣秀吉亡きあと、「徳川家康」は豊臣秀頼の補佐役を務めた「五大老」の筆頭格でした。
対する石田三成は、事務方である「五奉行」のひとりとして豊臣政権を支えてきましたが、「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)ら「武断派」の武将による襲撃を受け、徳川家康に仲介を依頼。

このことがもとで奉行の職を解かれ、領国・佐和山に蟄居となりました。

両者の対立が深まるにつれて、多数派工作は激化。徳川家康は、豊臣恩顧の武断派武将を東軍に引き入れ、勢力拡大を図ります。人を動かす力に関しては、政治力に長けた徳川家康が1枚も2枚も上手でした。

大谷吉継も、当初は徳川家康による「会津征伐」の一員に加わる予定でしたが、その途中、石田三成の居城「佐和山城」に立ち寄ったときに石田三成から徳川家康と対決する覚悟を告げられます。これを聞いた大谷吉継の答えは、「思いとどまるべき」だというもの。両者の間にはそれほど大きな差があったのです。

しかし、石田三成はあきらめません。何度も何度も大谷吉継を説得。無二の親友からの度重なる説得を受けた大谷吉継は、当初の予定を翻し、西軍に付くことを決心しました。

戦国きっての知将・大谷吉継は、厳しい戦いとなることを理解していたはずです。そんな状況で、石田三成側に付いたということは、自らの命を石田三成に捧げたといっても過言ではありません。このような選択をした大谷吉継は、とても情に厚く義理堅い人物だったと言えます。
石田三成への直言
大谷吉継は、関ヶ原の戦いに臨むにあたって、石田三成に対しこんな言葉を投げかけています。

「お主(石田三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願う者すら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元[もうりてるもと])か備前宰相(宇喜多秀家[うきたひでいえ])を上に立て、お主は影に徹せよ」 。

今風に言えば、「お前がいくら檄を飛ばしても、普段の態度が横柄なせいで、みな徳川家康のところに行ってしまう。西軍のトップは毛利輝元か宇喜多秀家に任せて、お前は裏方に徹するべきだ」 。

本人を目の前に、このような発言をした場合、相当な信頼関係がなければ、関係が破綻しても不思議ではありません。2人がいかに信頼し合っていたかがよく分かるエピソードです。

大谷吉継の呪い
関ヶ原の戦いにおいて、石田三成を中心とした西軍は、わずか6時間で徳川家康率いる東軍に敗れてしまいました。東軍が有利であると言われていた戦いではありますが、これほどの短時間で勝敗が決するとは誰も予想していなかったと言えます。
これほどのスピードで石田三成率いる西軍が敗北してしまったのは、小早川秀秋の裏切りがありました。小早川秀秋と戦場で相まみえた武将のひとりが大谷吉継だったのです。

大谷吉継は、小早川秀秋の軍が「戸田勝成」(とだかつしげ)と「平塚為広」(ひらつかためひろ)に押し戻された際に、追撃を仕掛けます。元々、大谷吉継をはじめとする西軍の武将は小早川秀秋の「裏切り」を警戒し、備えていました。

大谷吉継にとっての誤算は、小早川秀秋の裏切りに備えていた4つの部隊も、このタイミングで東軍に寝返ってしまったこと。そして、大谷吉継隊に攻撃を加えてきたのです。この想定外の裏切りによって、大谷吉継は追い込まれてしまいます。

このとき、大谷吉継の部隊は前、横、後ろのすべてを敵に囲まれる形になってしまいました。数々の戦で戦果を上げてきた大谷吉継でしたが、この包囲網を突破することはできず、部隊は壊滅状態となります。

限界を悟った大谷吉継は、自害にいたりました。そのとき大谷吉継は、小早川秀秋の陣に向かって「3年の間に祟りをなさん」という呪詛(じゅそ:のろい)の言葉を残しています。その言葉の通り、小早川秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に原因不明の死を遂げました。
大谷吉継を蝕んだ病
大谷吉継と言えば、病に侵されて顔を白い布で覆っている姿を思い描く人も多いのではないでしょうか。大谷吉継の病と、その病にまつわるエピソードを紹介します。

ハンセン病説
大谷吉継と言えば、白い布で顔を覆っている姿がよく描かれています。2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、大谷吉継は白い布で顔を隠した姿で劇中に登場していました。

大谷吉継の病については諸説あり、目の病気だったという説や、そもそも病ではなかったという説なども存在します。その真偽のほどは不明ですが、一般的なのが「ハンセン病」だったという説です。

顔を布で覆っていた理由
ハンセン病は、かつては「らい病」と呼ばれていました。今では治療法が確立されており、感染力が弱い病気として正しい理解が進んでいます。

しかし、大谷吉継が生きていた時代には、ハンセン病(らい病)に関する正しい知識はほとんどありませんでした。また、この時代には、ハンセン病を罹患することは「前世からの因果」という考え方があったのです。

ハンセン病に感染すると、皮膚に赤や白の斑点が現れ、腫れが生じます。決して見た目が良いとは言えない状態になってしまうのです。大谷吉継は、斑点ができたり腫れたりしている顔を隠すために、白い布で顔を覆っていたと考えられます。

また、現代のように原因が究明されておらず、治療法が確立されていなかった時代だったこともあり、身近な人に感染させないようにする配慮もあったとも言われています。
大谷吉継続辞世の句
大谷吉継は、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍で戦いましたが、自害し、その生涯を閉じました。

戦国屈指の知将が残した辞世の句は、「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」。

その意味は「もしあの世でも縁があるとするのなら、死後の世界の入り口(三途の川)で待っておいてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから」。

この句は、戦場で相まみえた平塚為広の辞世の句「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」(主君のためになら、命を捨てることは惜しくない。永遠に生きられる訳でもないのだから)に対しての句です。

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