今川氏真の歴史
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。

母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。

しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。

そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。

さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。

ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。

その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。

今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。

しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。

この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。

また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。

今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。

その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。

1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。

文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。

こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。

今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。

さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。

1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。

このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。

今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。

文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。

今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。

「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。

また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。

今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。

そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。

グナエウス・ポンペイウス
生涯
青年期と父の死
父はグナエウス・ポンペイウス・ストラボで、プルタルコスによれば、人々に憎まれていた父と違い、ポンペイウスは生まれたときから人気があり、アレクサンドロスと呼ばれたという。父ストラボは紀元前92年までにプラエトルを務め、紀元前89年の執政官として同盟市戦争の北部戦線を担当し、アスクルムの戦い (紀元前89年)に勝利して凱旋式を挙行している。このときポンペイウスも父の配下として働いた。

父ストラボは中部イタリアのピケヌム(現:マルケ州)と友好関係を築いており、ポンペイウスも近郊に土地を持っていた。

紀元前88年、ポントスのミトリダテス6世に対するインペリウム(指揮権)を、執政官ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが奪い合い、ローマ市を脱出したスッラがローマへ進軍、占領する事件が起きた。マリウスを追放したスッラは第一次ミトリダテス戦争へと出征したが、翌紀元前87年、執政官のルキウス・コルネリウス・キンナとグナエウス・オクタウィウスの両名が争い、ローマ市を脱出したキンナはマリウスを呼び戻してローマ市を占領した。

父ストラボはオクタウィウス側につき、コッリナ門でキンナ軍と対峙した。プルタルコスによれば、この最中にポンペイウス暗殺計画があり、騒動となった軍を父の代わりに立て直したという。キンナ軍を一度は撃退したが、父ストラボは雷に打たれて死んだとも伝わる。
紀元前86年、父がアスクルムの戦利品を横領したとして訴追されたが、ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)、グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスに弁護され無罪となり、裁判を主宰したアンティスティウスの娘と結婚した。キンナはスッラに対抗するため味方を必要としており、ポンペイウスの持つピケヌム人脈を手に入れるため弁護させたとする説もある。

キンナは紀元前84年、アンコーナで起こった暴動によって死んだが、ポンペイウスもこのときアンコーナにいたと考えられており、スッラ側かと疑われたためピケヌムに引き払った。

スッラの帰還と栄誉
紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝利したスッラは、マリウスやキンナ亡き後のローマを制圧するためにギリシアから軍を率いて戻ってきた。ポンペイウスはピケヌムのキンナ派有力者を追放し、自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。スッラはポンペイウスの参戦が、キンナ派のプロコンスル、グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、ポンペイウスの合流を歓迎したという。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオに基づく密告を導入してポプラレスの多くを殺害した。スッラは独裁官(ディクタトル)となった後、ポンペイウスを繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚して、スッラの4人目の妻カエキリア・メテッラとその元夫マルクス・アエミリウス・スカウルスの間の娘アエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要し、ポンペイウスは従わざるを得なかった。
スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州やアフリカ属州へ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち(シキリアは当時のローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレスを多数捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。

これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウスはスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、難色を示したスッラに対して強気な姿勢を示して認めさせた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった。紀元前78年にスッラが死亡した時、ポンペイウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。

ヒスパニア遠征
紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。ポンペイウスは執政官カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、レピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウス戦争(英語版)にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、ポンペイウスはメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。

元老院はポンペイウスが軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若くコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は属州を担当する権限が与えられる高位政務官)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無かったことから、ポンペイウスへ指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ポンペイウスが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ポンペイウスへ指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することを元老院は決議した。

ポンペイウスはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニア到着は翌年の紀元前76年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ポンペイウスとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開してローマ軍を苦しめたが、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、4年後の紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。
ポンペイウスは私財を投げ打ってヒスパニアで戦っており、紀元前74年には元老院に対して戦費を要求した。もし要求が通らなければ、スペインを見捨てて軍団と共にイタリアへ戻ると宣言したため、ミトリダテス戦争のインペリウムを狙っていた当時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス(メテッルス・ピウスの従兄弟)は、なんとしてでもこの要求を認めさせ資金を送ったという。

執政官就任
セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。

ポンペイウスがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年、第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、スッラの部将だったマルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。ポンペイウスはクラッススに先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、ローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、ポンペイウスの高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。
ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは紀元前71年にコンスル(43歳以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院へ要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員の資格すら持たないポンペイウスのこの要求に元老院は難色を示したものの、ポンペイウスに対抗する力を持つクラッススがポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、元老院の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとポンペイウスの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。
執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した、裁判陪審員を元老院議員、エクィテス、恐らくトリブスの有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出する「アウレリウス法」が可決され、スッラのコルネリウス法で縮小されていた護民官の拒否権などの権限を戻すことも決定した。ポンペイウスはコンスルを退任した翌紀元前69年及び翌々年の紀元前68年はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながらローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。
海賊征討戦
紀元前67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐すべく、護民官アウルス・ガビニウスは「ガビニウス法」と称される法案をプレブス民会に提出した。すなわち、「ローマ軍20個軍団(歩兵12万、5000の騎兵)、軍船500隻、14名の元老院議員資格者からなる幕僚を投入すると共に総司令官としてこれらを統括する権限をポンペイウスに3年間期限で付与する」というものであった。元老院議員の多くは反対に回ったものの、ガイウス・ユリウス・カエサルら一部の元老院議員がこれに賛成し、票を持つローマ市民は海賊の被害が甚大であったこともあって、ガビニウス法は可決された。

ポンペイウスの海賊討伐の戦略は、まず地中海全域を13の作戦海域に区分した上で、それぞれに軍団長及びローマ軍団を配備し、自らは60隻の軍船を率いる遊撃部隊の指揮を執って、支援を必要とする作戦海域へ駆けつけるというものであり、各軍団は海戦で海賊を撃退した後にこれを追って海賊の根拠地を叩き潰す形をとった。まずはヒスパニア、ヌミディアやサルディニアなどの地中海西部海域の海賊を征討し、わずか40日程度でこれを達成した。西部海域で征討した海賊を追って地中海東部海域へ侵攻して、エジプト・エーゲ海等を制圧して、海賊の最大の根拠地であったキリキア沿岸を陥落させたが、わずか49日間であった。結果、3カ月足らずで地中海全域の海賊を討伐して、捕獲した船舶400隻、撃沈した船舶1300隻、1万人以上の海賊を殺害し、降伏した海賊は2万人以上に達したという。
それら海賊をポンペイウスは沿岸から離れた地区へ植民させており、その中の一つであるキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれることとなった。キケロはポンペイウスの海賊征討戦について「冬に準備を行い、春に行動を起して、夏までに全てを終わらせた」とその周到さを称えたように、陸だけでなく海に於いてもポンペイウスの軍事能力の高さを示した。

孫臏
前歴
阿(現在の山東省聊城市陽穀県)・鄄(現在の山東省菏沢市鄄城県)の間の辺りにて生まれる。本名およびその父を初めとする家族については不明。

若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は魏に仕官して恵王の元で将軍になることができた。しかし龐涓は孫臏に自分が及ばないことを感じていたので、偽って孫臏を魏へと招待し、孫臏を騙して罪に陥れ、臏刑(両脚を切断する刑)と額に罪人の印である黥を入れる刑に処した。その後は軟禁状態にあったが、斉の公族である将軍田忌(中国語版)が使者として魏へとやってきた際に密かに連絡を取り、その出立に合わせ車の中に隠れて魏を脱出することに成功した。

斉にて
斉では田忌の客となる。ある時、斉王(威王)と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬を催した。孫臏は田忌に対して、上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。これに気を良くした田忌は王に孫臏を推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰ぐようになった。
桂陵の戦い
魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した。趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣した。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と途中で留め、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗(桂陵の戦い)した。こうして孫臏は趙を救った(これが囲魏救趙という故事となった)。

馬陵の戦い
13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍として韓を攻めると、韓より斉へ救援依頼が来た。斉王は、孫臏を主将、田忌を副将にして軍を派遣しようとしたが、孫臏は田忌を推挙し、田忌が主将、孫臏は副将(実質的には軍師)となって韓へ向かった。田忌は前回同様魏の都を攻めようとし、孫臏は「龐涓は同じ過ちを二度繰り返す者ではなく、何かの備えはしているでしょう。しかし様子を伺わなければ分かりませんので、魏の都に向かいましょう」と答えた。孫臏の予測通り、龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍を足止めする一方、韓攻略軍も引き返させた。防衛軍と攻略軍で挟撃しようというのである。これを知った斉軍は撤退するが、龐涓は打撃を与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。

しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営の竈の数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子を見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭の騎兵を率いて一刻も早く斉軍を捕捉しようと図った。一方、孫臏は、その先の隘路である馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地で、仕込みを始める。龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物をつくり、側の木の枝に板を吊るして「龐涓死於此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」と書き記させた。そしてその道の両側に1万の兵を伏し、兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた。
果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着。障害物に止めさせられた際、なにやら書かれている板があると兵が言ったため、自らこれを読もうと松明の火をかかげた。これに斉軍の伏兵が一斉に矢を放ち、暗中の魏軍は大混乱に陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ→これで奴の名声を世に成さしてしまったか)」と言い残して自刎、若しくは矢によりハリネズミとなり戦死。魏の太子申は捕虜にされた。司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることになった。

この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。しかし孫臏のその後に付いては史書に記述がない。一説には兵法書を記していたとも言われている。

また、太史公の記述によると世間で軍学について引用する場合、『孫子』十三編の書物を述べないものはないと言われている。「能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず。能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」という言葉があり、これは孫子が龐涓を計略に落としたのは明察である。だが刑罰のうきめきにあうときの処置を、あらかじめできなかったのは悲しいことであると評価している。

孫臏兵法
孫臏は孫武と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『孫子』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、1972年に至って山東省で孫臏の著した兵法書の竹簡孫子が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『孫臏兵法』と名づけられている。

孙膑(生卒年不详),字伯灵,华夏族,孙武后裔,齐国阿(今山东阳谷东北)、鄄(今鄄城北)一带人。中国战国时期军事家,唐德宗时位列武成王庙64将之一,宋徽宗时位列宋武庙72将之一。
孙膑早年曾与庞涓同学兵法。庞涓出任魏将后,妒孙膑之才而将其骗至魏,施以膑刑。后得齐国使者帮助潜逃入齐,为田忌门客,助田忌赛马获胜,被荐于齐威王。周显王十六年(公元前353年),齐威王欲任孙膑为将,孙膑以“刑余之人”而辞谢。周显王二十七年,因魏将庞涓率军攻韩,韩向齐求救,孙膑又以军师身份偕将军田朌、田忌、田婴等率军救韩。
孙膑既在战争实践中创造了影响深远的“围魏救赵”,又给后世留下了反映时代特点和战争规律的杰出军事理论。《汉书·艺文志》著录《孙膑兵法》89篇,图4卷,已佚。从中可见其兵法思想主张:“内得其民之心,外知敌之情”,主张“战胜而强立”“事备而后动”;在战略战术上贵“势”,即创造条件以求主动和优势;突破前人速战速决的理论,提出了持久作战的思想;适应通都大邑的兴起,强调攻城;认为只有覆军杀将方为全胜,开创歼灭战的理论;对野战中车垒运用、阵法研究、将领条件等均有阐述。

十阵
凡陈(阵)有十:有枋(方)陈(阵),有员(圆)陈(阵),有疏陈(阵),有数陈(阵),有锥形之陈(阵),有雁行之陈(阵),有钩形之陈(阵),有玄襄之陈(阵),有火陈(阵),有水陈(阵),此皆有所利。枋(方)陈(阵)者,所剸(专)也。员(圆)陈(阵)者,所以槫(团)也。疏陈(阵)者,所以 也。数陈(阵)者,为不可掇。锥行之陈(阵)者,所以夬(决)绝也。雁行之陈(阵)者,所以椄(接)射也。钩行之陈(阵)者,所以变质易虑也。玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)者,所以疑众难故也。火陈(阵)者,所以拔也。水陈(阵)者,所以伥固也。枋(方)陈(阵)之法:必[博以酉易十](薄)中厚方,居陈(阵)在後。中之薄也,将以[上口下犬]也。重〔厚〕其〔方〕,将以剸(专)也。居陈(阵)在後,所以……〔圆阵之法〕:……〔疏阵之法〕:其甲寡而人之少也,是故坚之。武者在旌旗,是人者在兵,故必疏钜间,多其旌旗羽旄,砥刃以为旁。疏而不可戚(蹙),数而不可军者,在於慎。车毋驰,徒人毋驱(趋)。凡疏陈(阵)之法,在为数丑,或进或退,或击或[豕页](毁),或与之[人正],或要(邀)其衰。然则疏可以取阅(锐)矣。数陈(阵)之法:毋疏钜间,戚(蹙)而行首,积刃而信(伸)之,前後相葆(保),变□□□,甲恐则坐,以声坐□,往者弗送,来者弗止,或击其迂,或辱其阅(锐),笲之而无间,[车反]山而退。然则数不可掇也。
锥行之陈(阵):卑(譬)之若剑,末不阅(锐)则不入,刃不溥(薄)则不剸,本不厚则不可以列陈(阵)。是故,末必阅(锐),刃必溥(薄),本必[鸿去水](鸿、厚)。然则锥行之陈(阵)可以夬(决)绝矣。
〔雁行之阵〕……中,此谓雁陈(阵)之任。前列若[有雍](牖),後列若枋(方),三……阙罗而自存,之谓雁陈(阵)之任。
钩行之陈(阵):前列必枋(方),左右之和必钩。参(三)声气(既)全,五菜(彩)必具,辩(辨)吾号声,知五旗。无前无後,无〔左无右〕……
玄[上羽下襄](襄)之陈(阵):必多旌旗羽旄,鼓[上羽下非][上羽下非]庄,甲乱则坐,车乱则行,已治者□,榼榼啐啐,若从天下,若从地出,徒来而不屈,终日不拙。此之谓玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)。
火战之法:沟垒已成,重为沟渐(堑),五步积薪,必均疏数(密),从役有数(多余之数),令之为属枇,必轻必利。风辟……火气(既)自覆,与之战弗克(克),坐行而北。火战之法:下而衍以[艹外],三军之士无所出泄。若此,则可火也。陵猋蒋[艹外],薪荛气(既)积,营窟未谨。如此者,可火也。以火乱之,以矢雨之,鼓噪敦兵,以势助之。火战之法。
水战之法:必众其徒而寡其车,令之为钩楷苁柤[上咸下贝]辑□绦皆具。进则必遂,退则不戚(蹙),方戚(蹙)从流,以敌之人为召(招)。水战之法,便舟以为旗,驰舟以为使。敌往则遂,敌来则戚(蹙),推攘因慎而饬之,移而革之,陈(阵)而〔待〕之,规而离之。故兵有误车有御徒,必察其众少,击舟[豕页]〔毁〕津,示民徒来。水战之法也。
七百八十七。


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