#唐泽寿明[超话]# 上周四女七刊登的奥桑长篇采访中提到老唐的部分[送花花] 贴一下文字版 超话已有图片版
唐沢さんとは興味の対象もライフスタイルも真反対
海外へ出かける妻に、夫の唐沢寿明は反対しなかったのだろうか?
「まったくありませんでした。私が自分の興味に向かってのびのびと進むことを、誰より応援してくれています。唐沢さんの大きな懐あってこその私です。私が自由に羽ばたけるのは彼のおかげ。
彼は、私の仕事や演技に関して、これまで一度も口を出したことはありません。でも、私がYouTube映像を作り始めたとき、彼は『面白いじゃん。君の本来のよさが出るから続けた方がいいよ』と言ってくれました。初めて褒められたかも(笑い)」
おしどり夫婦として知られ、昨年11月には、ふたりでクラシックカーラリーに参加する姿がYouTubeで配信され話題となったが、どんな夫婦関係なのか?
「そうですね、背中と背中をくっつけ合って真反対の方向を向いている人間同士、という関係でしょうか(笑い)。興味の対象も、ライフスタイルもほぼ真反対。例えば、私が朝起きてカーテンと窓を開けると、後から起きてきた唐沢が、私が開けたカーテンと窓を閉めて空気清浄機をつける、みたいな(笑い)。
彼は音に溢れている状態が落ち着くらしく、常にテレビをつけっぱなしで、同時にYouTubeも見ている。一方、私は無音の環境が好きだから、耳栓をして音を遮断するか、違う部屋に行って掃除をしたり(笑い)」
あっけらかんとそう話す山口に、「そういった価値観の違いは夫婦不仲の原因になるのでは?」とぶしつけな質問をすると、
「時間のおかげです(笑い)。確かに若い頃は、『何で一緒に同じものを見て感動できないんだろう』と、寂しさを感じることもありました。
でも年を経るごとに、互いに違うから面白いと思えるようになった。真逆だからこそ、私に抜け落ちている部分をカバーしてくれたり、思いもよらぬ変化球を投げてくれてハッと気づかされたり……互いの違いに、助けられることの方が多いです。長く一緒にいるのに飽きないのは、真逆ゆえの意外性のおかげかも(笑い)。
何より、根本的に唐沢さんを尊敬しているというのはずっと変わらない。そこが大きいと思う。彼の、俳優としてのプロフェッショナル精神はまさに職人。本当に頭が下がります。
テレビではお笑い芸人としてやっていけるくらい饒舌ですが、ふだんは余計なことを言わない“ザ・昭和のおじさん”(笑い)。信念に頑固ではあるけれど、嘘がないから、いざというときに頼りになる。『大丈夫』という漢字を見るたびに、“大きく頑丈な夫”として唐沢が心に浮かび、いつも支えてくれて『ありがとう』と思います」
そんな正反対のふたりをつなぐ共通項は「食」だという。
「食事の時間は唯一、同じ感覚で一緒に過ごせるひとときですね。最近は外食が多いかな。結婚した頃に一生分の料理を作ったし(笑い)、東京は外食文化が多彩ですから、彼はおいしい店を開拓するのが好きみたいで助かっています」
夫は私が料理に失敗したときでも、『まあ、“普通に”おいしいよ』と、何か言ってくれることで、私は心救われていますから。“普通って、おいしい? おいしくない? どっち?”と思うけど(笑い)」
唐沢さんとは興味の対象もライフスタイルも真反対
海外へ出かける妻に、夫の唐沢寿明は反対しなかったのだろうか?
「まったくありませんでした。私が自分の興味に向かってのびのびと進むことを、誰より応援してくれています。唐沢さんの大きな懐あってこその私です。私が自由に羽ばたけるのは彼のおかげ。
彼は、私の仕事や演技に関して、これまで一度も口を出したことはありません。でも、私がYouTube映像を作り始めたとき、彼は『面白いじゃん。君の本来のよさが出るから続けた方がいいよ』と言ってくれました。初めて褒められたかも(笑い)」
おしどり夫婦として知られ、昨年11月には、ふたりでクラシックカーラリーに参加する姿がYouTubeで配信され話題となったが、どんな夫婦関係なのか?
「そうですね、背中と背中をくっつけ合って真反対の方向を向いている人間同士、という関係でしょうか(笑い)。興味の対象も、ライフスタイルもほぼ真反対。例えば、私が朝起きてカーテンと窓を開けると、後から起きてきた唐沢が、私が開けたカーテンと窓を閉めて空気清浄機をつける、みたいな(笑い)。
彼は音に溢れている状態が落ち着くらしく、常にテレビをつけっぱなしで、同時にYouTubeも見ている。一方、私は無音の環境が好きだから、耳栓をして音を遮断するか、違う部屋に行って掃除をしたり(笑い)」
あっけらかんとそう話す山口に、「そういった価値観の違いは夫婦不仲の原因になるのでは?」とぶしつけな質問をすると、
「時間のおかげです(笑い)。確かに若い頃は、『何で一緒に同じものを見て感動できないんだろう』と、寂しさを感じることもありました。
でも年を経るごとに、互いに違うから面白いと思えるようになった。真逆だからこそ、私に抜け落ちている部分をカバーしてくれたり、思いもよらぬ変化球を投げてくれてハッと気づかされたり……互いの違いに、助けられることの方が多いです。長く一緒にいるのに飽きないのは、真逆ゆえの意外性のおかげかも(笑い)。
何より、根本的に唐沢さんを尊敬しているというのはずっと変わらない。そこが大きいと思う。彼の、俳優としてのプロフェッショナル精神はまさに職人。本当に頭が下がります。
テレビではお笑い芸人としてやっていけるくらい饒舌ですが、ふだんは余計なことを言わない“ザ・昭和のおじさん”(笑い)。信念に頑固ではあるけれど、嘘がないから、いざというときに頼りになる。『大丈夫』という漢字を見るたびに、“大きく頑丈な夫”として唐沢が心に浮かび、いつも支えてくれて『ありがとう』と思います」
そんな正反対のふたりをつなぐ共通項は「食」だという。
「食事の時間は唯一、同じ感覚で一緒に過ごせるひとときですね。最近は外食が多いかな。結婚した頃に一生分の料理を作ったし(笑い)、東京は外食文化が多彩ですから、彼はおいしい店を開拓するのが好きみたいで助かっています」
夫は私が料理に失敗したときでも、『まあ、“普通に”おいしいよ』と、何か言ってくれることで、私は心救われていますから。“普通って、おいしい? おいしくない? どっち?”と思うけど(笑い)」
给Realsound供稿的人一般都写得挺专业客观,不会煽动比较什么,这次的回顾文也挺好。
特别最后一句,押了名字的耀来写。
以前大多用輝いている,我也就一直都用闪闪发亮,熠熠生辉,光彩照人一类的, 她却特意用了耀いている ,很巧妙,以后我也要多用带耀的词[笑cry]
平野紫耀は、どこにいても耀いているのだから。
因为平野紫耀,无论在何处都会耀眼夺目。
有空再翻,有几段很好。
先日1月29日、平野紫耀が27歳の誕生日を迎えた。
平野にとって、26歳は激動の一年だったのではないかと思う。昨年5月に迎えた、今までの場所からの旅立ち。さまざまな想いが駆け巡ったのだろう、それまでのグループのメンバーとして最後に出演した歌番組で、歌い出しから涙をこぼしていた姿が印象に残っている。
彼が私たちの前に再び姿を見せたのは、それから約1カ月半後のこと。7月7日、神宮寺勇太とともにTOBEのオフィシャルYouTubeチャンネルの生配信に登場し、「TOBE」という新たな地で活動することを発表した。「ファンの皆さんと僕たちで、クリエイティブ面でも突き詰めたものを提供して、素敵な時間を作っていきたい」と抱負を述べていた平野。その明るい表情からは、今後の活動に対する前向きな気持ちが感じられた。
同日には、個人のInstagramアカウントも開設。プライベートショットやダンス動画の投稿、インスタライブなど、さまざまな形でファンを楽しませてくれている。ストーリーズの機能を使った質問募集では、大量の質問に一つひとつ丁寧に、時にユーモアを交えながら答え、自らを“バコプロ”(=質問箱のプロ)と称すほど。Instagramを通じて、「こんなに平野のことを近くに感じられる日が来るなんて」と思った人も多かったのではないだろうか。
10月15日には、岸優太のTOBE所属発表とあわせて、Number_iが結成された。心強いふたりの仲間とともに、「どんなグループになっていくんだろうね」と自らも期待感を露わにしつつ、「ファンの皆さんと一緒に思い出を刻んでいくグループになるには、苦楽を共にしたい」「泥臭い俺たちも見てもらいたい」と話していた平野。その言葉は、大きな決断を下して前へ進んできた自身の姿にも重なる。さらに、音楽制作に関しても「突き詰めたもの、振り切ったものをやっていきたい」「誇れるものをつくりたい」と語っていた。
そして、年が明けた1月1日。Number_iとしてのデビューシングル「GOAT」が配信リリースされた。平野の言葉通り、サウンド面からダンス、映像まで、メンバーが突き詰めて制作したことが伝わってくる作品だ。1月25日にはMVの再生数が3000万回を突破。2024年、Number_iとして華々しいスタートを切ったと言えるだろう。
個人としても、1月5日には「ルイ・ヴィトン」とのパートナーシップ締結を発表。1月16日(現地時間)には、パリで行われた「ルイ・ヴィトン」の2024秋冬メンズ・ファッションショーに出席した。さらに、1月10日には「イヴ・サンローラン・ボーテ」のアジアアンバサダーに就任。かねてより海外での活動に意欲を見せていたが、その夢が叶う日が着実に近づきつつある。
こうして迎えた1月29日の誕生日。平野は自身のInstagramにて、「沢山のお祝いの言葉とか届いてるよ」「#いつもありがとう」とメッセージを添え、ソロショットや神宮寺、岸を交えた3ショットを公開した。
TOBEへの所属発表時、「あなたにとってエンターテインメントとは?」という質問に、平野は「皆さんのなかで、明日が来るのが楽しみになるような存在になること」と答えていた。Number_iが表紙を飾った『NYLON JAPAN GLOBAL ISSUE 04』のインタビューでは、「何十年後に振り返った時に、僕たちを思い出すような存在でありたい」と語っていた。平野の目線の先にはいつも、応援してくれるファンの存在がある。私たちがどうすれば喜んでくれるかを考えながら、常に新しい世界を見据え、失敗を恐れず挑戦する姿。その強さに魅了され、「自分も頑張らなくては」と何度思わせられたことだろうか。
27歳を迎えてからの活動としては、直近では3月6日に「GOAT」を含めた初のCDリリース、3月14日から17日にはTOBE所属アーティストが全員出演する東京ドームでのコンサート『to HEROes 〜TOBE 1st Super Live〜』が控えている。もちろん、これで終わるわけはないはずだ。
もしかしたら27歳は、26歳以上に、ポジティブな意味で動きのある一年になるのかもしれない。どんな形であれ、きっと私たちを楽しませてくれることだろう。Number_iとして、個人として、これからも大きな世界を夢見て挑戦し続けてほしい。平野紫耀は、どこにいても耀いているのだから。
特别最后一句,押了名字的耀来写。
以前大多用輝いている,我也就一直都用闪闪发亮,熠熠生辉,光彩照人一类的, 她却特意用了耀いている ,很巧妙,以后我也要多用带耀的词[笑cry]
平野紫耀は、どこにいても耀いているのだから。
因为平野紫耀,无论在何处都会耀眼夺目。
有空再翻,有几段很好。
先日1月29日、平野紫耀が27歳の誕生日を迎えた。
平野にとって、26歳は激動の一年だったのではないかと思う。昨年5月に迎えた、今までの場所からの旅立ち。さまざまな想いが駆け巡ったのだろう、それまでのグループのメンバーとして最後に出演した歌番組で、歌い出しから涙をこぼしていた姿が印象に残っている。
彼が私たちの前に再び姿を見せたのは、それから約1カ月半後のこと。7月7日、神宮寺勇太とともにTOBEのオフィシャルYouTubeチャンネルの生配信に登場し、「TOBE」という新たな地で活動することを発表した。「ファンの皆さんと僕たちで、クリエイティブ面でも突き詰めたものを提供して、素敵な時間を作っていきたい」と抱負を述べていた平野。その明るい表情からは、今後の活動に対する前向きな気持ちが感じられた。
同日には、個人のInstagramアカウントも開設。プライベートショットやダンス動画の投稿、インスタライブなど、さまざまな形でファンを楽しませてくれている。ストーリーズの機能を使った質問募集では、大量の質問に一つひとつ丁寧に、時にユーモアを交えながら答え、自らを“バコプロ”(=質問箱のプロ)と称すほど。Instagramを通じて、「こんなに平野のことを近くに感じられる日が来るなんて」と思った人も多かったのではないだろうか。
10月15日には、岸優太のTOBE所属発表とあわせて、Number_iが結成された。心強いふたりの仲間とともに、「どんなグループになっていくんだろうね」と自らも期待感を露わにしつつ、「ファンの皆さんと一緒に思い出を刻んでいくグループになるには、苦楽を共にしたい」「泥臭い俺たちも見てもらいたい」と話していた平野。その言葉は、大きな決断を下して前へ進んできた自身の姿にも重なる。さらに、音楽制作に関しても「突き詰めたもの、振り切ったものをやっていきたい」「誇れるものをつくりたい」と語っていた。
そして、年が明けた1月1日。Number_iとしてのデビューシングル「GOAT」が配信リリースされた。平野の言葉通り、サウンド面からダンス、映像まで、メンバーが突き詰めて制作したことが伝わってくる作品だ。1月25日にはMVの再生数が3000万回を突破。2024年、Number_iとして華々しいスタートを切ったと言えるだろう。
個人としても、1月5日には「ルイ・ヴィトン」とのパートナーシップ締結を発表。1月16日(現地時間)には、パリで行われた「ルイ・ヴィトン」の2024秋冬メンズ・ファッションショーに出席した。さらに、1月10日には「イヴ・サンローラン・ボーテ」のアジアアンバサダーに就任。かねてより海外での活動に意欲を見せていたが、その夢が叶う日が着実に近づきつつある。
こうして迎えた1月29日の誕生日。平野は自身のInstagramにて、「沢山のお祝いの言葉とか届いてるよ」「#いつもありがとう」とメッセージを添え、ソロショットや神宮寺、岸を交えた3ショットを公開した。
TOBEへの所属発表時、「あなたにとってエンターテインメントとは?」という質問に、平野は「皆さんのなかで、明日が来るのが楽しみになるような存在になること」と答えていた。Number_iが表紙を飾った『NYLON JAPAN GLOBAL ISSUE 04』のインタビューでは、「何十年後に振り返った時に、僕たちを思い出すような存在でありたい」と語っていた。平野の目線の先にはいつも、応援してくれるファンの存在がある。私たちがどうすれば喜んでくれるかを考えながら、常に新しい世界を見据え、失敗を恐れず挑戦する姿。その強さに魅了され、「自分も頑張らなくては」と何度思わせられたことだろうか。
27歳を迎えてからの活動としては、直近では3月6日に「GOAT」を含めた初のCDリリース、3月14日から17日にはTOBE所属アーティストが全員出演する東京ドームでのコンサート『to HEROes 〜TOBE 1st Super Live〜』が控えている。もちろん、これで終わるわけはないはずだ。
もしかしたら27歳は、26歳以上に、ポジティブな意味で動きのある一年になるのかもしれない。どんな形であれ、きっと私たちを楽しませてくれることだろう。Number_iとして、個人として、これからも大きな世界を夢見て挑戦し続けてほしい。平野紫耀は、どこにいても耀いているのだから。
中沢琴
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。
兄と共に「浪士隊」に参加
中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。
この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。
「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。
新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。
また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。
薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。
中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。
「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。
時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。
しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。
この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。
「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。
中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。
昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。
生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。
新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。
明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。
「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」
求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。
彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。
兄と共に「浪士隊」に参加
中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。
この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。
「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。
新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。
また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。
薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。
中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。
「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。
時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。
しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。
この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。
「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。
中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。
昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。
生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。
新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。
明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。
「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」
求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。
彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。
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