#村上爱花[超话]#
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りこりこちゃんは私の一挙一動に面白くツッコミいれてくれてたね☀️
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何度でも言うけれど、初めての女優としての作品がブラックシンデレラで心の底からよかったなと思いますっ
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グナエウス・ポンペイウス
生涯
青年期と父の死
父はグナエウス・ポンペイウス・ストラボで、プルタルコスによれば、人々に憎まれていた父と違い、ポンペイウスは生まれたときから人気があり、アレクサンドロスと呼ばれたという。父ストラボは紀元前92年までにプラエトルを務め、紀元前89年の執政官として同盟市戦争の北部戦線を担当し、アスクルムの戦い (紀元前89年)に勝利して凱旋式を挙行している。このときポンペイウスも父の配下として働いた。
父ストラボは中部イタリアのピケヌム(現:マルケ州)と友好関係を築いており、ポンペイウスも近郊に土地を持っていた。
紀元前88年、ポントスのミトリダテス6世に対するインペリウム(指揮権)を、執政官ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが奪い合い、ローマ市を脱出したスッラがローマへ進軍、占領する事件が起きた。マリウスを追放したスッラは第一次ミトリダテス戦争へと出征したが、翌紀元前87年、執政官のルキウス・コルネリウス・キンナとグナエウス・オクタウィウスの両名が争い、ローマ市を脱出したキンナはマリウスを呼び戻してローマ市を占領した。
父ストラボはオクタウィウス側につき、コッリナ門でキンナ軍と対峙した。プルタルコスによれば、この最中にポンペイウス暗殺計画があり、騒動となった軍を父の代わりに立て直したという。キンナ軍を一度は撃退したが、父ストラボは雷に打たれて死んだとも伝わる。
紀元前86年、父がアスクルムの戦利品を横領したとして訴追されたが、ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)、グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスに弁護され無罪となり、裁判を主宰したアンティスティウスの娘と結婚した。キンナはスッラに対抗するため味方を必要としており、ポンペイウスの持つピケヌム人脈を手に入れるため弁護させたとする説もある。
キンナは紀元前84年、アンコーナで起こった暴動によって死んだが、ポンペイウスもこのときアンコーナにいたと考えられており、スッラ側かと疑われたためピケヌムに引き払った。
スッラの帰還と栄誉
紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝利したスッラは、マリウスやキンナ亡き後のローマを制圧するためにギリシアから軍を率いて戻ってきた。ポンペイウスはピケヌムのキンナ派有力者を追放し、自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。スッラはポンペイウスの参戦が、キンナ派のプロコンスル、グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、ポンペイウスの合流を歓迎したという。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオに基づく密告を導入してポプラレスの多くを殺害した。スッラは独裁官(ディクタトル)となった後、ポンペイウスを繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚して、スッラの4人目の妻カエキリア・メテッラとその元夫マルクス・アエミリウス・スカウルスの間の娘アエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要し、ポンペイウスは従わざるを得なかった。
スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州やアフリカ属州へ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち(シキリアは当時のローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレスを多数捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。
これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウスはスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、難色を示したスッラに対して強気な姿勢を示して認めさせた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった。紀元前78年にスッラが死亡した時、ポンペイウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。
ヒスパニア遠征
紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。ポンペイウスは執政官カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、レピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウス戦争(英語版)にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、ポンペイウスはメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。
元老院はポンペイウスが軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若くコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は属州を担当する権限が与えられる高位政務官)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無かったことから、ポンペイウスへ指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ポンペイウスが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ポンペイウスへ指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することを元老院は決議した。
ポンペイウスはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニア到着は翌年の紀元前76年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ポンペイウスとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開してローマ軍を苦しめたが、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、4年後の紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。
ポンペイウスは私財を投げ打ってヒスパニアで戦っており、紀元前74年には元老院に対して戦費を要求した。もし要求が通らなければ、スペインを見捨てて軍団と共にイタリアへ戻ると宣言したため、ミトリダテス戦争のインペリウムを狙っていた当時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス(メテッルス・ピウスの従兄弟)は、なんとしてでもこの要求を認めさせ資金を送ったという。
執政官就任
セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。
ポンペイウスがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年、第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、スッラの部将だったマルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。ポンペイウスはクラッススに先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、ローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、ポンペイウスの高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。
ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは紀元前71年にコンスル(43歳以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院へ要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員の資格すら持たないポンペイウスのこの要求に元老院は難色を示したものの、ポンペイウスに対抗する力を持つクラッススがポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、元老院の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとポンペイウスの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。
執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した、裁判陪審員を元老院議員、エクィテス、恐らくトリブスの有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出する「アウレリウス法」が可決され、スッラのコルネリウス法で縮小されていた護民官の拒否権などの権限を戻すことも決定した。ポンペイウスはコンスルを退任した翌紀元前69年及び翌々年の紀元前68年はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながらローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。
海賊征討戦
紀元前67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐すべく、護民官アウルス・ガビニウスは「ガビニウス法」と称される法案をプレブス民会に提出した。すなわち、「ローマ軍20個軍団(歩兵12万、5000の騎兵)、軍船500隻、14名の元老院議員資格者からなる幕僚を投入すると共に総司令官としてこれらを統括する権限をポンペイウスに3年間期限で付与する」というものであった。元老院議員の多くは反対に回ったものの、ガイウス・ユリウス・カエサルら一部の元老院議員がこれに賛成し、票を持つローマ市民は海賊の被害が甚大であったこともあって、ガビニウス法は可決された。
ポンペイウスの海賊討伐の戦略は、まず地中海全域を13の作戦海域に区分した上で、それぞれに軍団長及びローマ軍団を配備し、自らは60隻の軍船を率いる遊撃部隊の指揮を執って、支援を必要とする作戦海域へ駆けつけるというものであり、各軍団は海戦で海賊を撃退した後にこれを追って海賊の根拠地を叩き潰す形をとった。まずはヒスパニア、ヌミディアやサルディニアなどの地中海西部海域の海賊を征討し、わずか40日程度でこれを達成した。西部海域で征討した海賊を追って地中海東部海域へ侵攻して、エジプト・エーゲ海等を制圧して、海賊の最大の根拠地であったキリキア沿岸を陥落させたが、わずか49日間であった。結果、3カ月足らずで地中海全域の海賊を討伐して、捕獲した船舶400隻、撃沈した船舶1300隻、1万人以上の海賊を殺害し、降伏した海賊は2万人以上に達したという。
それら海賊をポンペイウスは沿岸から離れた地区へ植民させており、その中の一つであるキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれることとなった。キケロはポンペイウスの海賊征討戦について「冬に準備を行い、春に行動を起して、夏までに全てを終わらせた」とその周到さを称えたように、陸だけでなく海に於いてもポンペイウスの軍事能力の高さを示した。
生涯
青年期と父の死
父はグナエウス・ポンペイウス・ストラボで、プルタルコスによれば、人々に憎まれていた父と違い、ポンペイウスは生まれたときから人気があり、アレクサンドロスと呼ばれたという。父ストラボは紀元前92年までにプラエトルを務め、紀元前89年の執政官として同盟市戦争の北部戦線を担当し、アスクルムの戦い (紀元前89年)に勝利して凱旋式を挙行している。このときポンペイウスも父の配下として働いた。
父ストラボは中部イタリアのピケヌム(現:マルケ州)と友好関係を築いており、ポンペイウスも近郊に土地を持っていた。
紀元前88年、ポントスのミトリダテス6世に対するインペリウム(指揮権)を、執政官ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが奪い合い、ローマ市を脱出したスッラがローマへ進軍、占領する事件が起きた。マリウスを追放したスッラは第一次ミトリダテス戦争へと出征したが、翌紀元前87年、執政官のルキウス・コルネリウス・キンナとグナエウス・オクタウィウスの両名が争い、ローマ市を脱出したキンナはマリウスを呼び戻してローマ市を占領した。
父ストラボはオクタウィウス側につき、コッリナ門でキンナ軍と対峙した。プルタルコスによれば、この最中にポンペイウス暗殺計画があり、騒動となった軍を父の代わりに立て直したという。キンナ軍を一度は撃退したが、父ストラボは雷に打たれて死んだとも伝わる。
紀元前86年、父がアスクルムの戦利品を横領したとして訴追されたが、ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)、グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスに弁護され無罪となり、裁判を主宰したアンティスティウスの娘と結婚した。キンナはスッラに対抗するため味方を必要としており、ポンペイウスの持つピケヌム人脈を手に入れるため弁護させたとする説もある。
キンナは紀元前84年、アンコーナで起こった暴動によって死んだが、ポンペイウスもこのときアンコーナにいたと考えられており、スッラ側かと疑われたためピケヌムに引き払った。
スッラの帰還と栄誉
紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝利したスッラは、マリウスやキンナ亡き後のローマを制圧するためにギリシアから軍を率いて戻ってきた。ポンペイウスはピケヌムのキンナ派有力者を追放し、自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。スッラはポンペイウスの参戦が、キンナ派のプロコンスル、グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、ポンペイウスの合流を歓迎したという。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオに基づく密告を導入してポプラレスの多くを殺害した。スッラは独裁官(ディクタトル)となった後、ポンペイウスを繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚して、スッラの4人目の妻カエキリア・メテッラとその元夫マルクス・アエミリウス・スカウルスの間の娘アエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要し、ポンペイウスは従わざるを得なかった。
スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州やアフリカ属州へ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち(シキリアは当時のローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレスを多数捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。
これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウスはスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、難色を示したスッラに対して強気な姿勢を示して認めさせた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった。紀元前78年にスッラが死亡した時、ポンペイウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。
ヒスパニア遠征
紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。ポンペイウスは執政官カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、レピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウス戦争(英語版)にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、ポンペイウスはメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。
元老院はポンペイウスが軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若くコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は属州を担当する権限が与えられる高位政務官)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無かったことから、ポンペイウスへ指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ポンペイウスが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ポンペイウスへ指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することを元老院は決議した。
ポンペイウスはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニア到着は翌年の紀元前76年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ポンペイウスとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開してローマ軍を苦しめたが、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、4年後の紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。
ポンペイウスは私財を投げ打ってヒスパニアで戦っており、紀元前74年には元老院に対して戦費を要求した。もし要求が通らなければ、スペインを見捨てて軍団と共にイタリアへ戻ると宣言したため、ミトリダテス戦争のインペリウムを狙っていた当時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス(メテッルス・ピウスの従兄弟)は、なんとしてでもこの要求を認めさせ資金を送ったという。
執政官就任
セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。
ポンペイウスがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年、第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、スッラの部将だったマルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。ポンペイウスはクラッススに先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、ローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、ポンペイウスの高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。
ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは紀元前71年にコンスル(43歳以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院へ要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員の資格すら持たないポンペイウスのこの要求に元老院は難色を示したものの、ポンペイウスに対抗する力を持つクラッススがポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、元老院の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとポンペイウスの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。
執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した、裁判陪審員を元老院議員、エクィテス、恐らくトリブスの有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出する「アウレリウス法」が可決され、スッラのコルネリウス法で縮小されていた護民官の拒否権などの権限を戻すことも決定した。ポンペイウスはコンスルを退任した翌紀元前69年及び翌々年の紀元前68年はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながらローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。
海賊征討戦
紀元前67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐すべく、護民官アウルス・ガビニウスは「ガビニウス法」と称される法案をプレブス民会に提出した。すなわち、「ローマ軍20個軍団(歩兵12万、5000の騎兵)、軍船500隻、14名の元老院議員資格者からなる幕僚を投入すると共に総司令官としてこれらを統括する権限をポンペイウスに3年間期限で付与する」というものであった。元老院議員の多くは反対に回ったものの、ガイウス・ユリウス・カエサルら一部の元老院議員がこれに賛成し、票を持つローマ市民は海賊の被害が甚大であったこともあって、ガビニウス法は可決された。
ポンペイウスの海賊討伐の戦略は、まず地中海全域を13の作戦海域に区分した上で、それぞれに軍団長及びローマ軍団を配備し、自らは60隻の軍船を率いる遊撃部隊の指揮を執って、支援を必要とする作戦海域へ駆けつけるというものであり、各軍団は海戦で海賊を撃退した後にこれを追って海賊の根拠地を叩き潰す形をとった。まずはヒスパニア、ヌミディアやサルディニアなどの地中海西部海域の海賊を征討し、わずか40日程度でこれを達成した。西部海域で征討した海賊を追って地中海東部海域へ侵攻して、エジプト・エーゲ海等を制圧して、海賊の最大の根拠地であったキリキア沿岸を陥落させたが、わずか49日間であった。結果、3カ月足らずで地中海全域の海賊を討伐して、捕獲した船舶400隻、撃沈した船舶1300隻、1万人以上の海賊を殺害し、降伏した海賊は2万人以上に達したという。
それら海賊をポンペイウスは沿岸から離れた地区へ植民させており、その中の一つであるキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれることとなった。キケロはポンペイウスの海賊征討戦について「冬に準備を行い、春に行動を起して、夏までに全てを終わらせた」とその周到さを称えたように、陸だけでなく海に於いてもポンペイウスの軍事能力の高さを示した。
龐涓
生涯
若いころは同門の孫臏(孫子)とともに学んだ。彼は孫臏と比較して、才能においてはかなわないと嫉妬した。
後に魏の恵王のもとに仕えて、将軍となった。このときに権威を利用して孫臏を陥れようと目論んだ。ある年に龐涓は配下を派遣して孫臏を食客として魏に招聘した。孫臏が来ると彼は過去の才能による憎悪が一気に噴き出して、冤罪に陥れて、両足を切断して額に入墨を入れる処罰を下して、出入りしないようにした。
しかし、斉から公族の田忌(中国語版)が使者として魏に来たため、孫臏は人を派遣して巧みに田忌のもとに逃れて、田忌とともに斉に戻った。
十数年後の紀元前342年に魏は、太子申(中国語版)を総大将に、龐涓を副将として趙と連合して韓を猛攻したので、韓は斉に援軍を要請した。斉の威王は田忌を将軍に、孫臏を軍師として援助させた。
これを聞いた龐涓は引き揚げようとしたが、斉軍は国境を越えて西進していた。そのため、斉軍を迎え撃つことになった。すると、突如斉軍は撤退した。これを聞いた龐涓は喜んで、三日後になると「私は斉の兵士が臆病であることを以前から知っておった。わが国の領地に入って三日後に兵士の逃亡率は半ばを超えたぞ」と述べた。そこで龐涓は騎兵を率いて、歩兵を後に続けさせて猛追撃した。
やがて、馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)に入って、竈の数が徐々に減っているのを見た龐涓は喜び、追撃を続けた。夜に入って奥に向かう途中で切り倒された木にふさがれた木の茂みに入って、ある古い大木が削り取られているのを見て、龐涓は騎兵に命じて篝火でそれを見ると「龐涓はこの木の下で死す」と記されていた。このときに斉の一万の弩の部隊が矢の雨を放った。魏軍は大混乱を起こして、同士討ちを始めた。これを見て観念した龐涓は「これで、あのこわっぱ(孫臏)に名を成さしめたか」と叫んで、自害して果てた。斉軍は勢いに乗じて、太子申を捕虜とする戦功を挙げた(馬陵の戦い)。
ただし、『戦国策』によると、龐涓は捕虜にされて、太子申は戦死を遂げたと記されている。
生涯
若いころは同門の孫臏(孫子)とともに学んだ。彼は孫臏と比較して、才能においてはかなわないと嫉妬した。
後に魏の恵王のもとに仕えて、将軍となった。このときに権威を利用して孫臏を陥れようと目論んだ。ある年に龐涓は配下を派遣して孫臏を食客として魏に招聘した。孫臏が来ると彼は過去の才能による憎悪が一気に噴き出して、冤罪に陥れて、両足を切断して額に入墨を入れる処罰を下して、出入りしないようにした。
しかし、斉から公族の田忌(中国語版)が使者として魏に来たため、孫臏は人を派遣して巧みに田忌のもとに逃れて、田忌とともに斉に戻った。
十数年後の紀元前342年に魏は、太子申(中国語版)を総大将に、龐涓を副将として趙と連合して韓を猛攻したので、韓は斉に援軍を要請した。斉の威王は田忌を将軍に、孫臏を軍師として援助させた。
これを聞いた龐涓は引き揚げようとしたが、斉軍は国境を越えて西進していた。そのため、斉軍を迎え撃つことになった。すると、突如斉軍は撤退した。これを聞いた龐涓は喜んで、三日後になると「私は斉の兵士が臆病であることを以前から知っておった。わが国の領地に入って三日後に兵士の逃亡率は半ばを超えたぞ」と述べた。そこで龐涓は騎兵を率いて、歩兵を後に続けさせて猛追撃した。
やがて、馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)に入って、竈の数が徐々に減っているのを見た龐涓は喜び、追撃を続けた。夜に入って奥に向かう途中で切り倒された木にふさがれた木の茂みに入って、ある古い大木が削り取られているのを見て、龐涓は騎兵に命じて篝火でそれを見ると「龐涓はこの木の下で死す」と記されていた。このときに斉の一万の弩の部隊が矢の雨を放った。魏軍は大混乱を起こして、同士討ちを始めた。これを見て観念した龐涓は「これで、あのこわっぱ(孫臏)に名を成さしめたか」と叫んで、自害して果てた。斉軍は勢いに乗じて、太子申を捕虜とする戦功を挙げた(馬陵の戦い)。
ただし、『戦国策』によると、龐涓は捕虜にされて、太子申は戦死を遂げたと記されている。
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