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1月26日ガンダムSEEDシリーズ最新劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」が日本で上映されました。ガンダムでこのSEEDが一番好きな自分としてはDVDが待たれますね!この時期に日本へ出張する友人が羨ましいです!
そんな新作劇場版の上映に合わせて、ガンダム公式YouTubeチャンネル「ガンダムチャンネル」は私たちのために一作目の「SEED」と二作目の「SEED DESTINY」をぎゅーっと凝縮したスペシャルダイジェスト(30分*2本)を作ってくれました!何度も本編を見たけど、スペシャルダイジェストもとてもよかったです!皆さんもそれで名シーンを振り返りながら、一緒に劇場版を待ちましょう!
そしてナレーションはミゲルとハイネで友人出演した歌手、西川貴教の兄貴です!だからミゲルとハイネのシーンをふんだんに盛り込んでおり、それに対する西川の兄貴のコメントも面白かったです!
余談ですが、西川の兄貴は原神で一斗のCVを担当したりラジオにも出演したりしたため、SEED放送当時よりむしろ最近親しみのある存在になってます(笑)。
1月26日ガンダムSEEDシリーズ最新劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」が日本で上映されました。ガンダムでこのSEEDが一番好きな自分としてはDVDが待たれますね!この時期に日本へ出張する友人が羨ましいです!
そんな新作劇場版の上映に合わせて、ガンダム公式YouTubeチャンネル「ガンダムチャンネル」は私たちのために一作目の「SEED」と二作目の「SEED DESTINY」をぎゅーっと凝縮したスペシャルダイジェスト(30分*2本)を作ってくれました!何度も本編を見たけど、スペシャルダイジェストもとてもよかったです!皆さんもそれで名シーンを振り返りながら、一緒に劇場版を待ちましょう!
そしてナレーションはミゲルとハイネで友人出演した歌手、西川貴教の兄貴です!だからミゲルとハイネのシーンをふんだんに盛り込んでおり、それに対する西川の兄貴のコメントも面白かったです!
余談ですが、西川の兄貴は原神で一斗のCVを担当したりラジオにも出演したりしたため、SEED放送当時よりむしろ最近親しみのある存在になってます(笑)。
韓非子と韓非(著者)【始皇帝を感動させた法家の書物】
韓非子
韓非子(かんぴし)とは、戦国時代の法家の大成者である韓非子のこと、あるいはその著書『韓非子』を指します。韓非子は韓の王族で、弱小国家・韓を憂いて『韓非子』を著しました。秦の始皇帝は、秦王時代にそれを読んで感動し、韓非子の思想の影響を受けて秦王朝の体制を作りました。
韓非子とは
韓非子は法家の代表的人物である韓非(かんぴ…BC.280~BC.233)、あるいはその著書『韓非子』のことを指します。
韓非は韓の王族で、若い頃「性悪説」を唱えた荀子に学びました。やがて弱小の祖国・韓の立て直しのために文章を書いて韓王に進言しますが、受け入れてもらえず、これを十数万字の書『韓非子』にまとめました。この著作では君主が法を用いて臣下をどう扱い、統治に役立てるかなどが書かれています。この一部を読んだ秦王、後の始皇帝は非常に感動し、この思想を国家運営の基本方針とします。後に韓非は韓の使節として秦を訪れますが、その才能を嫉妬した李斯によって命を奪われてしまいました。
弱小国・韓の王族
韓非は戦国七雄の一である韓の国の王族として生まれました。名前は「韓非」。「子」は敬称でもあり、著書につける言葉でもあります。
韓非は生まれつき吃音(きつおん…話す時にどもってしまう)がひどく、話すことは苦手でしたが、文章を書くことに長けていました。
若い頃は秦の宰相・李斯(りし)らとともに荀子(じゅんし)に学んでいました。
荀子は孔子・孟子とともに儒家を代表する思想家ですが、孟子が人間は本来善であるという「性善説」を唱えたのに対し、人間は本来悪であるという「性悪説」を唱えました。
人間は本来が悪であるから後天的に教化し導いていかなければならない、として後の「法家」の思想…儒家が唱えるように道徳によって国を治めるのではなく、法によって国家を治めるべきだという思想につながっていきました。
戦国七雄のうち最も弱小である祖国の将来を憂いて、その対策を文章にして何度も韓王に差し出しましたが、受け入れられることはありませんでした。受け入れてもらえないというより韓は弱体化しすぎて、すでに抜本的な改革をする体力を失っていたのです。そこで韓非は自分の考えを十数万字にのぼる文にまとめました。これが『韓非子』です。
『韓非子』は全十数万字、「孤憤」(こふん)編・「五蠹」(ごと)編・「内儲」(ないちょ)編・「外儲」(がいちょ)編・「説林」(ぜいりん)編・「説難」(ぜいなん)編に分かれています。
当時秦の王・政(せい…後の始皇帝)がこの『韓非子』のうち「孤憤」編と「五蠹」編を読んで非常に感動し「ああ、この筆者に会ってお付き合いできるなら、私は死んでもかまわない」と言ったといいます。
下で触れるように韓非はBC.233に訪問先の秦で命を失っています。
始皇帝はBC.259に生まれていますからその時26歳。そこから考えると始皇帝が『韓非子』の一部を読んで感動したのはそれ以前ということになります。20歳前後あるいは20代前半でしょうか。
若き王とはいえ13歳で即位し、実母がらみのスキャンダルや取り巻きの権謀術数の渦巻の中ですでに数年から十数年を秦王として過ごしています。
遺伝子なのか生い立ちのせいなのか、際立って強靭な意志を持つこの若者は、国の統治についてすでに一つの方向を持っていたのでしょう。それは王自らが「絶対的な法」となって独裁的な政治を行い、そこでは情も特権も徹底して排除するというものです。
いかにも若者が好みそうな極端な思想ですが、実はこの政治スタイルは秦という王国にあっては、すでにかつて商鞅という政治家によって基礎…君主に絶対的な権力を集める政治体制…が作られていたのです。
つまり『韓非子』が説く論の骨格は始皇帝になじみのあったものでした。
その政治スタイルがなぜ正しいのか、『韓非子』は説得力を持ってそれを語り、己の国家運営への自信と天下取りの野望の後押しをしてくれたからこそ、始皇帝は感動したのかもしれません。
韓非が韓の公子であることを聞いたのち始皇帝は韓に出兵させます。これにあわてた韓王が韓非を使節として秦に送ると始皇帝は大喜びしました。
けれども宰相の李斯はかつての同窓・韓非の優秀さを知っているだけに不安になります。自分の権力基盤がゆらぐのではないかと恐れたのです。
そこで李斯はこう始皇帝に耳打ちしました。「韓非は何といっても韓の公子です。秦が重用したとしてもいったんコトが起これば、秦ではなく韓のために動くでしょう。といってこのまま返してあの優秀な頭脳を温存させれば、秦には害あって益なしです」
始皇帝はそれもそうだと韓非を投獄することを認めます。李斯は投獄された韓非に毒を渡し自殺に追いやりました。
あとになって思い直した始皇帝は韓非を呼ぼうとするのですが、すでに毒をあおいだ後でした。
『韓非子』の主な内容
『韓非子』の思想のうち、主な内容を下に紹介します。
1.二柄論
君主が臣下を動かすのに必要なものは二柄…すなわち刑罰と徳であり、これを自由に操ることで臣下を怖れさせたり喜ばせたりできる。
例として斉の簡公に仕えた田常と宋の子罕(しかん)がそれぞれ君主から「威」…すなわち刑罰の部分を奪い、それによって君主を脅かす存在になった話を書いています。このように君主は刑罰と徳を決して手放してはいけないのだと説いています。
2.信賞必罰論
功績があればこれをほめ、罪があれば罰する。この「信賞必罰」を正しく行わなければならない。こうして君主の権威を明らかにし、家臣の能力を発揮させることができる。
この「信賞必罰」のうち「賞」の例として以下の話を書いています。
越王の勾践(こうせん)が大臣の文種(ぶんしょう)にこう尋ねました。「私は呉を攻めたいのだが勝てるだろうか」
すると文種は「私は部下を信賞必罰によって鍛えていますから勝てます。私の部下の様子を見たかったら宮殿に火を放ってください」
そこで王が宮殿に火をつけると文種は部下にこう言いました。「火を防いで死んだ者には戦死した者と同じ褒美を与える。火を防いで生き延びた者には、戦いで勝利した者と同じ褒美を与える。火を防がなかった者は逃亡者または降伏した者と同じ罰を与える」
すると文種の部下たちは体に泥を塗り服に水をかけて、左から三千人、右から三千人、火の中に駆け込んでいきました。
「罰」の例としては以下の話を挙げています。
殷王朝のときの法律では、灰を道に捨てた者は死刑でした。孔子の弟子の子貢(しこう)が孔子に「殷のこの刑は重すぎると思います」と言うと、孔子は以下のように答えました。
「いや、この法律は政治というものがよくわかっている。灰を道に捨てれば必ず人の体にかかる。するとその人は腹を立てて喧嘩になる。喧嘩になれば、灰を捨てた者と灰をかぶった者の双方の親族どうしが闘うことになって死人が出る。だから死刑でいいのだ。それに重い刑罰は人が嫌がる。また灰を道に捨てないなどということは誰でも守れる。民に簡単なことを守らせ、嫌なことを避けさせる。これが政治のコツというものだ」
3.刑名審合(けいめいしんごう)論
刑名審合とは刑と名を一致させること。
家臣が言葉を述べたら、君主はその言葉に基づいて仕事を与え、仕事についての功績を求める。家臣の功績が仕事と一致し、その仕事が言葉と一致しているならほめ、そうでないなら罰するべきだ。こうした時に愛情は無用である。
4.時代認識に関する論
過去にあった理論(儒教をさす)にこだわらず、新しい理論(法家思想をさす)に立脚するべきである。
ここのたとえ話としては、日本の童謡にもある「待ちぼうけ」…「株を守る」の話が載っています。
宋の国にある農民がいました。田を耕しに行くと田に切り株がありました。ある日ウサギが走ってきて、この切り株にぶつかり首の骨を折って死んでしまいました。そこで彼は田を耕すのをやめ、切り株を見守ってまたウサギが跳んで出てくるのを待ちました。けれどもウサギは二度と現れず、この男は宋の国中の笑いものとなりました。
古代のすぐれた王の政治によって現代の民を治めようとするのは、この男と同じようなものである。こう書いて儒家的な復古主義を批判しています。
5.説難(ぜいなん)論
説得することは難しい。なぜなら相手の心を読み取って、その心に自分の意見を当てなければならないから。相手の心が名誉を重んじているのに利益を説いても相手にされない。相手の心が利益を求めているのに、名誉や高潔さを説いても受け入れてはもらえない。
この例としては以下の話を挙げています。
宋の国のある金持ちの家の土塀が大雨によって崩れてしまいました。
金持ちの家の子供が「早く修理しないと泥棒に入られるよ」と言ったので、金持ちは「うちの子供は賢い」と思いました。
ところが隣の家の主人も同じ忠告をしました。
その夜、泥棒が入って財産をすっかり盗まれてしまいました。金持ちは「隣の家の主人が怪しい」と疑いました。
このように相手によってどう対処するかはとにかく難しいことなのだ、と韓非子は説くのです。
また相手を立てる大切さも説いています。
自信家にはその欠点をあげつらって怒らせてはいけない。弱点をついて逆らってはいけない。そういう相手が問題を抱えているときには、別の問題や別の人間の行為を例にしてそれと同じだと相手に当てはめるとよいのだ…こう語っています。
ここまで人の心理を読みぬいて説得の大切さを考えていた韓非ですが、自分自身は李斯の妬みによって死に追いやられてしまいました。自らの人生の悲劇によって、人を「説得」することのの難しさを証明したとも言えるでしょう。
『韓非子』ではこのように自分の理論を、歴史の中のエピソードや卑近な例を使ってわかりやすく読む者が納得がいくように説いています。
韓非子
韓非子(かんぴし)とは、戦国時代の法家の大成者である韓非子のこと、あるいはその著書『韓非子』を指します。韓非子は韓の王族で、弱小国家・韓を憂いて『韓非子』を著しました。秦の始皇帝は、秦王時代にそれを読んで感動し、韓非子の思想の影響を受けて秦王朝の体制を作りました。
韓非子とは
韓非子は法家の代表的人物である韓非(かんぴ…BC.280~BC.233)、あるいはその著書『韓非子』のことを指します。
韓非は韓の王族で、若い頃「性悪説」を唱えた荀子に学びました。やがて弱小の祖国・韓の立て直しのために文章を書いて韓王に進言しますが、受け入れてもらえず、これを十数万字の書『韓非子』にまとめました。この著作では君主が法を用いて臣下をどう扱い、統治に役立てるかなどが書かれています。この一部を読んだ秦王、後の始皇帝は非常に感動し、この思想を国家運営の基本方針とします。後に韓非は韓の使節として秦を訪れますが、その才能を嫉妬した李斯によって命を奪われてしまいました。
弱小国・韓の王族
韓非は戦国七雄の一である韓の国の王族として生まれました。名前は「韓非」。「子」は敬称でもあり、著書につける言葉でもあります。
韓非は生まれつき吃音(きつおん…話す時にどもってしまう)がひどく、話すことは苦手でしたが、文章を書くことに長けていました。
若い頃は秦の宰相・李斯(りし)らとともに荀子(じゅんし)に学んでいました。
荀子は孔子・孟子とともに儒家を代表する思想家ですが、孟子が人間は本来善であるという「性善説」を唱えたのに対し、人間は本来悪であるという「性悪説」を唱えました。
人間は本来が悪であるから後天的に教化し導いていかなければならない、として後の「法家」の思想…儒家が唱えるように道徳によって国を治めるのではなく、法によって国家を治めるべきだという思想につながっていきました。
戦国七雄のうち最も弱小である祖国の将来を憂いて、その対策を文章にして何度も韓王に差し出しましたが、受け入れられることはありませんでした。受け入れてもらえないというより韓は弱体化しすぎて、すでに抜本的な改革をする体力を失っていたのです。そこで韓非は自分の考えを十数万字にのぼる文にまとめました。これが『韓非子』です。
『韓非子』は全十数万字、「孤憤」(こふん)編・「五蠹」(ごと)編・「内儲」(ないちょ)編・「外儲」(がいちょ)編・「説林」(ぜいりん)編・「説難」(ぜいなん)編に分かれています。
当時秦の王・政(せい…後の始皇帝)がこの『韓非子』のうち「孤憤」編と「五蠹」編を読んで非常に感動し「ああ、この筆者に会ってお付き合いできるなら、私は死んでもかまわない」と言ったといいます。
下で触れるように韓非はBC.233に訪問先の秦で命を失っています。
始皇帝はBC.259に生まれていますからその時26歳。そこから考えると始皇帝が『韓非子』の一部を読んで感動したのはそれ以前ということになります。20歳前後あるいは20代前半でしょうか。
若き王とはいえ13歳で即位し、実母がらみのスキャンダルや取り巻きの権謀術数の渦巻の中ですでに数年から十数年を秦王として過ごしています。
遺伝子なのか生い立ちのせいなのか、際立って強靭な意志を持つこの若者は、国の統治についてすでに一つの方向を持っていたのでしょう。それは王自らが「絶対的な法」となって独裁的な政治を行い、そこでは情も特権も徹底して排除するというものです。
いかにも若者が好みそうな極端な思想ですが、実はこの政治スタイルは秦という王国にあっては、すでにかつて商鞅という政治家によって基礎…君主に絶対的な権力を集める政治体制…が作られていたのです。
つまり『韓非子』が説く論の骨格は始皇帝になじみのあったものでした。
その政治スタイルがなぜ正しいのか、『韓非子』は説得力を持ってそれを語り、己の国家運営への自信と天下取りの野望の後押しをしてくれたからこそ、始皇帝は感動したのかもしれません。
韓非が韓の公子であることを聞いたのち始皇帝は韓に出兵させます。これにあわてた韓王が韓非を使節として秦に送ると始皇帝は大喜びしました。
けれども宰相の李斯はかつての同窓・韓非の優秀さを知っているだけに不安になります。自分の権力基盤がゆらぐのではないかと恐れたのです。
そこで李斯はこう始皇帝に耳打ちしました。「韓非は何といっても韓の公子です。秦が重用したとしてもいったんコトが起これば、秦ではなく韓のために動くでしょう。といってこのまま返してあの優秀な頭脳を温存させれば、秦には害あって益なしです」
始皇帝はそれもそうだと韓非を投獄することを認めます。李斯は投獄された韓非に毒を渡し自殺に追いやりました。
あとになって思い直した始皇帝は韓非を呼ぼうとするのですが、すでに毒をあおいだ後でした。
『韓非子』の主な内容
『韓非子』の思想のうち、主な内容を下に紹介します。
1.二柄論
君主が臣下を動かすのに必要なものは二柄…すなわち刑罰と徳であり、これを自由に操ることで臣下を怖れさせたり喜ばせたりできる。
例として斉の簡公に仕えた田常と宋の子罕(しかん)がそれぞれ君主から「威」…すなわち刑罰の部分を奪い、それによって君主を脅かす存在になった話を書いています。このように君主は刑罰と徳を決して手放してはいけないのだと説いています。
2.信賞必罰論
功績があればこれをほめ、罪があれば罰する。この「信賞必罰」を正しく行わなければならない。こうして君主の権威を明らかにし、家臣の能力を発揮させることができる。
この「信賞必罰」のうち「賞」の例として以下の話を書いています。
越王の勾践(こうせん)が大臣の文種(ぶんしょう)にこう尋ねました。「私は呉を攻めたいのだが勝てるだろうか」
すると文種は「私は部下を信賞必罰によって鍛えていますから勝てます。私の部下の様子を見たかったら宮殿に火を放ってください」
そこで王が宮殿に火をつけると文種は部下にこう言いました。「火を防いで死んだ者には戦死した者と同じ褒美を与える。火を防いで生き延びた者には、戦いで勝利した者と同じ褒美を与える。火を防がなかった者は逃亡者または降伏した者と同じ罰を与える」
すると文種の部下たちは体に泥を塗り服に水をかけて、左から三千人、右から三千人、火の中に駆け込んでいきました。
「罰」の例としては以下の話を挙げています。
殷王朝のときの法律では、灰を道に捨てた者は死刑でした。孔子の弟子の子貢(しこう)が孔子に「殷のこの刑は重すぎると思います」と言うと、孔子は以下のように答えました。
「いや、この法律は政治というものがよくわかっている。灰を道に捨てれば必ず人の体にかかる。するとその人は腹を立てて喧嘩になる。喧嘩になれば、灰を捨てた者と灰をかぶった者の双方の親族どうしが闘うことになって死人が出る。だから死刑でいいのだ。それに重い刑罰は人が嫌がる。また灰を道に捨てないなどということは誰でも守れる。民に簡単なことを守らせ、嫌なことを避けさせる。これが政治のコツというものだ」
3.刑名審合(けいめいしんごう)論
刑名審合とは刑と名を一致させること。
家臣が言葉を述べたら、君主はその言葉に基づいて仕事を与え、仕事についての功績を求める。家臣の功績が仕事と一致し、その仕事が言葉と一致しているならほめ、そうでないなら罰するべきだ。こうした時に愛情は無用である。
4.時代認識に関する論
過去にあった理論(儒教をさす)にこだわらず、新しい理論(法家思想をさす)に立脚するべきである。
ここのたとえ話としては、日本の童謡にもある「待ちぼうけ」…「株を守る」の話が載っています。
宋の国にある農民がいました。田を耕しに行くと田に切り株がありました。ある日ウサギが走ってきて、この切り株にぶつかり首の骨を折って死んでしまいました。そこで彼は田を耕すのをやめ、切り株を見守ってまたウサギが跳んで出てくるのを待ちました。けれどもウサギは二度と現れず、この男は宋の国中の笑いものとなりました。
古代のすぐれた王の政治によって現代の民を治めようとするのは、この男と同じようなものである。こう書いて儒家的な復古主義を批判しています。
5.説難(ぜいなん)論
説得することは難しい。なぜなら相手の心を読み取って、その心に自分の意見を当てなければならないから。相手の心が名誉を重んじているのに利益を説いても相手にされない。相手の心が利益を求めているのに、名誉や高潔さを説いても受け入れてはもらえない。
この例としては以下の話を挙げています。
宋の国のある金持ちの家の土塀が大雨によって崩れてしまいました。
金持ちの家の子供が「早く修理しないと泥棒に入られるよ」と言ったので、金持ちは「うちの子供は賢い」と思いました。
ところが隣の家の主人も同じ忠告をしました。
その夜、泥棒が入って財産をすっかり盗まれてしまいました。金持ちは「隣の家の主人が怪しい」と疑いました。
このように相手によってどう対処するかはとにかく難しいことなのだ、と韓非子は説くのです。
また相手を立てる大切さも説いています。
自信家にはその欠点をあげつらって怒らせてはいけない。弱点をついて逆らってはいけない。そういう相手が問題を抱えているときには、別の問題や別の人間の行為を例にしてそれと同じだと相手に当てはめるとよいのだ…こう語っています。
ここまで人の心理を読みぬいて説得の大切さを考えていた韓非ですが、自分自身は李斯の妬みによって死に追いやられてしまいました。自らの人生の悲劇によって、人を「説得」することのの難しさを証明したとも言えるでしょう。
『韓非子』ではこのように自分の理論を、歴史の中のエピソードや卑近な例を使ってわかりやすく読む者が納得がいくように説いています。
足利尊氏の生い立ち
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。
1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。
そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。
これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。
1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。
しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。
そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。
これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。
幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。
こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。
ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。
南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。
この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。
ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。
主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。
1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。
そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。
これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。
1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。
しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。
そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。
これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。
幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。
こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。
ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。
南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。
この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。
ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。
主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。
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