今川氏真の歴史
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
https://t.cn/A6YXsTnd
大河広行(山田隆弥) @hiroyuki_taiga
頭空っぽラクガキ668
「ガンダムSEEDFREEDOM」から「ラクス様に似た声のカリスマ溢れる副会長っぽい人とズゴック?」
ストーリー上、ラクスたちは表舞台から消えてしまった。
しかしその後も続く紛争地帯ににさっそうと現れて戦闘を終結させる謎のMSと女性?
という妄想が浮かびました
昨日のSEEDFREEDOM感想語り合う飲み会で話してたら、ラクス達のその後は?的な妄想がいろいろ浮かびました。
ズゴックにジャスティス収まるならストフリも入るよね?
そしてラクス様の変装?は声繋がりで「境界線上のホライゾン」のあの人です。
朝からアホな妄想ラクガキでスイマセン
大河広行(山田隆弥) @hiroyuki_taiga
頭空っぽラクガキ668
「ガンダムSEEDFREEDOM」から「ラクス様に似た声のカリスマ溢れる副会長っぽい人とズゴック?」
ストーリー上、ラクスたちは表舞台から消えてしまった。
しかしその後も続く紛争地帯ににさっそうと現れて戦闘を終結させる謎のMSと女性?
という妄想が浮かびました
昨日のSEEDFREEDOM感想語り合う飲み会で話してたら、ラクス達のその後は?的な妄想がいろいろ浮かびました。
ズゴックにジャスティス収まるならストフリも入るよね?
そしてラクス様の変装?は声繋がりで「境界線上のホライゾン」のあの人です。
朝からアホな妄想ラクガキでスイマセン
LA GUNSの写真を探した時に同時期に追っかけてたMichael Monroeの写真も見つけてた。懐かしい…元々、HANOI ROCKSが好きでレコード聴いてたけど私が知った時は既に解散してた。その後Michaelはソロでalbumを出した。
プロモーションで来日していたEXTREMEの追っかけをやってた美穂(情報屋w)が"マイケルが日本にいるらしいから六本木に来て!"って私に電話くれた。
ホテル前に行ったらEXTREMEのメンバーが買い物から帰って来たところで、メンバーがファンサしてる間にメンバーと一緒にいたカメラマンのウィリアム・ヘイムズさんにMichaelが日本に来ているか聞いたら、彼は来てるって教えてくれてw、"どこに泊まってるかは教えられないけどね"って彼は言ったw。彼は私が持ってた"映るんです"ってゆう当時流行した使い捨てカメラを見て、"何コレすごいっ!"って感心してた。まだアメリカでは売られてなかったみたい。
MichaelはEXTREMEと別のHotelに滞在していると思い、美穂はEXTREMEで、まだ会えないメンバーがいたので六本木に残り、私はあさこを誘ってキャピタル東急ホテルに行きました。そしてMichaelに会えました
Michaelめっちゃ背が高かった190cmくらいありそう。フィンランドの人って背が高い。私とあさこは、着ていたライダースジャケットにサインしてもらった。ところが、このサインペン、レザーの上に書くには不向きだったようで、一年後にサインは消えてしまったの!写真に残しておいて良かった。
Michaelに会えた後、六本木に戻って美穂と合流。終電逃したから24時間営業のAbbey'sでおしゃべり。そしたら、美穂が学校の制服を着て追っかけしてたらEXTREMEのドラムのパットさんに"何で夜中に子供が出歩いてるんだ!今すぐ家に帰りなさい!"って説教されてw美穂が"もう電車が無い"って言ったらパットさんがお財布から3千円を出してタクシーで帰りなさいって言って、美穂に渡したそう。美穂は断ったのにパットさんは引かないから、結局彼女はお金をもらいました。でも三千円じゃ美穂の家の北千住まで足りないからって、彼女は私達にAbbey'sでセットを奢ってくれましたありがとうパットさん
ネットがない時代によく会えたよなぁー
HANOI ROCKSは何回か再結成してるけど私が初めて彼らのLiveを観たのは2008年大晦日のフィンランド!然も、解散LIVE!イギリスから観に来てた人多かったなぁ。友人のかおりんと、その彼氏のクリスもイギリスから観にきて、私と3人でLiveを観にいきました。
その当時3人とも、めっちゃタバコ吸ってたから会場のガラス張りになってる2階の喫煙所で観たw 楽しかったなー♪
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ホテル前に行ったらEXTREMEのメンバーが買い物から帰って来たところで、メンバーがファンサしてる間にメンバーと一緒にいたカメラマンのウィリアム・ヘイムズさんにMichaelが日本に来ているか聞いたら、彼は来てるって教えてくれてw、"どこに泊まってるかは教えられないけどね"って彼は言ったw。彼は私が持ってた"映るんです"ってゆう当時流行した使い捨てカメラを見て、"何コレすごいっ!"って感心してた。まだアメリカでは売られてなかったみたい。
MichaelはEXTREMEと別のHotelに滞在していると思い、美穂はEXTREMEで、まだ会えないメンバーがいたので六本木に残り、私はあさこを誘ってキャピタル東急ホテルに行きました。そしてMichaelに会えました
Michaelめっちゃ背が高かった190cmくらいありそう。フィンランドの人って背が高い。私とあさこは、着ていたライダースジャケットにサインしてもらった。ところが、このサインペン、レザーの上に書くには不向きだったようで、一年後にサインは消えてしまったの!写真に残しておいて良かった。
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