義姫
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義姫
刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 歴女必見!戦国武将を支えた女剣士 義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。
子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か
足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。
その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。
その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。
伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生
義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。
1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。
義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。
結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。
伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛
義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。
伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。
伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。
まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。
戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。
同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。
義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か
伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。
一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。
しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。
最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。
次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。
そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。
この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。
戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫
一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。
1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。
そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。
そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。
当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。
義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。
そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。
ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。
謎多き、義姫の心模様
義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。
実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。
1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。
義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。
伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。
ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。
なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。
そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。
義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。
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戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。
子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か
足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。
その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。
その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。
伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生
義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。
1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。
義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。
結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。
伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛
義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。
伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。
伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。
まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。
戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。
同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。
義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か
伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。
一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。
しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。
最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。
次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。
そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。
この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。
戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫
一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。
1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。
そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。
そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。
当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。
義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。
そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。
ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。
謎多き、義姫の心模様
義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。
実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。
1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。
義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。
伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。
ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。
なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。
そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。
義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。
随想
㈠
记录生活是我为数不多的认为它是真正有趣的事情之一,所以我每天都写日记。我喜欢记录,硬要类比成什么的话,就像是把这个无法量化的宇宙偷偷裁掉一块儿装进我的培养皿里,培育成一个我所能掌控的微小的新世界一样。没错这是妄想,是日常出现在我脑子里的一些对世界与生活的荒唐妄想,我这个人就像那些从我口中莫名其妙说出来的奇怪比喻一样,是个从小一直都被身边人认为脑子怪的人。
这个莫名其妙开始连载的写作系列说是想通过阅读源桑的书之后每天留下些什么感悟,其实归根结底是想以此为契机写一些自己的事,为五年十年后的自己解闷,就好像现在的我已经完全无法理解五年前的我为什么会对生命有那么消极悲观的看法一样,想必到那时候回头看现在的自己也一定有趣,看现在所留下的这些文字,同样也会费解。但这个过程很好玩不是吗,解读过去的自己就像脑内进行了一场时空穿越一样,我此刻留下这些文字,是回忆过去的自己,而这些文字也会送给将来的那个我,一次文章的写作过程可以让不同年龄的自己获得快乐,赚啊!(笑。
说回正题,这一小篇写下的初衷是想解构这句话——从生命的车窗眺望。这其实是一个很抽象的短句,这个抽象并不是指这句话本身难以理解,而是因为眺望生命本身就是需要一个人有着非常超然的心境才能通过平常心去做得到的事情,而现阶段的我是个浮躁的俗人,如此眺望,能想通的事情太少。
当我刚打完上一句话,苦于不知道接下来该长篇大论些什么而停笔了好几分钟的时候突然意识到,何必将这样的一个话题非要上升到什么高度深度,既然是眺望遥远的过去,聊聊小时候在幼儿园的孩子们之间风靡一时的薄荷糖薄片,这何尝不也是一个优秀的话题?这样可讲的事情就太多了,有了这种想法就像开启了走马灯的开关,各种闪回的片段在脑子里乱窜,这个过程是很好玩的,相信大家设想一下也一定有同样的体会。
『人生は旅だというが、確かにそんな気もする。自分の体を機関車に喚えるなら、この車窓は存外面白い。』
㈠
记录生活是我为数不多的认为它是真正有趣的事情之一,所以我每天都写日记。我喜欢记录,硬要类比成什么的话,就像是把这个无法量化的宇宙偷偷裁掉一块儿装进我的培养皿里,培育成一个我所能掌控的微小的新世界一样。没错这是妄想,是日常出现在我脑子里的一些对世界与生活的荒唐妄想,我这个人就像那些从我口中莫名其妙说出来的奇怪比喻一样,是个从小一直都被身边人认为脑子怪的人。
这个莫名其妙开始连载的写作系列说是想通过阅读源桑的书之后每天留下些什么感悟,其实归根结底是想以此为契机写一些自己的事,为五年十年后的自己解闷,就好像现在的我已经完全无法理解五年前的我为什么会对生命有那么消极悲观的看法一样,想必到那时候回头看现在的自己也一定有趣,看现在所留下的这些文字,同样也会费解。但这个过程很好玩不是吗,解读过去的自己就像脑内进行了一场时空穿越一样,我此刻留下这些文字,是回忆过去的自己,而这些文字也会送给将来的那个我,一次文章的写作过程可以让不同年龄的自己获得快乐,赚啊!(笑。
说回正题,这一小篇写下的初衷是想解构这句话——从生命的车窗眺望。这其实是一个很抽象的短句,这个抽象并不是指这句话本身难以理解,而是因为眺望生命本身就是需要一个人有着非常超然的心境才能通过平常心去做得到的事情,而现阶段的我是个浮躁的俗人,如此眺望,能想通的事情太少。
当我刚打完上一句话,苦于不知道接下来该长篇大论些什么而停笔了好几分钟的时候突然意识到,何必将这样的一个话题非要上升到什么高度深度,既然是眺望遥远的过去,聊聊小时候在幼儿园的孩子们之间风靡一时的薄荷糖薄片,这何尝不也是一个优秀的话题?这样可讲的事情就太多了,有了这种想法就像开启了走马灯的开关,各种闪回的片段在脑子里乱窜,这个过程是很好玩的,相信大家设想一下也一定有同样的体会。
『人生は旅だというが、確かにそんな気もする。自分の体を機関車に喚えるなら、この車窓は存外面白い。』
#仙台育英#
斋藤敏哉进路:东京国际大
敏哉爸爸给敏哉的全力挥棒起名“大猩猩挥杆”
寺田贤生进路:同志社大
寺田追随着佐藤主将去同志社大啦,未来不会以职业选手为目标,但是对棒球的热情不会消失,将来想从事和棒球有关的工作
“ゴリラスイング”で東京新大学に旋風を巻き起こす。仙台育英の斎藤敏哉(はるや)内野手(18)が、東京新大学野球の東京国際大に進学。昨夏の甲子園で代打で活躍した寺田賢生内野手(18)は、関西学生野球の同大へ進学。将来、野球に関わる仕事に就くために大学で結果を残し、社会人野球入りを目指す。
打撃に秀でた選手を求めていた東京国際大に決めた。斎藤敏の持ち味は、父敏文さんが“ゴリラスイング”と名付けた、力いっぱいのフルスイング。23年夏の宮城県大会では本塁打2本。準々決勝東北戦では満塁本塁打を放つなど、18打数8安打8打点と自慢のフルスイングは絶好調だった。
だが、それ以降は調子を崩した。須江航監督(40)の「ホームランの後の成績が大事」という言葉や周りからの期待に重圧を感じ、「打たないといけないという気持ちがあった」と焦った。甲子園ではわずか1安打、その後のかごしま国体でも思うような成績を残せなかった。
大学では「ホームランバッターとしてやっていきたい」と意気込む。そのためにはレギュラー奪取はもちろん、調子を崩さずに戦い抜くことも必要だ。高校野球の中では修正しきれなかったが、父敏文さんに日々、小さなズレを指摘してもらい打撃修正に努めている。「チームに足りないものをしっかり自分で磨いて、チームの勝利に貢献できれば。そこを徹底的にやりたい」。1年生から試合に出場し、目標とするプロ野球選手へ-。フルスイングを極め、本塁打の量産態勢に入る。
○…寺田が同大を志望したのは、東北勢初優勝を果たした22年夏に主将を務めた先輩・佐藤悠斗(1年)の存在が大きかったという。「(佐藤)悠斗さんの入学が決まってから同大を考え始めました」と、先輩の背中を追いかける。「高校野球で積んできたものを前面に出して、長いシーズンの中で安定して結果を出せるようにしていきたい」と、憧れの先輩の下でさらなる成長を誓った。
息の長い野球人生を送る。高校3年間を振り返り「打撃が一番成長した。周りからのアドバイスで引き出しも増えた」と成長を実感しているが今後、プロの世界は目指さないという。昨年10月、チームメート仁田陽翔投手(3年)のドラフト指名漏れを目の当たりにし「自分の中では仁田はすごい存在だったので、(指名漏れで)プロの壁を思い知った」と、レベルの高さを痛感。それでも野球への情熱は消えない。「将来は大好きな野球に関わる仕事に就きたい。大学で結果を残して、社会人野球でプレーしたい」と先を見据えた。
斋藤敏哉进路:东京国际大
敏哉爸爸给敏哉的全力挥棒起名“大猩猩挥杆”
寺田贤生进路:同志社大
寺田追随着佐藤主将去同志社大啦,未来不会以职业选手为目标,但是对棒球的热情不会消失,将来想从事和棒球有关的工作
“ゴリラスイング”で東京新大学に旋風を巻き起こす。仙台育英の斎藤敏哉(はるや)内野手(18)が、東京新大学野球の東京国際大に進学。昨夏の甲子園で代打で活躍した寺田賢生内野手(18)は、関西学生野球の同大へ進学。将来、野球に関わる仕事に就くために大学で結果を残し、社会人野球入りを目指す。
打撃に秀でた選手を求めていた東京国際大に決めた。斎藤敏の持ち味は、父敏文さんが“ゴリラスイング”と名付けた、力いっぱいのフルスイング。23年夏の宮城県大会では本塁打2本。準々決勝東北戦では満塁本塁打を放つなど、18打数8安打8打点と自慢のフルスイングは絶好調だった。
だが、それ以降は調子を崩した。須江航監督(40)の「ホームランの後の成績が大事」という言葉や周りからの期待に重圧を感じ、「打たないといけないという気持ちがあった」と焦った。甲子園ではわずか1安打、その後のかごしま国体でも思うような成績を残せなかった。
大学では「ホームランバッターとしてやっていきたい」と意気込む。そのためにはレギュラー奪取はもちろん、調子を崩さずに戦い抜くことも必要だ。高校野球の中では修正しきれなかったが、父敏文さんに日々、小さなズレを指摘してもらい打撃修正に努めている。「チームに足りないものをしっかり自分で磨いて、チームの勝利に貢献できれば。そこを徹底的にやりたい」。1年生から試合に出場し、目標とするプロ野球選手へ-。フルスイングを極め、本塁打の量産態勢に入る。
○…寺田が同大を志望したのは、東北勢初優勝を果たした22年夏に主将を務めた先輩・佐藤悠斗(1年)の存在が大きかったという。「(佐藤)悠斗さんの入学が決まってから同大を考え始めました」と、先輩の背中を追いかける。「高校野球で積んできたものを前面に出して、長いシーズンの中で安定して結果を出せるようにしていきたい」と、憧れの先輩の下でさらなる成長を誓った。
息の長い野球人生を送る。高校3年間を振り返り「打撃が一番成長した。周りからのアドバイスで引き出しも増えた」と成長を実感しているが今後、プロの世界は目指さないという。昨年10月、チームメート仁田陽翔投手(3年)のドラフト指名漏れを目の当たりにし「自分の中では仁田はすごい存在だったので、(指名漏れで)プロの壁を思い知った」と、レベルの高さを痛感。それでも野球への情熱は消えない。「将来は大好きな野球に関わる仕事に就きたい。大学で結果を残して、社会人野球でプレーしたい」と先を見据えた。
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