朝倉義景の歴史
朝倉宗滴と共に歩んだ前半生
わずか16歳で朝倉家当主に
「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名であり、「朝倉家」の10代当主であった「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男として生まれたのは、1533年(天文2年)。
この当時の朝倉家は、地方の一大名でありながら、父の朝倉孝景が、室町幕府の「御供衆」(おともしゅう:将軍が外出する際、お供の列に加わる役職)や「相伴衆」(しょうばんしゅう:将軍の宴の席などに、相伴役として従った者)に列せられるなど、同幕府より「直臣」(じきしん:主君直接の支配下にある家臣)同然の厚遇を受けていました。

越前国は、天皇や将軍が住む京都に近く、有事の際にはすぐに駆け付けられる場所であったこともあり、朝倉家は朝廷や室町幕府より、篤い(あつい)信頼を寄せられていたのです。

そんな朝倉家の全盛期に生まれた朝倉義景でしたが、1548年(天文17年)に、父・朝倉孝景が急死。わずか16歳で同家の家督を継ぎ、このタイミングで、幼名の「長夜叉」(ながやしゃ)から「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改名しました。

若年であったため、政務や軍事などにおいて、朝倉家の重臣「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)別称「朝倉教景」(あさくらのりかげ)の補佐を受けていたと考えられています。

そして1552年(天文21年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「義」の字の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を賜り、朝倉義景を名乗るようになりました。このことからも朝倉家が、室町幕府と密接な関係を築いていたことが窺えるのです。
一向一揆と朝倉宗滴の死
朝倉家11代当主となった朝倉義景は、1555年(天文24年/弘治元年)、祖父の代より対立していた加賀国(現在の石川県南部)の「一向一揆」(いっこういっき)を駆逐するため、軍師としての才知に長けていた朝倉宗滴を総大将に据え、越前国に侵攻して来た一向一揆のもとへ、大人数の軍勢を送り込みます。

この他にも、能登国(石川県北部)や越前国の一向一揆と交戦しており、特に加賀国ではその半国を制圧する武功を挙げましたが、陣中において朝倉宗滴が病に倒れてしまいました。そののち、朝倉家が拠点としていた「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:福井県福井市)へと戻りますが、そのまま亡くなってしまうことに。

朝倉一族の大黒柱である朝倉宗滴を失った朝倉義景の軍勢は、一向一揆の完全駆逐を成し得ることなく、帰国することとなったのです。
朝倉義景に訪れた天下人へのチャンス
政治や軍事などの実務面のみならず、精神面でもその支柱となっていた朝倉宗滴を亡くした朝倉義景。1565年(永禄8年)、そんな彼にとって転機となる事件が勃発します。

時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されたのです。
そして、追手が来ることを恐れた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ました。

朝倉義景は、足利義昭を迎え入れることを快諾し、居城の一乗谷城で匿う(かくまう)ことにしたのです。

そんななか、室町幕府の次期将軍候補に挙げられていた足利義昭は、兄の亡きあとに追われる身となっても、将軍の座に就くことを諦めきれず、上洛を嘱望するように。将軍になるためには朝廷からの任命が必要であったことから、足利義昭は何としてでも京都へ赴くことを強く願っていたのです。

そのため足利義昭は、朝倉義景に対して上洛に際しての警護を何度も要請しました。戦国大名にとって将軍となる人物を擁して上洛することは、天下人へ一歩近付くことを意味していましたが、朝倉義景はこれを断固拒否。

朝倉義景は1567年(永禄10年)に、足利義昭の仲介によって加賀一向一揆との和睦を結ぶなど、その威光を借りていたのにもかかわらず、共に上洛を果たすことについては、頑なに首を縦に振ろうとはしなかったのです。

その理由には、溺愛していた側室「小宰相」(こざいしょう)と、その間に儲けた息子「阿君丸」(くまぎりまる)を立て続けに亡くしたために、意気消沈し正常な判断を下せなかったとする説や、この頃には「三好家」の勢力が、すでに京都にまで拡大しており、朝倉家だけでは立ち向かえないと考えたとする説など様々に推測されています。いずれにしても朝倉義景は、人生における最大のチャンスを自ら逃してしまったのです。
そののち足利義昭は、一向に動く素振り(そぶり)を見せない朝倉義景に痺れ(しびれ)を切らし、美濃国(現在の岐阜県南部)を手中に収め、勢いに乗っていた「織田信長」のもとへと移ります。そして1568年(永禄11年)11月、足利義昭は織田信長に奉じられ、遂に上洛を果たすことになりました。

織田信長を追い詰めるも、朝倉家滅亡へ
金ヶ崎の戦いまでの経緯
織田信長と上洛した足利義昭は、やがて室町幕府15代将軍に就任します。そんななか、織田信長は足利義昭の名のもとに、朝倉義景へ上洛を命じました。ところが朝倉義景は、本国である越前国を長期間留守にする不安と、織田信長のもとに馳せ参じれば、臣下の礼を執らなければならないと考え、織田信長からの命令を拒絶。

しかし、この判断は足利義昭への謀反だと見なされ、織田信長に越前国を侵攻する大義名分を与えてしまうことになったのです。

そして1570年(永禄13年/元亀元年)4月、織田信長は「徳川家康」との連合軍約30,000人を引き連れて、朝倉家討伐を開始。同家が領していた若狭国へ入り、「金ヶ崎城」(かねがさきじょう/かながさきじょう:福井県敦賀市)別称「敦賀城」(つるがじょう)、その支城であった「天筒山城」(てづつやまじょう:福井県敦賀市)、さらには、近江国と越前国を結び、交通の要衝となっていた街道が集まる「疋壇城/疋田城」(ひきだじょう:福井県敦賀市)を次々に攻略。

しかし、朝倉義景の本拠である一乗谷へ向かう道中、織田信長は、妹「お市の方」(おいちのかた)の夫であり同盟関係にあった「浅井長政」(あざいながまさ)が反旗を翻した知らせを受けます。
浅井長政にとって朝倉家は、大名として独立する際に支援をしてくれた恩義のある存在。このような背景があり、浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ条件として、「朝倉家への不戦の誓い」を立てていました。

これを破ったことを不服とした浅井長政は、北近江からの出兵を決意。織田・徳川連合軍の背後を詰めて、朝倉軍と共に挟撃しようとしていたのです。

これをいち早く察知した織田信長は戦場から潔く離脱し、京都へ戻ることを決めます。このときの撤退戦が、世に言う「金ヶ崎の戦い」です。このときの「殿」(しんがり:後退する部隊の最後尾にあって、敵の追撃を阻止する役割)は、「織田家」の家臣であった「豊臣秀吉」や「明智光秀」らが務めました。彼らのおかげで織田信長は、命からがら京都に逃げ延びることができたのです。
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景
金ヶ崎の戦いで勝利を収めた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長を取り逃がしたままであったため、当然、織田信長からの報復を受けることになります。

それが起こったのが、1570年(永禄13年/元亀元年)6月のこと。浅井長政の裏切りに激怒していた織田信長が、「浅井家」の居城「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を攻め、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)が勃発。朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。

さらに1572年(元亀3年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、足利義昭の申し出に応じて「西上作戦」(せいじょうさくせん)を開始。
遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)や三河国(現在の愛知県東部)へ進軍し、「徳川家」の配下にあった城を攻め落としていきます。

このとき、朝倉義景は武田信玄より浅井長政と協力して、織田信長を釘付けにしておくことを要請されていましたが、積雪と兵士の疲弊を理由に突如として越前へ帰国。

武田信玄と浅井長政、そしてすでに和を固めていた「石山本願寺」(大阪市中央区)の僧侶「顕如」(けんにょ)らとの「織田信長包囲網」に大きなほころびを作り、織田信長を討つ絶好のチャンスを自らの手で再び逃してしまったのです。

そして1573年(元亀4年/天正元年)、武田信玄が陣中で亡くなり、武田軍が甲斐国へ撤兵したことで、朝倉家の討伐に全力を注げるようになった織田信長は、約30,000人の兵と共に近江国へ侵攻します。

これに対して朝倉義景も約20,000人の軍勢を率いて応戦するも、越前国への撤退途中に織田軍からの厳しい追撃を受け、遂には織田信長が一乗谷にまで乱入して来たのです。

一乗谷城への帰還を果たした朝倉義景でしたが、この頃には家臣達から見放されており、同城の留守を預かっていたはずの兵士達も、その大部分が逃走してしまっていた状況にありました。そのため朝倉義景は従兄弟であり、自身の重臣であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、「六坊賢松寺」(ろくぼうけんしょうじ:福井県大野市)へと逃れたのです。
しかしこのとき、織田信長と内通していた朝倉景鏡は、同寺院を包囲し、200騎の兵士達と共に朝倉義景を急襲。朝倉義景は自刃し、41歳の若さでこの世を去りました。

そののち織田信長は、家臣の「丹羽長秀」(にわながひで)に朝倉一族の殺害を命じ、朝倉家は滅亡することになったのです。

トレントンの戦い
背景
この戦闘の前まで、アメリカの士気は極めて低かった。大陸軍はイギリス軍とドイツ人傭兵部隊の連合にニューヨークから追い出され、ニュージャージーを越えての撤退を余儀なくされていた。ロングアイランドの戦いの時に居た大陸軍兵士の90%は立ち去った。独立の大義が失われたと感じた者は脱走した。大陸軍総司令官のワシントンは幾らかの疑念を表明していた。ワシントンはバージニアの従兄弟に宛てて、「獲物は直ぐ近くにいると思う」と書き送った。

ニュージャージー西部の当時は小さな町だったトレントンはヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊3個連隊、その数1,400名に占拠されていた。 ワシントン軍は2,400名だった。ナサニエル・グリーン少将、ヘンリー・ノックス准将およびジョン・サリバン少将の補佐を受けていた。

前哨戦
大陸軍の作戦
大陸軍の策戦は3方向から協働した攻撃を掛けることに掛かっていた。ジョン・キャドワラダー将軍はニュージャージーのボーデンタウンでイギリス守備隊に対して陽動攻撃を掛け、援軍を送れないようにすることだった。ジェイムズ・ユーイング将軍は700名の民兵隊を率いて渡河し、トレントン渡し場で上陸してアッサンピンク・クリークに架かる橋を確保すれば、敵の退路を塞ぐことができるはずだった。攻撃の主力部隊は2,400名であり、トレントンの北9マイル (14 km) でデラウェア川を渡って2つに分かれ、1隊はグリーン、1隊はサリバンが率いて夜明け前の攻撃を掛けることになった[7]。サリバン隊は町の南から、グリーン隊は北から攻撃することとした[8]。この策戦の成功如何によっては、ニュージャージーのプリンストンやニューブランズウィックへの攻撃で追撃を掛けられる可能性があった。

この戦闘の前の週には、大陸軍の先遣隊が敵の騎兵偵察隊の待ち伏せを始め、伝令の騎手を捕まえ、ドイツ人哨兵を攻撃していた。これは大変効果があったので、ドイツ人傭兵部隊指揮官はプリンストンにいるイギリス軍指揮官に送る文書を守るために、100名の歩兵と1門の大砲からなる派遣部隊を送る必要があった。ワシントンはユーイング将軍とそのペンシルベニア民兵隊にドイツ人傭兵部隊の動きと配置に関する情報を掴むよう命令した。ユーイングそうする代わりに川を3度渡って襲撃することに成功した。12月17日と18日には猟兵の前進基地を襲い、21日には幾つかの家屋に火を付けた。ワシントンはデラウェア川沿いにある宿営地に近いあらゆる渡河可能地点を日夜見張れという命令も出していた。これは、イギリス軍指揮官ハウ将軍が、川が凍った場合にフィラデルフィアに攻撃をかけてくることになると考えたからだった。
12月20日、2,000名の兵士が新たに到着してワシントン軍に合流した。これはチャールズ・リー将軍の指揮下にあった兵士であり、リーが捕虜になったときはニュージャージー北部を横切って撤退中だった。同日、さらに800名の部隊がホレイショ・ゲイツの指揮でタイコンデロガ砦から到着した。

ドイツ人傭兵部隊の動き
ドイツ人傭兵部隊は12月14日にトレントンに到着した。トレントンにはキング通り(現在のウォーレン通り)とクィーン通り(現在のブロード通り)という2つの主要な通りがあり、約100軒の家屋があった。ラールの上官カール・フォン・ドノープは12月22日に南のマウントホーリーに向けて進軍し、ニュージャージーにおける抵抗勢力に対応し、23日にはアイアンワークスヒルの戦いでニュージャージー民兵隊を駆逐していた。

ドノープはラールを嫌っており、トレントンでの指揮をラールに任せることを躊躇した。ラールは騒々しく、酒飲みであり、現地の言葉に通じていないと分かっていたが、戦闘経験の豊富な56歳の軍人でもあった。ラールはイギリス軍指揮官ジェイムズ・グラント将軍に援軍を要請したが却下されていた。グラントは大陸軍をひどく蔑視しており、援軍を送らなかった。トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊の面々は、その指揮官が経験豊富であったにも拘わらず、人間性を好いてはいなかった。彼等はラールがあまりに立派すぎて成功する軍隊指揮官としては冷酷になれないと考えていた。ラールの士官達は「彼の人生に対する愛はあまりに大きくて、まず自分のことを考え、その次が他人のことになる。そのためにしっかりとした決断をすることができない。」と言ってこぼしていた。ラールは懸命に働くことを避け、部隊の慰安についてはほとんど関心を示さなかった。
トレントンの町は、アメリカの開拓地の常と同じく防壁も防御工作物も無かった[19]。ドイツ人傭兵部隊士官の中にはラールに町に防御を施すよう進言した者がおり、工兵技師の2人は町の上流側に堡塁を建設し、川に沿って防御工作を行うべきことを忠告した。技師達は図面を描き上げるまでしたが、ラールが同意しなかった。ラールが再度町の防御を施すよう促されたとき、ラールは「くだらない!来たらいいさ。...銃剣で十分だ」と答えたという。

クリスマスが近付いてくると、ロイヤリストが町に来て大陸軍が何かを企んでいると報告した[5]。何人かの大陸軍脱走兵ですら、川を渡るための食料が準備されているとドイツ人傭兵部隊に告げてもいた。ラールはこれらの話を無意味なものとして表だっては無視したが、個人的には上官に宛てた手紙で、目前に迫った敵の攻撃を心配していると表明していた。ラールはドノープに宛てて、「いつでも攻撃される可能性がある」と記した。ラールはトレントンが「防御不能」であると言い、トレントンに近くアメリカ軍の攻撃から道路を確保しておくことのできるメイドンヘッドにイギリス軍の駐屯地を置くことを求めた。その要請は却下された。大陸軍がドイツ人傭兵部隊の供給線を邪魔するようになると、ラールの士官達も同じ恐れを共有した。ある者は「ここへ来て以来一晩も平和に眠ったことがない」と記した。12月22日、1人のスパイがグラントに、ワシントンが作戦会議を招集したと報告し、グラントはラールに「守りに注意せよ」と告げた。

1,500名いたドイツ人傭兵部隊は3個連隊で分けられており、クニプハウゼン、ロスバーグおよびラールが各連隊を指揮した。その夜、天候が悪かったのでいかなる偵察も送り出さなかった。

渡河と行軍
ワシントンとその軍隊が出発する前に、ベンジャミン・ラッシュが来て将軍を景気づけようとした。ラッシュがそこにいる間に、ワシントンが書いたメモを見付けたが、そこには「勝利もしくは死」と書かれていた。これらの単語は急襲の際の合い言葉になるはずだった[23]。兵士の各々が60発の弾薬と3日分の食料を持った。この軍隊がデラウェア川岸に到着したときは既に予定より遅れており、頭上では雲が集まり始めていた。雨が降り始め、それが霰に変わり、最後は雪になった。それでも大陸軍はヘンリー・ノックスの全体指揮で川を渡り始めた。兵士達はダーラム・ボートに乗り、馬や大砲は大きな渡し船に乗せて渡した。ジョン・グロバーの第14大陸連隊が船を漕いだ。渡河途中で、ジョン・ハスレット大佐など何人かが船から落ちた。ハスレットは直ぐに水中から引き上げられた。渡河中の死者は出なかった。大砲も全て良い状態で渡すことができた。
約40名の小さな歩兵分遣隊2隊が主力の前衛を務めるよう命令された。その任務は主力の前に障害物を置くことであり、また出くわす者、あるいは町から出ようという者はだれでも捕虜に取ることだった。1隊はトレントンの北に派遣され、1隊はデラウェア川に沿って南にトレントンに向かう川沿い道を閉鎖するために派遣された。

悪天候のためにニュージャージー側への上陸が遅れ、深夜12時には終わると思っていたものが午前3時まで掛かったので、ワシントンは夜明け前の攻撃が不可能だろうと考えた。大陸軍にとってもう一つ痛手だったのは、キャドワラダーとユーイング両将軍が悪天候のために攻撃に加われなくなったことだった。
午前4時、トレントンへの行軍を始めた。その途中で市民数人が志願兵として加わり、地形に詳しかったのでガイドとして誘導した。風上に向かって1.5マイル (2.4 km) 進んだ後でベア酒場に着き、そこから右に折れた。道は滑りやすかったが、平坦であり、馬や大砲には好都合だったので、楽な時間帯となった[32]。間もなくジェイコブズ・クリークに至り、艱難辛苦しながらそれを越えた。2つの部隊はバーミンガムに到着するまで共に行動し、そこから2つに分かれた。その後間もなくベンジャミン・ムーアの家に到着し、ムーア家の家族がワシントンに食べ物や飲み物を供した。この時点で最初の曙光が見え始めた。兵士達の多くはブーツを持っていなかったので、ボロ切れを足に巻いていた。兵士の何人かは足から血を流し、雪を赤く染めた。この行軍中に2名の兵士が死んだ。
ワシントンは部隊が行軍中に馬でその隊列を行ったり来たりし、兵士達が歩き続けられるよう鼓舞した。行軍中にサリバンがワシントンに伝令を送って、天候のために発砲が難しくなっていると告げた。ワシントンは「サリバン将軍に銃剣を使うよう伝えてくれ。私はトレントンを奪ることに決めた。」と返事させた。

町の外約2マイル (3 km) の地点で、主力部隊は先遣隊と合流した。そこで50名の武装した男達が現れたが、彼等はアメリカ人であることが分かった。彼等はアダム・スティーブンが率いており、トレントン攻撃策戦を知らず、それ故にドイツ人傭兵部隊の前哨基地を攻撃していた。ワシントンはドイツ人傭兵部隊が全て守りに就いてしまうことを恐れたので、怒ってスティーブンに「君!君、彼等を守りに就かさせることで、私の策戦がだめになったかもしれない」と叫んだ。これにも拘わらず、ワシントンはトレントンへの前進を続けるよう命令した。ラールはスティーブン隊の攻撃がグラントの警告していたものだと考え、その日はそれ以上行動がないものと信じていたので、大陸軍にとっては有利に働くことになった。

鴻門の会

鴻門の会以前
紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。懐王は、項羽らを趙の救援後に函谷関より関中へ進軍するよう北上させ、一方劉邦(当時は沛公)には南方ルートの武関より関中へ進軍するよう命じた。命を受けた劉邦は軍を進めて秦軍と戦った。一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。関中に侵入し秦軍を撃破した。その際に秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。

この時項羽はまだ関中に至っていなかった。劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関を守る劉邦軍の兵を見る。更に、劉邦がすでに秦都咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、当陽君らを派遣して函谷関を攻撃し、関中へ入って戯水の西に軍を進めた。劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおうとしたのである。項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であり、劉邦の命運は風前の灯となった。
項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し一部始終を劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。関に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えて下さい」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、劉邦はこれを受け入れた。一方の項羽も項伯の取り成しにより怒りを和らげ、弁明を聞くことにした。そして翌日、後に言う「鴻門の会」が行われることとなった。

鴻門の会
翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、臣は河南に戦いました。思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。
項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて座った。范増は南向き上座に、劉邦は北向き下座に、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘(項羽の従弟)を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。
この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊噲に事態の深刻さを伝えた。樊噲は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊噲はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊噲は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊噲は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。秦王は暴虐で、人々は背きました。懐王は諸将に、先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。沛公は先に咸陽に入りましたが、宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。未だに恩賞もないのに、讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」と言うのみだった。
その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。

鴻門の会以後
鴻門の会において劉邦の釈明を受け入れた格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。天下を平らげ劉邦を蜀巴の地へ左遷はしたものの、ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北につながった。

また范増も項羽が劉邦を討たなかったことに憤慨し、後々の離間の遠因となる。范増を失った楚軍は張良・陳平の策謀に対抗する力も失った。
この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後の破滅を招く事となった。


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