豊臣秀次の歴史
豊臣家に翻弄された豊臣秀次の生涯
養子として諸家を渡り歩いた豊臣秀次
豊臣秀次が生まれたのは、豊臣秀吉が織田家の奉公衆として奮励していた頃の1568年(永禄11年)のこと。豊臣秀吉の姉「とも」と「三好吉房」(みよしよしふさ)の長男として、尾張国知多郡大高村(現在の愛知県名古屋市緑区)で誕生しました。

豊臣秀次の人生は、幼少期の時点で豊臣秀吉によって翻弄されることとなります。
当時、豊臣秀吉は織田信長の近江国(現在の滋賀県)侵攻に伴い、北近江の浅井氏の家臣である「宮部継潤」(みやべけいじゅん)を降伏させるために奔走していました。

豊臣秀吉は宮部継潤との交渉の際に、4歳の豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質に差し出します。

このまま豊臣秀次は宮部家の養子となり、「宮部吉継」(みやべよしつぐ)と名乗るようになりました。そのあと、浅井氏が滅亡すると、宮部継潤は豊臣秀吉の臣下となったため、豊臣秀次も養子ではなくなることに。

しかし、豊臣秀吉は畿内(きない:山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヵ国)での連携を強めるために、今度は河内国(大阪府羽曳野市)の「高屋城」の城主であった「三好康長」(みよしやすなが)のもとへ豊臣秀次を引き渡します。こうして、豊臣秀次は再び他家の養子となり、「三好信吉」(みよしのぶよし)と改名して三好家を相続することとなりました。

2代目関白に就任した豊臣秀次
1583年(天正11年)頃から、豊臣秀次は三好家で家臣団を束ねる地位となっていました。翌年の1584年(天正12年)、豊臣秀吉が織田信長の後継として天下統一への道を歩み始めると、豊臣秀次も羽柴姓(当時の豊臣秀吉の姓)に復帰して羽柴信吉と名乗り改め、天下人の甥として期待される存在となっていったのです。

この年に織田・徳川勢力と争った「小牧・長久手の戦い」では、将来を嘱望される豊臣秀次が総大将を務めましたが、有力家臣を失う大敗を喫します。この戦いで失態を演じた豊臣秀次は、豊臣秀吉から激しく叱責を受けたと言われています。
しかし、そのあとの「紀州征伐」と「四国征伐」では副将として活躍を見せ、豊臣秀次は汚名返上を果たすことに。そして、戦功を挙げた豊臣秀次は羽柴信吉から「羽柴秀次」と改名し、1586年(天正14年)には豊臣秀吉から豊臣姓を授かりました。

順調に出世を重ねていた豊臣秀次は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の嫡男である「鶴松」(つるまつ)が亡くなったことから、改めて豊臣秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。この頃、朝鮮侵略の「文禄の役」(ぶんろくのえき)を控えていた豊臣秀吉は、関白職を豊臣秀次に譲り、2代目関白として豊臣秀次は実質的な統治者となっていきました。

切腹に追いやられた「秀次事件」
ところが、1593年(文禄2年)に豊臣秀吉と「淀殿」(よどどの)との間に念願の実子が生まれると、豊臣秀次の運命は大きく転換することとなります。豊臣秀次は天下人後継者としての地位を確立していたにもかかわらず、実子の「お拾」(おひろい:のちの豊臣秀頼)の誕生により、豊臣秀吉から早々と隠居を促されることに。

豊臣秀吉はお拾を溺愛し、一刻も早く跡を継がせたいあまり、豊臣秀次の娘を生まれたばかりのお拾と婚約させようともしていたのです。こうした豊臣秀吉の対応に不安を募らせた豊臣秀次は、持病の喘息を悪化させ心神喪失状態へと陥っていきます。この頃から豊臣秀吉と豊臣秀次の関係は悪化していきました。

1595年(文禄4年)、豊臣秀次はついに謀反の疑いをかけられ、関白職を剥奪されてしまいます。豊臣秀次はこれを否定しましたが、豊臣秀吉に拝謁することは叶わず、わずかな従者とともに高野山へ追放されることに。

このとき、豊臣秀次は服装の指定や出入り禁止を命じられ、監禁に近いかたちで隠棲の身となってしまったのです。そして、追放が決まってからわずか1週間ほどで、豊臣秀次は切腹を命じられ、28歳で人生の幕を閉じました。
この豊臣秀次の処刑に伴い、妻妾・子・家臣とその家族を含む30人以上が京都三条河原で斬首となり、豊臣秀次の関係者は徹底的に皆殺しにされています。このように唐突に起きた「秀次事件」は、あまりに残忍な処断であったことから、諸大名や民衆にまで不安は広がり、のちに豊臣政権を崩壊に導くきっかけのひとつとなりました。

「秀次事件」その後の物語
三条河原で処刑された悲運な美少女
天下人の後継として地位を固めていたはずの豊臣秀次が、急転直下して自害することとなった「秀次事件」の真相は判明しておらず、いくつかの仮説が語られてきました。

一説によると、豊臣秀次は隠居を迫られた頃から自暴自棄になり、「殺生関白」と噂されるほど素行に問題があったとも言われています。
豊臣秀吉は切腹した豊臣秀次を三条河原に晒し首にして、そこで家族や家臣達を処刑させました。処刑者の中には、豊臣秀次に側室として嫁ぐ予定だった「最上義光」の娘である「駒姫」(こまひめ)の姿も。

当時、美少女と有名だった駒姫はまだ15歳と若く、正式に側室となる前だったため最上家をはじめとする諸大名から助命嘆願がされていました。この声に対し、豊臣秀吉は駒姫の処刑を免除するよう命じましたが、処刑場まであと一歩のところで間に合わず、他の側室達と同様に駒姫は処刑されてしまったと言われています。

このように、豊臣秀次の近親者は、幼い子どもや女性であっても例外なく許されず、悪人であるという見せしめが行われたのです。秀次事件による駒姫の死は、そのあとに最上家が「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川方につくきっかけになったとも考えられています。

丰臣秀次(1568-1595)本名三好信吉,幼名治兵卫、万丸,通称小一郎、孙七郎,日本战国时代政治人物,公卿,尾张城主三好吉房之子,太政大臣丰臣秀吉的养子和外甥。秀吉在织田信长死后,大量任用亲戚,秀次在1583年时参与北伊势与贱岳的战争,之后的小牧长久手之战时,秀次对抗德川家康不仅大败,而且让丰臣秀吉帐下大将池田恒兴阵亡使得秀吉大怒,1585-1590这五年间屡立战功,因功受封清洲城主。次年,舅父丰臣秀吉次子鹤松病逝,秀次遂成为秀吉养子,同年继承关白之位,但在丰臣秀吉第三子秀赖诞生之后,秀吉对秀次便不再信任,秀次后来做出很多不人道之事,以至于得了个杀生关白的绰号,1595年,丰臣秀次被流放至高野山,随即自裁,同年,其妻女共三十八人被丰臣秀吉斩于京都三条河原。
秀次被杀后,太阁极力抹去秀次的痕迹,甚至当初秀吉自己耗费心血建造的聚乐第也因此焚毁。而德川幕府执政时期又极力抹去丰家的痕迹,事情的真相今天确实很难清楚。只是秀次在治政上名声颇佳,又是有良好修养的文化人,当时秀次交厚如山科言经,里村绍巴都是深知文雅的人(里村被称为是连歌史上最后的巨匠),秀次会做出种种逆行确实值得疑惑。

足利尊氏の生い立ち
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。

1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。

そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。

これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。

1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。

しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。

さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。

そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。

これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。

幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。

こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。

ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。

南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。

この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。

ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。

主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。

秦の統一戦争
統一戦争
鄴の戦い:趙との戦い
詳細は「鄴の戦い (紀元前236年)」を参照
紀元前236年、秦は中華の統一に本腰を入れ始めた。趙の将軍の龐煖が燕に侵攻し、国内が手薄になっている隙を狙い趙へ侵攻した。総大将は王翦、副将は桓齮、末将は楊端和である。

まず、鄴の周辺の9城を落とした。そして、全軍を1軍として閼与と轑陽を落とした。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍の10分の2の精鋭部隊を率い、鄴や安陽を落とす。。

平陽の戦い:趙との戦い
詳細は「平陽の戦い (紀元前234年)」を参照
紀元前234年、桓齮は平陽に直行した。趙は扈輒を将とし平陽へ救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将である扈輒を討ち取った。翌紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った。この2戦で趙は10万以上の兵を失った。

肥下の戦い:趙との戦い
詳細は「肥下の戦い」を参照
紀元前233年、桓齮は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り、赤麗と宜安(現在の河北省石家荘市藁城区の西南)を占領した。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した。桓齮の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した。また『戦国策』によると桓齮は討ち死にしたとある。趙は秦に占領されていた土地を取り戻した。その功により李牧は武安君に封じられた。
番吾の戦い:趙との戦い
詳細は「番吾の戦い」を参照
紀元前232年、秦王政は兵を大挙し、趙に侵攻した。軍は鄴城に到着し、その後太原に到着した。秦軍は狼孟と番吾を占領したが、李牧が秦軍を撃破した。さらに李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還した。

韓攻略
詳細は「韓攻略」を参照
紀元前230年、内史騰が10万の軍を率いて黄河を南下した。韓の国都新鄭を落とし、韓王安は降伏し、韓は滅亡した。韓の旧領は秦の潁川郡となった。

趙攻略
詳細は「趙攻略」を参照
紀元前229年、斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害 につけこまれ、秦に侵攻された。秦によって買収された悼襄王お気に入りの重臣郭開の讒言により秦軍を撃退し続けた李牧が殺された。また、司馬尚も更迭された。幽繆王は趙葱(ちょうそう)・顔聚(がんしゅう)を率いて迎え撃ったが、敗れ趙葱は戦死した。

紀元前228年、国都邯鄲が落ちた。趙幽繆王と顔聚が捕虜となり趙は滅亡した。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で趙幽繆王の兄の趙公子嘉を擁立し代国とした。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。

秦王政の暗殺未遂、燕の策略
詳細は「荊軻」を参照
背景
燕は弱小な国であった。太子丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり12年間、咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという。丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった。

両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた。

荊軻
荊軻は衛の人であった。読書と剣術を好んで修行、日々酒を酌み交わし、若くして諸国を放浪して遊説術を学んでいた。
荊軻は、諸国の旅から衛に帰国した後に官僚を志して、衛の君主である元君に謁見し、旅で学んだ遊説術に基づいた国家議論を大いに述べたが、元君は全く聞き容れなかった。こうして荊軻は挫折しそれ以来遊侠に身を投じた。ある時に剣術論のことで智蓋聶(ち こうじょう)という者と言い争って喧嘩になりかけたが、智蓋聶が荊軻を睨むと荊軻はすぐに退散した。また邯鄲を訪れたとき、六博の規定をめぐって魯句践(ろ こうせん)という者と喧嘩になりかけたが、魯句践が凄んで荊軻に対して大声を出すと荊軻はすぐに退散した。こうして荊軻は臆病者と笑われたが、荊軻はいたずらに些細な事で命を落とす危険を冒すことはしなかった。

その後、燕に入り、一人の狗殺人と高漸離という筑(ちく、弦楽器の一種)を良く奏でる者と親しくつきあった。燕の市に行っては酒を飲み酔いしれ、高漸離の筑の伴奏で市中で歌い楽しみ、やがては泣き始めるという有様は、あたかも周りに誰も存在しないかのようであった(傍若無人)。酒飲みとつきあう状況でも荊軻は読書を好み、各地の賢人や豪傑・有徳者たちと相結び、やがて当地の実力者の田光に賓客として遇された。

刺客
政に対して刺客を送ることを考えた丹は田光に相談し、田光は荊軻を推挙した。丹が帰る時に「この事はご内密に」と言ったことで、田光は荊軻に話を告げた後で「太子に疑念を持たせたのは私の不徳の為すところだ」と自ら首をはねた。
刺客の依頼を受けた荊軻は、用心深い政に謁見するための策を考えた。その策とは、一つが、燕でも最も肥沃な土地である督亢(とくごう、現在の河北省保定市涿州市・高碑店市)を差し出すこと。もう一つが、もとは秦の将軍で、政が提案した軍の少数精鋭化に対し諫めたために政の怒りに触れ一族を処刑され、燕へ逃亡してきていた樊於期(はん おき)の首を差し出すこと。

これをすれば政も喜んで荊軻に会うだろうと丹に提案するが、丹は領地割譲はともかく、自分たちを頼って逃げてきた人間を殺すことはできないと断った。彼の苦悩をおもんぱかった荊軻は直接、樊於期に会い「褒美のかかっているあなたの首を手土産に、私が秦王にうまく近づき殺すことができたならば、きっと無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期は復讐のためにこれを承知して自刎し、己の首を荊軻に与えた。

丹は暗殺に使うための鋭い匕首を天下に求め、遂に古代中国の越国にいた伝説的な刀匠徐夫人の匕首を百金を出して手に入れた。この匕首に毒で焼きを入れさせ死刑囚で試し斬りを行なったところ、斬られて死なぬ者はいなかった。

旅立ち
紀元前227年、丹は刺客の相棒として秦舞陽(しん ぶよう)と言う者を荊軻に付けようとした。秦舞陽は13歳で人を殺し、壮士として有名であったが、荊軻は秦舞陽のことを頼りにならぬ若造だと見抜き、遠くに住む旧友[注 7] を同行者に加えようと待機していた。しかし丹が荊軻の出発をたびたび急かし、怖気づいたのではないかと疑いはじめたため、荊軻は仕方なく秦舞陽を連れて出発することに決めた。

やがて出発の日が訪れる。丹をはじめ、事情を知る見送りの者は全て喪服とされる白装束を纏い、易水(えきすい、黄河の北を流れる)のほとりまで荊軻たちにつき従った。彼らは全て涙を流し、荊軻の親友の高漸離は筑を奏でて見送った。この時に荊軻が生還を期さない覚悟を詠んだ

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず 風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
という詩句は、史記の中で最も有名な場面の一つされる。
これを聴いた士たちは、だれもが感情の昂ぶりの余りに凄まじい形相となった。そして荊軻は車に乗って去り、ついに後ろを振り向くことは無かった。
秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の裏切り者の樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり秦王政へ襲いかかった。秦王政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[24][46]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた。二人のいつわりの使者は処刑された。

燕の壊滅
秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた。紀元前226年、国都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願った。しかしその講和もつかの間のものに過ぎなかった。

魏攻略
詳細は「魏攻略」を参照
紀元前225年、王翦の子の王賁が60万の兵を率いて、魏を攻めた。魏王假は国都大梁に籠城し、水攻めを受けた。魏王假は降伏し、魏は滅亡した。

楚攻略
詳細は「楚攻略」を参照
紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」で充分だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。

李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍に大勝した。

さらに、李信と蒙恬は、楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る。

しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の武将を失う大敗を喫した(城父の戦い)。

紀元前224年、秦の武将王翦がまたもや60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となり、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡し、九江郡となった。

紀元前222年、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。

燕と代の滅亡
紀元前222年に王賁が遼東に燕と代を滅ぼすため侵攻した。代王嘉と燕王喜は捕虜となり代と燕は滅んだ。この時点で趙の滅亡とすることもある。

斉攻略
詳細は「斉攻略」を参照
前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后(中国語版)が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝(中国語版)が執政した。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。田建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった。
五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊は西部の辺境に集結した。前221年、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した。田建は降伏し、斉は滅亡した。田建は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した。斉の地に斉郡と瑯琊郡を置いた。秦は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった。


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  • ”西方以宝瓶宫、人马宫等为十二宫,而我国也有自己的十二宫,也叫十二辰,即子丑寅卯、辰巳午未、申酉戌亥是也。”此书还将十二星宫运用到堪舆当中,《儒门重理折衷堪舆完
  • 谁知,.又冒出一只大包子,也缠着江瑟瑟,要亲亲,要抱抱,要一起睡。谁知,.又冒出一只大包子,也缠着江瑟瑟,要亲亲,要抱抱,要一起睡。
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  • 其中,伦敦 “西区”(West End)是世界级的戏剧重镇,也是话剧和音乐剧爱好者们的朝圣地。看到一个很中肯的影评:“对Viggo来说,这片子可算是他粉丝的最佳
  • ”(保定晚报)无锡149号女嘉宾出生年份:1998身高体重:171cm 49kg宗教信仰:无 对对方无要求 文化程度:本科工作年薪:教师 8w+籍贯居住:江苏
  • 也是我们可以做的事情!但是在还没得到油管的明确回复之前,我们会继续推广我不O。
  • 我先说,在这种组呆不下去全是我自己问题)小李需要时间成长[加油]中澄不锈钢有限公司,专业做无缝钢管,主要从事不锈钢管的出口服务,注册资金5888万。5d胶原光不
  • 而因为节气和公历都代表了太阳的周年回归运动,二十四节气在公历中的日期都相对固定,本世纪之内,秋分都发生在9月22日或23日。但是,由于现行的二十四节气依据速率并
  • 一个人待着也想早点找到生活的状态,两个多月了,我也不知道自己想什么!再过几年也就30了,我和你的感情让现在的我等同于废人,真的后悔认识你,是后悔也没用!
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