中沢琴
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。

兄と共に「浪士隊」に参加

中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。

この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。

「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。

新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。

また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。

薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。

中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。

「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。

時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。

しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。

この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。

「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。

中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。

昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。

生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。

新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。

明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。

「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」

求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。

彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。

赤壁の戦い
事前の経緯
河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したが、8月に劉表が死に、跡を継いだ劉琮は9月に曹操へ降伏した。荊州の一部の人間は曹操への降伏を拒み、劉表の客将であった劉備に付き従った。その数は十数万人にも上り行軍が遅れたため、劉備は関羽が率いる数百艘の船にこれを分乗させ、漢水を南下させた。

劉備は陸路で江陵を目指して南下し、途中で曹操の騎兵に追いつかれたものの長坂の戦いで生き延びた。劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会し、1万人余りの軍勢の指揮を執っていた劉琦と合流しつつ、夏口へ到達した。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、南下して兵を長江沿いに布陣させた。
揚州の情勢
当時の孫権は会稽太守に過ぎず、揚州刺史は曹操が派遣した劉馥であった。劉馥は208年に死去し、帰順していた陳蘭・梅成・雷緒らが反乱を起こしたが、翌年までに夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇らに討伐されて滅んだ。

豫章太守の孫賁は曹操から征虜将軍に拝され、子を人質に出して帰順しようとしたが、呉郡太守の朱治に諌止された。孫賁の弟である廬陵太守の孫輔は、後に曹操に内通したことが発覚し、幽閉(ゆうへい)されている。

赤壁の戦い
数十万とも言われる兵と朝廷の権威を擁する曹操の大軍勢を前に、孫権の陣営は恐れを抱き、張昭らは降伏を説いた。しかし魯粛だけは抗戦を説き、鄱陽に出ていた周瑜を呼び戻させた。

周瑜は 「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は、本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」 と分析し、孫権に抗戦を説いた。

『三国志』呉書魯粛伝によると、 魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。一方、『三国志』蜀書諸葛亮伝によると、諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会した。。 諸葛亮は、「曹操の兵が強行軍で疲弊していること、荊州の人間が曹操に心服していないことを挙げ、関羽が指揮を執る精兵の水軍と劉琦が指揮を執る江夏軍が、孫権軍に協力すれば必ずや曹操を破ることができる」と説いた。

諸葛亮の発言に大いに喜んだ孫権は即座に周瑜、程普らが指揮する水陸二万の兵を派遣し、劉備、周瑜らは併力して疫病に悩まされていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させたとされている。
『三国志』魏書武帝紀には、 「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」 と書かれている。

『三国志』魏書武帝紀に裴松之が付注した『山陽公載記』には、 「公(曹操)は軍船を劉備に焼かれ、華容道を陸路撤退したが、泥道で、倒れた歩兵を踏み越えて騎行したので、死者が多数出た」と書かれている。

『三国志』呉書周瑜伝には、 (周瑜は)「赤壁において遭遇した曹公の軍を劉備の軍と共に逆撃した。この際、軍には疫病が流行っていたため、一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げた」と書かれている。さらに黄蓋の建策による火計と偽降を仕掛け、「油断した曹操兵船に魚油を浸した薪を密かに搭載した小船(走舸)を乗りつけて、同時に発火させたので、強風にあおられて岸辺の陣まで悉く炎上し、焼死・溺死者が広がって(曹操)軍は敗退した。劉備と周瑜が追撃したので、曹公は、曹仁に江陵城で殿軍を命じ北帰した」と書かれている。
『三国志』呉書周瑜伝に裴松之が付注した『江表伝』には、 「時に東南の風が激しく吹き荒れ北船(曹操軍船)を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼させた後に周瑜らは渡渉し陸上から追撃をかけ、北軍は大壊し、曹公は敗走した」と書かれている。

『三国志』蜀書先主伝には、 「先主(劉備)は孫権の派遣した周瑜・程普らの水軍数万と力を合わせ、赤壁で曹公を大いに破り、その船を焼いた。先主は、呉軍と共に水陸並進、追撃して南郡にいたり、曹公は、疾病による死者も多いため帰還した」と書かれている。

『三国志』呉書呉主伝には、 「周瑜と程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、劉備と共に進軍し赤壁で曹公を大いに破った」と書かれている。

笵曄『後漢書』考献帝紀には、 「曹操は水軍で孫権を討伐したが、烏林・赤壁で孫権の将周瑜に敗れた」と書かれている。

袁宏『後漢紀』考献皇帝紀には、 「曹操と周瑜は赤壁で戦い、曹操は大敗した」と書かれている。

『太平御覧』が引用する『英雄記』には、「曹操は赤壁から長江南岸へ渡ろうとしたが、船がなかったため筏を作って漢水沿いに川をくだって浦口に至った。曹操がすぐには渡ろうとしなかったため、周瑜は夜中に火を放たせ、筏に火燃えうつると、すぐに船を返して逃げかえった。数千艘の筏を燃やされた曹操はそのため夜中に逃走することになった。曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が死亡した。」と書かれている。
『三国志』呉書呉主伝には、 「曹公軍の大半が飢えと病で亡くなった」と書かれている 。

周瑜、劉備らは、水陸並行して更に曹操を追撃して、南郡まで兵を進めた。曹操は、慣れない江水岸の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退したとされている。

赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、曹操は張喜に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて合肥の救援に向かわせた。そして曹操配下の蔣済が流した、「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、孫盛は「赤壁の戦いで劉備が曹操を破った後、孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。

南郡攻防戦
208年冬、南郡に進撃した周瑜軍は、曹仁と長江を挟んで対峙した。甘寧は夷陵城を奪取することを提案し、周瑜はこの提案を採用、甘寧は数百人の部隊で夷陵城を奪取した。曹仁は甘寧に対し即座に5000人規模の部隊を派遣し夷陵を包囲させた。このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍を攻撃して破り、夷陵を完全確保することに成功した。

その後、渡河したばかりの周瑜の先鋒部隊(数千人)に陥いれられた配下の将・牛金を、曹仁は僅か数十人で包囲網に突入して救出し、それを見た部下たちは「将軍は真に天人なり」と感嘆した。双方の軍隊が対峙を始めたが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。曹仁は周瑜重傷を知り、周瑜軍へ進撃した。しかし、周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退けた。交戦開始から一年を越え、曹仁は周瑜らに包囲されたため窮地に陥った。劉備は張飛に千人を預けて周瑜の指揮下に入れ、一方で周瑜から二千人を借り受け、軍勢を互いに送りあった上で協調して曹仁を討つことを提案した。周瑜はこれに同意し、自軍から二千の兵を選び劉備に預けた。その間、南部の4郡の太守は劉備に攻撃され戦死、降伏し、また関羽にも北道を封鎖された。李通・満寵らが関羽を攻撃し、関羽軍に突入し、戦いつつ前進し、曹仁軍を救出した。結局は曹仁らは江陵を捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵を占拠し、南郡を平定した。
曹操は揚州における陳蘭・梅成・雷緒らの反乱鎮圧に夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇を派遣する一方で、荊州に対しては劉巴を単身派遣するだけで効果的な手を打てず、一度は確保した荊州の南郡以南を全て失った。しかし襄陽郊外の青泥まで進出していた関羽と蘇非の二人を楽進が攻撃し撤退させ、周辺の異民族をも降伏させたため、襄陽一帯だけは確保することができた。

舞踏会(上)
芥川龍之介

       一

 明治十九年十一月三日の夜であつた。当時十七歳だつた――家けの令嬢明子あきこは、頭の禿げた父親と一しよに、今夜の舞踏会が催さるべき鹿鳴館ろくめいくあんの階段を上つて行つた。明あかるい瓦斯ガスの光に照らされた、幅の広い階段の両側には、殆ほとんど人工に近い大輪の菊の花が、三重の籬まがきを造つてゐた。菊は一番奥のがうす紅べに、中程のが濃い黄色、一番前のがまつ白な花びらを流蘇ふさの如く乱してゐるのであつた。さうしてその菊の籬の尽きるあたり、階段の上の舞踏室からは、もう陽気な管絃楽の音が、抑へ難い幸福の吐息のやうに、休みなく溢れて来るのであつた。
 明子は夙つとに仏蘭西フランス語と舞踏との教育を受けてゐた。が、正式の舞踏会に臨むのは、今夜がまだ生まれて始めてであつた。だから彼女は馬車の中でも、折々話しかける父親に、上うはの空の返事ばかり与へてゐた。それ程彼女の胸の中には、愉快なる不安とでも形容すべき、一種の落着かない心もちが根を張つてゐたのであつた。彼女は馬車が鹿鳴館の前に止るまで、何度いら立たしい眼を挙げて、窓の外に流れて行く東京の町の乏しい燈火ともしびを、見つめた事だか知れなかつた。
 が、鹿鳴館の中へはひると、間もなく彼女はその不安を忘れるやうな事件に遭遇した。と云ふのは階段の丁度中程まで来かかつた時、二人は一足先に上つて行く支那の大官に追ひついた。すると大官は肥満した体を開いて、二人を先へ通らせながら、呆あきれたやうな視線を明子へ投げた。初々うひうひしい薔薇色の舞踏服、品好く頸へかけた水色のリボン、それから濃い髪に匂つてゐるたつた一輪の薔薇の花――実際その夜の明子の姿は、この長い辮髪べんぱつを垂れた支那の大官の眼を驚かすべく、開化の日本の少女の美を遺憾ゐかんなく具へてゐたのであつた。と思ふと又階段を急ぎ足に下りて来た、若い燕尾服の日本人も、途中で二人にすれ違ひながら、反射的にちよいと振り返つて、やはり呆あきれたやうな一瞥いちべつを明子の後姿に浴せかけた。それから何故か思ひついたやうに、白い襟飾ネクタイへ手をやつて見て、又菊の中を忙しく玄関の方へ下りて行つた。
二人が階段を上り切ると、二階の舞踏室の入口には、半白の頬鬚ほほひげを蓄へた主人役の伯爵が、胸間に幾つかの勲章を帯びて、路易ルイ十五世式の装ひを凝こらした年上の伯爵夫人と一しよに、大様おほやうに客を迎へてゐた。明子はこの伯爵でさへ、彼女の姿を見た時には、その老獪らうくあいらしい顔の何処かに、一瞬間無邪気な驚嘆の色が去来したのを見のがさなかつた。人の好い明子の父親は、嬉しさうな微笑を浮べながら、伯爵とその夫人とへ手短てみじかに娘を紹介した。彼女は羞恥しうちと得意とを交かはる交がはる味つた。が、その暇にも権高けんだかな伯爵夫人の顔だちに、一点下品な気があるのを感づくだけの余裕があつた。
 舞踏室の中にも至る所に、菊の花が美しく咲き乱れてゐた。さうして又至る所に、相手を待つてゐる婦人たちのレエスや花や象牙の扇が、爽かな香水の匂の中に、音のない波の如く動いてゐた。明子はすぐに父親と分れて、その綺羅きらびやかな婦人たちの或一団と一しよになつた。それは皆同じやうな水色や薔薇色の舞踏服を着た、同年輩らしい少女であつた。彼等は彼女を迎へると、小鳥のやうにさざめき立つて、口口に今夜の彼女の姿が美しい事を褒め立てたりした。
 が、彼女がその仲間へはひるや否や、見知らない仏蘭西フランスの海軍将校が、何処からか静に歩み寄つた。さうして両腕を垂れた儘、叮嚀に日本風の会釈ゑしやくをした。明子はかすかながら血の色が、頬に上つて来るのを意識した。しかしその会釈が何を意味するかは、問ふまでもなく明かだつた。だから彼女は手にしてゐた扇を預つて貰ふべく、隣に立つてゐる水色の舞踏服の令嬢をふり返つた。と同時に意外にも、その仏蘭西の海軍将校は、ちらりと頬に微笑の影を浮べながら、異様なアクサンを帯びた日本語で、はつきりと彼女にかう云つた。
「一しよに踊つては下さいませんか。」

 間もなく明子は、その仏蘭西の海軍将校と、「美しく青きダニウブ」のヴアルスを踊つてゐた。相手の将校は、頬の日に焼けた、眼鼻立ちの鮮あざやかな、濃い口髭のある男であつた。彼女はその相手の軍服の左の肩に、長い手袋を嵌はめた手を預くべく、余りに背が低かつた。が、場馴れてゐる海軍将校は、巧に彼女をあしらつて、軽々と群集の中を舞ひ歩いた。さうして時々彼女の耳に、愛想の好い仏蘭西語の御世辞さへも囁ささやいた。
彼女はその優しい言葉に、恥しさうな微笑を酬いながら、時々彼等が踊つてゐる舞踏室の周囲へ眼を投げた。皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬ちりめんの幔幕まんまくや、爪を張つた蒼竜さうりゆうが身をうねらせてゐる支那の国旗の下には、花瓶々々の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰欝いんうつな金色を、人波の間にちらつかせてゐた。しかもその人波は、三鞭酒シヤンパアニユのやうに湧き立つて来る、花々しい独逸ドイツ管絃楽の旋律の風に煽られて、暫くも目まぐるしい動揺を止めなかつた。明子はやはり踊つてゐる友達の一人と眼を合はすと、互に愉快さうな頷うなづきを忙しい中に送り合つた。が、その瞬間には、もう違つた踊り手が、まるで大きな蛾がが狂ふやうに、何処からか其処へ現れてゐた。
 しかし明子はその間にも、相手の仏蘭西の海軍将校の眼が、彼女の一挙一動に注意してゐるのを知つてゐた。それは全くこの日本に慣れない外国人が、如何に彼女の快活な舞踏ぶりに、興味があつたかを語るものであつた。こんな美しい令嬢も、やはり紙と竹との家の中に、人形の如く住んでゐるのであらうか。さうして細い金属の箸で、青い花の描いてある手のひら程の茶碗から、米粒を挾んで食べてゐるのであらうか。――彼の眼の中にはかう云ふ疑問が、何度も人懐しい微笑と共に往来するやうであつた。明子にはそれが可笑をかしくもあれば、同時に又誇らしくもあつた。だから彼女の華奢きやしやな薔薇色の踊り靴は、物珍しさうな相手の視線が折々足もとへ落ちる度に、一層身軽く滑なめらかな床の上を辷すべつて行くのであつた。
 が、やがて相手の将校は、この児猫のやうな令嬢の疲れたらしいのに気がついたと見えて、劬いたはるやうに顔を覗きこみながら、
「もつと続けて踊りませうか。」
「ノン・メルシイ。」
 明子は息をはずませながら、今度ははつきりとかう答へた。
 するとその仏蘭西の海軍将校は、まだヴアルスの歩みを続けながら、前後左右に動いてゐるレエスや花の波を縫つて、壁側かべぎはの花瓶の菊の方へ、悠々と彼女を連れて行つた。さうして最後の一廻転の後、其処にあつた椅子の上へ、鮮あざやかに彼女を掛けさせると、自分は一旦軍服の胸を張つて、それから又前のやうに恭うやうやしく日本風の会釈をした。

 その後又ポルカやマズユルカを踊つてから、明子はこの仏蘭西の海軍将校と腕を組んで、白と黄とうす紅と三重の菊の籬まがきの間を、階下の広い部屋へ下りて行つた。
此処には燕尾服や白い肩がしつきりなく去来する中に、銀や硝子ガラスの食器類に蔽おほはれた幾つかの食卓が、或は肉と松露しようろとの山を盛り上げたり、或はサンドウイツチとアイスクリイムとの塔を聳そばだてたり、或は又柘榴ざくろと無花果いちじゆくとの三角塔を築いたりしてゐた。殊に菊の花が埋め残した、部屋の一方の壁上には、巧な人工の葡萄蔓ぶだうつるが青々とからみついてゐる、美しい金色の格子があつた。さうしてその葡萄の葉の間には、蜂の巣のやうな葡萄の房が、累々るゐるゐと紫に下つてゐた。明子はその金色の格子の前に、頭の禿げた彼女の父親が、同年輩の紳士と並んで、葉巻を啣くはへてゐるのに遇つた。父親は明子の姿を見ると、満足さうにちよいと頷いたが、それぎり連れの方を向いて、又葉巻を燻くゆらせ始めた。
 仏蘭西の海軍将校は、明子と食卓の一つへ行つて、一しよにアイスクリイムの匙さじを取つた。彼女はその間も相手の眼が、折々彼女の手や髪や水色のリボンを掛けた頸くびへ注がれてゐるのに気がついた。それは勿論彼女にとつて、不快な事でも何でもなかつた。が、或刹那には女らしい疑ひも閃ひらめかずにはゐられなかつた。そこで黒い天鵞絨びろうどの胸に赤い椿の花をつけた、独逸人らしい若い女が二人の傍を通つた時、彼女はこの疑ひを仄ほのめかせる為に、かう云ふ感歎の言葉を発明した。
「西洋の女の方はほんたうに御美しうございますこと。」
 海軍将校はこの言葉を聞くと、思ひの外真面目に首を振つた。
「日本の女の方も美しいです。殊にあなたなぞは――」
「そんな事はこざいませんわ。」
「いえ、御世辞ではありません。その儘すぐに巴里パリの舞踏会へも出られます。さうしたら皆が驚くでせう。ワツトオの画の中の御姫様のやうですから。」
 明子はワツトオを知らなかつた。だから海軍将校の言葉が呼び起した、美しい過去の幻も――仄暗い森の噴水と凋すがれて行く薔薇との幻も、一瞬の後には名残りなく消え失せてしまはなければならなかつた。が、人一倍感じの鋭い彼女は、アイスクリイムの匙を動かしながら、僅にもう一つ残つてゐる話題に縋すがる事を忘れなかつた。
「私も巴里の舞踏会へ参つて見たうございますわ。」
海軍将校はかう云ひながら、二人の食卓を繞めぐつてゐる人波と菊の花とを見廻したが、忽ち皮肉な微笑の波が瞳の底に動いたと思ふと、アイスクリイムの匙を止めて、
「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。」と半ば独り語のやうにつけ加へた。

 一時間の後、明子と仏蘭西フランスの海軍将校とは、やはり腕を組んだ儘、大勢の日本人や外国人と一しよに、舞踏室の外にある星月夜の露台に佇んでゐた。
 欄干一つ隔へだてた露台の向うには、広い庭園を埋めた針葉樹が、ひつそりと枝を交し合つて、その梢こずゑに点々と鬼灯提燈ほほづきぢやうちんの火を透すかしてゐた。しかも冷かな空気の底には、下の庭園から上つて来る苔の匂や落葉の匂が、かすかに寂しい秋の呼吸を漂はせてゐるやうであつた。が、すぐ後の舞踏室では、やはりレエスや花の波が、十六菊を染め抜いた紫縮緬ちりめんの幕の下に、休みない動揺を続けてゐた。さうして又調子の高い管絃楽のつむじ風が、相不変あひかはらずその人間の海の上へ、用捨ようしやもなく鞭を加へてゐた。


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