blog リョウガ 20121005 ガリガリ グッド イブニング☆ リョウガ
こんばんは(・∀・)!!
晚上好(・∀・)!!
7日のライブについて謝らなければならない事があります…
关于7日的live,我有一些事情要道歉…
残念な事に試験とぶつかってしまい、ライブに出る事が出来ません……
遗憾的是,考试有冲突,所以我无法去live了…
久しぶりのライブなので超楽しみだったのに………
因为是久违的live所以特别期待的………
その分!!
試験頑張ります!!
考试会加油的!!
皆さん!応援お願いしますm(._.)m
大家!请为我应援m(._.)m
「こんばんはー(・ω<)☆ リョウガ」
の質問返し★
みな★ さん
Q.餃子は家族で食べたんですか?
それとも1人で食べたんですか?
问:饺子是一家人吃的吗?
还是一个人吃的?
A.家族で食べました^^
やっぱり自分が作った物は美味しかったです♪
家族皆、美味しいって言ってくれました( ゚∀゚)
答:是一家人吃的^^
果然还是自己做的饭好吃♪
家里人也说好吃( ゚∀゚)
実甘 さん
Q.稜雅くんの事、
稜君か、稜ちゃんって呼んでいいですか??
问:可以叫你稜酱吗??
A.是非呼んで下さい(^∀^)!!
あだ名付けてくれると嬉しいです(`・ω・´)
答:请一定这么叫(^∀^)!!
我很高兴给我起绰号(`・ω・´)
はい!!
写真タイムです!
照片时间!
コーイチ☆
photo:01
あっ!やべっ!!
コーイチにこの写真載せたらぶっ飛ばす
って言われていたんだった!!!!
やべぇ!!!!!!!!!っべぇ!!!!!!!
啊!糟了!!
koichi说我发出来这张照片他会打飞我!!!!!!
真糟糕啊!!!!糕!!!
こっち載せろって言われたんだった!!
这是他们让我发上来的!!
photo:02
シュールな二人☆
photo:03
photo:04
最後に腕が……えっ…!?
最后是手臂……诶…!?
photo:05
答えられていないリクエストはごめんなさい…
没回答的请求真的很抱歉…
それでは
那么
ガリガリ グッバイ☆
garigari goodbye☆
こんばんは(・∀・)!!
晚上好(・∀・)!!
7日のライブについて謝らなければならない事があります…
关于7日的live,我有一些事情要道歉…
残念な事に試験とぶつかってしまい、ライブに出る事が出来ません……
遗憾的是,考试有冲突,所以我无法去live了…
久しぶりのライブなので超楽しみだったのに………
因为是久违的live所以特别期待的………
その分!!
試験頑張ります!!
考试会加油的!!
皆さん!応援お願いしますm(._.)m
大家!请为我应援m(._.)m
「こんばんはー(・ω<)☆ リョウガ」
の質問返し★
みな★ さん
Q.餃子は家族で食べたんですか?
それとも1人で食べたんですか?
问:饺子是一家人吃的吗?
还是一个人吃的?
A.家族で食べました^^
やっぱり自分が作った物は美味しかったです♪
家族皆、美味しいって言ってくれました( ゚∀゚)
答:是一家人吃的^^
果然还是自己做的饭好吃♪
家里人也说好吃( ゚∀゚)
実甘 さん
Q.稜雅くんの事、
稜君か、稜ちゃんって呼んでいいですか??
问:可以叫你稜酱吗??
A.是非呼んで下さい(^∀^)!!
あだ名付けてくれると嬉しいです(`・ω・´)
答:请一定这么叫(^∀^)!!
我很高兴给我起绰号(`・ω・´)
はい!!
写真タイムです!
照片时间!
コーイチ☆
photo:01
あっ!やべっ!!
コーイチにこの写真載せたらぶっ飛ばす
って言われていたんだった!!!!
やべぇ!!!!!!!!!っべぇ!!!!!!!
啊!糟了!!
koichi说我发出来这张照片他会打飞我!!!!!!
真糟糕啊!!!!糕!!!
こっち載せろって言われたんだった!!
这是他们让我发上来的!!
photo:02
シュールな二人☆
photo:03
photo:04
最後に腕が……えっ…!?
最后是手臂……诶…!?
photo:05
答えられていないリクエストはごめんなさい…
没回答的请求真的很抱歉…
それでは
那么
ガリガリ グッバイ☆
garigari goodbye☆
トレントンの戦い
背景
この戦闘の前まで、アメリカの士気は極めて低かった。大陸軍はイギリス軍とドイツ人傭兵部隊の連合にニューヨークから追い出され、ニュージャージーを越えての撤退を余儀なくされていた。ロングアイランドの戦いの時に居た大陸軍兵士の90%は立ち去った。独立の大義が失われたと感じた者は脱走した。大陸軍総司令官のワシントンは幾らかの疑念を表明していた。ワシントンはバージニアの従兄弟に宛てて、「獲物は直ぐ近くにいると思う」と書き送った。
ニュージャージー西部の当時は小さな町だったトレントンはヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊3個連隊、その数1,400名に占拠されていた。 ワシントン軍は2,400名だった。ナサニエル・グリーン少将、ヘンリー・ノックス准将およびジョン・サリバン少将の補佐を受けていた。
前哨戦
大陸軍の作戦
大陸軍の策戦は3方向から協働した攻撃を掛けることに掛かっていた。ジョン・キャドワラダー将軍はニュージャージーのボーデンタウンでイギリス守備隊に対して陽動攻撃を掛け、援軍を送れないようにすることだった。ジェイムズ・ユーイング将軍は700名の民兵隊を率いて渡河し、トレントン渡し場で上陸してアッサンピンク・クリークに架かる橋を確保すれば、敵の退路を塞ぐことができるはずだった。攻撃の主力部隊は2,400名であり、トレントンの北9マイル (14 km) でデラウェア川を渡って2つに分かれ、1隊はグリーン、1隊はサリバンが率いて夜明け前の攻撃を掛けることになった[7]。サリバン隊は町の南から、グリーン隊は北から攻撃することとした[8]。この策戦の成功如何によっては、ニュージャージーのプリンストンやニューブランズウィックへの攻撃で追撃を掛けられる可能性があった。
この戦闘の前の週には、大陸軍の先遣隊が敵の騎兵偵察隊の待ち伏せを始め、伝令の騎手を捕まえ、ドイツ人哨兵を攻撃していた。これは大変効果があったので、ドイツ人傭兵部隊指揮官はプリンストンにいるイギリス軍指揮官に送る文書を守るために、100名の歩兵と1門の大砲からなる派遣部隊を送る必要があった。ワシントンはユーイング将軍とそのペンシルベニア民兵隊にドイツ人傭兵部隊の動きと配置に関する情報を掴むよう命令した。ユーイングそうする代わりに川を3度渡って襲撃することに成功した。12月17日と18日には猟兵の前進基地を襲い、21日には幾つかの家屋に火を付けた。ワシントンはデラウェア川沿いにある宿営地に近いあらゆる渡河可能地点を日夜見張れという命令も出していた。これは、イギリス軍指揮官ハウ将軍が、川が凍った場合にフィラデルフィアに攻撃をかけてくることになると考えたからだった。
12月20日、2,000名の兵士が新たに到着してワシントン軍に合流した。これはチャールズ・リー将軍の指揮下にあった兵士であり、リーが捕虜になったときはニュージャージー北部を横切って撤退中だった。同日、さらに800名の部隊がホレイショ・ゲイツの指揮でタイコンデロガ砦から到着した。
ドイツ人傭兵部隊の動き
ドイツ人傭兵部隊は12月14日にトレントンに到着した。トレントンにはキング通り(現在のウォーレン通り)とクィーン通り(現在のブロード通り)という2つの主要な通りがあり、約100軒の家屋があった。ラールの上官カール・フォン・ドノープは12月22日に南のマウントホーリーに向けて進軍し、ニュージャージーにおける抵抗勢力に対応し、23日にはアイアンワークスヒルの戦いでニュージャージー民兵隊を駆逐していた。
ドノープはラールを嫌っており、トレントンでの指揮をラールに任せることを躊躇した。ラールは騒々しく、酒飲みであり、現地の言葉に通じていないと分かっていたが、戦闘経験の豊富な56歳の軍人でもあった。ラールはイギリス軍指揮官ジェイムズ・グラント将軍に援軍を要請したが却下されていた。グラントは大陸軍をひどく蔑視しており、援軍を送らなかった。トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊の面々は、その指揮官が経験豊富であったにも拘わらず、人間性を好いてはいなかった。彼等はラールがあまりに立派すぎて成功する軍隊指揮官としては冷酷になれないと考えていた。ラールの士官達は「彼の人生に対する愛はあまりに大きくて、まず自分のことを考え、その次が他人のことになる。そのためにしっかりとした決断をすることができない。」と言ってこぼしていた。ラールは懸命に働くことを避け、部隊の慰安についてはほとんど関心を示さなかった。
トレントンの町は、アメリカの開拓地の常と同じく防壁も防御工作物も無かった[19]。ドイツ人傭兵部隊士官の中にはラールに町に防御を施すよう進言した者がおり、工兵技師の2人は町の上流側に堡塁を建設し、川に沿って防御工作を行うべきことを忠告した。技師達は図面を描き上げるまでしたが、ラールが同意しなかった。ラールが再度町の防御を施すよう促されたとき、ラールは「くだらない!来たらいいさ。...銃剣で十分だ」と答えたという。
クリスマスが近付いてくると、ロイヤリストが町に来て大陸軍が何かを企んでいると報告した[5]。何人かの大陸軍脱走兵ですら、川を渡るための食料が準備されているとドイツ人傭兵部隊に告げてもいた。ラールはこれらの話を無意味なものとして表だっては無視したが、個人的には上官に宛てた手紙で、目前に迫った敵の攻撃を心配していると表明していた。ラールはドノープに宛てて、「いつでも攻撃される可能性がある」と記した。ラールはトレントンが「防御不能」であると言い、トレントンに近くアメリカ軍の攻撃から道路を確保しておくことのできるメイドンヘッドにイギリス軍の駐屯地を置くことを求めた。その要請は却下された。大陸軍がドイツ人傭兵部隊の供給線を邪魔するようになると、ラールの士官達も同じ恐れを共有した。ある者は「ここへ来て以来一晩も平和に眠ったことがない」と記した。12月22日、1人のスパイがグラントに、ワシントンが作戦会議を招集したと報告し、グラントはラールに「守りに注意せよ」と告げた。
1,500名いたドイツ人傭兵部隊は3個連隊で分けられており、クニプハウゼン、ロスバーグおよびラールが各連隊を指揮した。その夜、天候が悪かったのでいかなる偵察も送り出さなかった。
渡河と行軍
ワシントンとその軍隊が出発する前に、ベンジャミン・ラッシュが来て将軍を景気づけようとした。ラッシュがそこにいる間に、ワシントンが書いたメモを見付けたが、そこには「勝利もしくは死」と書かれていた。これらの単語は急襲の際の合い言葉になるはずだった[23]。兵士の各々が60発の弾薬と3日分の食料を持った。この軍隊がデラウェア川岸に到着したときは既に予定より遅れており、頭上では雲が集まり始めていた。雨が降り始め、それが霰に変わり、最後は雪になった。それでも大陸軍はヘンリー・ノックスの全体指揮で川を渡り始めた。兵士達はダーラム・ボートに乗り、馬や大砲は大きな渡し船に乗せて渡した。ジョン・グロバーの第14大陸連隊が船を漕いだ。渡河途中で、ジョン・ハスレット大佐など何人かが船から落ちた。ハスレットは直ぐに水中から引き上げられた。渡河中の死者は出なかった。大砲も全て良い状態で渡すことができた。
約40名の小さな歩兵分遣隊2隊が主力の前衛を務めるよう命令された。その任務は主力の前に障害物を置くことであり、また出くわす者、あるいは町から出ようという者はだれでも捕虜に取ることだった。1隊はトレントンの北に派遣され、1隊はデラウェア川に沿って南にトレントンに向かう川沿い道を閉鎖するために派遣された。
悪天候のためにニュージャージー側への上陸が遅れ、深夜12時には終わると思っていたものが午前3時まで掛かったので、ワシントンは夜明け前の攻撃が不可能だろうと考えた。大陸軍にとってもう一つ痛手だったのは、キャドワラダーとユーイング両将軍が悪天候のために攻撃に加われなくなったことだった。
午前4時、トレントンへの行軍を始めた。その途中で市民数人が志願兵として加わり、地形に詳しかったのでガイドとして誘導した。風上に向かって1.5マイル (2.4 km) 進んだ後でベア酒場に着き、そこから右に折れた。道は滑りやすかったが、平坦であり、馬や大砲には好都合だったので、楽な時間帯となった[32]。間もなくジェイコブズ・クリークに至り、艱難辛苦しながらそれを越えた。2つの部隊はバーミンガムに到着するまで共に行動し、そこから2つに分かれた。その後間もなくベンジャミン・ムーアの家に到着し、ムーア家の家族がワシントンに食べ物や飲み物を供した。この時点で最初の曙光が見え始めた。兵士達の多くはブーツを持っていなかったので、ボロ切れを足に巻いていた。兵士の何人かは足から血を流し、雪を赤く染めた。この行軍中に2名の兵士が死んだ。
ワシントンは部隊が行軍中に馬でその隊列を行ったり来たりし、兵士達が歩き続けられるよう鼓舞した。行軍中にサリバンがワシントンに伝令を送って、天候のために発砲が難しくなっていると告げた。ワシントンは「サリバン将軍に銃剣を使うよう伝えてくれ。私はトレントンを奪ることに決めた。」と返事させた。
町の外約2マイル (3 km) の地点で、主力部隊は先遣隊と合流した。そこで50名の武装した男達が現れたが、彼等はアメリカ人であることが分かった。彼等はアダム・スティーブンが率いており、トレントン攻撃策戦を知らず、それ故にドイツ人傭兵部隊の前哨基地を攻撃していた。ワシントンはドイツ人傭兵部隊が全て守りに就いてしまうことを恐れたので、怒ってスティーブンに「君!君、彼等を守りに就かさせることで、私の策戦がだめになったかもしれない」と叫んだ。これにも拘わらず、ワシントンはトレントンへの前進を続けるよう命令した。ラールはスティーブン隊の攻撃がグラントの警告していたものだと考え、その日はそれ以上行動がないものと信じていたので、大陸軍にとっては有利に働くことになった。
背景
この戦闘の前まで、アメリカの士気は極めて低かった。大陸軍はイギリス軍とドイツ人傭兵部隊の連合にニューヨークから追い出され、ニュージャージーを越えての撤退を余儀なくされていた。ロングアイランドの戦いの時に居た大陸軍兵士の90%は立ち去った。独立の大義が失われたと感じた者は脱走した。大陸軍総司令官のワシントンは幾らかの疑念を表明していた。ワシントンはバージニアの従兄弟に宛てて、「獲物は直ぐ近くにいると思う」と書き送った。
ニュージャージー西部の当時は小さな町だったトレントンはヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊3個連隊、その数1,400名に占拠されていた。 ワシントン軍は2,400名だった。ナサニエル・グリーン少将、ヘンリー・ノックス准将およびジョン・サリバン少将の補佐を受けていた。
前哨戦
大陸軍の作戦
大陸軍の策戦は3方向から協働した攻撃を掛けることに掛かっていた。ジョン・キャドワラダー将軍はニュージャージーのボーデンタウンでイギリス守備隊に対して陽動攻撃を掛け、援軍を送れないようにすることだった。ジェイムズ・ユーイング将軍は700名の民兵隊を率いて渡河し、トレントン渡し場で上陸してアッサンピンク・クリークに架かる橋を確保すれば、敵の退路を塞ぐことができるはずだった。攻撃の主力部隊は2,400名であり、トレントンの北9マイル (14 km) でデラウェア川を渡って2つに分かれ、1隊はグリーン、1隊はサリバンが率いて夜明け前の攻撃を掛けることになった[7]。サリバン隊は町の南から、グリーン隊は北から攻撃することとした[8]。この策戦の成功如何によっては、ニュージャージーのプリンストンやニューブランズウィックへの攻撃で追撃を掛けられる可能性があった。
この戦闘の前の週には、大陸軍の先遣隊が敵の騎兵偵察隊の待ち伏せを始め、伝令の騎手を捕まえ、ドイツ人哨兵を攻撃していた。これは大変効果があったので、ドイツ人傭兵部隊指揮官はプリンストンにいるイギリス軍指揮官に送る文書を守るために、100名の歩兵と1門の大砲からなる派遣部隊を送る必要があった。ワシントンはユーイング将軍とそのペンシルベニア民兵隊にドイツ人傭兵部隊の動きと配置に関する情報を掴むよう命令した。ユーイングそうする代わりに川を3度渡って襲撃することに成功した。12月17日と18日には猟兵の前進基地を襲い、21日には幾つかの家屋に火を付けた。ワシントンはデラウェア川沿いにある宿営地に近いあらゆる渡河可能地点を日夜見張れという命令も出していた。これは、イギリス軍指揮官ハウ将軍が、川が凍った場合にフィラデルフィアに攻撃をかけてくることになると考えたからだった。
12月20日、2,000名の兵士が新たに到着してワシントン軍に合流した。これはチャールズ・リー将軍の指揮下にあった兵士であり、リーが捕虜になったときはニュージャージー北部を横切って撤退中だった。同日、さらに800名の部隊がホレイショ・ゲイツの指揮でタイコンデロガ砦から到着した。
ドイツ人傭兵部隊の動き
ドイツ人傭兵部隊は12月14日にトレントンに到着した。トレントンにはキング通り(現在のウォーレン通り)とクィーン通り(現在のブロード通り)という2つの主要な通りがあり、約100軒の家屋があった。ラールの上官カール・フォン・ドノープは12月22日に南のマウントホーリーに向けて進軍し、ニュージャージーにおける抵抗勢力に対応し、23日にはアイアンワークスヒルの戦いでニュージャージー民兵隊を駆逐していた。
ドノープはラールを嫌っており、トレントンでの指揮をラールに任せることを躊躇した。ラールは騒々しく、酒飲みであり、現地の言葉に通じていないと分かっていたが、戦闘経験の豊富な56歳の軍人でもあった。ラールはイギリス軍指揮官ジェイムズ・グラント将軍に援軍を要請したが却下されていた。グラントは大陸軍をひどく蔑視しており、援軍を送らなかった。トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊の面々は、その指揮官が経験豊富であったにも拘わらず、人間性を好いてはいなかった。彼等はラールがあまりに立派すぎて成功する軍隊指揮官としては冷酷になれないと考えていた。ラールの士官達は「彼の人生に対する愛はあまりに大きくて、まず自分のことを考え、その次が他人のことになる。そのためにしっかりとした決断をすることができない。」と言ってこぼしていた。ラールは懸命に働くことを避け、部隊の慰安についてはほとんど関心を示さなかった。
トレントンの町は、アメリカの開拓地の常と同じく防壁も防御工作物も無かった[19]。ドイツ人傭兵部隊士官の中にはラールに町に防御を施すよう進言した者がおり、工兵技師の2人は町の上流側に堡塁を建設し、川に沿って防御工作を行うべきことを忠告した。技師達は図面を描き上げるまでしたが、ラールが同意しなかった。ラールが再度町の防御を施すよう促されたとき、ラールは「くだらない!来たらいいさ。...銃剣で十分だ」と答えたという。
クリスマスが近付いてくると、ロイヤリストが町に来て大陸軍が何かを企んでいると報告した[5]。何人かの大陸軍脱走兵ですら、川を渡るための食料が準備されているとドイツ人傭兵部隊に告げてもいた。ラールはこれらの話を無意味なものとして表だっては無視したが、個人的には上官に宛てた手紙で、目前に迫った敵の攻撃を心配していると表明していた。ラールはドノープに宛てて、「いつでも攻撃される可能性がある」と記した。ラールはトレントンが「防御不能」であると言い、トレントンに近くアメリカ軍の攻撃から道路を確保しておくことのできるメイドンヘッドにイギリス軍の駐屯地を置くことを求めた。その要請は却下された。大陸軍がドイツ人傭兵部隊の供給線を邪魔するようになると、ラールの士官達も同じ恐れを共有した。ある者は「ここへ来て以来一晩も平和に眠ったことがない」と記した。12月22日、1人のスパイがグラントに、ワシントンが作戦会議を招集したと報告し、グラントはラールに「守りに注意せよ」と告げた。
1,500名いたドイツ人傭兵部隊は3個連隊で分けられており、クニプハウゼン、ロスバーグおよびラールが各連隊を指揮した。その夜、天候が悪かったのでいかなる偵察も送り出さなかった。
渡河と行軍
ワシントンとその軍隊が出発する前に、ベンジャミン・ラッシュが来て将軍を景気づけようとした。ラッシュがそこにいる間に、ワシントンが書いたメモを見付けたが、そこには「勝利もしくは死」と書かれていた。これらの単語は急襲の際の合い言葉になるはずだった[23]。兵士の各々が60発の弾薬と3日分の食料を持った。この軍隊がデラウェア川岸に到着したときは既に予定より遅れており、頭上では雲が集まり始めていた。雨が降り始め、それが霰に変わり、最後は雪になった。それでも大陸軍はヘンリー・ノックスの全体指揮で川を渡り始めた。兵士達はダーラム・ボートに乗り、馬や大砲は大きな渡し船に乗せて渡した。ジョン・グロバーの第14大陸連隊が船を漕いだ。渡河途中で、ジョン・ハスレット大佐など何人かが船から落ちた。ハスレットは直ぐに水中から引き上げられた。渡河中の死者は出なかった。大砲も全て良い状態で渡すことができた。
約40名の小さな歩兵分遣隊2隊が主力の前衛を務めるよう命令された。その任務は主力の前に障害物を置くことであり、また出くわす者、あるいは町から出ようという者はだれでも捕虜に取ることだった。1隊はトレントンの北に派遣され、1隊はデラウェア川に沿って南にトレントンに向かう川沿い道を閉鎖するために派遣された。
悪天候のためにニュージャージー側への上陸が遅れ、深夜12時には終わると思っていたものが午前3時まで掛かったので、ワシントンは夜明け前の攻撃が不可能だろうと考えた。大陸軍にとってもう一つ痛手だったのは、キャドワラダーとユーイング両将軍が悪天候のために攻撃に加われなくなったことだった。
午前4時、トレントンへの行軍を始めた。その途中で市民数人が志願兵として加わり、地形に詳しかったのでガイドとして誘導した。風上に向かって1.5マイル (2.4 km) 進んだ後でベア酒場に着き、そこから右に折れた。道は滑りやすかったが、平坦であり、馬や大砲には好都合だったので、楽な時間帯となった[32]。間もなくジェイコブズ・クリークに至り、艱難辛苦しながらそれを越えた。2つの部隊はバーミンガムに到着するまで共に行動し、そこから2つに分かれた。その後間もなくベンジャミン・ムーアの家に到着し、ムーア家の家族がワシントンに食べ物や飲み物を供した。この時点で最初の曙光が見え始めた。兵士達の多くはブーツを持っていなかったので、ボロ切れを足に巻いていた。兵士の何人かは足から血を流し、雪を赤く染めた。この行軍中に2名の兵士が死んだ。
ワシントンは部隊が行軍中に馬でその隊列を行ったり来たりし、兵士達が歩き続けられるよう鼓舞した。行軍中にサリバンがワシントンに伝令を送って、天候のために発砲が難しくなっていると告げた。ワシントンは「サリバン将軍に銃剣を使うよう伝えてくれ。私はトレントンを奪ることに決めた。」と返事させた。
町の外約2マイル (3 km) の地点で、主力部隊は先遣隊と合流した。そこで50名の武装した男達が現れたが、彼等はアメリカ人であることが分かった。彼等はアダム・スティーブンが率いており、トレントン攻撃策戦を知らず、それ故にドイツ人傭兵部隊の前哨基地を攻撃していた。ワシントンはドイツ人傭兵部隊が全て守りに就いてしまうことを恐れたので、怒ってスティーブンに「君!君、彼等を守りに就かさせることで、私の策戦がだめになったかもしれない」と叫んだ。これにも拘わらず、ワシントンはトレントンへの前進を続けるよう命令した。ラールはスティーブン隊の攻撃がグラントの警告していたものだと考え、その日はそれ以上行動がないものと信じていたので、大陸軍にとっては有利に働くことになった。
足利尊氏の生い立ち
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。
1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。
そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。
これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。
1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。
しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。
そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。
これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。
幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。
こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。
ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。
南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。
この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。
ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。
主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。
1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。
そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。
これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。
1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。
しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。
そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。
これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。
幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。
こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。
ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。
南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。
この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。
ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。
主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。
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