輪島市 珠洲市 能登町で倒壊家屋多数
2024年1月3日
石川県によりますと、県内では、これまでに住宅が全壊または半壊した被害が合わせて183棟に上っています。
一方、輪島市や珠洲市、能登町では倒壊した家屋が多数確認されているものの、全体状況は把握できていないとしています。
県によりますと3日午後3時までに県内で確認された住宅の被害は、
▽金沢市で全壊が4棟、
▽七尾市で全壊が102棟、
▽羽咋市で全壊が15棟、
▽志賀町で全壊が8棟、半壊が15棟、一部破損が16棟、床上浸水が6棟、床下浸水が5棟、
▽宝達志水町では全壊が1棟、
▽中能登町では全壊が16棟、半壊が5棟、一部破損が12棟、
▽穴水町で全壊または半壊が17棟となっています。
このほか輪島市と珠洲市、能登町では倒壊した家屋が多数確認されてるものの、被害の全体状況は把握できていないということです。
ビル倒壊現場の女性救助 意識がない状態
輪島市河井町のビルが倒壊した現場では、ビルの下のがれきの中に女性が閉じ込められ、3日午前10時ごろから消防による救助作業が続けられていました。
作業が始まってからおよそ12時間が経過した午後10時すぎ、現場に担架が持ち込まれ、黄色いシートで囲まれる中、女性が救助されました。
消防によりますと、女性は呼びかけに反応がなく、意識がない状態だったということです。
救助作業は相次ぐ地震によってたびたび中断せざるをえない中で行われていました。
穴水町 6人が行方不明 倒壊などに巻き込まれたか
石川県穴水町の吉村光輝町長によりますと、3日午後6時の時点で、町内で6人が行方不明になっているということです。6人は住宅の倒壊などに巻き込まれたとみられるということで救助を急いでいます。
警察への通報 要救助が“121件”
3日午後6時から開かれた石川県の災害対策本部会議で、警察は、救助が必要だとして寄せられている通報が午後4時の時点で121件に上ると報告しました。
珠洲市 救助要請72件 自衛隊などが捜索続ける
石川県珠洲市では対応できていない救助要請が3日朝の時点で72件にのぼっていて、警察や消防、自衛隊などが捜索を続けています。
このうち家屋が倒壊するなどの大きな被害が出た珠洲市宝立町では、静岡県から応援に入った消防隊員などが、安否が確認できていない住民の自宅、およそ30軒を回りました。
災害救助犬も活用され、倒壊した家屋の隙間から中に入って匂いを頼りに取り残された人がいないか確認していました。
2日から珠洲市内で捜索を続けているということですが、倒壊した家屋でこれまでに10人ほどが亡くなっているのが見つかったということです。
内灘町 道路が大きく隆起したり家屋が傾いたりするなどの被害
1日の地震で震度5弱の揺れを観測した石川県内灘町では、道路が大きく隆起したり家屋が傾いたりするなどの被害が出ています。
内灘町では過去の地震で液状化現象が確認されていて、今回の地震でも内灘町宮坂や西荒屋の住宅地では1メートル以上道路が隆起するなどの被害が確認されているということで、町は液状化現象が発生した可能性があるとしています。
また、こうした道路に面する電柱や家屋も大きく傾いていて、消防の職員が道路の段差を確認しながら、「立ち入り禁止」と書かれたテープを使って一部の道路を規制する様子も見られました。
輪島市 鳳至町 陸上自衛隊が住宅捜索も女性発見できず
輪島市鳳至町の住宅街では、陸上自衛隊の隊員10人ほどが1階がつぶれて倒壊した2階建ての住宅を捜索していました。
この家には1人暮らしの96歳の女性が取り残されている可能性があるということで、隊員たちは「誰かいませんか」などと声をかけながらチェーンソーなどの工具を使って建物の壁や家具を取り除き、女性を捜していました。
捜索の結果、およそ1時間後に、電源が入った状態の携帯電話が見つかりましたが、女性は発見できませんでした。
市内の自宅から駆けつけた女性の70代の娘は「週に1回ほど買い物の手伝いなどで会っていました。先月30日に正月の準備のために会ったのが最後で、鏡餅を飾ってあげるととても喜んでいました。早く見つかってほしいです」と話し、不安そうに捜索の様子を見つめていました。
2024年1月3日
石川県によりますと、県内では、これまでに住宅が全壊または半壊した被害が合わせて183棟に上っています。
一方、輪島市や珠洲市、能登町では倒壊した家屋が多数確認されているものの、全体状況は把握できていないとしています。
県によりますと3日午後3時までに県内で確認された住宅の被害は、
▽金沢市で全壊が4棟、
▽七尾市で全壊が102棟、
▽羽咋市で全壊が15棟、
▽志賀町で全壊が8棟、半壊が15棟、一部破損が16棟、床上浸水が6棟、床下浸水が5棟、
▽宝達志水町では全壊が1棟、
▽中能登町では全壊が16棟、半壊が5棟、一部破損が12棟、
▽穴水町で全壊または半壊が17棟となっています。
このほか輪島市と珠洲市、能登町では倒壊した家屋が多数確認されてるものの、被害の全体状況は把握できていないということです。
ビル倒壊現場の女性救助 意識がない状態
輪島市河井町のビルが倒壊した現場では、ビルの下のがれきの中に女性が閉じ込められ、3日午前10時ごろから消防による救助作業が続けられていました。
作業が始まってからおよそ12時間が経過した午後10時すぎ、現場に担架が持ち込まれ、黄色いシートで囲まれる中、女性が救助されました。
消防によりますと、女性は呼びかけに反応がなく、意識がない状態だったということです。
救助作業は相次ぐ地震によってたびたび中断せざるをえない中で行われていました。
穴水町 6人が行方不明 倒壊などに巻き込まれたか
石川県穴水町の吉村光輝町長によりますと、3日午後6時の時点で、町内で6人が行方不明になっているということです。6人は住宅の倒壊などに巻き込まれたとみられるということで救助を急いでいます。
警察への通報 要救助が“121件”
3日午後6時から開かれた石川県の災害対策本部会議で、警察は、救助が必要だとして寄せられている通報が午後4時の時点で121件に上ると報告しました。
珠洲市 救助要請72件 自衛隊などが捜索続ける
石川県珠洲市では対応できていない救助要請が3日朝の時点で72件にのぼっていて、警察や消防、自衛隊などが捜索を続けています。
このうち家屋が倒壊するなどの大きな被害が出た珠洲市宝立町では、静岡県から応援に入った消防隊員などが、安否が確認できていない住民の自宅、およそ30軒を回りました。
災害救助犬も活用され、倒壊した家屋の隙間から中に入って匂いを頼りに取り残された人がいないか確認していました。
2日から珠洲市内で捜索を続けているということですが、倒壊した家屋でこれまでに10人ほどが亡くなっているのが見つかったということです。
内灘町 道路が大きく隆起したり家屋が傾いたりするなどの被害
1日の地震で震度5弱の揺れを観測した石川県内灘町では、道路が大きく隆起したり家屋が傾いたりするなどの被害が出ています。
内灘町では過去の地震で液状化現象が確認されていて、今回の地震でも内灘町宮坂や西荒屋の住宅地では1メートル以上道路が隆起するなどの被害が確認されているということで、町は液状化現象が発生した可能性があるとしています。
また、こうした道路に面する電柱や家屋も大きく傾いていて、消防の職員が道路の段差を確認しながら、「立ち入り禁止」と書かれたテープを使って一部の道路を規制する様子も見られました。
輪島市 鳳至町 陸上自衛隊が住宅捜索も女性発見できず
輪島市鳳至町の住宅街では、陸上自衛隊の隊員10人ほどが1階がつぶれて倒壊した2階建ての住宅を捜索していました。
この家には1人暮らしの96歳の女性が取り残されている可能性があるということで、隊員たちは「誰かいませんか」などと声をかけながらチェーンソーなどの工具を使って建物の壁や家具を取り除き、女性を捜していました。
捜索の結果、およそ1時間後に、電源が入った状態の携帯電話が見つかりましたが、女性は発見できませんでした。
市内の自宅から駆けつけた女性の70代の娘は「週に1回ほど買い物の手伝いなどで会っていました。先月30日に正月の準備のために会ったのが最後で、鏡餅を飾ってあげるととても喜んでいました。早く見つかってほしいです」と話し、不安そうに捜索の様子を見つめていました。
津波の浸水域は少なくとも100ha以上に 国交省
2024年1月3日 19時07分
今回の能登半島地震で、国土交通省が石川県珠洲市と能登町を上空から撮影した画像を分析した結果、津波の浸水域が少なくとも100ヘクタールにのぼっていることが分かりました。津波は日本海側の各地に到達していますが、広域での分析は出来ておらず、浸水範囲は更に広いとみられます。
国交省 防災ヘリ撮影の画像で浸水範囲を調査
国土交通省は2日、石川県の防災ヘリが撮影した上空からの画像をもとに、能登半島の珠洲市と能登町の津波の浸水範囲を調べました。
その結果、珠洲市の
▽三崎町寺家で11ヘクタール
▽飯田町飯田港で15ヘクタール
▽宝立町南黒丸で6ヘクタール
▽宝立町春日野と鵜飼で30ヘクタール
能登町の
▽松波で7.8ヘクタール
▽布浦と九里川尻で27ヘクタール
▽白丸で4.6ヘクタール
▽宇出津で5.4ヘクタールと
合わせておよそ100ヘクタールの範囲で浸水が確認されたとしています。
家屋の被害や浸水の深さは分かっていません。
今回の地震では日本海側の広域に津波が到達しています。
国土交通省は「まだ分析できていない地域も多く、津波の浸水範囲はさらに広いとみられる」としています。
【衛星画像でも被害を確認】
津波による被害はアメリカの「マクサー・テクノロジーズ」社の人工衛星で撮影された画像でも確認できます。
浸水が確認された珠洲市の宝立町春日野と鵜飼周辺では
国土交通省の分析でおよそ30ヘクタールにわたり、津波の浸水が確認された珠洲市の宝立町春日野と鵜飼周辺を1月2日に撮影した画像です。
2年前に撮影された画像と比較すると、当時、写っていた建物の屋根のうち一部の区画でいくつかの屋根が写っていません。
今回の津波で流されたのかどうかはわかっていませんが、かつて屋根が写っていた区画ではがれきが散乱しているような様子も確認できます。
同じ場所を別の角度から撮影した画像では、画像左側の内陸側では道路や路地をはっきりと判別できるのに対し、海岸側では一面が黒くなっていて道路を判別しづらくなっています。
また海岸沿いに並んだ建物に沿うように津波のあとに残されたがれきのようなものが確認でき、いくつかの建物が傾いたり斜めになったりしているような様子も見てとれます。
鵜飼漁港 がれきのようなものや岸壁に乗り上げた船
また同じ1月2日に鵜飼漁港を撮影した画像でも港の建物の周りで道路が判別しづらかったり、がれきのようなものが見られたりするほか、岸壁に船が乗り上げている様子も確認できます。
2024年1月3日 19時07分
今回の能登半島地震で、国土交通省が石川県珠洲市と能登町を上空から撮影した画像を分析した結果、津波の浸水域が少なくとも100ヘクタールにのぼっていることが分かりました。津波は日本海側の各地に到達していますが、広域での分析は出来ておらず、浸水範囲は更に広いとみられます。
国交省 防災ヘリ撮影の画像で浸水範囲を調査
国土交通省は2日、石川県の防災ヘリが撮影した上空からの画像をもとに、能登半島の珠洲市と能登町の津波の浸水範囲を調べました。
その結果、珠洲市の
▽三崎町寺家で11ヘクタール
▽飯田町飯田港で15ヘクタール
▽宝立町南黒丸で6ヘクタール
▽宝立町春日野と鵜飼で30ヘクタール
能登町の
▽松波で7.8ヘクタール
▽布浦と九里川尻で27ヘクタール
▽白丸で4.6ヘクタール
▽宇出津で5.4ヘクタールと
合わせておよそ100ヘクタールの範囲で浸水が確認されたとしています。
家屋の被害や浸水の深さは分かっていません。
今回の地震では日本海側の広域に津波が到達しています。
国土交通省は「まだ分析できていない地域も多く、津波の浸水範囲はさらに広いとみられる」としています。
【衛星画像でも被害を確認】
津波による被害はアメリカの「マクサー・テクノロジーズ」社の人工衛星で撮影された画像でも確認できます。
浸水が確認された珠洲市の宝立町春日野と鵜飼周辺では
国土交通省の分析でおよそ30ヘクタールにわたり、津波の浸水が確認された珠洲市の宝立町春日野と鵜飼周辺を1月2日に撮影した画像です。
2年前に撮影された画像と比較すると、当時、写っていた建物の屋根のうち一部の区画でいくつかの屋根が写っていません。
今回の津波で流されたのかどうかはわかっていませんが、かつて屋根が写っていた区画ではがれきが散乱しているような様子も確認できます。
同じ場所を別の角度から撮影した画像では、画像左側の内陸側では道路や路地をはっきりと判別できるのに対し、海岸側では一面が黒くなっていて道路を判別しづらくなっています。
また海岸沿いに並んだ建物に沿うように津波のあとに残されたがれきのようなものが確認でき、いくつかの建物が傾いたり斜めになったりしているような様子も見てとれます。
鵜飼漁港 がれきのようなものや岸壁に乗り上げた船
また同じ1月2日に鵜飼漁港を撮影した画像でも港の建物の周りで道路が判別しづらかったり、がれきのようなものが見られたりするほか、岸壁に船が乗り上げている様子も確認できます。
小田原の役
小田原の役の背景
この戦のきっかけとなったのは、「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)です。
この頃、「名胡桃城」は真田氏の城で、「沼田城」の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)の位置付けでした。一方、本城の沼田城は、北条氏の城。真田氏と北条氏は、沼田城がある沼田領を巡って、局地戦や小競り合いが度々起こり、長い間、緊張した状態が続いていました。
当時の戦国大名にとって領土は、命にも等しい大切なものであり、先祖から受け継がれた土地を守り、自国の領土を拡大していくことは、戦国大名にとって最も大切な使命だったのです。その頃、豊臣秀吉は、四国の長宗我部氏を服従させ、東海の「徳川家康」を懐柔して、臣下の礼を取らせます。
さらに、1587年(天正15年)、25万の大軍を率いて薩摩の「島津義久」を討伐し、西日本を制圧。残るは、関東の北条氏と、奥羽の伊達氏を制圧すれば、天下統一を果たすことができることから、豊臣秀吉の関心は東日本に向けられます。
天下統一にあたり最大の障壁だったのが、関東の雄・北条氏でした。北条氏は地方豪族との関係も強く、豊臣秀吉と言えども簡単には攻め落とせる相手ではありませんでした。
また、徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)は、北条氏直に嫁いでおり、徳川と北条は同盟関係にあったことから、北条討伐がもし失敗に終わった場合、服従させた徳川家康などが再び離反する可能性もあったため、徳川家康の動きも警戒していたのです。
徳川家康による上洛交渉
豊臣秀吉は、できるだけ血を見ることなく天下が太平になることを望んでいたことから、北条氏政、北条氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。
1588年(天正16年)4月、豊臣秀吉は自分の力を天下に示すデモンストレーションとして、京都北野にある「聚楽第」(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招いて接待します。しかし、北条氏政と北条氏直、伊達政宗は招かれたものの、姿を見せませんでした。
これに対し豊臣秀吉は、北条氏と同盟関係にあった徳川家康を交渉役に任じ、北条氏のもとに遣わせます。徳川家康は、「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。もし上洛できぬと言うなら、氏直に嫁がせている私の娘は返して頂く」といった書状を、北条氏宛てに何度も送りました。
書状を受けた北条氏は、内部で意見が対立していたものの、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直の代理人として、弟の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させます。北条氏は、この上洛で沼田領問題を持ち出すことにより、有利な条件を引き出そうとしたのです。
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定と名胡桃城事件
豊臣秀吉は、北条氏と真田氏に対し、「惣無事令」(そうぶじれい/戦国大名間の領土紛争を禁じ、受諾した大名には領土と地位を保障する法令)を遵守して停戦するよう命じます。
豊臣秀吉の仲裁により、沼田城は「北条領」、名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので「真田領」と定められ、真田氏は手放した土地の代わりに、「信濃国箕輪」(現在の長野県)を与えられました。
しかし、豊臣秀吉の裁定に不満を持っていた北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、城のすべてを北条家の物にしようと、独断で名胡桃城を攻撃したことから、名胡桃城事件が勃発。当時、名胡桃城の城主だった「鈴木重則」を、偽の書状で「上田城」へ呼び寄せている間に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、乗っ取りに成功。鈴木重則は、猪俣邦憲の策略を見抜けなかったことに責任を感じ、「正覚寺」(現在の群馬県沼田市)で自害しました。
これを知った豊臣秀吉は、惣無事令に反すると激怒し、この名胡桃城事件をきっかけに、小田原の役へと繋がっていったのです。
小田原の役と豊臣秀吉の天下統一
名胡桃城事件を知った北条氏直は、和解に向けて、名胡桃城を奪ったこと、また上洛が遅れていることを弁明した書状を豊臣秀吉に送りますが、もはや戦いは避けられない状況でした。
1589年(天正17年)末、豊臣秀吉は、天下に北条討伐を命じ、ついに小田原の役が起こります。豊臣軍は、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻、鉢形、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)など、北条氏の支城を相次いで攻撃。これに対し、北条氏政と北条氏直は、町全体を取り囲む巨大な総構を築いて対応しましたが、豊臣軍約18万の大軍に完全包囲されてしまいます。
一方、豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、総石垣づくりの「石垣山城」を一夜にして築城し、茶人の千利休を呼んで大茶会を開いたり、近くの箱根で温泉旅行をしたりするほど余裕を見せていたと言われています。
豊臣軍の優勢を目の当たりにした北条氏は、約100日に及ぶ籠城戦のあと、ついに小田原城を開城。北条氏直は自らの切腹により、自分に対する処罰の免除を願い出ますが、切腹は見送られます。
しかし、開戦の責任を負う形で、北条氏政とその弟・北条氏照を切腹させ、北条氏の旧領をすべて徳川家康に割譲しました。
こうして、小田原の役によって北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一を果たすこととなったのです。
小田原の役の背景
この戦のきっかけとなったのは、「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)です。
この頃、「名胡桃城」は真田氏の城で、「沼田城」の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)の位置付けでした。一方、本城の沼田城は、北条氏の城。真田氏と北条氏は、沼田城がある沼田領を巡って、局地戦や小競り合いが度々起こり、長い間、緊張した状態が続いていました。
当時の戦国大名にとって領土は、命にも等しい大切なものであり、先祖から受け継がれた土地を守り、自国の領土を拡大していくことは、戦国大名にとって最も大切な使命だったのです。その頃、豊臣秀吉は、四国の長宗我部氏を服従させ、東海の「徳川家康」を懐柔して、臣下の礼を取らせます。
さらに、1587年(天正15年)、25万の大軍を率いて薩摩の「島津義久」を討伐し、西日本を制圧。残るは、関東の北条氏と、奥羽の伊達氏を制圧すれば、天下統一を果たすことができることから、豊臣秀吉の関心は東日本に向けられます。
天下統一にあたり最大の障壁だったのが、関東の雄・北条氏でした。北条氏は地方豪族との関係も強く、豊臣秀吉と言えども簡単には攻め落とせる相手ではありませんでした。
また、徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)は、北条氏直に嫁いでおり、徳川と北条は同盟関係にあったことから、北条討伐がもし失敗に終わった場合、服従させた徳川家康などが再び離反する可能性もあったため、徳川家康の動きも警戒していたのです。
徳川家康による上洛交渉
豊臣秀吉は、できるだけ血を見ることなく天下が太平になることを望んでいたことから、北条氏政、北条氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。
1588年(天正16年)4月、豊臣秀吉は自分の力を天下に示すデモンストレーションとして、京都北野にある「聚楽第」(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招いて接待します。しかし、北条氏政と北条氏直、伊達政宗は招かれたものの、姿を見せませんでした。
これに対し豊臣秀吉は、北条氏と同盟関係にあった徳川家康を交渉役に任じ、北条氏のもとに遣わせます。徳川家康は、「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。もし上洛できぬと言うなら、氏直に嫁がせている私の娘は返して頂く」といった書状を、北条氏宛てに何度も送りました。
書状を受けた北条氏は、内部で意見が対立していたものの、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直の代理人として、弟の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させます。北条氏は、この上洛で沼田領問題を持ち出すことにより、有利な条件を引き出そうとしたのです。
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定と名胡桃城事件
豊臣秀吉は、北条氏と真田氏に対し、「惣無事令」(そうぶじれい/戦国大名間の領土紛争を禁じ、受諾した大名には領土と地位を保障する法令)を遵守して停戦するよう命じます。
豊臣秀吉の仲裁により、沼田城は「北条領」、名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので「真田領」と定められ、真田氏は手放した土地の代わりに、「信濃国箕輪」(現在の長野県)を与えられました。
しかし、豊臣秀吉の裁定に不満を持っていた北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、城のすべてを北条家の物にしようと、独断で名胡桃城を攻撃したことから、名胡桃城事件が勃発。当時、名胡桃城の城主だった「鈴木重則」を、偽の書状で「上田城」へ呼び寄せている間に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、乗っ取りに成功。鈴木重則は、猪俣邦憲の策略を見抜けなかったことに責任を感じ、「正覚寺」(現在の群馬県沼田市)で自害しました。
これを知った豊臣秀吉は、惣無事令に反すると激怒し、この名胡桃城事件をきっかけに、小田原の役へと繋がっていったのです。
小田原の役と豊臣秀吉の天下統一
名胡桃城事件を知った北条氏直は、和解に向けて、名胡桃城を奪ったこと、また上洛が遅れていることを弁明した書状を豊臣秀吉に送りますが、もはや戦いは避けられない状況でした。
1589年(天正17年)末、豊臣秀吉は、天下に北条討伐を命じ、ついに小田原の役が起こります。豊臣軍は、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻、鉢形、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)など、北条氏の支城を相次いで攻撃。これに対し、北条氏政と北条氏直は、町全体を取り囲む巨大な総構を築いて対応しましたが、豊臣軍約18万の大軍に完全包囲されてしまいます。
一方、豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、総石垣づくりの「石垣山城」を一夜にして築城し、茶人の千利休を呼んで大茶会を開いたり、近くの箱根で温泉旅行をしたりするほど余裕を見せていたと言われています。
豊臣軍の優勢を目の当たりにした北条氏は、約100日に及ぶ籠城戦のあと、ついに小田原城を開城。北条氏直は自らの切腹により、自分に対する処罰の免除を願い出ますが、切腹は見送られます。
しかし、開戦の責任を負う形で、北条氏政とその弟・北条氏照を切腹させ、北条氏の旧領をすべて徳川家康に割譲しました。
こうして、小田原の役によって北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一を果たすこととなったのです。
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