【交通影響 2日】鉄道や空の便 乱れ続く 新幹線は運転再開 能登空港すべて欠航 4日まで滑走路閉鎖
2024年1月2日 20時44分
1日に石川県能登地方で震度7の揺れを観測した地震の影響で、鉄道、空の便で2日も運転の見合わせや欠航など乱れが続いています。
JR東日本によりますと北陸新幹線は富山駅と長野駅の間で運転を見合わせていましたが、2日午後3時20分に全線で運転を再開しました。
新幹線の運転見合わせはすべて解消しました。
石川県内・富山県内の在来線は(午後8時時点)
JR西日本によりますと、
▽JR氷見線は、高岡駅と氷見駅の間で少なくとも5日まで運転を取りやめるということです。
▽JR七尾線は、2日は終日運転を見合わせ、3日は午前8時半ごろから金沢駅と高松駅の間で通常より本数を減らして運転予定だということです。高松駅と和倉温泉駅の間は運転再開の見通しがたっていないとしています。
▽JR高山線の越中八尾駅と猪谷駅の間で2日は終日運転を見合わせ、3日は午後6時半ごろから運転予定だということです。
▽「あいの風とやま鉄道」は、津幡駅と高岡駅の間で2日は終日運休し、3日の午後以降の再開を見込んでいるということです。
▽北陸鉄道は、2日は終日運転を見合わせ、
▽石川線は3日、通常どおり運行する予定で、
▽浅野川線は3日も運休するということです。
▽富山地方鉄道は、2日は終日、全線で運転を見合わせています。3日は立山線の岩峅寺駅と立山駅の間で始発から運転を見合わせるということです。
▽IRいしかわ鉄道は3日午前中は金沢駅と津幡駅の間で臨時列車を運行する予定です。
JRの在来線は、
▽信越本線の直江津駅と長岡駅の間、
▽越後線の新潟駅と柏崎駅の間、
▽弥彦線の弥彦駅と東三条駅の間については、2日は終日運転を見合わせるとしています。
そのほかの在来線については一部運休や遅れはあるものの運転を再開しています。
このうち、
▽越後線は越後赤塚駅と関屋駅の間で、3日以降も運休することにしました。一方、この区間以外は3日は始発から運行するとしています。
また、第三セクターの「えちごトキめき鉄道」は
▽妙高はねうまラインは運転を再開しましたが、
▽日本海ひすいラインの運転再開は2日午後8時以降を予定しているということです。
「ほくほく線」は、
▽越後湯沢駅とくびき駅の間で運行しています。
▽くびき駅と直江津駅の間は終日運転を見合わせるとしています。
能登空港は国土交通省によりますと、4日まで滑走路を閉鎖するということです。
復旧の見通しは不透明だということです。小松空港では、日本航空と全日空が羽田空港とを結ぶ臨時便をあわせて4便運航しました。
航空各社は、最新の運航状況についてホームページなどで確認するよう呼びかけています。
北陸道 通行止め続く
日本道路交通情報センターなどによりますと、北陸自動車道は富山県の小矢部インターチェンジと砺波インターチェンジの間の下り線で通行止めが続いています。
また、能越自動車道の高岡インターチェンジと七尾大泊インターチェンジの間や、能登地方に向かう自動車専用道路の「のと里山海道」の一部、それに国道や県道でも通行止めが相次いでいるということです。
石川県内 一般道でも通行止め
石川県内の道路の被害状況です。
輪島市に向かう周辺の道路は、地震の影響でほとんどが寸断され通行できなくなっているということです。
このため現地に向かっている関係機関の担当者の多くが足止めされ、状況を十分に確認できていないほか、支援物資なども不足している状態だということです。
七尾市によりますと、市内の各地で土砂崩れや道路の亀裂が起き、30か所以上で通行止めが発生しているということです。
羽咋市によりますと、道路の陥没や家屋の倒壊で市内15か所で通行止めが発生しているほか、加賀市の7か所で、能美市の1か所でも通行止めが発生しているということです。
能登町によりますと、土砂崩れや道路の隆起が発生しているということです。
このほか、志賀町、中能登町、津幡町、内灘町、宝達志水町でも、道路のひび割れや隆起の情報が複数、寄せられているということです。
2024年1月2日 20時44分
1日に石川県能登地方で震度7の揺れを観測した地震の影響で、鉄道、空の便で2日も運転の見合わせや欠航など乱れが続いています。
JR東日本によりますと北陸新幹線は富山駅と長野駅の間で運転を見合わせていましたが、2日午後3時20分に全線で運転を再開しました。
新幹線の運転見合わせはすべて解消しました。
石川県内・富山県内の在来線は(午後8時時点)
JR西日本によりますと、
▽JR氷見線は、高岡駅と氷見駅の間で少なくとも5日まで運転を取りやめるということです。
▽JR七尾線は、2日は終日運転を見合わせ、3日は午前8時半ごろから金沢駅と高松駅の間で通常より本数を減らして運転予定だということです。高松駅と和倉温泉駅の間は運転再開の見通しがたっていないとしています。
▽JR高山線の越中八尾駅と猪谷駅の間で2日は終日運転を見合わせ、3日は午後6時半ごろから運転予定だということです。
▽「あいの風とやま鉄道」は、津幡駅と高岡駅の間で2日は終日運休し、3日の午後以降の再開を見込んでいるということです。
▽北陸鉄道は、2日は終日運転を見合わせ、
▽石川線は3日、通常どおり運行する予定で、
▽浅野川線は3日も運休するということです。
▽富山地方鉄道は、2日は終日、全線で運転を見合わせています。3日は立山線の岩峅寺駅と立山駅の間で始発から運転を見合わせるということです。
▽IRいしかわ鉄道は3日午前中は金沢駅と津幡駅の間で臨時列車を運行する予定です。
JRの在来線は、
▽信越本線の直江津駅と長岡駅の間、
▽越後線の新潟駅と柏崎駅の間、
▽弥彦線の弥彦駅と東三条駅の間については、2日は終日運転を見合わせるとしています。
そのほかの在来線については一部運休や遅れはあるものの運転を再開しています。
このうち、
▽越後線は越後赤塚駅と関屋駅の間で、3日以降も運休することにしました。一方、この区間以外は3日は始発から運行するとしています。
また、第三セクターの「えちごトキめき鉄道」は
▽妙高はねうまラインは運転を再開しましたが、
▽日本海ひすいラインの運転再開は2日午後8時以降を予定しているということです。
「ほくほく線」は、
▽越後湯沢駅とくびき駅の間で運行しています。
▽くびき駅と直江津駅の間は終日運転を見合わせるとしています。
能登空港は国土交通省によりますと、4日まで滑走路を閉鎖するということです。
復旧の見通しは不透明だということです。小松空港では、日本航空と全日空が羽田空港とを結ぶ臨時便をあわせて4便運航しました。
航空各社は、最新の運航状況についてホームページなどで確認するよう呼びかけています。
北陸道 通行止め続く
日本道路交通情報センターなどによりますと、北陸自動車道は富山県の小矢部インターチェンジと砺波インターチェンジの間の下り線で通行止めが続いています。
また、能越自動車道の高岡インターチェンジと七尾大泊インターチェンジの間や、能登地方に向かう自動車専用道路の「のと里山海道」の一部、それに国道や県道でも通行止めが相次いでいるということです。
石川県内 一般道でも通行止め
石川県内の道路の被害状況です。
輪島市に向かう周辺の道路は、地震の影響でほとんどが寸断され通行できなくなっているということです。
このため現地に向かっている関係機関の担当者の多くが足止めされ、状況を十分に確認できていないほか、支援物資なども不足している状態だということです。
七尾市によりますと、市内の各地で土砂崩れや道路の亀裂が起き、30か所以上で通行止めが発生しているということです。
羽咋市によりますと、道路の陥没や家屋の倒壊で市内15か所で通行止めが発生しているほか、加賀市の7か所で、能美市の1か所でも通行止めが発生しているということです。
能登町によりますと、土砂崩れや道路の隆起が発生しているということです。
このほか、志賀町、中能登町、津幡町、内灘町、宝達志水町でも、道路のひび割れや隆起の情報が複数、寄せられているということです。
小田原の役
小田原の役の背景
この戦のきっかけとなったのは、「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)です。
この頃、「名胡桃城」は真田氏の城で、「沼田城」の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)の位置付けでした。一方、本城の沼田城は、北条氏の城。真田氏と北条氏は、沼田城がある沼田領を巡って、局地戦や小競り合いが度々起こり、長い間、緊張した状態が続いていました。
当時の戦国大名にとって領土は、命にも等しい大切なものであり、先祖から受け継がれた土地を守り、自国の領土を拡大していくことは、戦国大名にとって最も大切な使命だったのです。その頃、豊臣秀吉は、四国の長宗我部氏を服従させ、東海の「徳川家康」を懐柔して、臣下の礼を取らせます。
さらに、1587年(天正15年)、25万の大軍を率いて薩摩の「島津義久」を討伐し、西日本を制圧。残るは、関東の北条氏と、奥羽の伊達氏を制圧すれば、天下統一を果たすことができることから、豊臣秀吉の関心は東日本に向けられます。
天下統一にあたり最大の障壁だったのが、関東の雄・北条氏でした。北条氏は地方豪族との関係も強く、豊臣秀吉と言えども簡単には攻め落とせる相手ではありませんでした。
また、徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)は、北条氏直に嫁いでおり、徳川と北条は同盟関係にあったことから、北条討伐がもし失敗に終わった場合、服従させた徳川家康などが再び離反する可能性もあったため、徳川家康の動きも警戒していたのです。
徳川家康による上洛交渉
豊臣秀吉は、できるだけ血を見ることなく天下が太平になることを望んでいたことから、北条氏政、北条氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。
1588年(天正16年)4月、豊臣秀吉は自分の力を天下に示すデモンストレーションとして、京都北野にある「聚楽第」(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招いて接待します。しかし、北条氏政と北条氏直、伊達政宗は招かれたものの、姿を見せませんでした。
これに対し豊臣秀吉は、北条氏と同盟関係にあった徳川家康を交渉役に任じ、北条氏のもとに遣わせます。徳川家康は、「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。もし上洛できぬと言うなら、氏直に嫁がせている私の娘は返して頂く」といった書状を、北条氏宛てに何度も送りました。
書状を受けた北条氏は、内部で意見が対立していたものの、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直の代理人として、弟の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させます。北条氏は、この上洛で沼田領問題を持ち出すことにより、有利な条件を引き出そうとしたのです。
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定と名胡桃城事件
豊臣秀吉は、北条氏と真田氏に対し、「惣無事令」(そうぶじれい/戦国大名間の領土紛争を禁じ、受諾した大名には領土と地位を保障する法令)を遵守して停戦するよう命じます。
豊臣秀吉の仲裁により、沼田城は「北条領」、名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので「真田領」と定められ、真田氏は手放した土地の代わりに、「信濃国箕輪」(現在の長野県)を与えられました。
しかし、豊臣秀吉の裁定に不満を持っていた北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、城のすべてを北条家の物にしようと、独断で名胡桃城を攻撃したことから、名胡桃城事件が勃発。当時、名胡桃城の城主だった「鈴木重則」を、偽の書状で「上田城」へ呼び寄せている間に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、乗っ取りに成功。鈴木重則は、猪俣邦憲の策略を見抜けなかったことに責任を感じ、「正覚寺」(現在の群馬県沼田市)で自害しました。
これを知った豊臣秀吉は、惣無事令に反すると激怒し、この名胡桃城事件をきっかけに、小田原の役へと繋がっていったのです。
小田原の役と豊臣秀吉の天下統一
名胡桃城事件を知った北条氏直は、和解に向けて、名胡桃城を奪ったこと、また上洛が遅れていることを弁明した書状を豊臣秀吉に送りますが、もはや戦いは避けられない状況でした。
1589年(天正17年)末、豊臣秀吉は、天下に北条討伐を命じ、ついに小田原の役が起こります。豊臣軍は、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻、鉢形、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)など、北条氏の支城を相次いで攻撃。これに対し、北条氏政と北条氏直は、町全体を取り囲む巨大な総構を築いて対応しましたが、豊臣軍約18万の大軍に完全包囲されてしまいます。
一方、豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、総石垣づくりの「石垣山城」を一夜にして築城し、茶人の千利休を呼んで大茶会を開いたり、近くの箱根で温泉旅行をしたりするほど余裕を見せていたと言われています。
豊臣軍の優勢を目の当たりにした北条氏は、約100日に及ぶ籠城戦のあと、ついに小田原城を開城。北条氏直は自らの切腹により、自分に対する処罰の免除を願い出ますが、切腹は見送られます。
しかし、開戦の責任を負う形で、北条氏政とその弟・北条氏照を切腹させ、北条氏の旧領をすべて徳川家康に割譲しました。
こうして、小田原の役によって北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一を果たすこととなったのです。
小田原の役の背景
この戦のきっかけとなったのは、「名胡桃城事件」(なぐるみじょうじけん)です。
この頃、「名胡桃城」は真田氏の城で、「沼田城」の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)の位置付けでした。一方、本城の沼田城は、北条氏の城。真田氏と北条氏は、沼田城がある沼田領を巡って、局地戦や小競り合いが度々起こり、長い間、緊張した状態が続いていました。
当時の戦国大名にとって領土は、命にも等しい大切なものであり、先祖から受け継がれた土地を守り、自国の領土を拡大していくことは、戦国大名にとって最も大切な使命だったのです。その頃、豊臣秀吉は、四国の長宗我部氏を服従させ、東海の「徳川家康」を懐柔して、臣下の礼を取らせます。
さらに、1587年(天正15年)、25万の大軍を率いて薩摩の「島津義久」を討伐し、西日本を制圧。残るは、関東の北条氏と、奥羽の伊達氏を制圧すれば、天下統一を果たすことができることから、豊臣秀吉の関心は東日本に向けられます。
天下統一にあたり最大の障壁だったのが、関東の雄・北条氏でした。北条氏は地方豪族との関係も強く、豊臣秀吉と言えども簡単には攻め落とせる相手ではありませんでした。
また、徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)は、北条氏直に嫁いでおり、徳川と北条は同盟関係にあったことから、北条討伐がもし失敗に終わった場合、服従させた徳川家康などが再び離反する可能性もあったため、徳川家康の動きも警戒していたのです。
徳川家康による上洛交渉
豊臣秀吉は、できるだけ血を見ることなく天下が太平になることを望んでいたことから、北条氏政、北条氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。
1588年(天正16年)4月、豊臣秀吉は自分の力を天下に示すデモンストレーションとして、京都北野にある「聚楽第」(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招いて接待します。しかし、北条氏政と北条氏直、伊達政宗は招かれたものの、姿を見せませんでした。
これに対し豊臣秀吉は、北条氏と同盟関係にあった徳川家康を交渉役に任じ、北条氏のもとに遣わせます。徳川家康は、「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。もし上洛できぬと言うなら、氏直に嫁がせている私の娘は返して頂く」といった書状を、北条氏宛てに何度も送りました。
書状を受けた北条氏は、内部で意見が対立していたものの、1588年(天正16年)、北条氏政と北条氏直の代理人として、弟の「北条氏規」(ほうじょううじのり)を上洛させます。北条氏は、この上洛で沼田領問題を持ち出すことにより、有利な条件を引き出そうとしたのです。
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定と名胡桃城事件
豊臣秀吉は、北条氏と真田氏に対し、「惣無事令」(そうぶじれい/戦国大名間の領土紛争を禁じ、受諾した大名には領土と地位を保障する法令)を遵守して停戦するよう命じます。
豊臣秀吉の仲裁により、沼田城は「北条領」、名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので「真田領」と定められ、真田氏は手放した土地の代わりに、「信濃国箕輪」(現在の長野県)を与えられました。
しかし、豊臣秀吉の裁定に不満を持っていた北条家の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が、城のすべてを北条家の物にしようと、独断で名胡桃城を攻撃したことから、名胡桃城事件が勃発。当時、名胡桃城の城主だった「鈴木重則」を、偽の書状で「上田城」へ呼び寄せている間に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、乗っ取りに成功。鈴木重則は、猪俣邦憲の策略を見抜けなかったことに責任を感じ、「正覚寺」(現在の群馬県沼田市)で自害しました。
これを知った豊臣秀吉は、惣無事令に反すると激怒し、この名胡桃城事件をきっかけに、小田原の役へと繋がっていったのです。
小田原の役と豊臣秀吉の天下統一
名胡桃城事件を知った北条氏直は、和解に向けて、名胡桃城を奪ったこと、また上洛が遅れていることを弁明した書状を豊臣秀吉に送りますが、もはや戦いは避けられない状況でした。
1589年(天正17年)末、豊臣秀吉は、天下に北条討伐を命じ、ついに小田原の役が起こります。豊臣軍は、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻、鉢形、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)など、北条氏の支城を相次いで攻撃。これに対し、北条氏政と北条氏直は、町全体を取り囲む巨大な総構を築いて対応しましたが、豊臣軍約18万の大軍に完全包囲されてしまいます。
一方、豊臣秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、総石垣づくりの「石垣山城」を一夜にして築城し、茶人の千利休を呼んで大茶会を開いたり、近くの箱根で温泉旅行をしたりするほど余裕を見せていたと言われています。
豊臣軍の優勢を目の当たりにした北条氏は、約100日に及ぶ籠城戦のあと、ついに小田原城を開城。北条氏直は自らの切腹により、自分に対する処罰の免除を願い出ますが、切腹は見送られます。
しかし、開戦の責任を負う形で、北条氏政とその弟・北条氏照を切腹させ、北条氏の旧領をすべて徳川家康に割譲しました。
こうして、小田原の役によって北条氏は滅亡し、豊臣秀吉の天下統一を果たすこととなったのです。
谢谢朋友帮忙拍了歌词本——!
「また明日」の約束を真的是首特别好的歌[苦涩][苦涩]Amber Color Oasis是一首很经典的晚间十一点档的结尾曲,また明日则是听着听着就仿佛看到三个人在夕阳下向你挥手道别的样子……[苦涩]
之前也说过,这次剧情的寄り添う気持ち不仅仅是在说普通社畜或粉丝对FRAME这个晚间节目的依赖感,更是在说FRAME三个人之间的依赖和信赖。所以看到「羽を休めていい」这句的时候,有觉得这句不仅是对工作一天的大家说的,更是英雄和诚司对龙说的[可怜]
整首歌都和FRAME的初衷非常贴合,“想要和更广泛的、更多的人亲近”,同时也和剧情里的英雄的想法是一样的,“所有人都是出于一些理由才会这样做,所以我会理解对方”,也很贴合整个315的“理由あって”的概念[苦涩]
相处了九年的时间、设定也经过了很多次改变,本以为三人已经非常亲密无间了,实际上还是发现三人之间有无法理解的隔阂。不过正是因为发现了问题,三人才会更紧密相连[羞嗒嗒] 经过这次的SNS事件,或许FRAME三个人会更加互いに寄り添っている吧!
「また明日」の約束を真的是首特别好的歌[苦涩][苦涩]Amber Color Oasis是一首很经典的晚间十一点档的结尾曲,また明日则是听着听着就仿佛看到三个人在夕阳下向你挥手道别的样子……[苦涩]
之前也说过,这次剧情的寄り添う気持ち不仅仅是在说普通社畜或粉丝对FRAME这个晚间节目的依赖感,更是在说FRAME三个人之间的依赖和信赖。所以看到「羽を休めていい」这句的时候,有觉得这句不仅是对工作一天的大家说的,更是英雄和诚司对龙说的[可怜]
整首歌都和FRAME的初衷非常贴合,“想要和更广泛的、更多的人亲近”,同时也和剧情里的英雄的想法是一样的,“所有人都是出于一些理由才会这样做,所以我会理解对方”,也很贴合整个315的“理由あって”的概念[苦涩]
相处了九年的时间、设定也经过了很多次改变,本以为三人已经非常亲密无间了,实际上还是发现三人之间有无法理解的隔阂。不过正是因为发现了问题,三人才会更紧密相连[羞嗒嗒] 经过这次的SNS事件,或许FRAME三个人会更加互いに寄り添っている吧!
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