輪島 朝市通り火災は1か所から拡大した 重なった想定外と誤算
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
#大友至恩[超话]#
X@shion_otomo
「ふくは〜うち おにも〜うち」
今年も恵方巻き食べたよ
2枚目の写真は小さい頃に読み聞かせしていた絵本✨
「ふくはうち おにもうち」
笑う門には福来たる‼️
オニも福も一緒に笑って今年も元気に楽しく過ごそうじゃありませんか✨
#大友至恩
#劇団東俳
#子役
#俳優
#役者
#舞台
#絵本
2022年2月3日
X@shion_otomo
「ふくは〜うち おにも〜うち」
今年も恵方巻き食べたよ
2枚目の写真は小さい頃に読み聞かせしていた絵本✨
「ふくはうち おにもうち」
笑う門には福来たる‼️
オニも福も一緒に笑って今年も元気に楽しく過ごそうじゃありませんか✨
#大友至恩
#劇団東俳
#子役
#俳優
#役者
#舞台
#絵本
2022年2月3日
鹿鳴館
国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1941年(昭和16年)に取り壊された。
経緯
計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。
それまでは国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館か、あるいは港区三田の蜂須賀侯爵邸[要出典]などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)の地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中、規模拡大があり3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤード設備も備えた。
鹿鳴館時代
同館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。
しかし当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという。
一方、欧化政策を批判する国粋主義者は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていた。井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって天長節夜会が開催された)。
首相官邸の仮装舞踏会
「鹿鳴館時代」の最も華麗な舞踏会のひとつとして知られるのは、1887年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。この舞踏会は、実は鹿鳴館ではなく首相官邸で行われたもので、さらに外交とは直接関係のない催しだった。
伊藤博文首相・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。しかし当時の国粋主義者たちは、このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。アメリカへの渡航歴があり、外務大丞を務めたこともある勝海舟でさえ、これを契機に憂国の感を深め、これを21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府に意見した。
その後
払い下げ
1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族の親睦団体である華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。1898年にコンドルが改修工事を行い、外観が変更された。
1927年(昭和2年)、華族会館の敷地が日本徴兵保険(日本徴兵)に売却された。敷地に1930年に日本徴兵のビル(3階建)が新築されたが、旧鹿鳴館の建物は残されていた(内国貯金銀行も建物を使用した)。
取り壊し
旧鹿鳴館が取り壊されたのは1940年(昭和15年)である。取り壊し計画の話が広まった時、これを惜しんだ早大教授で商工省参与官の喜多壮一郎が、幣原喜重郎商相に保存を提議し、9日に院内大臣室で岸信介次官、山本会計局長と協議。結局、取り壊し計画を止めることができなかったため、跡地に幣原のポケットマネーで「史蹟鹿鳴館跡」の記念碑を建てることを約束させたという。しかしこの約束も守られることは無かった。
1940年3月9日の東京日日新聞は以下のように報じた。「日本徴兵保険会社では最近のビル飢饉時代に建物に比較して広大な敷地を遊ばしておくのは土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、不経済であるとの理由で建物の取毀しを決定したともいはれ、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して商工省分室として貸室することに内定、数日前から工事に着手した」。
取り壊しの際に取外された階段と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されている。また取り壊し時に売却されたシャンデリアは江戸川区の燈明寺(平井聖天)に残っている。
建築家谷口吉郎は、鹿鳴館の滅失について、11月8日の東京日日新聞に「明治の哀惜」というタイトルで記事を寄せた。「明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。それこそいい明治の記念物となったらうに。明治時代の人から、次の時代に贈るほんとにいい贈物になつたことと思ふ」「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」。谷口は後に博物館明治村の開設に尽力し、初代館長となった。
戦後、鹿鳴館の跡には千代田区によって「鹿鳴館跡」という碑が建立された。2020年10月撮影
鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷跡の通称「黒門」は旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。千代田区内幸町の跡地には「鹿鳴館跡」のプレートが設置されている。
その跡地には日比谷U-1ビル(旧大和生命ビル/NBF日比谷ビル)が2022年9月まで存在していたが、解体され、現在は更地になっている。
国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1941年(昭和16年)に取り壊された。
経緯
計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。
それまでは国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館か、あるいは港区三田の蜂須賀侯爵邸[要出典]などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)の地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中、規模拡大があり3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤード設備も備えた。
鹿鳴館時代
同館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。
しかし当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという。
一方、欧化政策を批判する国粋主義者は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていた。井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって天長節夜会が開催された)。
首相官邸の仮装舞踏会
「鹿鳴館時代」の最も華麗な舞踏会のひとつとして知られるのは、1887年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。この舞踏会は、実は鹿鳴館ではなく首相官邸で行われたもので、さらに外交とは直接関係のない催しだった。
伊藤博文首相・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。しかし当時の国粋主義者たちは、このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。アメリカへの渡航歴があり、外務大丞を務めたこともある勝海舟でさえ、これを契機に憂国の感を深め、これを21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府に意見した。
その後
払い下げ
1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族の親睦団体である華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。1898年にコンドルが改修工事を行い、外観が変更された。
1927年(昭和2年)、華族会館の敷地が日本徴兵保険(日本徴兵)に売却された。敷地に1930年に日本徴兵のビル(3階建)が新築されたが、旧鹿鳴館の建物は残されていた(内国貯金銀行も建物を使用した)。
取り壊し
旧鹿鳴館が取り壊されたのは1940年(昭和15年)である。取り壊し計画の話が広まった時、これを惜しんだ早大教授で商工省参与官の喜多壮一郎が、幣原喜重郎商相に保存を提議し、9日に院内大臣室で岸信介次官、山本会計局長と協議。結局、取り壊し計画を止めることができなかったため、跡地に幣原のポケットマネーで「史蹟鹿鳴館跡」の記念碑を建てることを約束させたという。しかしこの約束も守られることは無かった。
1940年3月9日の東京日日新聞は以下のように報じた。「日本徴兵保険会社では最近のビル飢饉時代に建物に比較して広大な敷地を遊ばしておくのは土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、不経済であるとの理由で建物の取毀しを決定したともいはれ、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して商工省分室として貸室することに内定、数日前から工事に着手した」。
取り壊しの際に取外された階段と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されている。また取り壊し時に売却されたシャンデリアは江戸川区の燈明寺(平井聖天)に残っている。
建築家谷口吉郎は、鹿鳴館の滅失について、11月8日の東京日日新聞に「明治の哀惜」というタイトルで記事を寄せた。「明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。それこそいい明治の記念物となったらうに。明治時代の人から、次の時代に贈るほんとにいい贈物になつたことと思ふ」「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」。谷口は後に博物館明治村の開設に尽力し、初代館長となった。
戦後、鹿鳴館の跡には千代田区によって「鹿鳴館跡」という碑が建立された。2020年10月撮影
鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷跡の通称「黒門」は旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。千代田区内幸町の跡地には「鹿鳴館跡」のプレートが設置されている。
その跡地には日比谷U-1ビル(旧大和生命ビル/NBF日比谷ビル)が2022年9月まで存在していたが、解体され、現在は更地になっている。
✋热门推荐