兵法三十六計
概要
1941年、邠県(現在の陝西省咸陽市彬州市)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事・教訓がちりばめられているため、中国では兵法書として世界的に有名な『孫子』よりも民間において広まり、学校での教育も相まって現代人の思想や行動原理にも影響を与えている[2]。
戦術とは関連が薄い内容も含まれ、権威付けのために『易経』からの引用を使って解説しているなど、純粋な兵法書としては荒削りな部分が見られるためか、『孫子』などの武経七書と比較し軍事面では評価が低い。
この本は『南斉書』の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」の語源である。
兵法三十六計
勝戦計
こちらが戦いの主導権を握っている場合の定石。
瞞天過海 - 敵に繰り返し行動を見せつけて見慣れさせておき、油断を誘って攻撃する。
囲魏救趙 - 敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する。
借刀殺人 - 同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける。
以逸待労 - 直ちに戦闘するのではなく、敵を撹乱して主導権を握り、敵の疲弊を誘う。
趁火打劫 - 敵の被害や混乱に乗じて行動し、利益を得る。
声東撃西 - 陽動によって敵の動きを翻弄し、防備を崩してから攻める。
敵戦計
余裕を持って戦える、優勢の場合の作戦。
無中生有 - 偽装工作をわざと露見させ、相手が油断した所を攻撃する。
暗渡陳倉 - 偽装工作によって攻撃を隠蔽し、敵を奇襲する。
隔岸観火 - 敵の秩序に乱れが生じているなら、あえて攻めずに放置して敵の自滅を待つ。
笑裏蔵刀 - 敵を攻撃する前に友好的に接しておき、油断を誘う。
李代桃僵 - 不要な部分を切り捨て、全体の被害を抑えつつ勝利する。
順手牽羊 - 敵の統制の隙を突き、悟られないように細かく損害を与える。
攻戦計
相手が一筋縄でいかない場合の作戦。
打草驚蛇 - 状況が分らない場合は偵察を出し、反応を探る。
借屍還魂 - 死んだ者や他人の大義名分を持ち出して、自らの目的を達する。
調虎離山 - 敵を本拠地から誘い出し、味方に有利な地形で戦う。
欲擒姑縦 - 敵をわざと逃がして気を弛ませたところを捕らえる。
抛磚引玉 - 自分にとっては必要のないものを囮にし、敵をおびき寄せる。
擒賊擒王 - 敵の主力や、中心人物を捕らえることで、敵を弱体化する。
混戦計
相手がかなり手ごわい場合の作戦。
釜底抽薪 - 敵軍の兵站や大義名分を壊して、敵の活動を抑制し、あわよくば自壊させる。
混水摸魚 - 敵の内部を混乱させ、敵の行動を誤らせたり、自分の望む行動を取らせる。
金蝉脱殻 - あたかも現在地に留まっているように見せかけ、主力を撤退させる。
関門捉賊 - 敵の退路を閉ざしてから包囲殲滅する。
遠交近攻 - 遠くの相手と同盟を組み、近くの相手を攻める。
仮道伐虢 - 攻略対象を買収等により分断して各個撃破する。
併戦計
同盟国間で優位に立つために用いる策謀。
偸梁換柱 - 敵の布陣の強力な部分の相手を他者に押し付け、自軍の相対的立場を優位にする。
指桑罵槐 - 本来の相手ではない別の相手を批判し、間接的に人心を牽制しコントロールする。
仮痴不癲 - 愚か者のふりをして相手を油断させ、時期の到来を待つ。
上屋抽梯 - 敵を巧みに唆して逃げられない状況に追い込む。
樹上開花 - 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く。
反客為主 - 一旦敵の配下に従属しておき、内から乗っ取りをかける。
敗戦計
自国がきわめて劣勢の場合に用いる奇策。
美人計 - 土地や金銀財宝ではなく、あえて美女を献上して敵の力を挫く。
空城計 - 自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘い、攻城戦や包囲戦を避ける。
反間計 - スパイを利用し、敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
苦肉計 - 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す。
連環計 - 敵と正面からぶつかることなく、複数の計略を連続して用いたり足の引っ張り合いをさせて勝利を得る。
走為上 - 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。
概要
1941年、邠県(現在の陝西省咸陽市彬州市)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事・教訓がちりばめられているため、中国では兵法書として世界的に有名な『孫子』よりも民間において広まり、学校での教育も相まって現代人の思想や行動原理にも影響を与えている[2]。
戦術とは関連が薄い内容も含まれ、権威付けのために『易経』からの引用を使って解説しているなど、純粋な兵法書としては荒削りな部分が見られるためか、『孫子』などの武経七書と比較し軍事面では評価が低い。
この本は『南斉書』の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」の語源である。
兵法三十六計
勝戦計
こちらが戦いの主導権を握っている場合の定石。
瞞天過海 - 敵に繰り返し行動を見せつけて見慣れさせておき、油断を誘って攻撃する。
囲魏救趙 - 敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する。
借刀殺人 - 同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける。
以逸待労 - 直ちに戦闘するのではなく、敵を撹乱して主導権を握り、敵の疲弊を誘う。
趁火打劫 - 敵の被害や混乱に乗じて行動し、利益を得る。
声東撃西 - 陽動によって敵の動きを翻弄し、防備を崩してから攻める。
敵戦計
余裕を持って戦える、優勢の場合の作戦。
無中生有 - 偽装工作をわざと露見させ、相手が油断した所を攻撃する。
暗渡陳倉 - 偽装工作によって攻撃を隠蔽し、敵を奇襲する。
隔岸観火 - 敵の秩序に乱れが生じているなら、あえて攻めずに放置して敵の自滅を待つ。
笑裏蔵刀 - 敵を攻撃する前に友好的に接しておき、油断を誘う。
李代桃僵 - 不要な部分を切り捨て、全体の被害を抑えつつ勝利する。
順手牽羊 - 敵の統制の隙を突き、悟られないように細かく損害を与える。
攻戦計
相手が一筋縄でいかない場合の作戦。
打草驚蛇 - 状況が分らない場合は偵察を出し、反応を探る。
借屍還魂 - 死んだ者や他人の大義名分を持ち出して、自らの目的を達する。
調虎離山 - 敵を本拠地から誘い出し、味方に有利な地形で戦う。
欲擒姑縦 - 敵をわざと逃がして気を弛ませたところを捕らえる。
抛磚引玉 - 自分にとっては必要のないものを囮にし、敵をおびき寄せる。
擒賊擒王 - 敵の主力や、中心人物を捕らえることで、敵を弱体化する。
混戦計
相手がかなり手ごわい場合の作戦。
釜底抽薪 - 敵軍の兵站や大義名分を壊して、敵の活動を抑制し、あわよくば自壊させる。
混水摸魚 - 敵の内部を混乱させ、敵の行動を誤らせたり、自分の望む行動を取らせる。
金蝉脱殻 - あたかも現在地に留まっているように見せかけ、主力を撤退させる。
関門捉賊 - 敵の退路を閉ざしてから包囲殲滅する。
遠交近攻 - 遠くの相手と同盟を組み、近くの相手を攻める。
仮道伐虢 - 攻略対象を買収等により分断して各個撃破する。
併戦計
同盟国間で優位に立つために用いる策謀。
偸梁換柱 - 敵の布陣の強力な部分の相手を他者に押し付け、自軍の相対的立場を優位にする。
指桑罵槐 - 本来の相手ではない別の相手を批判し、間接的に人心を牽制しコントロールする。
仮痴不癲 - 愚か者のふりをして相手を油断させ、時期の到来を待つ。
上屋抽梯 - 敵を巧みに唆して逃げられない状況に追い込む。
樹上開花 - 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く。
反客為主 - 一旦敵の配下に従属しておき、内から乗っ取りをかける。
敗戦計
自国がきわめて劣勢の場合に用いる奇策。
美人計 - 土地や金銀財宝ではなく、あえて美女を献上して敵の力を挫く。
空城計 - 自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘い、攻城戦や包囲戦を避ける。
反間計 - スパイを利用し、敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
苦肉計 - 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す。
連環計 - 敵と正面からぶつかることなく、複数の計略を連続して用いたり足の引っ張り合いをさせて勝利を得る。
走為上 - 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。
今川氏真の歴史
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
グナエウス・ポンペイウス
ローマ内戦
紀元前49年1月10日、カエサルがルビコン川を渡り、ローマ内戦は始まった。ルビコンを渡った後にイタリア半島を南下するカエサル派に対して、ポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスはブルンディシウムまで撤退した後、かつて自らが征服した東方属州へ渡って軍を再編してカエサルと争う方針を決め、多くの元老院議員もポンペイウスへ従って、ギリシアへと向かった。
ポンペイウスはデュッラキウムの戦いでカエサル軍に勝利したが、カエサル軍に決定的な打撃を与えるには至らなかった。紀元前48年8月、ポンペイウス率いる元老院派はファルサルスの戦いでカエサル軍と再度対戦し、兵力で上回っていたものの、ポンペイウス自身人生初となる敗北を喫した。
ポンペイウスはエーゲ海沿いのミュティレナエ島(Mytilene)、そしてキプロスへと向かった。当初はシリアで再起を図る予定であったが、既に反ポンペイウスを鮮明にしたことが伝わっており、エジプトへ逃れることを決意した。
最期
エジプトは当初ポンペイウスへ協力的な姿勢を示していたものの、内部での話し合いの中でポンペイウスを殺害することが決定された。紀元前48年9月29日、ポンペイウスの58回目の誕生日でもあったこの日、大型のガレー船でエジプトのペルシウム港へ到着したポンペイウスは、かつてからの知り合いであったアキッラス及びルキウス・セプティミウスによる出迎えを受けた。ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスと共にポンペイウスが1艘の小舟に乗り込んだが、その間際に妻や子らに対してソポクレスの以下の詩を詠んだと伝わっている。
暴君の門を一度でも開けたならば、かつては自由であったとしても、奴隷にならざるを得ない。
— プルタルコス「英雄伝」ポンペイウス78
ガレー船から離れたと同時に小舟の中に潜んでいたエジプト軍の刺客によってポンペイウスは殺害され、レントゥルスも捕らえられて、後に殺害された。ガレー船に乗り込んでいたメテッルス・スキピオやコルネリアらはエジプトを離れた。
同年10月、カエサルはエジプトへ到着したが、その地でポンペイウスの死を知ることとなった。プトレマイオス13世は従者にポンペイウスの首をカエサルに届けさせたが、カエサルは怒り狂ってその従者を殺してしまう。そしてポンペイウスの首を抱いてさめざめと泣いたという。その後、コルネリアはポンペイウスの遺灰と指輪をカエサルより受け取ってイタリアへ埋葬し、余生を送ったとされる。ポンペイウスの2人の息子グナエウス・ポンペイウス・ミノルとセクストゥス・ポンペイウスはティトゥス・ラビエヌスやメテッルス・スキピオら生き残った元老院派と合流、カエサルへの抵抗を続けることになる。
なお、紀元前44年3月15日に「ポンペイウス劇場」内でカエサルは共和主義者に襲撃され、劇場内に設置されたポンペイウス像の下にカエサルは崩れ落ちて死を迎えたが、自らの復讐にポンペイウスが立ち会ったかのようであったという。
ローマ内戦
紀元前49年1月10日、カエサルがルビコン川を渡り、ローマ内戦は始まった。ルビコンを渡った後にイタリア半島を南下するカエサル派に対して、ポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスはブルンディシウムまで撤退した後、かつて自らが征服した東方属州へ渡って軍を再編してカエサルと争う方針を決め、多くの元老院議員もポンペイウスへ従って、ギリシアへと向かった。
ポンペイウスはデュッラキウムの戦いでカエサル軍に勝利したが、カエサル軍に決定的な打撃を与えるには至らなかった。紀元前48年8月、ポンペイウス率いる元老院派はファルサルスの戦いでカエサル軍と再度対戦し、兵力で上回っていたものの、ポンペイウス自身人生初となる敗北を喫した。
ポンペイウスはエーゲ海沿いのミュティレナエ島(Mytilene)、そしてキプロスへと向かった。当初はシリアで再起を図る予定であったが、既に反ポンペイウスを鮮明にしたことが伝わっており、エジプトへ逃れることを決意した。
最期
エジプトは当初ポンペイウスへ協力的な姿勢を示していたものの、内部での話し合いの中でポンペイウスを殺害することが決定された。紀元前48年9月29日、ポンペイウスの58回目の誕生日でもあったこの日、大型のガレー船でエジプトのペルシウム港へ到着したポンペイウスは、かつてからの知り合いであったアキッラス及びルキウス・セプティミウスによる出迎えを受けた。ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスと共にポンペイウスが1艘の小舟に乗り込んだが、その間際に妻や子らに対してソポクレスの以下の詩を詠んだと伝わっている。
暴君の門を一度でも開けたならば、かつては自由であったとしても、奴隷にならざるを得ない。
— プルタルコス「英雄伝」ポンペイウス78
ガレー船から離れたと同時に小舟の中に潜んでいたエジプト軍の刺客によってポンペイウスは殺害され、レントゥルスも捕らえられて、後に殺害された。ガレー船に乗り込んでいたメテッルス・スキピオやコルネリアらはエジプトを離れた。
同年10月、カエサルはエジプトへ到着したが、その地でポンペイウスの死を知ることとなった。プトレマイオス13世は従者にポンペイウスの首をカエサルに届けさせたが、カエサルは怒り狂ってその従者を殺してしまう。そしてポンペイウスの首を抱いてさめざめと泣いたという。その後、コルネリアはポンペイウスの遺灰と指輪をカエサルより受け取ってイタリアへ埋葬し、余生を送ったとされる。ポンペイウスの2人の息子グナエウス・ポンペイウス・ミノルとセクストゥス・ポンペイウスはティトゥス・ラビエヌスやメテッルス・スキピオら生き残った元老院派と合流、カエサルへの抵抗を続けることになる。
なお、紀元前44年3月15日に「ポンペイウス劇場」内でカエサルは共和主義者に襲撃され、劇場内に設置されたポンペイウス像の下にカエサルは崩れ落ちて死を迎えたが、自らの復讐にポンペイウスが立ち会ったかのようであったという。
✋热门推荐