袁枚
略歴
12歳で生員に合格し1738年に挙人となり、翌年には24歳で進士に及第した。しばらく翰林院に在籍してから公務につくが、若さに不安を持たれたせいか妬みのためか、地方しか任されず、溧水県令に出されてから以後は江浦・沭陽など、地方を転々する。田舎まわりの生活に嫌気がさした彼は38歳の時に官を辞し、そののちは生涯職に就かなかった。
若くして引退した後は、江寧につとめていたとき買った「随園(中国語版)」と名づけた庭園のある邸宅に隠遁自適し、読書や執筆を事とし、また美食に耽溺して日を送った。高潔にして風雅な詩風が名声を得たことで、入門を望む者や詩文の執筆を依頼する者が続出し、収入には事欠かなかったという。芸術全般に一家言のある人物であるが、その本領とするところは詩文であり、詩人の性情を自由に発露することを重視すべきだという、「性霊説」といわれる袁枚の詩論は『随園詩話(中国語版)』に論述されている。
婦女文学を提唱して女弟子を多く集めて詩を教え『女弟子詩選』という本まで公刊したことは、男女の礼法を乱す者として糾弾され、放蕩の詩人とさえいわれた。またその他の著作では、食通の彼が追求した当時の中華料理の料理法、各地の食材、料理について詳細に記録したレシピ集の『随園食単』、怪異談を集めた『子不語』が著名である。
子不語
蒲松齢(ほしょうれい、1640-1715年)の『聊斎志異』の流行によって六朝時代の志怪小説復興は模倣者を生み活況を取り戻し始めたが、およそ80年後この動きに拍車をかけたのが袁枚と紀昀であり、袁枚が晩年に著したのが『子不語』正編・続編である。
書名は論語の「子不語怪力乱神」(子、怪力乱神を語らず)に由来し、孔子が語らなかった怪異の話をあえて集めたとの意である。自序によれば袁枚は、元の時代に同名の書があるのに気付き(こちらの「子不語」については今ではよくわからない)、荘子に基づいて『新齊諧』と改めたが、元の書名のほうが一般に広く通用している。
『新齊諧』正編二十四巻は最終的に1788年(乾隆53年)、袁枚73歳のときに刊行された。
袁枚はその後も怪異譚を書き続け、続編として『續新齊諧』八卷が1792年(乾隆57年)頃刊行された。
日本語訳書
今村与志雄 訳 『剪灯新話・剪灯余話・閲微草堂筆記・子不語・諧鐸』 平凡社〈中国古典文学全集20〉1958年。正・続から抄訳(41篇)。
前野直彬 訳 『閲微草堂筆記(抄) 子不語(抄) 他』 平凡社〈中国古典文学大系42〉1971年。ISBN 978-4582312423
『新齊諧』正編24巻(745篇)から112篇の抄訳。『隨園二十八種本』を主に『隨園三十種本』と校合したものを底本とする。
黒田真美子編著・福田素子著・竹田晃 編 『閲微草堂筆記・子不語・続子不語』 明治書院〈中国古典小説選 11〉 2008年。ISBN 9784625664106
原文対比・訳注解、『新齊諧』から41篇、『續新齊諧』から8篇の抄訳。底本として『隨園三十種本』を『隨園二十八種本』と校勘、白話訳本を参照。
手代木公助 訳注 『子不語』全5巻 平凡社〈東洋文庫〉 2009年-2010年
初の全訳版 76篇。猥雑との理由で削除されることが多い篇を含め収録。
略歴
12歳で生員に合格し1738年に挙人となり、翌年には24歳で進士に及第した。しばらく翰林院に在籍してから公務につくが、若さに不安を持たれたせいか妬みのためか、地方しか任されず、溧水県令に出されてから以後は江浦・沭陽など、地方を転々する。田舎まわりの生活に嫌気がさした彼は38歳の時に官を辞し、そののちは生涯職に就かなかった。
若くして引退した後は、江寧につとめていたとき買った「随園(中国語版)」と名づけた庭園のある邸宅に隠遁自適し、読書や執筆を事とし、また美食に耽溺して日を送った。高潔にして風雅な詩風が名声を得たことで、入門を望む者や詩文の執筆を依頼する者が続出し、収入には事欠かなかったという。芸術全般に一家言のある人物であるが、その本領とするところは詩文であり、詩人の性情を自由に発露することを重視すべきだという、「性霊説」といわれる袁枚の詩論は『随園詩話(中国語版)』に論述されている。
婦女文学を提唱して女弟子を多く集めて詩を教え『女弟子詩選』という本まで公刊したことは、男女の礼法を乱す者として糾弾され、放蕩の詩人とさえいわれた。またその他の著作では、食通の彼が追求した当時の中華料理の料理法、各地の食材、料理について詳細に記録したレシピ集の『随園食単』、怪異談を集めた『子不語』が著名である。
子不語
蒲松齢(ほしょうれい、1640-1715年)の『聊斎志異』の流行によって六朝時代の志怪小説復興は模倣者を生み活況を取り戻し始めたが、およそ80年後この動きに拍車をかけたのが袁枚と紀昀であり、袁枚が晩年に著したのが『子不語』正編・続編である。
書名は論語の「子不語怪力乱神」(子、怪力乱神を語らず)に由来し、孔子が語らなかった怪異の話をあえて集めたとの意である。自序によれば袁枚は、元の時代に同名の書があるのに気付き(こちらの「子不語」については今ではよくわからない)、荘子に基づいて『新齊諧』と改めたが、元の書名のほうが一般に広く通用している。
『新齊諧』正編二十四巻は最終的に1788年(乾隆53年)、袁枚73歳のときに刊行された。
袁枚はその後も怪異譚を書き続け、続編として『續新齊諧』八卷が1792年(乾隆57年)頃刊行された。
日本語訳書
今村与志雄 訳 『剪灯新話・剪灯余話・閲微草堂筆記・子不語・諧鐸』 平凡社〈中国古典文学全集20〉1958年。正・続から抄訳(41篇)。
前野直彬 訳 『閲微草堂筆記(抄) 子不語(抄) 他』 平凡社〈中国古典文学大系42〉1971年。ISBN 978-4582312423
『新齊諧』正編24巻(745篇)から112篇の抄訳。『隨園二十八種本』を主に『隨園三十種本』と校合したものを底本とする。
黒田真美子編著・福田素子著・竹田晃 編 『閲微草堂筆記・子不語・続子不語』 明治書院〈中国古典小説選 11〉 2008年。ISBN 9784625664106
原文対比・訳注解、『新齊諧』から41篇、『續新齊諧』から8篇の抄訳。底本として『隨園三十種本』を『隨園二十八種本』と校勘、白話訳本を参照。
手代木公助 訳注 『子不語』全5巻 平凡社〈東洋文庫〉 2009年-2010年
初の全訳版 76篇。猥雑との理由で削除されることが多い篇を含め収録。
「11.26本田響矢见面会repo」₍•ʚ•₎•ʚ•₎•ʚ•₎
今天的记忆居然全都在SOS速速记录一下
出场的时候还是有点震惊人是可以帅成这个样子的吗¿¿¿
位置挺靠中间 但是又不是正中间 很幸运!因为他和mc的椅子是稍稍有点侧的,我这边就刚好正对着kyoya了~真的很可爱哈哈哈哈小动作超级多,mc一开始翻译他就对着台下挥手,我两只手比了一颗爱心他看到了马上回了一个结果差点错过mc问问题手忙脚乱好萌!
真的是拉面爱好者!想吃什么说的是饺子和拉面,想吃上海蟹,游戏环节结束赢了已经吃到啦~
▷快问快答:
-问保持身材的方法,结果他一下心虚往后躲一直摇头哈哈哈哈表示ない,大家叫他露一下看看实力,他撩了袖子拉到了上臂拉不上去了,还是很结实的~结果又有人叫“腹筋!!”超大声那种哈哈哈mc都笑捂脸了,kyoya速速往椅子上缩,拍拍肚皮说昨天吃太多啦~
-想要挑战的是从桥上蹦极,因为现在还做不到,所以以后想挑战!大家都说挑战了以后请拍照给大家看,他说一定会!结果马上又补了一句要五年以后哈哈哈哈
-但是很快又问他如果可以实现一个愿望想做什么,kyoya说想飞「Flyyy~!」,每次说英语都很可爱。MC露出了疑惑的表情,说蹦极做不到为什么却想飞?然后他说“え、、ヤヤです!”因为是鸭鸭哈哈哈哈哈哈所以想飞,后来解释了如果能够飞的话就不会再害怕蹦极w
-还有要决定粉丝名,他一开始以为是说他的名字,说「鸭鸭」还指了指自己,告诉了mc鸭鸭这个名字是他自己决定的喔,后来才知道原来是要给我们取名字,就问大家有没有什么好的提议。一开始有人说之前说粉丝名是“鸭头”被强烈当场强烈否认了,后来鸭血鸭汤都出来了SOS还是kyoya提了一个“修鸭”,然后mc问“小鸭子”?最后就定了小鸭子哈哈哈
-问学生时代最擅长的学科是什么,他说是数学,全场发出疑惑,他就很不理解地怒站起来质问大家なんで?!
▷中文也学得太快了!征集粉丝问答有一个是想让他说「公主请天天开心」,想着这个台词也太ホスト了然后他居然是想用中文说SOS感觉mc教了两遍就会了好强!场内一个男孩子那时候出声了,鸭鸭好像就说了不是お姫様是王子様呢
▷猜歌名环节全场真的太厉害了,我完全听不出他哼哼的是什么,真的就是没什么调子的哼哼,但是带着耳机听得很陶醉超可爱,第二首歌其实2秒钟就有人猜出来了,但是为了让他多哼哼mc和大家一起逗他说没猜出来请继续唱ww
▷到了リフティング的时候,只要超过10个就赢了,他颠完10个就握着乒乓不动了一脸骄傲的小表情哈哈哈哈mc说还有时间,他就一边走一边颠,倒着颠旋转着颠哈哈哈哈哈
▷情景剧即兴表演
-第一个演和彼女去坐过山车假装不害怕的不良,靠自己前后摇摆模拟过山车哈哈哈,很反差萌!
-第二个演和朋友一起去温泉旅行的学者,借了mc的眼镜结果戴上有点晕乎乎哈哈哈大家决定的最后一句台词是「付き合ってもいい?」然后mc惊讶说设定是朋友朋友,鸭鸭就:噢~现在是朋友嘛 马上说了就可以不是了,然后台词编了那种好纯爱的那种:一直以来都是片思い 有一句话想说很久了 我喜欢你 可以和我交往吗?情景剧好像是没翻译的 但是同一时间全场水壶都烧开了哈哈哈哈
-最后一个是音乐剧演员演了两遍,第二遍把所有的台词都唱出来,结果自己把自己害羞到了,把脸埋在了沙发靠背上ww
▷让他说台词粉丝就提了剧里的那句「二番目でいいんで、僕のこと好きになってもらえませんか?」,他说的时候又想到第一次看剧的时候,那种易碎感,怎么能让人不心软
-
拍合照的时候特别幸运就站在他身后,大家整理排队他落座前还对我笑了一下,眼睛好亮SOS
手渡真的很快很快,就是拿了签名就走,只能说一句ありがと的程度,而且staff桑会推人,最后我用飞快的语速速速输出,kyoya很认真地听然后回了话,临走的时候一手拿着海报一手在脸上和他比了半个心,他也两只手贴在脸上比了个心,笑得特别漂亮,然后拜拜啦~
-
之前在群里捉到了慧咪头像的姐妹成了搭子玩得很开心,换了很多无料顺便做了点推し活www
跟在e人身边出门真的很有安全感,下午两个人还一起手忙脚乱拍了个starboys哈哈哈
而且两个人明明不是连号还一单一双中间隔了两个,但是位置居然是挨一起的!坐在前排真的有点太近,因为舞台又比较高,有一种看电影看要颈椎病的感觉。
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太公望といえば日本では釣り愛好家の意味で使われることが多いですが、元々は古代中国、周代に開祖・武王の父である文王に見いだされ、後に文王、武王に仕えた周の軍師・呂尚のことです。殷攻略に尽くし、この功績によって斉に封じられ、斉国を建国しました。
※上の画像は呂尚が文王と出会う有名な場面。太公望という名の由来となっている。
太公望とは
太公望(たいこうぼう)とは、紀元前11世紀に西周王朝を打ち立てた武王やその父・文王に軍師として仕えた呂尚のことです。太公望という名は、ある日、呂尚が釣りをしているところに文王が通りかかり、これぞわが父が王を助ける人として待ち望んていたお方だと言ったことから、こう呼ばれるようになりました。「太公」は父、「望」は望むという意味です。
太公望は周の軍師として、武王による殷・紂王征伐に貢献し、その功績を受けて、後に営丘(現・山東省)に封建されて斉国の祖となりました。斉でも国造りに尽くし、後の春秋の大国・斉の基礎を作りました。
漢の張良が劉邦の配下となる前に、黄石公という老人から与えられたという兵法書『六韜』もまた呂尚が書いたものとされています。
太公望の伝説と名前の由来
太公望といえば、この名の由来を伝える伝説が有名です。周の文王・西伯昌が狩りに行く前に狩りの占いをすると、「今日得る獲物は王の補佐をすることになる人物である」という卦が出ました。するとその日狩りに行く道すがら、川のほとりで釣りをしている老人を見かけました。「王の補佐になる人物」とはこの老人のことだろうかと思って話をしてみると、非常に優れた見識の持ち主です。そこですぐに屋敷に招き、家臣たちに「この方こそ父が待ち望んでいた聖人だ」と紹介したことで、「太公望」(父が待ち望んだ人)という名がつきました。
周には、いつか立派な人物が現れて王を助けてくれるという伝承があり、文王の父はその人の出現を待ち望んでいたのです。
太公望と羌族
太公望呂尚にはいろいろな伝説があるのですが、あまりに多様なため、逆に人物像ははっきりとはしません。
司馬遷の『史記』によると「呂尚の先祖は禹の治水を助けて功労があったので、呂(河南省)に封じられ呂という姓になったが、本来の姓は『羌』であり…」とあります。
羌は羌族を意味しますが、羌族は中国大陸の西北部に古くから住む遊牧民族で、今も少数民族の「チャン族」として知られています。『三国志』で活躍する馬騰や馬超は羌族です。
名前に「羊」が入っているように羌族は羊を飼っていた民族ですが、匈奴のような戦闘性はあまりなかったようで、殷から攻め込まれて捕虜になった羌人は、命を奪われ殷の神への供え物にされています。殷への恨みは深く、そこから周と関わりを深めたのではないかといわれています。
周の始祖である后稷の母や武王の妃はどちらも羌族ですので、婚姻関係を通してこの二つの部族は関係を深めていったのかもしれません。
周の武王が殷の紂王を滅ぼす際、羌族と連合を組んでおり、そうだとすると呂尚は、羌軍の代表だったのではないかという説もあります。
太公望は東海の人
『史記』ではまた、呂尚は「東海にいた」とありますので、山東省の海辺で暮らしていたようです。
司馬遷は「呂尚は貧窮して年を取り、魚釣りにかこつけて文王と知り合いになったのだろう」とも書いています。
また「呂尚は博学で、かつては殷の紂王に仕えたが、立派な王ではなかったので諸侯に知遇を求めたが得られず、こうして西に行って周の文王に身を寄せた」という説も紹介しています。
『戦国策』には「斉の逐夫」とか「朝歌の廃屠」などと書かれています。逐夫とは「妻に追い出された」という意味です。古代の女性は男尊女卑の中で生きていたのではという思い込みがありますが、夫に働きがなかったのか、他の理由なのか、夫を追い出してしまうおかみさんもいたんですね。
「朝歌」は甲骨文字が発見された殷墟を指し、「廃屠」は肉屋のことです。殷墟のあった場所で肉屋をやっていたという意味になります。いずれにしても後年の優れた軍師としての面影は見えません。
文王・武王の軍師となる
文王に出会うまでの呂尚は下積みの人生を生きてきたようですが、出会ってからは周の軍師として活躍しました。
後年孫子など兵法を説く人物が現れますが、『史記』では、軍事上の権謀術数の祖は太公望呂尚であると書いています。
文王が亡くなった後、呂尚はその子・武王に使え、師尚父(ししょうほ)とも呼ばれました。武王の殷・紂王征伐ではその軍師を務めて活躍しました。
『六韜』
『六韜』(りくとう)は兵法書ですが、呂尚が書いたとされています。
『六韜』は「文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜」の6巻に分かれ、全60編です。呂尚が文王や武王に兵法や政治について教えるという形を取っているため、著者は呂尚だとされていますが、軍学思想に一貫性があるとはいえず、呂尚の名をつけた後世の偽作ではないかといわれています。
『六韜』は黄石公と呼ばれる老人によって、劉邦に仕えた張良に授けられ、張良はこの兵法によって劉邦の戦いを助けました。
また日本にも古くから伝わり、7世紀・飛鳥時代の政治家・藤原鎌足や12世紀・平安末期に活躍した源義経が愛読したといいます。
太公望の名が日本で親しまれているのは、こんなにも古い時代から知られてきたことによるのかもしれません。
殷の紂王征伐
武王が紂王征伐に乗り出した時、占いでは不吉な卦が出て、進軍の途中では風雨にも見舞われました。将軍たちはこれを恐れましたが、呂尚は占いなど歯牙にもかけず、武王を叱咤して進軍を続けさせ、軍隊を指揮しました。「遅れるものは斬る!」と命令したといいます。こうして牧野(ぼくや…河南省)で殷軍と対峙しますが、殷軍は奴隷を集めた軍隊ですので、戦意はなく、武器を逆さまに持って戦って武王の味方をしました。殷軍は壊滅的に敗北し、紂王は鹿台という宮殿に入って火を放ち、その火に身を投じました。
武王による殷平定の後の論功行賞で、呂尚は出身地である営丘(現山東省)に封じられ、ここを斉と名付けました。
太公望、斉の祖になる
呂尚は斉に到着すると、政治を整え、君臣の礼はシンプルなものとし、漁業や製塩業を発展させました。こうして斉の民になる者は増え、国家は大きくなっていきました。
周の成王の時代に各地で反乱が起きると、討伐を命じられた斉は反乱した諸侯を征伐して、さらに国家を強大にし、営丘をみやこにしました。
呂尚が亡くなった時は百歳を超えていたのではないか、と司馬遷は書いています。
貧窮して東のふるさとを離れ、西の果てに流れてきた老人が、こうして高齢の身になってから軍師として活躍し、土地を与えられて諸侯(大名)となり、その地を繁栄させて大国にまで導き、百歳を超えて没するとは、どこまでが事実かはわかりませんが、後世の私たちをも勇気づけてくれる人物です。
※上の画像は呂尚が文王と出会う有名な場面。太公望という名の由来となっている。
太公望とは
太公望(たいこうぼう)とは、紀元前11世紀に西周王朝を打ち立てた武王やその父・文王に軍師として仕えた呂尚のことです。太公望という名は、ある日、呂尚が釣りをしているところに文王が通りかかり、これぞわが父が王を助ける人として待ち望んていたお方だと言ったことから、こう呼ばれるようになりました。「太公」は父、「望」は望むという意味です。
太公望は周の軍師として、武王による殷・紂王征伐に貢献し、その功績を受けて、後に営丘(現・山東省)に封建されて斉国の祖となりました。斉でも国造りに尽くし、後の春秋の大国・斉の基礎を作りました。
漢の張良が劉邦の配下となる前に、黄石公という老人から与えられたという兵法書『六韜』もまた呂尚が書いたものとされています。
太公望の伝説と名前の由来
太公望といえば、この名の由来を伝える伝説が有名です。周の文王・西伯昌が狩りに行く前に狩りの占いをすると、「今日得る獲物は王の補佐をすることになる人物である」という卦が出ました。するとその日狩りに行く道すがら、川のほとりで釣りをしている老人を見かけました。「王の補佐になる人物」とはこの老人のことだろうかと思って話をしてみると、非常に優れた見識の持ち主です。そこですぐに屋敷に招き、家臣たちに「この方こそ父が待ち望んでいた聖人だ」と紹介したことで、「太公望」(父が待ち望んだ人)という名がつきました。
周には、いつか立派な人物が現れて王を助けてくれるという伝承があり、文王の父はその人の出現を待ち望んでいたのです。
太公望と羌族
太公望呂尚にはいろいろな伝説があるのですが、あまりに多様なため、逆に人物像ははっきりとはしません。
司馬遷の『史記』によると「呂尚の先祖は禹の治水を助けて功労があったので、呂(河南省)に封じられ呂という姓になったが、本来の姓は『羌』であり…」とあります。
羌は羌族を意味しますが、羌族は中国大陸の西北部に古くから住む遊牧民族で、今も少数民族の「チャン族」として知られています。『三国志』で活躍する馬騰や馬超は羌族です。
名前に「羊」が入っているように羌族は羊を飼っていた民族ですが、匈奴のような戦闘性はあまりなかったようで、殷から攻め込まれて捕虜になった羌人は、命を奪われ殷の神への供え物にされています。殷への恨みは深く、そこから周と関わりを深めたのではないかといわれています。
周の始祖である后稷の母や武王の妃はどちらも羌族ですので、婚姻関係を通してこの二つの部族は関係を深めていったのかもしれません。
周の武王が殷の紂王を滅ぼす際、羌族と連合を組んでおり、そうだとすると呂尚は、羌軍の代表だったのではないかという説もあります。
太公望は東海の人
『史記』ではまた、呂尚は「東海にいた」とありますので、山東省の海辺で暮らしていたようです。
司馬遷は「呂尚は貧窮して年を取り、魚釣りにかこつけて文王と知り合いになったのだろう」とも書いています。
また「呂尚は博学で、かつては殷の紂王に仕えたが、立派な王ではなかったので諸侯に知遇を求めたが得られず、こうして西に行って周の文王に身を寄せた」という説も紹介しています。
『戦国策』には「斉の逐夫」とか「朝歌の廃屠」などと書かれています。逐夫とは「妻に追い出された」という意味です。古代の女性は男尊女卑の中で生きていたのではという思い込みがありますが、夫に働きがなかったのか、他の理由なのか、夫を追い出してしまうおかみさんもいたんですね。
「朝歌」は甲骨文字が発見された殷墟を指し、「廃屠」は肉屋のことです。殷墟のあった場所で肉屋をやっていたという意味になります。いずれにしても後年の優れた軍師としての面影は見えません。
文王・武王の軍師となる
文王に出会うまでの呂尚は下積みの人生を生きてきたようですが、出会ってからは周の軍師として活躍しました。
後年孫子など兵法を説く人物が現れますが、『史記』では、軍事上の権謀術数の祖は太公望呂尚であると書いています。
文王が亡くなった後、呂尚はその子・武王に使え、師尚父(ししょうほ)とも呼ばれました。武王の殷・紂王征伐ではその軍師を務めて活躍しました。
『六韜』
『六韜』(りくとう)は兵法書ですが、呂尚が書いたとされています。
『六韜』は「文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜」の6巻に分かれ、全60編です。呂尚が文王や武王に兵法や政治について教えるという形を取っているため、著者は呂尚だとされていますが、軍学思想に一貫性があるとはいえず、呂尚の名をつけた後世の偽作ではないかといわれています。
『六韜』は黄石公と呼ばれる老人によって、劉邦に仕えた張良に授けられ、張良はこの兵法によって劉邦の戦いを助けました。
また日本にも古くから伝わり、7世紀・飛鳥時代の政治家・藤原鎌足や12世紀・平安末期に活躍した源義経が愛読したといいます。
太公望の名が日本で親しまれているのは、こんなにも古い時代から知られてきたことによるのかもしれません。
殷の紂王征伐
武王が紂王征伐に乗り出した時、占いでは不吉な卦が出て、進軍の途中では風雨にも見舞われました。将軍たちはこれを恐れましたが、呂尚は占いなど歯牙にもかけず、武王を叱咤して進軍を続けさせ、軍隊を指揮しました。「遅れるものは斬る!」と命令したといいます。こうして牧野(ぼくや…河南省)で殷軍と対峙しますが、殷軍は奴隷を集めた軍隊ですので、戦意はなく、武器を逆さまに持って戦って武王の味方をしました。殷軍は壊滅的に敗北し、紂王は鹿台という宮殿に入って火を放ち、その火に身を投じました。
武王による殷平定の後の論功行賞で、呂尚は出身地である営丘(現山東省)に封じられ、ここを斉と名付けました。
太公望、斉の祖になる
呂尚は斉に到着すると、政治を整え、君臣の礼はシンプルなものとし、漁業や製塩業を発展させました。こうして斉の民になる者は増え、国家は大きくなっていきました。
周の成王の時代に各地で反乱が起きると、討伐を命じられた斉は反乱した諸侯を征伐して、さらに国家を強大にし、営丘をみやこにしました。
呂尚が亡くなった時は百歳を超えていたのではないか、と司馬遷は書いています。
貧窮して東のふるさとを離れ、西の果てに流れてきた老人が、こうして高齢の身になってから軍師として活躍し、土地を与えられて諸侯(大名)となり、その地を繁栄させて大国にまで導き、百歳を超えて没するとは、どこまでが事実かはわかりませんが、後世の私たちをも勇気づけてくれる人物です。
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