韓非子と韓非(著者)【始皇帝を感動させた法家の書物】
韓非子
韓非子(かんぴし)とは、戦国時代の法家の大成者である韓非子のこと、あるいはその著書『韓非子』を指します。韓非子は韓の王族で、弱小国家・韓を憂いて『韓非子』を著しました。秦の始皇帝は、秦王時代にそれを読んで感動し、韓非子の思想の影響を受けて秦王朝の体制を作りました。
韓非子とは
韓非子は法家の代表的人物である韓非(かんぴ…BC.280~BC.233)、あるいはその著書『韓非子』のことを指します。

韓非は韓の王族で、若い頃「性悪説」を唱えた荀子に学びました。やがて弱小の祖国・韓の立て直しのために文章を書いて韓王に進言しますが、受け入れてもらえず、これを十数万字の書『韓非子』にまとめました。この著作では君主が法を用いて臣下をどう扱い、統治に役立てるかなどが書かれています。この一部を読んだ秦王、後の始皇帝は非常に感動し、この思想を国家運営の基本方針とします。後に韓非は韓の使節として秦を訪れますが、その才能を嫉妬した李斯によって命を奪われてしまいました。
弱小国・韓の王族
韓非は戦国七雄の一である韓の国の王族として生まれました。名前は「韓非」。「子」は敬称でもあり、著書につける言葉でもあります。

韓非は生まれつき吃音(きつおん…話す時にどもってしまう)がひどく、話すことは苦手でしたが、文章を書くことに長けていました。

若い頃は秦の宰相・李斯(りし)らとともに荀子(じゅんし)に学んでいました。

荀子は孔子・孟子とともに儒家を代表する思想家ですが、孟子が人間は本来善であるという「性善説」を唱えたのに対し、人間は本来悪であるという「性悪説」を唱えました。

人間は本来が悪であるから後天的に教化し導いていかなければならない、として後の「法家」の思想…儒家が唱えるように道徳によって国を治めるのではなく、法によって国家を治めるべきだという思想につながっていきました。

戦国七雄のうち最も弱小である祖国の将来を憂いて、その対策を文章にして何度も韓王に差し出しましたが、受け入れられることはありませんでした。受け入れてもらえないというより韓は弱体化しすぎて、すでに抜本的な改革をする体力を失っていたのです。そこで韓非は自分の考えを十数万字にのぼる文にまとめました。これが『韓非子』です。

『韓非子』は全十数万字、「孤憤」(こふん)編・「五蠹」(ごと)編・「内儲」(ないちょ)編・「外儲」(がいちょ)編・「説林」(ぜいりん)編・「説難」(ぜいなん)編に分かれています。

当時秦の王・政(せい…後の始皇帝)がこの『韓非子』のうち「孤憤」編と「五蠹」編を読んで非常に感動し「ああ、この筆者に会ってお付き合いできるなら、私は死んでもかまわない」と言ったといいます。

下で触れるように韓非はBC.233に訪問先の秦で命を失っています。

始皇帝はBC.259に生まれていますからその時26歳。そこから考えると始皇帝が『韓非子』の一部を読んで感動したのはそれ以前ということになります。20歳前後あるいは20代前半でしょうか。

若き王とはいえ13歳で即位し、実母がらみのスキャンダルや取り巻きの権謀術数の渦巻の中ですでに数年から十数年を秦王として過ごしています。
遺伝子なのか生い立ちのせいなのか、際立って強靭な意志を持つこの若者は、国の統治についてすでに一つの方向を持っていたのでしょう。それは王自らが「絶対的な法」となって独裁的な政治を行い、そこでは情も特権も徹底して排除するというものです。

いかにも若者が好みそうな極端な思想ですが、実はこの政治スタイルは秦という王国にあっては、すでにかつて商鞅という政治家によって基礎…君主に絶対的な権力を集める政治体制…が作られていたのです。

つまり『韓非子』が説く論の骨格は始皇帝になじみのあったものでした。

その政治スタイルがなぜ正しいのか、『韓非子』は説得力を持ってそれを語り、己の国家運営への自信と天下取りの野望の後押しをしてくれたからこそ、始皇帝は感動したのかもしれません。

韓非が韓の公子であることを聞いたのち始皇帝は韓に出兵させます。これにあわてた韓王が韓非を使節として秦に送ると始皇帝は大喜びしました。

けれども宰相の李斯はかつての同窓・韓非の優秀さを知っているだけに不安になります。自分の権力基盤がゆらぐのではないかと恐れたのです。

そこで李斯はこう始皇帝に耳打ちしました。「韓非は何といっても韓の公子です。秦が重用したとしてもいったんコトが起これば、秦ではなく韓のために動くでしょう。といってこのまま返してあの優秀な頭脳を温存させれば、秦には害あって益なしです」

始皇帝はそれもそうだと韓非を投獄することを認めます。李斯は投獄された韓非に毒を渡し自殺に追いやりました。

あとになって思い直した始皇帝は韓非を呼ぼうとするのですが、すでに毒をあおいだ後でした。
『韓非子』の主な内容
『韓非子』の思想のうち、主な内容を下に紹介します。

1.二柄論
君主が臣下を動かすのに必要なものは二柄…すなわち刑罰と徳であり、これを自由に操ることで臣下を怖れさせたり喜ばせたりできる。

例として斉の簡公に仕えた田常と宋の子罕(しかん)がそれぞれ君主から「威」…すなわち刑罰の部分を奪い、それによって君主を脅かす存在になった話を書いています。このように君主は刑罰と徳を決して手放してはいけないのだと説いています。

2.信賞必罰論
功績があればこれをほめ、罪があれば罰する。この「信賞必罰」を正しく行わなければならない。こうして君主の権威を明らかにし、家臣の能力を発揮させることができる。

この「信賞必罰」のうち「賞」の例として以下の話を書いています。

越王の勾践(こうせん)が大臣の文種(ぶんしょう)にこう尋ねました。「私は呉を攻めたいのだが勝てるだろうか」

すると文種は「私は部下を信賞必罰によって鍛えていますから勝てます。私の部下の様子を見たかったら宮殿に火を放ってください」

そこで王が宮殿に火をつけると文種は部下にこう言いました。「火を防いで死んだ者には戦死した者と同じ褒美を与える。火を防いで生き延びた者には、戦いで勝利した者と同じ褒美を与える。火を防がなかった者は逃亡者または降伏した者と同じ罰を与える」

すると文種の部下たちは体に泥を塗り服に水をかけて、左から三千人、右から三千人、火の中に駆け込んでいきました。

「罰」の例としては以下の話を挙げています。

殷王朝のときの法律では、灰を道に捨てた者は死刑でした。孔子の弟子の子貢(しこう)が孔子に「殷のこの刑は重すぎると思います」と言うと、孔子は以下のように答えました。
「いや、この法律は政治というものがよくわかっている。灰を道に捨てれば必ず人の体にかかる。するとその人は腹を立てて喧嘩になる。喧嘩になれば、灰を捨てた者と灰をかぶった者の双方の親族どうしが闘うことになって死人が出る。だから死刑でいいのだ。それに重い刑罰は人が嫌がる。また灰を道に捨てないなどということは誰でも守れる。民に簡単なことを守らせ、嫌なことを避けさせる。これが政治のコツというものだ」

3.刑名審合(けいめいしんごう)論
刑名審合とは刑と名を一致させること。

家臣が言葉を述べたら、君主はその言葉に基づいて仕事を与え、仕事についての功績を求める。家臣の功績が仕事と一致し、その仕事が言葉と一致しているならほめ、そうでないなら罰するべきだ。こうした時に愛情は無用である。

4.時代認識に関する論
過去にあった理論(儒教をさす)にこだわらず、新しい理論(法家思想をさす)に立脚するべきである。

ここのたとえ話としては、日本の童謡にもある「待ちぼうけ」…「株を守る」の話が載っています。

宋の国にある農民がいました。田を耕しに行くと田に切り株がありました。ある日ウサギが走ってきて、この切り株にぶつかり首の骨を折って死んでしまいました。そこで彼は田を耕すのをやめ、切り株を見守ってまたウサギが跳んで出てくるのを待ちました。けれどもウサギは二度と現れず、この男は宋の国中の笑いものとなりました。

古代のすぐれた王の政治によって現代の民を治めようとするのは、この男と同じようなものである。こう書いて儒家的な復古主義を批判しています。

5.説難(ぜいなん)論
説得することは難しい。なぜなら相手の心を読み取って、その心に自分の意見を当てなければならないから。相手の心が名誉を重んじているのに利益を説いても相手にされない。相手の心が利益を求めているのに、名誉や高潔さを説いても受け入れてはもらえない。

この例としては以下の話を挙げています。

宋の国のある金持ちの家の土塀が大雨によって崩れてしまいました。

金持ちの家の子供が「早く修理しないと泥棒に入られるよ」と言ったので、金持ちは「うちの子供は賢い」と思いました。

ところが隣の家の主人も同じ忠告をしました。

その夜、泥棒が入って財産をすっかり盗まれてしまいました。金持ちは「隣の家の主人が怪しい」と疑いました。

このように相手によってどう対処するかはとにかく難しいことなのだ、と韓非子は説くのです。

また相手を立てる大切さも説いています。

自信家にはその欠点をあげつらって怒らせてはいけない。弱点をついて逆らってはいけない。そういう相手が問題を抱えているときには、別の問題や別の人間の行為を例にしてそれと同じだと相手に当てはめるとよいのだ…こう語っています。

ここまで人の心理を読みぬいて説得の大切さを考えていた韓非ですが、自分自身は李斯の妬みによって死に追いやられてしまいました。自らの人生の悲劇によって、人を「説得」することのの難しさを証明したとも言えるでしょう。

『韓非子』ではこのように自分の理論を、歴史の中のエピソードや卑近な例を使ってわかりやすく読む者が納得がいくように説いています。

トレントンの戦い
背景
この戦闘の前まで、アメリカの士気は極めて低かった。大陸軍はイギリス軍とドイツ人傭兵部隊の連合にニューヨークから追い出され、ニュージャージーを越えての撤退を余儀なくされていた。ロングアイランドの戦いの時に居た大陸軍兵士の90%は立ち去った。独立の大義が失われたと感じた者は脱走した。大陸軍総司令官のワシントンは幾らかの疑念を表明していた。ワシントンはバージニアの従兄弟に宛てて、「獲物は直ぐ近くにいると思う」と書き送った。

ニュージャージー西部の当時は小さな町だったトレントンはヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊3個連隊、その数1,400名に占拠されていた。 ワシントン軍は2,400名だった。ナサニエル・グリーン少将、ヘンリー・ノックス准将およびジョン・サリバン少将の補佐を受けていた。

前哨戦
大陸軍の作戦
大陸軍の策戦は3方向から協働した攻撃を掛けることに掛かっていた。ジョン・キャドワラダー将軍はニュージャージーのボーデンタウンでイギリス守備隊に対して陽動攻撃を掛け、援軍を送れないようにすることだった。ジェイムズ・ユーイング将軍は700名の民兵隊を率いて渡河し、トレントン渡し場で上陸してアッサンピンク・クリークに架かる橋を確保すれば、敵の退路を塞ぐことができるはずだった。攻撃の主力部隊は2,400名であり、トレントンの北9マイル (14 km) でデラウェア川を渡って2つに分かれ、1隊はグリーン、1隊はサリバンが率いて夜明け前の攻撃を掛けることになった[7]。サリバン隊は町の南から、グリーン隊は北から攻撃することとした[8]。この策戦の成功如何によっては、ニュージャージーのプリンストンやニューブランズウィックへの攻撃で追撃を掛けられる可能性があった。

この戦闘の前の週には、大陸軍の先遣隊が敵の騎兵偵察隊の待ち伏せを始め、伝令の騎手を捕まえ、ドイツ人哨兵を攻撃していた。これは大変効果があったので、ドイツ人傭兵部隊指揮官はプリンストンにいるイギリス軍指揮官に送る文書を守るために、100名の歩兵と1門の大砲からなる派遣部隊を送る必要があった。ワシントンはユーイング将軍とそのペンシルベニア民兵隊にドイツ人傭兵部隊の動きと配置に関する情報を掴むよう命令した。ユーイングそうする代わりに川を3度渡って襲撃することに成功した。12月17日と18日には猟兵の前進基地を襲い、21日には幾つかの家屋に火を付けた。ワシントンはデラウェア川沿いにある宿営地に近いあらゆる渡河可能地点を日夜見張れという命令も出していた。これは、イギリス軍指揮官ハウ将軍が、川が凍った場合にフィラデルフィアに攻撃をかけてくることになると考えたからだった。
12月20日、2,000名の兵士が新たに到着してワシントン軍に合流した。これはチャールズ・リー将軍の指揮下にあった兵士であり、リーが捕虜になったときはニュージャージー北部を横切って撤退中だった。同日、さらに800名の部隊がホレイショ・ゲイツの指揮でタイコンデロガ砦から到着した。

ドイツ人傭兵部隊の動き
ドイツ人傭兵部隊は12月14日にトレントンに到着した。トレントンにはキング通り(現在のウォーレン通り)とクィーン通り(現在のブロード通り)という2つの主要な通りがあり、約100軒の家屋があった。ラールの上官カール・フォン・ドノープは12月22日に南のマウントホーリーに向けて進軍し、ニュージャージーにおける抵抗勢力に対応し、23日にはアイアンワークスヒルの戦いでニュージャージー民兵隊を駆逐していた。

ドノープはラールを嫌っており、トレントンでの指揮をラールに任せることを躊躇した。ラールは騒々しく、酒飲みであり、現地の言葉に通じていないと分かっていたが、戦闘経験の豊富な56歳の軍人でもあった。ラールはイギリス軍指揮官ジェイムズ・グラント将軍に援軍を要請したが却下されていた。グラントは大陸軍をひどく蔑視しており、援軍を送らなかった。トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊の面々は、その指揮官が経験豊富であったにも拘わらず、人間性を好いてはいなかった。彼等はラールがあまりに立派すぎて成功する軍隊指揮官としては冷酷になれないと考えていた。ラールの士官達は「彼の人生に対する愛はあまりに大きくて、まず自分のことを考え、その次が他人のことになる。そのためにしっかりとした決断をすることができない。」と言ってこぼしていた。ラールは懸命に働くことを避け、部隊の慰安についてはほとんど関心を示さなかった。
トレントンの町は、アメリカの開拓地の常と同じく防壁も防御工作物も無かった[19]。ドイツ人傭兵部隊士官の中にはラールに町に防御を施すよう進言した者がおり、工兵技師の2人は町の上流側に堡塁を建設し、川に沿って防御工作を行うべきことを忠告した。技師達は図面を描き上げるまでしたが、ラールが同意しなかった。ラールが再度町の防御を施すよう促されたとき、ラールは「くだらない!来たらいいさ。...銃剣で十分だ」と答えたという。

クリスマスが近付いてくると、ロイヤリストが町に来て大陸軍が何かを企んでいると報告した[5]。何人かの大陸軍脱走兵ですら、川を渡るための食料が準備されているとドイツ人傭兵部隊に告げてもいた。ラールはこれらの話を無意味なものとして表だっては無視したが、個人的には上官に宛てた手紙で、目前に迫った敵の攻撃を心配していると表明していた。ラールはドノープに宛てて、「いつでも攻撃される可能性がある」と記した。ラールはトレントンが「防御不能」であると言い、トレントンに近くアメリカ軍の攻撃から道路を確保しておくことのできるメイドンヘッドにイギリス軍の駐屯地を置くことを求めた。その要請は却下された。大陸軍がドイツ人傭兵部隊の供給線を邪魔するようになると、ラールの士官達も同じ恐れを共有した。ある者は「ここへ来て以来一晩も平和に眠ったことがない」と記した。12月22日、1人のスパイがグラントに、ワシントンが作戦会議を招集したと報告し、グラントはラールに「守りに注意せよ」と告げた。

1,500名いたドイツ人傭兵部隊は3個連隊で分けられており、クニプハウゼン、ロスバーグおよびラールが各連隊を指揮した。その夜、天候が悪かったのでいかなる偵察も送り出さなかった。

渡河と行軍
ワシントンとその軍隊が出発する前に、ベンジャミン・ラッシュが来て将軍を景気づけようとした。ラッシュがそこにいる間に、ワシントンが書いたメモを見付けたが、そこには「勝利もしくは死」と書かれていた。これらの単語は急襲の際の合い言葉になるはずだった[23]。兵士の各々が60発の弾薬と3日分の食料を持った。この軍隊がデラウェア川岸に到着したときは既に予定より遅れており、頭上では雲が集まり始めていた。雨が降り始め、それが霰に変わり、最後は雪になった。それでも大陸軍はヘンリー・ノックスの全体指揮で川を渡り始めた。兵士達はダーラム・ボートに乗り、馬や大砲は大きな渡し船に乗せて渡した。ジョン・グロバーの第14大陸連隊が船を漕いだ。渡河途中で、ジョン・ハスレット大佐など何人かが船から落ちた。ハスレットは直ぐに水中から引き上げられた。渡河中の死者は出なかった。大砲も全て良い状態で渡すことができた。
約40名の小さな歩兵分遣隊2隊が主力の前衛を務めるよう命令された。その任務は主力の前に障害物を置くことであり、また出くわす者、あるいは町から出ようという者はだれでも捕虜に取ることだった。1隊はトレントンの北に派遣され、1隊はデラウェア川に沿って南にトレントンに向かう川沿い道を閉鎖するために派遣された。

悪天候のためにニュージャージー側への上陸が遅れ、深夜12時には終わると思っていたものが午前3時まで掛かったので、ワシントンは夜明け前の攻撃が不可能だろうと考えた。大陸軍にとってもう一つ痛手だったのは、キャドワラダーとユーイング両将軍が悪天候のために攻撃に加われなくなったことだった。
午前4時、トレントンへの行軍を始めた。その途中で市民数人が志願兵として加わり、地形に詳しかったのでガイドとして誘導した。風上に向かって1.5マイル (2.4 km) 進んだ後でベア酒場に着き、そこから右に折れた。道は滑りやすかったが、平坦であり、馬や大砲には好都合だったので、楽な時間帯となった[32]。間もなくジェイコブズ・クリークに至り、艱難辛苦しながらそれを越えた。2つの部隊はバーミンガムに到着するまで共に行動し、そこから2つに分かれた。その後間もなくベンジャミン・ムーアの家に到着し、ムーア家の家族がワシントンに食べ物や飲み物を供した。この時点で最初の曙光が見え始めた。兵士達の多くはブーツを持っていなかったので、ボロ切れを足に巻いていた。兵士の何人かは足から血を流し、雪を赤く染めた。この行軍中に2名の兵士が死んだ。
ワシントンは部隊が行軍中に馬でその隊列を行ったり来たりし、兵士達が歩き続けられるよう鼓舞した。行軍中にサリバンがワシントンに伝令を送って、天候のために発砲が難しくなっていると告げた。ワシントンは「サリバン将軍に銃剣を使うよう伝えてくれ。私はトレントンを奪ることに決めた。」と返事させた。

町の外約2マイル (3 km) の地点で、主力部隊は先遣隊と合流した。そこで50名の武装した男達が現れたが、彼等はアメリカ人であることが分かった。彼等はアダム・スティーブンが率いており、トレントン攻撃策戦を知らず、それ故にドイツ人傭兵部隊の前哨基地を攻撃していた。ワシントンはドイツ人傭兵部隊が全て守りに就いてしまうことを恐れたので、怒ってスティーブンに「君!君、彼等を守りに就かさせることで、私の策戦がだめになったかもしれない」と叫んだ。これにも拘わらず、ワシントンはトレントンへの前進を続けるよう命令した。ラールはスティーブン隊の攻撃がグラントの警告していたものだと考え、その日はそれ以上行動がないものと信じていたので、大陸軍にとっては有利に働くことになった。

紅巾の乱
白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。

元末の混乱
元末にかけて華北の中心に白蓮教が勢力を拡大していた。本来は仏教の一派だが世の混乱と共に次第に過激化し「元王朝の打倒とユートピアの実現」を唱える反体制的な教団となり、1338年・1351年には反乱をおこすまでになったが、これらの反乱は小規模にとどまり官軍により鎮圧された。

末期の元は権臣がこうていを擁立し、その権臣とこうていを別の権臣が殺し、新しいこうてい
を擁立するという事を繰り返したため、政治は混乱し、統治能力を失っていった。この時期には凶作飢饉が頻発していたが、天災というよりは政府が適切な処置を行わなかったことによる人災と言える。

1348年、方国珍が浙江・福建で海賊を行い、元の輸送船を襲い始めた。隋・唐時代からこの地域は中国全土の経済を支える重要な地域であったため、ここからの輸送が途絶えることは致命傷になり得た。政府は討伐軍を送ったが、元々草原出身の民族であるモンゴルは海戦には弱く、討伐軍の司令官が捕虜になるという惨敗となった。これにより元朝の衰退ぶりが明らかとなり、反乱への気運が高まることになる。

白蓮教徒の蜂起
1351年、白蓮教の教祖韓山童は北宋の徽宗の末裔を名乗り、河南で黄河の土木工事に従事していた人夫達を扇動して反乱を企てたが、挙兵直前に発覚し韓山童は処刑された。劉福通らは韓山童の子の韓林児を擁立して蜂起し、1355年には小明王とし、国号を宋、年号を龍鳳とした。

さらに杜遵道を丞相、劉福通は平章となった。安徽の郭子興などが呼応したが、紅巾軍の本隊である宋とは行動を別にしそれぞれが自らの勢力拡大を狙って割拠して、首領たちが白蓮教を信仰していたかも怪しまれる。

またこれとは別に、湖北で僧侶彭瑩玉に祭り上げられた徐寿輝がいち早く1351年には皇帝を名乗っており、国号を天完、年号を治平とした。両者を区別するために前者を東系紅巾、後者を西系紅巾と呼ぶことがある。一般に東系紅巾は騎兵、もしくは歩兵による戦いを得意とし、西系紅巾は水軍を中心とした戦いを得意とする傾向があった。

紅巾軍の解体
1357年、宋は全軍を三路に分け、北伐を開始した。毛貴率いる東路軍は一時、大都にせまり、関鐸ら率いる中路軍は高麗の首都の開城を一時占領したが李成桂らの反撃をうけたため、開城を捨て転進して上都を占領した。

この北伐は元朝側に軍の弱体化と激しい内部抗争があったため大した抵抗も受けず、一時は大いに成功を収めたかに見えたが、やがて態勢を立て直した元軍の本格的な反撃が始まり、チャガン・テムル(察罕帖木児)・ボロト・テムル(孛羅帖木児)らによって北伐軍は大破され、さらに首都の開封を失い急速に弱体化が進み、安徽省の安豊でのみ権威を保つようになった。

いっぽう西系紅巾は南下、西進して江南を押さえ、重慶の明玉珍を宣撫してその勢力を広げ、東系紅巾をしのぐほどになったが、次第に内部抗争が激化、1360年に徐寿輝は部下の陳友諒に殺害され、明玉珍が独立したため事実上、西系紅巾は解体された。

郭子興の配下から朱元璋が勃興し、平江路の張士誠に攻められた韓林児を保護した。しかしその後の韓林児には実権は無く1366年に暗殺され、それと同時に朱元璋による白蓮教の禁教令が出された。ここで実質的に紅巾の乱は終結し、以後は朱元璋による覇権確立の戦争となる。

紅巾軍は白蓮教団を母体としていたが、実態は盗賊や流民の寄せ集めであり、統率・規律も不十分で暴徒と化して都市や村を荒らしまわる部隊も多かった。また「漢民族の復興とユートピアの実現」を説いてはいたが、具体的な政策があったわけでもなく、漢人知識人層を失望させ彼らの協力を得られなかったことが、紅巾軍の衰退につながったと思われる。
红巾军,又称作红军,是元朝末年起来反抗元朝的主要起事力量,该事最初是与明教、弥勒教、白莲教等民间宗教结合所发动的,因打红旗,头扎红巾,故称作“红巾”或“红军”,又因焚香聚众,又被称作香军。红巾军起于元顺帝统治末年政治败坏、税赋沉重,加上天灾不断。红巾军最初起于北方,以韩山童、刘福通等为首领,宣传弥勒下世明王出世等教义,至正十一年(1351年),元顺帝以贾鲁治黄河,动用大量民夫,造成不满,韩山童等人决定在5月发动起事,但事泄,韩山童被捕杀,刘福通带山童之子韩林儿杀出重围,占领颖州,许多人民纷纷加入,在河南一带势盛,而北方其他起事如徐州的芝麻李、彭大、濠州的郭子兴等,均打着红巾起义。红巾军起义是韩山童、刘福通、徐寿辉等领导的元末农民大起义,爆发于元顺帝至正十一年(1351年)的颍州。因起义军头裹红巾,故称“红巾军”,又因其烧香聚众,亦称“香军”。1355年—1363年,刘福通在亳州(今安徽亳州谯城区)立韩林儿为“小明王”,国号“大宋”,年号“龙凤”。在红巾军的影响下,全国各地农民纷起响应。人数较多的有蕲水(今湖北浠水)的徐寿辉部、萧县(今安徽萧县西北)的芝麻李部、南阳的布王三部、荆樊的孟海马部、濠州(今安徽风阳东)的郭子兴部等。原属红巾军的朱元璋独树旗帜,1368年正月,在南京称帝,建元洪武,国号大明。


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