木戸孝允/桂小五郎(長州藩士)
幕末期は長州藩を主導して国事に奔走し、明治初期は新政府内にあって日本の近代化を推し進めた「桂小五郎」(かつらこごろう)こと「木戸孝允」(きどたかよし)。この人物なくして長州藩の武力討幕はなく、明治政府による国家経営の刷新もありえませんでした。 現在、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)と共に「維新三傑」の一員に数えられていますが、この2人と大きく異なる点は、桂小五郎が剣豪であったことです。愛刀や剣豪たるゆえんを踏まえて、その生涯をご紹介します。
長州藩の尊皇攘夷派における中心人物
長州藩に桂小五郎あり
桂小五郎は1833年(天保4年)6月26日、萩城下の町医者「和田昌景」(わだまさかげ)の子として生まれました。桂家に養子に入ったのが8歳。以後、1865年(慶応元年)9月29日まで「桂小五郎孝允」を名乗ります。
10代の頃から学業優秀者に贈られる褒賞を受けるなど頭角を現し、1849年(嘉永2年)には藩校「明倫館」(めいりんかん)で「吉田松陰」(よしだしょういん)の教えを享受。
以降、「松下村塾」の塾生ではなかったものの、門人の礼を執り続けました。1860年(万延元年)には水戸藩の尊皇攘夷派と盟約を結び、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「久坂玄瑞」(くさかげんずい)と並んで、長州藩内の尊皇攘夷派の中心人物となっていきます。
一方で、「勝海舟」(かつかいしゅう)や「坂本龍馬」(さかもとりょうま)、「横井小楠」(よこいしょうなん)などの開明的な人々とも交流。
広く思想を受け入れる柔軟さも、桂小五郎の特長のひとつでした。やがて長州藩が御所警護の任にある立場を利用して朝廷内の尊皇攘夷派公家とも手を結ぶと、京都における存在感も高まり、「長州に桂小五郎あり」と広く名前を知られるようになりました。
京都に潜伏し長州藩の信頼回復に奔走
1863年(文久3年)、朝廷内で「八月十八日の政変」が勃発すると、京都における長州藩の影響力は失われ、桂小五郎も一転、幕府から追われる身となります。尊皇攘夷運動の高まりに危機感を募らせた「孝明天皇」(こうめいてんのう)が、朝廷内の公武合体派公家と薩摩藩・会津藩の両藩を動かし、尊皇攘夷派公家と長州藩勢力を京都から一掃させたのです。
しかし、長州勢力が京都を追われたあとも桂小五郎は京都に潜伏し、藩の信頼回復に奔走しました。1865年(慶応元年)には藩命で名を「木戸貫治孝允」に改名。桂小五郎の名前が有名だったため、幕府の追及から逃れる目的で別人になりすましたのです。
この頃、桂小五郎改め木戸孝允は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬を介して薩摩藩との接触を開始します。薩摩藩は長州藩を京都から追い出した遺恨の敵でしたが、幕府による「第二次長州征伐」が迫る中、西南雄藩の筆頭格であり中央政局に絶大な影響力を有する薩摩藩と提携することは、長州藩が生き延びる上で不可欠でした。
1866年(慶応2年)1月、京都で「薩長同盟」の密約が成立すると、長州藩の命運は討幕という大目標に向けて、大きく動き出します。
維新の中心人物として存在感を発揮
新政府の目玉政策を統括
「王政復古の大号令」が下され明治政府が樹立されると、木戸孝允は参与を拝命。1868年(明治元年)1月に「五箇条の御誓文」を起草し、秋には大久保利通に封建領主制改革について提案します。この結果、1869年(明治2年)に「版籍奉還」(はんせきほうかん)が実現。かつて大名だった諸侯達に領地と領民を差し出させたのです。
木戸孝允は1869年(明治2年)には参議に就任。1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)にも大きくかかわりました。しかし、「岩倉遣外使節団」(いわくらけんがいしせつだん)に副使として加わり、1873年(明治6年)7月に帰国すると、政府内で「征韓論」の議論が持ち上がります。
木戸孝允は内治拡充の立場から反対しますが、共に維新を牽引した西郷隆盛や「江藤新平」(えとうしんぺい)らが「明治六年の政変」で下野。木戸孝允は参議兼文部卿となりますが、この頃から健康面での不安が目立つようになります。
さらに1874年(明治7年)には、大久保利通の台湾出兵に反対して参議を辞職。一度は政府に復帰したものの大久保利通と意見が対立しがちであり、体調悪化も伴って第一線からの後退を余儀なくされてしまいます。
そして1877年(明治10年)、下野後、薩摩に隠棲していた西郷隆盛が挙兵して「西南戦争」が勃発すると、病床で「西郷君、分かった。分かったから、いい加減にしないか」と呟きつつ病没。享年45歳でした。
異称は「逃げの小五郎」
木戸孝允は、桂小五郎と名乗っていた時代にあだ名を付けられていましたが、それが「逃げの小五郎」です。反幕府勢力の首魁・長州藩の有力者ということもあり、幕府側から命を狙われる機会が多かったものの、常に逃げの一手で危機を切り抜けています。
例えば、1864年(元治元年)6月に起こった「池田屋事件」。京都を追われた尊皇攘夷派の志士が池田屋で密談中、新撰組に急襲されて多くの志士が討ち取られた際も、桂小五郎は辛くも難を逃れました。「一足先に池田屋に行ったら人が少なかったので、出直そうと思って対馬藩邸に赴いたのが幸いした」と本人は回想していますが、幕府の記録では「桂小五郎は屋根伝いに逃げた」と記しています。
この1ヵ月後には長州藩が御所に攻めかかった「禁門の変」が勃発。長州勢は敗れて京都から追われてしまいますが、このときも桂小五郎は変装を駆使して幕府側の厳しい追及を逃れつつ、京都内を転々としました。芸妓の「幾松」(いくまつ:のちの正妻[木戸松子])が身をやつして、二条大橋の下に潜む桂小五郎のもとへ握り飯を運んだという有名な逸話も残っています。
また、首尾よく京都を脱出するや、今度は但馬地方(現在の兵庫県北部)に潜伏。地方内をあちこちと逃げ回って幕府側の追及をかわしています。「逃げの小五郎」という異称はこのとき、逃亡行為を揶揄する意味で付けられました。
日本刀の目利きにも長けた人物
桂小五郎は剣豪としても知られ、流儀は「神道無念流」。長州から江戸に出府して、「斎藤弥九郎」(さいとうやくろう)が営む同流道場「練兵館」に入門するや、わずか1年で免許皆伝を許され、塾頭を5年間務めています。
得意の構えは大上段。当時としては高身長の5尺8寸(約174㎝)だったこともあり、竹刀を振りかぶるだけで相手を圧倒しました。塾頭期間中はたびたび剣術教授を行い、「直心影流男谷派」(じきしんかげりゅうおだには)の剣豪「男谷信友」(おだにのぶとも)の直弟子を破ったとも伝えられています。
愛刀は「備前長船清光」(びぜんおさふねきよみつ)でした。備前とは現在の岡山県東部、長船とは吉井川下流域一帯の地名です。中国山地で良質な砂鉄が採取でき、さらに鍛刀の燃料となる炭が生産できることや、吉井川の水運が利用できること、中国山地の伏流水が焼き入れに必要な良質の水として湧くことなど好条件が重なり、備前長船は平安時代中期から日本刀の主要産地となります。
備前刀は日本刀を代表する一大ブランドでした。備前長船清光はこの備前刀のうち、「末備前」(すえびぜん:応仁の乱、文明の乱から室町時代末期に到る時期の備前刀)を代表する名工のひとりです。「数物打」という粗悪刀も多い末備前にあって、「注文打」の備前長船清光を愛刀とするあたり、桂小五郎は日本刀に対する目利きであったことが窺えます。
幕末期は長州藩を主導して国事に奔走し、明治初期は新政府内にあって日本の近代化を推し進めた「桂小五郎」(かつらこごろう)こと「木戸孝允」(きどたかよし)。この人物なくして長州藩の武力討幕はなく、明治政府による国家経営の刷新もありえませんでした。 現在、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)と共に「維新三傑」の一員に数えられていますが、この2人と大きく異なる点は、桂小五郎が剣豪であったことです。愛刀や剣豪たるゆえんを踏まえて、その生涯をご紹介します。
長州藩の尊皇攘夷派における中心人物
長州藩に桂小五郎あり
桂小五郎は1833年(天保4年)6月26日、萩城下の町医者「和田昌景」(わだまさかげ)の子として生まれました。桂家に養子に入ったのが8歳。以後、1865年(慶応元年)9月29日まで「桂小五郎孝允」を名乗ります。
10代の頃から学業優秀者に贈られる褒賞を受けるなど頭角を現し、1849年(嘉永2年)には藩校「明倫館」(めいりんかん)で「吉田松陰」(よしだしょういん)の教えを享受。
以降、「松下村塾」の塾生ではなかったものの、門人の礼を執り続けました。1860年(万延元年)には水戸藩の尊皇攘夷派と盟約を結び、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「久坂玄瑞」(くさかげんずい)と並んで、長州藩内の尊皇攘夷派の中心人物となっていきます。
一方で、「勝海舟」(かつかいしゅう)や「坂本龍馬」(さかもとりょうま)、「横井小楠」(よこいしょうなん)などの開明的な人々とも交流。
広く思想を受け入れる柔軟さも、桂小五郎の特長のひとつでした。やがて長州藩が御所警護の任にある立場を利用して朝廷内の尊皇攘夷派公家とも手を結ぶと、京都における存在感も高まり、「長州に桂小五郎あり」と広く名前を知られるようになりました。
京都に潜伏し長州藩の信頼回復に奔走
1863年(文久3年)、朝廷内で「八月十八日の政変」が勃発すると、京都における長州藩の影響力は失われ、桂小五郎も一転、幕府から追われる身となります。尊皇攘夷運動の高まりに危機感を募らせた「孝明天皇」(こうめいてんのう)が、朝廷内の公武合体派公家と薩摩藩・会津藩の両藩を動かし、尊皇攘夷派公家と長州藩勢力を京都から一掃させたのです。
しかし、長州勢力が京都を追われたあとも桂小五郎は京都に潜伏し、藩の信頼回復に奔走しました。1865年(慶応元年)には藩命で名を「木戸貫治孝允」に改名。桂小五郎の名前が有名だったため、幕府の追及から逃れる目的で別人になりすましたのです。
この頃、桂小五郎改め木戸孝允は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬を介して薩摩藩との接触を開始します。薩摩藩は長州藩を京都から追い出した遺恨の敵でしたが、幕府による「第二次長州征伐」が迫る中、西南雄藩の筆頭格であり中央政局に絶大な影響力を有する薩摩藩と提携することは、長州藩が生き延びる上で不可欠でした。
1866年(慶応2年)1月、京都で「薩長同盟」の密約が成立すると、長州藩の命運は討幕という大目標に向けて、大きく動き出します。
維新の中心人物として存在感を発揮
新政府の目玉政策を統括
「王政復古の大号令」が下され明治政府が樹立されると、木戸孝允は参与を拝命。1868年(明治元年)1月に「五箇条の御誓文」を起草し、秋には大久保利通に封建領主制改革について提案します。この結果、1869年(明治2年)に「版籍奉還」(はんせきほうかん)が実現。かつて大名だった諸侯達に領地と領民を差し出させたのです。
木戸孝允は1869年(明治2年)には参議に就任。1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)にも大きくかかわりました。しかし、「岩倉遣外使節団」(いわくらけんがいしせつだん)に副使として加わり、1873年(明治6年)7月に帰国すると、政府内で「征韓論」の議論が持ち上がります。
木戸孝允は内治拡充の立場から反対しますが、共に維新を牽引した西郷隆盛や「江藤新平」(えとうしんぺい)らが「明治六年の政変」で下野。木戸孝允は参議兼文部卿となりますが、この頃から健康面での不安が目立つようになります。
さらに1874年(明治7年)には、大久保利通の台湾出兵に反対して参議を辞職。一度は政府に復帰したものの大久保利通と意見が対立しがちであり、体調悪化も伴って第一線からの後退を余儀なくされてしまいます。
そして1877年(明治10年)、下野後、薩摩に隠棲していた西郷隆盛が挙兵して「西南戦争」が勃発すると、病床で「西郷君、分かった。分かったから、いい加減にしないか」と呟きつつ病没。享年45歳でした。
異称は「逃げの小五郎」
木戸孝允は、桂小五郎と名乗っていた時代にあだ名を付けられていましたが、それが「逃げの小五郎」です。反幕府勢力の首魁・長州藩の有力者ということもあり、幕府側から命を狙われる機会が多かったものの、常に逃げの一手で危機を切り抜けています。
例えば、1864年(元治元年)6月に起こった「池田屋事件」。京都を追われた尊皇攘夷派の志士が池田屋で密談中、新撰組に急襲されて多くの志士が討ち取られた際も、桂小五郎は辛くも難を逃れました。「一足先に池田屋に行ったら人が少なかったので、出直そうと思って対馬藩邸に赴いたのが幸いした」と本人は回想していますが、幕府の記録では「桂小五郎は屋根伝いに逃げた」と記しています。
この1ヵ月後には長州藩が御所に攻めかかった「禁門の変」が勃発。長州勢は敗れて京都から追われてしまいますが、このときも桂小五郎は変装を駆使して幕府側の厳しい追及を逃れつつ、京都内を転々としました。芸妓の「幾松」(いくまつ:のちの正妻[木戸松子])が身をやつして、二条大橋の下に潜む桂小五郎のもとへ握り飯を運んだという有名な逸話も残っています。
また、首尾よく京都を脱出するや、今度は但馬地方(現在の兵庫県北部)に潜伏。地方内をあちこちと逃げ回って幕府側の追及をかわしています。「逃げの小五郎」という異称はこのとき、逃亡行為を揶揄する意味で付けられました。
日本刀の目利きにも長けた人物
桂小五郎は剣豪としても知られ、流儀は「神道無念流」。長州から江戸に出府して、「斎藤弥九郎」(さいとうやくろう)が営む同流道場「練兵館」に入門するや、わずか1年で免許皆伝を許され、塾頭を5年間務めています。
得意の構えは大上段。当時としては高身長の5尺8寸(約174㎝)だったこともあり、竹刀を振りかぶるだけで相手を圧倒しました。塾頭期間中はたびたび剣術教授を行い、「直心影流男谷派」(じきしんかげりゅうおだには)の剣豪「男谷信友」(おだにのぶとも)の直弟子を破ったとも伝えられています。
愛刀は「備前長船清光」(びぜんおさふねきよみつ)でした。備前とは現在の岡山県東部、長船とは吉井川下流域一帯の地名です。中国山地で良質な砂鉄が採取でき、さらに鍛刀の燃料となる炭が生産できることや、吉井川の水運が利用できること、中国山地の伏流水が焼き入れに必要な良質の水として湧くことなど好条件が重なり、備前長船は平安時代中期から日本刀の主要産地となります。
備前刀は日本刀を代表する一大ブランドでした。備前長船清光はこの備前刀のうち、「末備前」(すえびぜん:応仁の乱、文明の乱から室町時代末期に到る時期の備前刀)を代表する名工のひとりです。「数物打」という粗悪刀も多い末備前にあって、「注文打」の備前長船清光を愛刀とするあたり、桂小五郎は日本刀に対する目利きであったことが窺えます。
#清原果耶[超话]#
清原果耶主演「ジャンヌ・ダルク」舞台写真や開幕直後のコメント公開
俳優・清原果耶主演舞台『ジャンヌ・ダルク』(演出:白井晃)が11月28日より上演スタート。これにあわせて舞台写真と、開幕直後の清原のコメントが公開となった。
およそ600年前、長きにわたるイングランドとの戦争(百年戦争)に疲弊したフランスに颯爽と登場し目覚ましい活躍を遂げた後、わずか2年で火形によりその命を散らしたジャンヌ・ダルクという一人の少女が、時代に、政治に翻弄されながらも、自らの信じるものを掴みとっていくまでの「生」に焦点をあてた、人間ドラマであり、歴史スペクタクル。
初舞台にしてジャンヌ・ダルクで主演となる清原をはじめ、ジャンヌに導かれ王座に就くシャルル世を演じる小関裕太が共演。ほか、ジャンヌとともに戦う傭兵レイモン(坪倉由幸)、ケヴィン(島村龍之介)、ジャンヌと敵対するイングランド側のベッドフォード公(岡田浩暉)、タルボット(福士誠治)、シャルルを支える王妃マリー(山崎紘菜)、継母のヨランド(りょう)、彼女らと対立しジャンヌを敵対視するラ・トレムイユ卿(神保悟志)、ジャンヌに異端審問にかけるコーション司教(榎木孝明)がキャスティング。総勢100人を超える出演者が出演する。
■清原果耶コメント
無事に初日公演を終えました。
今までに感じたことがない興奮と
心臓の音が聞こえてきそうなくらいの緊張。
あんなにもぜい沢な時間を
親愛なるスタッフ・キャストのみなさま、そして劇場へお越しくださったみなさまと
共有できたことを幸せに思います。
千秋楽まで、進化を続けながら駆け抜けてゆけるよう精進してまいります。
舞台『ジャンヌ・ダルク』東京公演は12月17日まで東京建物 Brillia HALLにて、大阪公演は12月23日から同26日まで大阪・オリックス劇場で上演予定!
清原果耶主演「ジャンヌ・ダルク」舞台写真や開幕直後のコメント公開
俳優・清原果耶主演舞台『ジャンヌ・ダルク』(演出:白井晃)が11月28日より上演スタート。これにあわせて舞台写真と、開幕直後の清原のコメントが公開となった。
およそ600年前、長きにわたるイングランドとの戦争(百年戦争)に疲弊したフランスに颯爽と登場し目覚ましい活躍を遂げた後、わずか2年で火形によりその命を散らしたジャンヌ・ダルクという一人の少女が、時代に、政治に翻弄されながらも、自らの信じるものを掴みとっていくまでの「生」に焦点をあてた、人間ドラマであり、歴史スペクタクル。
初舞台にしてジャンヌ・ダルクで主演となる清原をはじめ、ジャンヌに導かれ王座に就くシャルル世を演じる小関裕太が共演。ほか、ジャンヌとともに戦う傭兵レイモン(坪倉由幸)、ケヴィン(島村龍之介)、ジャンヌと敵対するイングランド側のベッドフォード公(岡田浩暉)、タルボット(福士誠治)、シャルルを支える王妃マリー(山崎紘菜)、継母のヨランド(りょう)、彼女らと対立しジャンヌを敵対視するラ・トレムイユ卿(神保悟志)、ジャンヌに異端審問にかけるコーション司教(榎木孝明)がキャスティング。総勢100人を超える出演者が出演する。
■清原果耶コメント
無事に初日公演を終えました。
今までに感じたことがない興奮と
心臓の音が聞こえてきそうなくらいの緊張。
あんなにもぜい沢な時間を
親愛なるスタッフ・キャストのみなさま、そして劇場へお越しくださったみなさまと
共有できたことを幸せに思います。
千秋楽まで、進化を続けながら駆け抜けてゆけるよう精進してまいります。
舞台『ジャンヌ・ダルク』東京公演は12月17日まで東京建物 Brillia HALLにて、大阪公演は12月23日から同26日まで大阪・オリックス劇場で上演予定!
空蝉之父官居卫门督,对空蝉的教养颇为看重,一直有意让她入宫为妃。空蝉嫁人之前,也一向有自矜的名声。奈何父母早亡,家道不济,只能嫁于年长的地方官伊予介作为续弦,而伊予介与前妻有一子一女。而紫式部或有一兄,身为地方官之女,曾作为公卿的外室,为其生下一女。那位公卿意外离世后,她又为公卿的唐弟教养女儿,以期该女可以随侍君侧。后来公卿的唐弟也对紫式部有意,展开追求。这其中,颇有巧合之处,似乎作者将自己代入到了空蝉这一角色之中。当然,这些想法并没有经过正经地考据,寻求旁证。不过这样一想,文章就更加有意思了。
还是回到《源氏物语》的原文中来,翻译就是要将各个版本放在一起比较着看,才能显出其中的趣味来。
古文原文是:
まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふかたなしと思ひて、泣くさまなどいとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからましと思す。(源氏物語「帚木」)
将《源氏物语》的古文改写成现代文的日本文人也有许多位,与谢野晶子、谷崎润一郎、円地文子、田边圣子等等。此处选取与谢野晶子的版本和原文给出的版本进行比较:
谢野晶子版本:きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹《なよたけ》のようで、さすがに折ることはできなかった。
真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐《かれん》であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまった。
原文给出的现代文:空蝉は、人柄が柔和であるのに、無理に強い態度を加えて光源氏に対応しているので、細くしなやかな竹のように思え、さすがに手折ることはできそうもない。
空蝉は心底辛くて、無理無体ななさりようを本当にひどいと思って泣いている様子など、とても風情がある。気の毒ではあるけれど、会わなかったら残念であったろうと光源氏はお思いになる
而中文译本也有很多,这里只选取丰子恺和林文月的版本,当然还要厚着脸皮添上自译版。
丰子恺版本:原来空蝉这个人的性情,温柔中含有刚强,好似一枝细竹,看似欲折,却终于不断。此刻她心情愤激,痛恨源氏公子的非礼行为,只管吞声饮泣,样子煞是可怜。源氏公子虽然觉得对这女子不起,但是空空放过机会,又很可惜。
林文月版本:她原本是娇柔不堪的人儿,却故作坚强态,这就像那弱竹在风中摇摆,似折不折,教人看着焦急,又教人敬佩和爱怜。看着她那无限幽怨,吞声哭泣的样子,虽然于心不忍,但是如果就此分别,又恐日后必将遗憾追悔。
自译版:空蝉虽为人柔和,但面对光源氏的无理相迫,却表现得犹如弱竹一般。其杆虽细,却也不能信手摧折。光源氏的非礼强逼,让空蝉心中气苦,认为光源氏实在是恣意妄为。可她这般梨花带雨,偏又别具风情。光源氏未必出于本意,心中也有不忍,又觉若无此会,着实可惜。
这里值得一提的是林译虽然出版早,但成书是晚于丰译的,由于一些原因并没有参考丰译。在下奉丰老为偶像,不过自译时,也没有看过两位老师的译本,不然肯定会在脑子里留下不可磨灭的印象。译文之间的这种隔绝,使得各个译文自称体系,这也正是翻译的魅力之一。
当然,还有《源氏物语》的漫画关于这一段的描述。(附图1)
附图2选自大河和纪的《源氏物语》,正是光源氏倾(非)诉(礼)衷(强)肠(逼)的场景。
关于这一段的与谢野晶子版本:
「ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待っていたのです。だからすべて皆|前生《ぜんしょう》の縁が導くのだと思ってください」
译文原文版本:
「ずっと前からあなたを慕い続けてこういう機会を狙っていたんだ。あなたとこうして出会うのは、前世からの縁だと思える」
丰译:
其实我私心倾慕,已历多年;常想和你罄吐衷曲,苦无机会。今宵幸得邂逅,因缘非浅。万望曲谅愚诚,幸赐青睐!(是我的错觉吗,这里仿佛显出了某种老练来)
林译:
我想要把这郁积心头已久的思慕向您来倾诉。今晚有这个机会,也算是冥冥中有些缘分的吧。
自译:
私心倾慕,已历多时。终觅此良机,始与卿一会,莫不是前世宿缘。
这里肯定是不知何时何地瞄过丰译了,译的时候第一句话自然而然出现在脑子里。
还是回到《源氏物语》的原文中来,翻译就是要将各个版本放在一起比较着看,才能显出其中的趣味来。
古文原文是:
まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふかたなしと思ひて、泣くさまなどいとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからましと思す。(源氏物語「帚木」)
将《源氏物语》的古文改写成现代文的日本文人也有许多位,与谢野晶子、谷崎润一郎、円地文子、田边圣子等等。此处选取与谢野晶子的版本和原文给出的版本进行比较:
谢野晶子版本:きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹《なよたけ》のようで、さすがに折ることはできなかった。
真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐《かれん》であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまった。
原文给出的现代文:空蝉は、人柄が柔和であるのに、無理に強い態度を加えて光源氏に対応しているので、細くしなやかな竹のように思え、さすがに手折ることはできそうもない。
空蝉は心底辛くて、無理無体ななさりようを本当にひどいと思って泣いている様子など、とても風情がある。気の毒ではあるけれど、会わなかったら残念であったろうと光源氏はお思いになる
而中文译本也有很多,这里只选取丰子恺和林文月的版本,当然还要厚着脸皮添上自译版。
丰子恺版本:原来空蝉这个人的性情,温柔中含有刚强,好似一枝细竹,看似欲折,却终于不断。此刻她心情愤激,痛恨源氏公子的非礼行为,只管吞声饮泣,样子煞是可怜。源氏公子虽然觉得对这女子不起,但是空空放过机会,又很可惜。
林文月版本:她原本是娇柔不堪的人儿,却故作坚强态,这就像那弱竹在风中摇摆,似折不折,教人看着焦急,又教人敬佩和爱怜。看着她那无限幽怨,吞声哭泣的样子,虽然于心不忍,但是如果就此分别,又恐日后必将遗憾追悔。
自译版:空蝉虽为人柔和,但面对光源氏的无理相迫,却表现得犹如弱竹一般。其杆虽细,却也不能信手摧折。光源氏的非礼强逼,让空蝉心中气苦,认为光源氏实在是恣意妄为。可她这般梨花带雨,偏又别具风情。光源氏未必出于本意,心中也有不忍,又觉若无此会,着实可惜。
这里值得一提的是林译虽然出版早,但成书是晚于丰译的,由于一些原因并没有参考丰译。在下奉丰老为偶像,不过自译时,也没有看过两位老师的译本,不然肯定会在脑子里留下不可磨灭的印象。译文之间的这种隔绝,使得各个译文自称体系,这也正是翻译的魅力之一。
当然,还有《源氏物语》的漫画关于这一段的描述。(附图1)
附图2选自大河和纪的《源氏物语》,正是光源氏倾(非)诉(礼)衷(强)肠(逼)的场景。
关于这一段的与谢野晶子版本:
「ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待っていたのです。だからすべて皆|前生《ぜんしょう》の縁が導くのだと思ってください」
译文原文版本:
「ずっと前からあなたを慕い続けてこういう機会を狙っていたんだ。あなたとこうして出会うのは、前世からの縁だと思える」
丰译:
其实我私心倾慕,已历多年;常想和你罄吐衷曲,苦无机会。今宵幸得邂逅,因缘非浅。万望曲谅愚诚,幸赐青睐!(是我的错觉吗,这里仿佛显出了某种老练来)
林译:
我想要把这郁积心头已久的思慕向您来倾诉。今晚有这个机会,也算是冥冥中有些缘分的吧。
自译:
私心倾慕,已历多时。终觅此良机,始与卿一会,莫不是前世宿缘。
这里肯定是不知何时何地瞄过丰译了,译的时候第一句话自然而然出现在脑子里。
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