実は選択が多すぎて、どれも書きたいけど、とにかく去年と違うの答えを優先にした。
トランスフォーマーについてですが、実は五年前の好きなものだ。でもなんか以前より夢中になってほんとに面白いです。それに宿敵タイプのカップリングは普段の趣味にあわないから、megopたぶん最初で最後のかもしれない。
mygoがいい。さきちゃん好き。あのともがすごくいい。以前まどほむとかれひか以外好きなゆりはほとうどないから、mygoを見させたほんとに嬉しい。今年もっとも好きなアニメだと思う。
推しの子はどうしようかなって思ってたんけど、やっば最後書いた。ルビーは近年来一番趣味に合った妹キャラですし。
最後はワンピース。エースとルフィ、たぶんいままで一番好きな兄弟タイプのカップリング?ワンピースを見るのが遅すぎるのは唯一不満なことかも。
遊戯王とラブライブはいつものことだし、かわることもないからもう書かない。ちなみに今年はAI遊とかほさやです。
仮面ライダーも毎回の推しは主人公ずっと同じだから書く必要もないと思う
トランスフォーマーについてですが、実は五年前の好きなものだ。でもなんか以前より夢中になってほんとに面白いです。それに宿敵タイプのカップリングは普段の趣味にあわないから、megopたぶん最初で最後のかもしれない。
mygoがいい。さきちゃん好き。あのともがすごくいい。以前まどほむとかれひか以外好きなゆりはほとうどないから、mygoを見させたほんとに嬉しい。今年もっとも好きなアニメだと思う。
推しの子はどうしようかなって思ってたんけど、やっば最後書いた。ルビーは近年来一番趣味に合った妹キャラですし。
最後はワンピース。エースとルフィ、たぶんいままで一番好きな兄弟タイプのカップリング?ワンピースを見るのが遅すぎるのは唯一不満なことかも。
遊戯王とラブライブはいつものことだし、かわることもないからもう書かない。ちなみに今年はAI遊とかほさやです。
仮面ライダーも毎回の推しは主人公ずっと同じだから書く必要もないと思う
日本濑户内海的海很美的濑户内地区
今天是濑户内地区之一山口县的甜点介绍
山口県発
「瀬戸内女子旅⭐︎
スイーツ物語⛄️✈️」
〜瀬戸内女子旅の参考情報に〜
瀬戸内の各地域にある
人気スイーツ&パンを紹介します。
今日は 瀬戸内地域の山口県❣️
1️⃣店名は?
パン工房 夢風車
2️⃣特徴は?
☑︎概要: 来年2024年で18年目の周南市で有名なパン屋さん。
夢風車の由来は山口県周南市、永源山にある「ゆめ風車」から名付けました。風車は人々の生活をする上で原動力となっています。
パン工房 夢風車もパンを通して食する人々の原動力になればと考えているようです。
下関の人気のパン屋さん、Jouet(ジュエ)の店主様が修行されたお店でもあります。
☑︎スイーツ&パン: パン工房 夢風車」の特徴はデニッシュ生地を使用した
ジュエリーのようなスイーツ系パンもあったり
素朴なハード系のパンもあったり、約200種類と豊富です
特にスイーツ系のパンが充実しており、フォトジェニックさもあって目を奪われます。 洋菓子屋さんに負けないほどおしゃれで美味しいと評判です。
☑︎店舗雰囲気: お店の外観は白を基調にしたこじんまりしたイメージですが
店内には たくさんのパンが並んでいてギャップがあります。
イートインスペースは店内入り口外にありますので冬場は厳しいかな。
駐車場は、お店隣りのサラダ館さんの駐車場又は政所駐車場が利用できます。
3️⃣店舗の場所は?
住所:山口県周南市政所3-10-7
営業時間:8:00-17:00
定休日:日曜日、月曜日
✈️瀬戸内旅行️のコースの一つに!
ぜひ行ってみてください
#山口県 #山口県観光 #山口旅行
#山口観光 #yamaguchi
#visityamaguchi
#SETOUCHI
#山口县 #濑户内#山口县##広岛県##日本旅游##濑户内#
今天是濑户内地区之一山口县的甜点介绍
山口県発
「瀬戸内女子旅⭐︎
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〜瀬戸内女子旅の参考情報に〜
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今日は 瀬戸内地域の山口県❣️
1️⃣店名は?
パン工房 夢風車
2️⃣特徴は?
☑︎概要: 来年2024年で18年目の周南市で有名なパン屋さん。
夢風車の由来は山口県周南市、永源山にある「ゆめ風車」から名付けました。風車は人々の生活をする上で原動力となっています。
パン工房 夢風車もパンを通して食する人々の原動力になればと考えているようです。
下関の人気のパン屋さん、Jouet(ジュエ)の店主様が修行されたお店でもあります。
☑︎スイーツ&パン: パン工房 夢風車」の特徴はデニッシュ生地を使用した
ジュエリーのようなスイーツ系パンもあったり
素朴なハード系のパンもあったり、約200種類と豊富です
特にスイーツ系のパンが充実しており、フォトジェニックさもあって目を奪われます。 洋菓子屋さんに負けないほどおしゃれで美味しいと評判です。
☑︎店舗雰囲気: お店の外観は白を基調にしたこじんまりしたイメージですが
店内には たくさんのパンが並んでいてギャップがあります。
イートインスペースは店内入り口外にありますので冬場は厳しいかな。
駐車場は、お店隣りのサラダ館さんの駐車場又は政所駐車場が利用できます。
3️⃣店舗の場所は?
住所:山口県周南市政所3-10-7
営業時間:8:00-17:00
定休日:日曜日、月曜日
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ぜひ行ってみてください
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松尾芭蕉
松尾芭蕉は、江戸時代前期の1644年(寛永21年)に伊賀国上野(いがのくにうえの:現在の三重県伊賀市)で農家の次男として誕生。
13歳で父と死に別れたため生活は苦しく、19歳で津藩(つはん:現在の三重県津市)の藩主「藤堂良勝」(とうどうよしかつ)の七男「藤堂良忠」(とうどうよしただ)の奉公人となりました。
実は、2歳年上の藤堂良忠とは幼い頃からお寺で机を並べて勉強した間柄。ともに俳句好きで気が合う友人同士でした。
松尾芭蕉は藤堂良忠の引き立てにより、句会にも参加。藩主の御曹司と貧しい農民の子では大きな身分差がありますが、俳句を通して対等に心が通じ合ったのです。
江戸で俳人を目指す
ところが、主人の藤堂良忠が25歳の若さで急死。松尾芭蕉は仕事を失ったものの、俳句だけは休むことなく続けて数々の作品を発表しました。
次第に実力が認められたため、江戸へ出て本格的な俳人になろうと決意します。松尾芭蕉が29歳のとき、地元の俳人30数名が左右に分かれ、各組ひとつずつ句を出し合って優劣を競うという句会が開催されました。
このとき、勝敗の判定を行った松尾芭蕉は、その内容を「貝おほひ」(かいおおい)という本にまとめ、「上野天神宮」(うえのてんじんぐう:三重県伊賀市)へ奉納。松尾芭蕉による初の俳諧集でした。これを置き土産に、松尾芭蕉は念願の江戸へ旅立ちます。
35歳で俳人として開花
江戸へ出た松尾芭蕉は日本橋に居を構えますが、まだ俳句だけでは生計を立てられず、水道工事の事務など様々な仕事に就きました。
32歳になった松尾芭蕉は、大坂から来た人気俳人「西山宗因」(にしやまそういん)の句会に招かれます。西山宗因は、革新的な俳句を作る談林派(だんりんは)のトップ。
その後しばらく、松尾芭蕉も談林調の俳句に傾倒しています。師匠の地位である、俳諧宗匠(はいかいそうしょう)となったのは35歳のとき。こうして松尾芭蕉はようやく一人前の俳人として世間に認められ、弟子も増えて、俳句一本で食べていけるようになったのです。
芭蕉庵の誕生
松尾芭蕉は37歳のときに深川村(ふかがわむら:現在の東京都江東区)の庵(いおり:草や竹で作った質素な住まい)へ転居。江戸の中心から不便で寂しい郊外へ移ると、ここから松尾芭蕉の真骨頂が発揮されます。
引越祝いに、「李下」(りか)という弟子がバナナの仲間である観葉植物・芭蕉(ばしょう)を庵に植えました。楕円形の大きな葉が特徴の芭蕉はやがて庵のシンボルとなり、人々はそこを「芭蕉庵」と呼んだことから松尾芭蕉の俳号が誕生したと言われます。
ある春の日、門人達が芭蕉庵に集まり、蛙(かえる)を主題に句を詠み合う催し「蛙合」(かわずあわせ)が行われました。このとき、松尾芭蕉の代表作「古池や かわず飛び込む 水の音」が生まれます。蛙と言えば鳴き声を詠むものという、常識的なパターンをひっくり返し、水の音を表現した画期的な句でした。
晩年は旅がライフワーク
松尾芭蕉は41歳の秋に関西へ旅行して以来、亡くなるまでの10年間、旅を重ねて多くの旅行記を残しました。最後の旅に出たのは1694年(元禄7年)5月。
松尾芭蕉は故郷の兄に完成したばかりの「奥の細道」を手渡し、京都や滋賀でなじみの人々と旧交を温めます。江戸へ戻ろうとした矢先、大坂の弟子の間で争いが起きたと聞き、仲裁へ出向きました。ところが到着して間もなく体調を崩し、病の床へ。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という辞世の句を残して息を引き取ります。享年は51歳。松尾芭蕉の遺言に従い、「義仲寺」(ぎちゅうじ:滋賀県大津市)に葬られました。
松尾芭蕉の作品
野ざらし紀行
1684年(貞享元年)、松尾芭蕉は弟子の「千里」(ちり)を伴い、名古屋から故郷・上野を通って近畿一円を巡る旅に出ました。里帰りをかねたこの旅の記録が「野ざらし紀行」です。
「死にもせぬ 旅寝の果てよ 秋の暮れ」の句には、野ざらし(遺体が風や雨にさらされて白骨になること)を覚悟で旅立ったのに、死にもせず幸運だったという意味。旅の間に松尾芭蕉は各地で門人を増やし、旅を日常とする暮らしに自信を持つようになったと言われます。
笈の小文・更科紀行
1687年(貞享4年)、松尾芭蕉は、東海道を通って伊勢へ向かう「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出発。名古屋、上野、奈良、大坂、伊勢、明石などを巡りました。
途中、父の33回忌法要にも参加。「ちちははの しきりに恋し きじの声」と、早世した父と死に目に会えなかった母への思いを詠みます。
復路は木曽路から信州に入り、棚田に映る田毎(たごと)の月で有名な姨捨山(おばすてやま)の夜景に感動。帰りの旅行記は「更科紀行」(さらしなきこう)にまとめられました。
奥の細道
「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」(月日は永遠の旅人であり、行く年来る年もまた旅人である)の有名な一文で始まる奥の細道は、松尾芭蕉の代表作。46歳になった1689年(元禄2年)、弟子の「曽良」(そら)を同行させ出発。
東北地方から北陸を南下して、岐阜県大垣に至る155日間2,400kmの旅でした。松尾芭蕉は行く先々で俳句を詠んだり、句会を開いたりして人々と交流を深めます。
奥州平泉(おうしゅうひらいずみ:現在の岩手県西磐井郡)の奥州藤原氏三代に思いを寄せた「夏草や つはものどもが 夢のあと」や、「しづかさや 岩にしみ入る せみの声」、「さみだれを 集めてはやし 最上川」など、名所旧跡をたどりながら多くの名句を詠みました。
松尾芭蕉の逸話
松尾芭蕉忍者説
松尾芭蕉の生まれ故郷である伊賀国上野は、忍者で有名な地。若い頃に松尾芭蕉が仕えた藤堂家の津藩には、忍者として知られる「服部半蔵」(はっとりはんぞう)一族の子孫がいたため、松尾芭蕉もここで忍者の技を学んだとの説があります。
また奥の細道には、江戸幕府の命を受け隠密(おんみつ:命を受けて諜報活動を行う者)として東北の様子を調査するという裏の目的があったという説も。しかしいずれも信憑性に欠け、それを裏付ける証拠はありません。
3代目まで建築された芭蕉庵
人生後半を旅に費やした松尾芭蕉は、身軽な暮らしを信条としていました。江戸の大火が飛び火して最初の芭蕉庵は焼失しますが、50人以上の知人、弟子達が基金を出し合い再建。しかし松尾芭蕉は奥の細道の旅に出る前、2代目芭蕉庵を人に譲ってしまいました。
松尾芭蕉が江戸に戻ってくると、弟子達は再びお金を出し合ってもとの芭蕉庵の近くに3代目の芭蕉庵を建築。しかし最後の旅先で客死したため、住んだ期間はわずかでした。
松尾芭蕉は、江戸時代前期の1644年(寛永21年)に伊賀国上野(いがのくにうえの:現在の三重県伊賀市)で農家の次男として誕生。
13歳で父と死に別れたため生活は苦しく、19歳で津藩(つはん:現在の三重県津市)の藩主「藤堂良勝」(とうどうよしかつ)の七男「藤堂良忠」(とうどうよしただ)の奉公人となりました。
実は、2歳年上の藤堂良忠とは幼い頃からお寺で机を並べて勉強した間柄。ともに俳句好きで気が合う友人同士でした。
松尾芭蕉は藤堂良忠の引き立てにより、句会にも参加。藩主の御曹司と貧しい農民の子では大きな身分差がありますが、俳句を通して対等に心が通じ合ったのです。
江戸で俳人を目指す
ところが、主人の藤堂良忠が25歳の若さで急死。松尾芭蕉は仕事を失ったものの、俳句だけは休むことなく続けて数々の作品を発表しました。
次第に実力が認められたため、江戸へ出て本格的な俳人になろうと決意します。松尾芭蕉が29歳のとき、地元の俳人30数名が左右に分かれ、各組ひとつずつ句を出し合って優劣を競うという句会が開催されました。
このとき、勝敗の判定を行った松尾芭蕉は、その内容を「貝おほひ」(かいおおい)という本にまとめ、「上野天神宮」(うえのてんじんぐう:三重県伊賀市)へ奉納。松尾芭蕉による初の俳諧集でした。これを置き土産に、松尾芭蕉は念願の江戸へ旅立ちます。
35歳で俳人として開花
江戸へ出た松尾芭蕉は日本橋に居を構えますが、まだ俳句だけでは生計を立てられず、水道工事の事務など様々な仕事に就きました。
32歳になった松尾芭蕉は、大坂から来た人気俳人「西山宗因」(にしやまそういん)の句会に招かれます。西山宗因は、革新的な俳句を作る談林派(だんりんは)のトップ。
その後しばらく、松尾芭蕉も談林調の俳句に傾倒しています。師匠の地位である、俳諧宗匠(はいかいそうしょう)となったのは35歳のとき。こうして松尾芭蕉はようやく一人前の俳人として世間に認められ、弟子も増えて、俳句一本で食べていけるようになったのです。
芭蕉庵の誕生
松尾芭蕉は37歳のときに深川村(ふかがわむら:現在の東京都江東区)の庵(いおり:草や竹で作った質素な住まい)へ転居。江戸の中心から不便で寂しい郊外へ移ると、ここから松尾芭蕉の真骨頂が発揮されます。
引越祝いに、「李下」(りか)という弟子がバナナの仲間である観葉植物・芭蕉(ばしょう)を庵に植えました。楕円形の大きな葉が特徴の芭蕉はやがて庵のシンボルとなり、人々はそこを「芭蕉庵」と呼んだことから松尾芭蕉の俳号が誕生したと言われます。
ある春の日、門人達が芭蕉庵に集まり、蛙(かえる)を主題に句を詠み合う催し「蛙合」(かわずあわせ)が行われました。このとき、松尾芭蕉の代表作「古池や かわず飛び込む 水の音」が生まれます。蛙と言えば鳴き声を詠むものという、常識的なパターンをひっくり返し、水の音を表現した画期的な句でした。
晩年は旅がライフワーク
松尾芭蕉は41歳の秋に関西へ旅行して以来、亡くなるまでの10年間、旅を重ねて多くの旅行記を残しました。最後の旅に出たのは1694年(元禄7年)5月。
松尾芭蕉は故郷の兄に完成したばかりの「奥の細道」を手渡し、京都や滋賀でなじみの人々と旧交を温めます。江戸へ戻ろうとした矢先、大坂の弟子の間で争いが起きたと聞き、仲裁へ出向きました。ところが到着して間もなく体調を崩し、病の床へ。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という辞世の句を残して息を引き取ります。享年は51歳。松尾芭蕉の遺言に従い、「義仲寺」(ぎちゅうじ:滋賀県大津市)に葬られました。
松尾芭蕉の作品
野ざらし紀行
1684年(貞享元年)、松尾芭蕉は弟子の「千里」(ちり)を伴い、名古屋から故郷・上野を通って近畿一円を巡る旅に出ました。里帰りをかねたこの旅の記録が「野ざらし紀行」です。
「死にもせぬ 旅寝の果てよ 秋の暮れ」の句には、野ざらし(遺体が風や雨にさらされて白骨になること)を覚悟で旅立ったのに、死にもせず幸運だったという意味。旅の間に松尾芭蕉は各地で門人を増やし、旅を日常とする暮らしに自信を持つようになったと言われます。
笈の小文・更科紀行
1687年(貞享4年)、松尾芭蕉は、東海道を通って伊勢へ向かう「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出発。名古屋、上野、奈良、大坂、伊勢、明石などを巡りました。
途中、父の33回忌法要にも参加。「ちちははの しきりに恋し きじの声」と、早世した父と死に目に会えなかった母への思いを詠みます。
復路は木曽路から信州に入り、棚田に映る田毎(たごと)の月で有名な姨捨山(おばすてやま)の夜景に感動。帰りの旅行記は「更科紀行」(さらしなきこう)にまとめられました。
奥の細道
「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」(月日は永遠の旅人であり、行く年来る年もまた旅人である)の有名な一文で始まる奥の細道は、松尾芭蕉の代表作。46歳になった1689年(元禄2年)、弟子の「曽良」(そら)を同行させ出発。
東北地方から北陸を南下して、岐阜県大垣に至る155日間2,400kmの旅でした。松尾芭蕉は行く先々で俳句を詠んだり、句会を開いたりして人々と交流を深めます。
奥州平泉(おうしゅうひらいずみ:現在の岩手県西磐井郡)の奥州藤原氏三代に思いを寄せた「夏草や つはものどもが 夢のあと」や、「しづかさや 岩にしみ入る せみの声」、「さみだれを 集めてはやし 最上川」など、名所旧跡をたどりながら多くの名句を詠みました。
松尾芭蕉の逸話
松尾芭蕉忍者説
松尾芭蕉の生まれ故郷である伊賀国上野は、忍者で有名な地。若い頃に松尾芭蕉が仕えた藤堂家の津藩には、忍者として知られる「服部半蔵」(はっとりはんぞう)一族の子孫がいたため、松尾芭蕉もここで忍者の技を学んだとの説があります。
また奥の細道には、江戸幕府の命を受け隠密(おんみつ:命を受けて諜報活動を行う者)として東北の様子を調査するという裏の目的があったという説も。しかしいずれも信憑性に欠け、それを裏付ける証拠はありません。
3代目まで建築された芭蕉庵
人生後半を旅に費やした松尾芭蕉は、身軽な暮らしを信条としていました。江戸の大火が飛び火して最初の芭蕉庵は焼失しますが、50人以上の知人、弟子達が基金を出し合い再建。しかし松尾芭蕉は奥の細道の旅に出る前、2代目芭蕉庵を人に譲ってしまいました。
松尾芭蕉が江戸に戻ってくると、弟子達は再びお金を出し合ってもとの芭蕉庵の近くに3代目の芭蕉庵を建築。しかし最後の旅先で客死したため、住んだ期間はわずかでした。
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