パーパスを基軸とした企業理念経営へ
2024年、謹んで新年のお喜びを申し上げます。
さて今年の干支は、甲辰(きのえたつ)。ご承知の通り、干支は十干と十二支の組み合わせであり、十干が五つの陽干と五つの陰干、十二支が六つの陽干と六つの陽支、それぞれが組み合わさり、干支は計60種類になります。その中で甲辰が今年の干支です。
甲は十干の最初であり、「命の始まり、ものごとの始まり」を表し、辰は活力となる「陽の気が動き、草木がなびいて大きく成長するさま」を表しています。今年は、これまで皆さんが蓄えてきた学びが一気に芽を出して花を咲かせる、そのような実りある年になりそうです。
そこで、私としては、改めてこの2024年を経営の原点回帰の年にすることをご提案したいと思います。これまで主に経営者自身の思いや信条を表現してきた経営理念を見直し、サスティナブル経営を旗印に、パーパス(存在意義)を熟考、さらに会社が大切にしていきたい考え方や価値観を企業理念として社内外に再発信していきたい、そしてコーポレートステートメントを体現していきたいと思います。既に数多くの上場・大手企業が策定し推進されてきていることではありますが、私自身、最近のコンサルティング活動を通じ、企業規模を問わず中小零細企業も含めてこのパーパスを基軸とした企業経営に価値を感じています。
思い起こせば数年間に及んだコロナ禍、思いのほか長かった。そしてそれを抜け出した私たちを待ち受けていたのは想像をはるかに超える別世界、存在価値を問う時代でした。生成AI等々、知らぬ間に人として企業としての価値が破壊され見直され再生され、それに束の間ながら気づかずにいたばかりに自然淘汰されていく、そのような霧がかかった時代に私たちはいます。そのような今だからこそ経営の原点に立ち戻り、企業理念を再設計し、それを心の拠り所として次なる未来へと舵を取る、そのことに大きな意義を感じずにはいられません。確かに目先の利益も大事ですが、10年を大きな節目とし、サステナブルに成長していく、そしてそのための価値創造のストーリーを描く、これらの地道な取り組みこそがやがて大きな花を咲かせることになるのではないでしょうか。
Question1(存在意義)貴方の会社は、社員や社会に対してパーパス(何のためにわが社は存在するのか)を明示されていますか、それは社員が納得し、社会からも認知されるものになっていますか?
Question2(企業理念)MVV(ミッション・ビジョン・バリュー=企業使命・将来像・価値観)が明文化され、社員への浸透や社外へステートメントとして発信されていますか?
Question3(成長ストーリー)ビジョンが中期経営計画、さらには年度計画や各方針へと展開された上でその進捗状況が定期的にフォロー(マネジメント)されていますか?
甲辰の2024年こそ、飛躍に向けた絶好の機会です。
Let’s get started、今動き、将来に大きな実りを咲かせましょう!
VISIONLINK代表 保木本正典
https://t.cn/A6CbJ2Ni
2024年、謹んで新年のお喜びを申し上げます。
さて今年の干支は、甲辰(きのえたつ)。ご承知の通り、干支は十干と十二支の組み合わせであり、十干が五つの陽干と五つの陰干、十二支が六つの陽干と六つの陽支、それぞれが組み合わさり、干支は計60種類になります。その中で甲辰が今年の干支です。
甲は十干の最初であり、「命の始まり、ものごとの始まり」を表し、辰は活力となる「陽の気が動き、草木がなびいて大きく成長するさま」を表しています。今年は、これまで皆さんが蓄えてきた学びが一気に芽を出して花を咲かせる、そのような実りある年になりそうです。
そこで、私としては、改めてこの2024年を経営の原点回帰の年にすることをご提案したいと思います。これまで主に経営者自身の思いや信条を表現してきた経営理念を見直し、サスティナブル経営を旗印に、パーパス(存在意義)を熟考、さらに会社が大切にしていきたい考え方や価値観を企業理念として社内外に再発信していきたい、そしてコーポレートステートメントを体現していきたいと思います。既に数多くの上場・大手企業が策定し推進されてきていることではありますが、私自身、最近のコンサルティング活動を通じ、企業規模を問わず中小零細企業も含めてこのパーパスを基軸とした企業経営に価値を感じています。
思い起こせば数年間に及んだコロナ禍、思いのほか長かった。そしてそれを抜け出した私たちを待ち受けていたのは想像をはるかに超える別世界、存在価値を問う時代でした。生成AI等々、知らぬ間に人として企業としての価値が破壊され見直され再生され、それに束の間ながら気づかずにいたばかりに自然淘汰されていく、そのような霧がかかった時代に私たちはいます。そのような今だからこそ経営の原点に立ち戻り、企業理念を再設計し、それを心の拠り所として次なる未来へと舵を取る、そのことに大きな意義を感じずにはいられません。確かに目先の利益も大事ですが、10年を大きな節目とし、サステナブルに成長していく、そしてそのための価値創造のストーリーを描く、これらの地道な取り組みこそがやがて大きな花を咲かせることになるのではないでしょうか。
Question1(存在意義)貴方の会社は、社員や社会に対してパーパス(何のためにわが社は存在するのか)を明示されていますか、それは社員が納得し、社会からも認知されるものになっていますか?
Question2(企業理念)MVV(ミッション・ビジョン・バリュー=企業使命・将来像・価値観)が明文化され、社員への浸透や社外へステートメントとして発信されていますか?
Question3(成長ストーリー)ビジョンが中期経営計画、さらには年度計画や各方針へと展開された上でその進捗状況が定期的にフォロー(マネジメント)されていますか?
甲辰の2024年こそ、飛躍に向けた絶好の機会です。
Let’s get started、今動き、将来に大きな実りを咲かせましょう!
VISIONLINK代表 保木本正典
https://t.cn/A6CbJ2Ni
小田原の役
小田原の役の背景
この戦のきっかけとなったのは、「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)です。
この頃、「名胡桃城」は真田氏の城で、「沼田城」の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)の位置付けでした。一方、本城の沼田城は、北条氏の城。真田氏と北条氏は、沼田城がある沼田領を巡って、局地戦や小競り合いが度々起こり、長い間、緊張した状態が続いていました。
当時の戦国大名にとって領土は、命にも等しい大切なものであり、先祖から受け継がれた土地を守り、自国の領土を拡大していくことは、戦国大名にとって最も大切な使命だったのです。その頃、豊臣秀吉は、四国の長宗我部氏を服従させ、東海の「徳川家康」を懐柔して、臣下の礼を取らせます。
さらに、1587年(天正15年)、25万の大軍を率いて薩摩の「島津義久」を討伐し、西日本を制圧。残るは、関東の北条氏と、奥羽の伊達氏を制圧すれば、天下統一を果たすことができることから、豊臣秀吉の関心は東日本に向けられます。
天下統一にあたり最大の障壁だったのが、関東の雄・北条氏でした。北条氏は地方豪族との関係も強く、豊臣秀吉と言えども簡単には攻め落とせる相手ではありませんでした。
また、徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)は、北条氏直に嫁いでおり、徳川と北条は同盟関係にあったことから、北条討伐がもし失敗に終わった場合、服従させた徳川家康などが再び離反する可能性もあったため、徳川家康の動きも警戒していたのです。
徳川家康による上洛交渉
豊臣秀吉は、できるだけ血を見ることなく天下が太平になることを望んでいたことから、北条氏政、北条氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。
1588年(天正16年)4月、豊臣秀吉は自分の力を天下に示すデモンストレーションとして、京都北野にある「聚楽第」(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招いて接待します。しかし、北条氏政と北条氏直、伊達政宗は招かれたものの、姿を見せませんでした。
これに対し豊臣秀吉は、北条氏と同盟関係にあった徳川家康を交渉役に任じ、北条氏のもとに遣わせます。徳川家康は、「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。もし上洛できぬと言うなら、氏直に嫁がせている私の娘は返して頂く」といった書状を、北条氏宛てに何度も送りました。
書状を受けた北条氏は、内部で意見が対立していたものの、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直の代理人として、弟の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させます。北条氏は、この上洛で沼田領問題を持ち出すことにより、有利な条件を引き出そうとしたのです。
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定と名胡桃城事件
豊臣秀吉は、北条氏と真田氏に対し、「惣無事令」(そうぶじれい/戦国大名間の領土紛争を禁じ、受諾した大名には領土と地位を保障する法令)を遵守して停戦するよう命じます。
豊臣秀吉の仲裁により、沼田城は「北条領」、名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので「真田領」と定められ、真田氏は手放した土地の代わりに、「信濃国箕輪」(現在の長野県)を与えられました。
しかし、豊臣秀吉の裁定に不満を持っていた北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、城のすべてを北条家の物にしようと、独断で名胡桃城を攻撃したことから、名胡桃城事件が勃発。当時、名胡桃城の城主だった「鈴木重則」を、偽の書状で「上田城」へ呼び寄せている間に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、乗っ取りに成功。鈴木重則は、猪俣邦憲の策略を見抜けなかったことに責任を感じ、「正覚寺」(現在の群馬県沼田市)で自害しました。
これを知った豊臣秀吉は、惣無事令に反すると激怒し、この名胡桃城事件をきっかけに、小田原の役へと繋がっていったのです。
小田原の役と豊臣秀吉の天下統一
名胡桃城事件を知った北条氏直は、和解に向けて、名胡桃城を奪ったこと、また上洛が遅れていることを弁明した書状を豊臣秀吉に送りますが、もはや戦いは避けられない状況でした。
1589年(天正17年)末、豊臣秀吉は、天下に北条討伐を命じ、ついに小田原の役が起こります。豊臣軍は、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻、鉢形、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)など、北条氏の支城を相次いで攻撃。これに対し、北条氏政と北条氏直は、町全体を取り囲む巨大な総構を築いて対応しましたが、豊臣軍約18万の大軍に完全包囲されてしまいます。
一方、豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、総石垣づくりの「石垣山城」を一夜にして築城し、茶人の千利休を呼んで大茶会を開いたり、近くの箱根で温泉旅行をしたりするほど余裕を見せていたと言われています。
豊臣軍の優勢を目の当たりにした北条氏は、約100日に及ぶ籠城戦のあと、ついに小田原城を開城。北条氏直は自らの切腹により、自分に対する処罰の免除を願い出ますが、切腹は見送られます。
しかし、開戦の責任を負う形で、北条氏政とその弟・北条氏照を切腹させ、北条氏の旧領をすべて徳川家康に割譲しました。
こうして、小田原の役によって北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一を果たすこととなったのです。
小田原の役の背景
この戦のきっかけとなったのは、「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)です。
この頃、「名胡桃城」は真田氏の城で、「沼田城」の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)の位置付けでした。一方、本城の沼田城は、北条氏の城。真田氏と北条氏は、沼田城がある沼田領を巡って、局地戦や小競り合いが度々起こり、長い間、緊張した状態が続いていました。
当時の戦国大名にとって領土は、命にも等しい大切なものであり、先祖から受け継がれた土地を守り、自国の領土を拡大していくことは、戦国大名にとって最も大切な使命だったのです。その頃、豊臣秀吉は、四国の長宗我部氏を服従させ、東海の「徳川家康」を懐柔して、臣下の礼を取らせます。
さらに、1587年(天正15年)、25万の大軍を率いて薩摩の「島津義久」を討伐し、西日本を制圧。残るは、関東の北条氏と、奥羽の伊達氏を制圧すれば、天下統一を果たすことができることから、豊臣秀吉の関心は東日本に向けられます。
天下統一にあたり最大の障壁だったのが、関東の雄・北条氏でした。北条氏は地方豪族との関係も強く、豊臣秀吉と言えども簡単には攻め落とせる相手ではありませんでした。
また、徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)は、北条氏直に嫁いでおり、徳川と北条は同盟関係にあったことから、北条討伐がもし失敗に終わった場合、服従させた徳川家康などが再び離反する可能性もあったため、徳川家康の動きも警戒していたのです。
徳川家康による上洛交渉
豊臣秀吉は、できるだけ血を見ることなく天下が太平になることを望んでいたことから、北条氏政、北条氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。
1588年(天正16年)4月、豊臣秀吉は自分の力を天下に示すデモンストレーションとして、京都北野にある「聚楽第」(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招いて接待します。しかし、北条氏政と北条氏直、伊達政宗は招かれたものの、姿を見せませんでした。
これに対し豊臣秀吉は、北条氏と同盟関係にあった徳川家康を交渉役に任じ、北条氏のもとに遣わせます。徳川家康は、「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。もし上洛できぬと言うなら、氏直に嫁がせている私の娘は返して頂く」といった書状を、北条氏宛てに何度も送りました。
書状を受けた北条氏は、内部で意見が対立していたものの、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直の代理人として、弟の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させます。北条氏は、この上洛で沼田領問題を持ち出すことにより、有利な条件を引き出そうとしたのです。
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定と名胡桃城事件
豊臣秀吉は、北条氏と真田氏に対し、「惣無事令」(そうぶじれい/戦国大名間の領土紛争を禁じ、受諾した大名には領土と地位を保障する法令)を遵守して停戦するよう命じます。
豊臣秀吉の仲裁により、沼田城は「北条領」、名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので「真田領」と定められ、真田氏は手放した土地の代わりに、「信濃国箕輪」(現在の長野県)を与えられました。
しかし、豊臣秀吉の裁定に不満を持っていた北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、城のすべてを北条家の物にしようと、独断で名胡桃城を攻撃したことから、名胡桃城事件が勃発。当時、名胡桃城の城主だった「鈴木重則」を、偽の書状で「上田城」へ呼び寄せている間に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、乗っ取りに成功。鈴木重則は、猪俣邦憲の策略を見抜けなかったことに責任を感じ、「正覚寺」(現在の群馬県沼田市)で自害しました。
これを知った豊臣秀吉は、惣無事令に反すると激怒し、この名胡桃城事件をきっかけに、小田原の役へと繋がっていったのです。
小田原の役と豊臣秀吉の天下統一
名胡桃城事件を知った北条氏直は、和解に向けて、名胡桃城を奪ったこと、また上洛が遅れていることを弁明した書状を豊臣秀吉に送りますが、もはや戦いは避けられない状況でした。
1589年(天正17年)末、豊臣秀吉は、天下に北条討伐を命じ、ついに小田原の役が起こります。豊臣軍は、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻、鉢形、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)など、北条氏の支城を相次いで攻撃。これに対し、北条氏政と北条氏直は、町全体を取り囲む巨大な総構を築いて対応しましたが、豊臣軍約18万の大軍に完全包囲されてしまいます。
一方、豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、総石垣づくりの「石垣山城」を一夜にして築城し、茶人の千利休を呼んで大茶会を開いたり、近くの箱根で温泉旅行をしたりするほど余裕を見せていたと言われています。
豊臣軍の優勢を目の当たりにした北条氏は、約100日に及ぶ籠城戦のあと、ついに小田原城を開城。北条氏直は自らの切腹により、自分に対する処罰の免除を願い出ますが、切腹は見送られます。
しかし、開戦の責任を負う形で、北条氏政とその弟・北条氏照を切腹させ、北条氏の旧領をすべて徳川家康に割譲しました。
こうして、小田原の役によって北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一を果たすこととなったのです。
井陘の戦い
事前の経緯
劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏(魏豹)を降し、代(代の相の夏説)を降して趙(趙歇)へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なく、三万程度しかなかった。
一方、趙は趙歇と宰相の成安君陳余が二十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対し、太行山脈の合間を通る「井陘口」という馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、さらに挟撃する作戦を提案した。しかし陳余は「小数相手に大軍が策を弄しては、趙の兵は弱いと諸侯に侮られる」と正攻法にこだわりこれを却下した。
陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。
韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められればひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った。
そして、傅寛・張蒼に命じて二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて、裏側から趙の本城を襲うように指示した。また兵士に簡単な食事をさせた後に、諸将に対して「今日は趙軍を撃ち破ってからみなで食事にしよう」と言ったが、諸将は誰も本気にしなかった。
背水の陣
井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子』天官編に「背水陳為絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。
韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった。
趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた。
陳余は張蒼によって捕虜となり、泜水で処刑され、逃亡した趙歇も襄国(現在の河北省邢台市信都区)で捕らえられて処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信は上座を用意して李左車を先生と賞し、燕を下す策を献じてもらった。そして李左車の策に従い燕を労せず下すことに成功した。ちなみに、韓信に尋ねられた李左車は、初め自分の考えを述べることに躊躇したが、そのときに彼が放った「敗軍の将、兵を語らず」(『史記』淮陰侯列伝)という言葉は有名である。
後にこの布陣でなぜ勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる(「之れを往く所無きに投ずれば、諸・劌の勇なり(兵士たちをどこにも行き場のない窮地に置けば、おのずと専諸や曹沬(曹劌)のように勇戦力闘する)」『孫子』九地篇)』」と答えている。これが背水の陣である。
現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(あるいは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなくわざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出し(調虎離山)、背水の陣で負けない一方、空にさせた城を落とし、敵の動揺を突いて襲撃し勝機を逃さない、と最終的に勝つための方策も行っているのである。
城塞に籠った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことができる。しかし相手が自軍を侮らず普通に攻め続ければさすがにいつか落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう。
これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち情報収集しているところにも見ることができる。韓信が希代の名将と言われるゆえんである。
日本への影響
増田欣『「太平記」の比較文学的研究』によれば、背水の陣の故事は14世紀まで日本では無名であったが、文学作品として初めて軍記物『太平記』(14世紀末–15世紀初頭)が物語に取り入れたという。『太平記』巻19、青野原の戦い(1338年)で、後醍醐天皇方北畠顕家に足利方が負けると、婆娑羅大名として名高い佐々木道誉らが足利方へ援軍に来たが、そのとき道誉の進言で黒血川を背にして背水の陣を敷いたのが、日本の戦史上における初見である。ただし、これは文学作品的な誇張表現であって、黒血川を背に陣取ったのは地形的な必然で、歴史的事実としては「背水の陣」という故事を意識して敷くほど足利方が劣勢にあったわけではないようである[2]。
その後、伊勢宗瑞(北条早雲)や吉川元春を始めとする戦国武将が『太平記』の研究に励み、同書が戦国時代の戦術に影響を与えたのは周知の通りである。
事前の経緯
劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏(魏豹)を降し、代(代の相の夏説)を降して趙(趙歇)へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なく、三万程度しかなかった。
一方、趙は趙歇と宰相の成安君陳余が二十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対し、太行山脈の合間を通る「井陘口」という馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、さらに挟撃する作戦を提案した。しかし陳余は「小数相手に大軍が策を弄しては、趙の兵は弱いと諸侯に侮られる」と正攻法にこだわりこれを却下した。
陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。
韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められればひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った。
そして、傅寛・張蒼に命じて二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて、裏側から趙の本城を襲うように指示した。また兵士に簡単な食事をさせた後に、諸将に対して「今日は趙軍を撃ち破ってからみなで食事にしよう」と言ったが、諸将は誰も本気にしなかった。
背水の陣
井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子』天官編に「背水陳為絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。
韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった。
趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた。
陳余は張蒼によって捕虜となり、泜水で処刑され、逃亡した趙歇も襄国(現在の河北省邢台市信都区)で捕らえられて処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信は上座を用意して李左車を先生と賞し、燕を下す策を献じてもらった。そして李左車の策に従い燕を労せず下すことに成功した。ちなみに、韓信に尋ねられた李左車は、初め自分の考えを述べることに躊躇したが、そのときに彼が放った「敗軍の将、兵を語らず」(『史記』淮陰侯列伝)という言葉は有名である。
後にこの布陣でなぜ勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる(「之れを往く所無きに投ずれば、諸・劌の勇なり(兵士たちをどこにも行き場のない窮地に置けば、おのずと専諸や曹沬(曹劌)のように勇戦力闘する)」『孫子』九地篇)』」と答えている。これが背水の陣である。
現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(あるいは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなくわざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出し(調虎離山)、背水の陣で負けない一方、空にさせた城を落とし、敵の動揺を突いて襲撃し勝機を逃さない、と最終的に勝つための方策も行っているのである。
城塞に籠った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことができる。しかし相手が自軍を侮らず普通に攻め続ければさすがにいつか落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう。
これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち情報収集しているところにも見ることができる。韓信が希代の名将と言われるゆえんである。
日本への影響
増田欣『「太平記」の比較文学的研究』によれば、背水の陣の故事は14世紀まで日本では無名であったが、文学作品として初めて軍記物『太平記』(14世紀末–15世紀初頭)が物語に取り入れたという。『太平記』巻19、青野原の戦い(1338年)で、後醍醐天皇方北畠顕家に足利方が負けると、婆娑羅大名として名高い佐々木道誉らが足利方へ援軍に来たが、そのとき道誉の進言で黒血川を背にして背水の陣を敷いたのが、日本の戦史上における初見である。ただし、これは文学作品的な誇張表現であって、黒血川を背に陣取ったのは地形的な必然で、歴史的事実としては「背水の陣」という故事を意識して敷くほど足利方が劣勢にあったわけではないようである[2]。
その後、伊勢宗瑞(北条早雲)や吉川元春を始めとする戦国武将が『太平記』の研究に励み、同書が戦国時代の戦術に影響を与えたのは周知の通りである。
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