#明日方舟##霜星##cos##明日方舟:冬隐归路# 预告
スリープ スリープ おやすみ
可愛(かわい)い子よ
クローズ クローズ
幸(しあわ)せな 寝顔(ねかお)見(み)せて
ど夢(ゆめ)の中(なか)で 怖(こわ)い目(め)みだら
大(おお)きくられるかな
見守(みまも)っているは
月(つき)は導(みちひび)く
ささやくる
運命(うんめ)をしるした
おとぎ話(ばなし)を
その道(みち)から
逃(どう)られをしない
夜(よる)の止(と)まりの奥(おく)は
鋭(するど)く光(ひかり)た瞳(ひとみ)*
子守唄(こもりうた)を君(きみ)に
このまま眠(ねむ)でよ
大地(だいじ)は 揺(ゆ)りかご
まつ目をさばさば
この歌(うた) を君(きみ)ながに
夢見(ゆめみ)な国度(かに)へ
目覚(めさ)めの時(とき)まで
——霜星《安眠曲》
出镜:我
摄影:靖易
后期:我
后勤:上官,山泽
场地:森翎秘境
#二次元cos大赏##明日方舟[超话]#
スリープ スリープ おやすみ
可愛(かわい)い子よ
クローズ クローズ
幸(しあわ)せな 寝顔(ねかお)見(み)せて
ど夢(ゆめ)の中(なか)で 怖(こわ)い目(め)みだら
大(おお)きくられるかな
見守(みまも)っているは
月(つき)は導(みちひび)く
ささやくる
運命(うんめ)をしるした
おとぎ話(ばなし)を
その道(みち)から
逃(どう)られをしない
夜(よる)の止(と)まりの奥(おく)は
鋭(するど)く光(ひかり)た瞳(ひとみ)*
子守唄(こもりうた)を君(きみ)に
このまま眠(ねむ)でよ
大地(だいじ)は 揺(ゆ)りかご
まつ目をさばさば
この歌(うた) を君(きみ)ながに
夢見(ゆめみ)な国度(かに)へ
目覚(めさ)めの時(とき)まで
——霜星《安眠曲》
出镜:我
摄影:靖易
后期:我
后勤:上官,山泽
场地:森翎秘境
#二次元cos大赏##明日方舟[超话]#
中国古代の女性作家~李清照②
李清照は北宋の末期から南宋の初期に生きていました。文人の家に生まれ、天真爛漫な少女時代をすごしました。そして、素敵な知識人の男性、趙明誠と結婚して、文化財の収集という共通の趣味を持ち、幸せな結婚生活を送っていました。
しかし、李清照にとって、このような幸せな人生は44歳まででした。その後の人生は、国の動乱に翻弄され、波乱万丈なものになりました。それに影響され、清照の作風もガラッ変わりました。
1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。ちょうどその年に、李清照と趙明誠夫妻の家にも大きな出来事がありました。趙の母親が南京で亡くなりました。昔、中国の官僚は、親が亡くなると、3年間休みをとって、喪に服くす慣わしがありました。清照と趙明誠夫妻は、このため南京に行くことになりました。その時点では、北宋の首都だった河南省の開封はすでに陥落し、彼らの実家、山東省を含む北方地区はとても危険な状態になっていました。そこで、李清照は、夫婦二人が長年に渡って集めたたくさんの文化財を青州の実家から一人で南京に運ぼうとしていました。しかし、クーデターが発生し、運送する予定だった所蔵品は焼けてしまいました。清照は命がけでごく少数の珍しい文化財を守り、やっとのことで南京にたどり着きました。都を南方にある杭州に移し、設立されたばかり南宋政権は、人材を急いで求めていました。清照の夫、趙明誠は、南京を含む周辺地域の長官に任命されました。これでようやくほっと一息と思われるかもしれません。ところが、まだ思いもよらない運命が清照を待っているのです。
夫の趙明誠が南京とその周辺地域を管理する長官になって、一年あまり経った時、南京では軍の将校による叛乱が起こりました。偶然ですが、その時の趙明誠はすでに、別の場所の地方長官になる人事異動の辞令をもらったばかりです。趙明誠は叛乱に対して対策を講じるどころか、他の2人の地元政府の高官と一緒に、お城から逃げてしまいました。幸い、趙明誠の部下が、対策を講じましたので、大きな災いにならなくて済みました。何故、趙明誠が逃げ出したのか、その理由は、今の私たちには分かりませんが、恐らく、自分がもう長官ではない。後任はまだ来ていないけど、自分の任期中の使命をもう果たしたと思ったからではないでしょうか?李清照は夫のこの卑怯なやり方を知って、激怒しました。その翌年に書いた有名な詩、『絶句 烏江』は、金との争いの中で、どんどん南方に逃げ、虚構の平和に酔いしれる宋の軍隊を風刺する詩ですが、その詩を書いた時間や、背景などを考えると、夫、趙明誠がお城を逃げた卑怯者の行為を同時に風刺したと言われます。
絶句 烏江
生当作人傑,死亦為鬼雄。至今思項羽,不肯過江東。
(日本語訳)
絶句 烏江
生きては 當に 人傑と 作(な)るべく,
死しては 亦 鬼雄と 爲(な)る。
今に至りて 項羽を思ふに,
江東に 過(よぎ)るを 肯(がへん)ぜざるを。
人は生きる限りは、民衆からぬきんでて優れた人物といわれるようになるべきである。死んでも、殉国の英雄と讃えられるようになるべきである。今になっても項羽を思い出す。項羽が烏江を渡って逃げようとしなかったことを。
項羽は、烏江を渡って逃げることに同意しなかった、と言うことを思い出し、英雄として立派だなぁ、つまり、夫のあなたは、さっさと逃げて、かっこ悪いと言いたい訳でしょう。趙明誠は恥ずかしく思い、憂鬱になって、新しい場所に赴任する途中に亡くなりました。
夫に死なれた李清照はその後再婚しましたが、その男性が財産目当てだということを知り、結婚して100日足らずで離婚しました。そのつらい人生を表現した後期の代表的な詞をご紹介します。
《声声慢·寻寻觅觅》
寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚。
乍暖还寒时候,最难将息。
三杯两盏淡酒,怎敌他、晚来风急!
雁过也,正伤心,却是旧时相识。
满地黄花堆积,憔悴损,如今有谁堪摘?
守著窗儿,独自怎生得黑!
梧桐更兼细雨,到黄昏,点点滴滴。
这次第,怎一个愁字了得!
(日本語訳)
尋ね尋ね、探して探し求めて。物寂しく、ひっそりしている。痛ましく、悲しい。
暖かくなったと思ったらまた寒くなるころ、心を休めるのが一番難しい時期。二、三杯の粗末な酒で、明け方の風がきつくなってくるのに耐えられるかしら。カリが通り過ぎた。秋の季節が終わろうとしている。本当に心が傷む。カリは昔からの顔なじみなのに。
満面の菊の花がうずたかく茂っている。それにひきかえ、わたしはやつれ果てて、今、誰が菊をまた私に摘んでくれるのか、もう誰も見向きはしないだろう。窓辺にじっと寄り添って、愛しい人の帰りを待ち続けている。窓辺に寄り添い、じっと眺めている。一人寂しく、どうして日が暮れるまで過ごすことができるのか。
アオギリやキリに、更にその上、こぬか雨が降りはじめた。黄昏になると、ポツポツ、パラパラと。
この光景は、どうして「愁」の一字だけで表現することができるだろうか。
「尋尋覓覓」「冷冷清清」「凄凄慘慘戚戚」、文字を繰り返した形で、さびしい気持ちを表現したツーの冒頭にあるこの16文字は、リズム感がよく、後世に高く評価されています。また、李清照の作品には比較的、酒はよく出てきます。彼女の人生を振り返れば、お酒でも飲まないとやっていけなかったんでしょう。
李清照は非常に才気あふれる素敵な女性です。時代と共に人生激変を体験し、逞しく生きていました。個人生活は前半幸せそうに見えるんですけれど、一生、子宝に恵まれなかったこともあって、女性としては、悔いのある暮らしを送っていたのではないかと思います。そのため、いつも敏感であり、楽しかったり、悲しかったりいろいろな気分を味わってツーにまとめていました。どの人にとっても人生って波乱万丈で楽しいことばかりではないと思いますが、彼女は文章に表現すると言う才能があった訳ですから、救われるかなと思います。(文章:ZHL、高橋)
李清照は北宋の末期から南宋の初期に生きていました。文人の家に生まれ、天真爛漫な少女時代をすごしました。そして、素敵な知識人の男性、趙明誠と結婚して、文化財の収集という共通の趣味を持ち、幸せな結婚生活を送っていました。
しかし、李清照にとって、このような幸せな人生は44歳まででした。その後の人生は、国の動乱に翻弄され、波乱万丈なものになりました。それに影響され、清照の作風もガラッ変わりました。
1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。ちょうどその年に、李清照と趙明誠夫妻の家にも大きな出来事がありました。趙の母親が南京で亡くなりました。昔、中国の官僚は、親が亡くなると、3年間休みをとって、喪に服くす慣わしがありました。清照と趙明誠夫妻は、このため南京に行くことになりました。その時点では、北宋の首都だった河南省の開封はすでに陥落し、彼らの実家、山東省を含む北方地区はとても危険な状態になっていました。そこで、李清照は、夫婦二人が長年に渡って集めたたくさんの文化財を青州の実家から一人で南京に運ぼうとしていました。しかし、クーデターが発生し、運送する予定だった所蔵品は焼けてしまいました。清照は命がけでごく少数の珍しい文化財を守り、やっとのことで南京にたどり着きました。都を南方にある杭州に移し、設立されたばかり南宋政権は、人材を急いで求めていました。清照の夫、趙明誠は、南京を含む周辺地域の長官に任命されました。これでようやくほっと一息と思われるかもしれません。ところが、まだ思いもよらない運命が清照を待っているのです。
夫の趙明誠が南京とその周辺地域を管理する長官になって、一年あまり経った時、南京では軍の将校による叛乱が起こりました。偶然ですが、その時の趙明誠はすでに、別の場所の地方長官になる人事異動の辞令をもらったばかりです。趙明誠は叛乱に対して対策を講じるどころか、他の2人の地元政府の高官と一緒に、お城から逃げてしまいました。幸い、趙明誠の部下が、対策を講じましたので、大きな災いにならなくて済みました。何故、趙明誠が逃げ出したのか、その理由は、今の私たちには分かりませんが、恐らく、自分がもう長官ではない。後任はまだ来ていないけど、自分の任期中の使命をもう果たしたと思ったからではないでしょうか?李清照は夫のこの卑怯なやり方を知って、激怒しました。その翌年に書いた有名な詩、『絶句 烏江』は、金との争いの中で、どんどん南方に逃げ、虚構の平和に酔いしれる宋の軍隊を風刺する詩ですが、その詩を書いた時間や、背景などを考えると、夫、趙明誠がお城を逃げた卑怯者の行為を同時に風刺したと言われます。
絶句 烏江
生当作人傑,死亦為鬼雄。至今思項羽,不肯過江東。
(日本語訳)
絶句 烏江
生きては 當に 人傑と 作(な)るべく,
死しては 亦 鬼雄と 爲(な)る。
今に至りて 項羽を思ふに,
江東に 過(よぎ)るを 肯(がへん)ぜざるを。
人は生きる限りは、民衆からぬきんでて優れた人物といわれるようになるべきである。死んでも、殉国の英雄と讃えられるようになるべきである。今になっても項羽を思い出す。項羽が烏江を渡って逃げようとしなかったことを。
項羽は、烏江を渡って逃げることに同意しなかった、と言うことを思い出し、英雄として立派だなぁ、つまり、夫のあなたは、さっさと逃げて、かっこ悪いと言いたい訳でしょう。趙明誠は恥ずかしく思い、憂鬱になって、新しい場所に赴任する途中に亡くなりました。
夫に死なれた李清照はその後再婚しましたが、その男性が財産目当てだということを知り、結婚して100日足らずで離婚しました。そのつらい人生を表現した後期の代表的な詞をご紹介します。
《声声慢·寻寻觅觅》
寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚。
乍暖还寒时候,最难将息。
三杯两盏淡酒,怎敌他、晚来风急!
雁过也,正伤心,却是旧时相识。
满地黄花堆积,憔悴损,如今有谁堪摘?
守著窗儿,独自怎生得黑!
梧桐更兼细雨,到黄昏,点点滴滴。
这次第,怎一个愁字了得!
(日本語訳)
尋ね尋ね、探して探し求めて。物寂しく、ひっそりしている。痛ましく、悲しい。
暖かくなったと思ったらまた寒くなるころ、心を休めるのが一番難しい時期。二、三杯の粗末な酒で、明け方の風がきつくなってくるのに耐えられるかしら。カリが通り過ぎた。秋の季節が終わろうとしている。本当に心が傷む。カリは昔からの顔なじみなのに。
満面の菊の花がうずたかく茂っている。それにひきかえ、わたしはやつれ果てて、今、誰が菊をまた私に摘んでくれるのか、もう誰も見向きはしないだろう。窓辺にじっと寄り添って、愛しい人の帰りを待ち続けている。窓辺に寄り添い、じっと眺めている。一人寂しく、どうして日が暮れるまで過ごすことができるのか。
アオギリやキリに、更にその上、こぬか雨が降りはじめた。黄昏になると、ポツポツ、パラパラと。
この光景は、どうして「愁」の一字だけで表現することができるだろうか。
「尋尋覓覓」「冷冷清清」「凄凄慘慘戚戚」、文字を繰り返した形で、さびしい気持ちを表現したツーの冒頭にあるこの16文字は、リズム感がよく、後世に高く評価されています。また、李清照の作品には比較的、酒はよく出てきます。彼女の人生を振り返れば、お酒でも飲まないとやっていけなかったんでしょう。
李清照は非常に才気あふれる素敵な女性です。時代と共に人生激変を体験し、逞しく生きていました。個人生活は前半幸せそうに見えるんですけれど、一生、子宝に恵まれなかったこともあって、女性としては、悔いのある暮らしを送っていたのではないかと思います。そのため、いつも敏感であり、楽しかったり、悲しかったりいろいろな気分を味わってツーにまとめていました。どの人にとっても人生って波乱万丈で楽しいことばかりではないと思いますが、彼女は文章に表現すると言う才能があった訳ですから、救われるかなと思います。(文章:ZHL、高橋)
中国古代の女性作家~李清照①
李清照(1084年~1155年)は中国で、最も偉大な女性文学者の一人です。李清照は北宋末期から南宋初期に生きていました。その時、一番隆盛したのは、宋詞です。「詞」は字数、句数、押韻の決まったパターンに字を当て嵌めて作る韻文です。曲にあわせて書かれます。当時では全部歌になって歌うことができました。なので、歌謡文芸の一つとも呼ばれます。
李清照は現在の山東省済南市の所轄、章丘市に生まれました。その父親も文学者として有名です。家にはたくさんの書籍を収蔵しています。そんな家で豊かで天真爛漫な幼少時代を送りました。18歳の時、結婚しました。夫は当時太学の学生だった趙明誠です。太学とは当時の中国の一番レベルの高い教育機関です。日本で言えば東京大学、今の中国で言えば、北京大学か清華大学に当たると思います。趙明誠は当時学生でありながら、鐘や鼎、石碑などに刻されている古代の文字を研究する金石学者として、すでに名が知られていました。二人は書画の収集・整理など学術研究の分野で同じような趣味を持っています。それが、夫婦円満の秘訣となり、幸せな結婚生活を送っていました。後に清照は夫の著作『金石録』の編纂を手伝う事になりました。しかし、結婚1年後、政争のために、夫とやむを得ず別居するようになり、二、三年の間分かれて過ごしました。
これにはとても難しい歴史背景がありますが、要するに、清照の父親と夫趙明誠の父親はそれぞれ違う政治陣営に所属しています。皇帝が改革を行うことが引き金となって、政治陣営の争いが激しくなりました。その中で、まず清照の父親が失脚しました。趙明誠の父親のほうは、皇帝に重用され、やがて宰相になりました。しかし、政局の変化は激しいのです。今度は趙の父親がいた陣営、新党内部で利権をめぐる争いが熾烈になり、趙の父親は辞任せざるを得ませんでした。数日後、、趙明誠の父親は亡くなりました。一家は首都を離れ、実家山東省青州に帰りました。趙明誠と清照はやっと静かに暮らせるようになり、10年ほど山東省青州で過ごしていました。10後には、趙明誠は再び朝廷に起用されるようになり、清照と別れて、単身赴任しました。
人生の時期によって、清照の作風は大きく異なります。前期の作品は、自然の謳歌や少女時代の恥じらい、新婚の幸せ、別居の時の不安や哀愁などをテーマに描いていました。前期の作品から、私が大好きなものを一首ご紹介します。
如夢令 (和訓)
昨夜雨疏風驟 昨夜雨疏に風驟なりしが
濃睡不消殘酒 濃き睡りも 残酒を消さず
試問捲簾人 試に簾巻く人に問ふに
却道海棠依舊 却りて「海棠は旧に依る」と道ふ
知否 知るや 知らざるや
知否 まことに知らざるや
應是綠肥紅痩 応に是れ 緑の肥えて 紅痩せしならむを
のんびりしていて優雅な貴族女性の生活を描く詞です。朝、目が覚めて、夕べ酔いながら見た夢の中の風や雨を思い出しました。庭に植えた海棠の花はどうなったの?すだれを巻く下女との問答を通じて、海棠の花は雨にさらされた後、花がまばらになり、葉っぱが一層茂った景色を描き出しています。これと同時に、春に咲く花を惜しむ女性作家の気持ちも表しています。花が散ることによって、青春があっというに去ってしまうという淡い哀愁も表しました。これこそ、女性特有の繊細な視点でしょうね。
もう一首ご紹介します。
《点絳唇》
蹴罢秋千,
起来慵整纤纤手。
露浓花瘦,
薄汗轻衣透。
见有人来,
袜刬金钗溜。
和羞走,
倚门回首,
却把青梅嗅。
この詞はぶらんこに乗って、遊んでいた女の子が、すこし汗を掻いた衣を整えていました。この時、見知らぬ男が歩いてきました。中国では昔、結婚適齢の未婚女性は原則的に家族以外の男性とあってはいけませんでした。少女は恥ずかしくて、靴をはく暇もなく、靴下のまま逃げようとしました。そして、髪の毛に飾った金のアクセサリーを落としたことにも気づきませんでした。でも、好奇心から男の人を見たくて、門の闇に隠れた後、そっと振り返えりました。人にばれたら恥ずかしいと思って、青梅を手に持ってその香を嗅ぐ様子を見せました。少女のしぐさをくっきりと描写し、自由と恋に対する憧れを表しています。とても素敵ですよね。
宋詞は風格によって、婉約派や豪放派などいくつかの流派がありますが、李清照は婉曲な感情表現の婉約派の代表的な作家でした。中国現代を代表する文学者鄭振鐸は「李清照は宋の時代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女性詩人である」と評価しました。特に、中国古代に女性作家が少ないという環境の中で、非常に貴重な存在です。
しかし、とても残念なことですが、李清照は動乱の真っ只中に生きていたこともあって、作品の大部分は散逸してしまいました。現在、およそ50首ぐらいしか残されていません。李清照の作品には詞はもちろん、詩や文章もあります。李清照は若い時、ツーについての論評『詞論』を書いたこともあります。詞は「詩」とは違う別のジャンルのものだと主張し、当時の文才、晏殊や歐陽修、蘇軾の詞は「上手く書けなかった詩」だと酷評しました。自分の才能にかなり誇りを持っていたのですね。
李清照の人生は一生、波乱万丈でした。1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。44歳の時以降、人生に清照の人生においても、様々なことが起こり、作風に大きな変化が起こりました。その作品などについては、後半で紹介します。
李清照(1084年~1155年)は中国で、最も偉大な女性文学者の一人です。李清照は北宋末期から南宋初期に生きていました。その時、一番隆盛したのは、宋詞です。「詞」は字数、句数、押韻の決まったパターンに字を当て嵌めて作る韻文です。曲にあわせて書かれます。当時では全部歌になって歌うことができました。なので、歌謡文芸の一つとも呼ばれます。
李清照は現在の山東省済南市の所轄、章丘市に生まれました。その父親も文学者として有名です。家にはたくさんの書籍を収蔵しています。そんな家で豊かで天真爛漫な幼少時代を送りました。18歳の時、結婚しました。夫は当時太学の学生だった趙明誠です。太学とは当時の中国の一番レベルの高い教育機関です。日本で言えば東京大学、今の中国で言えば、北京大学か清華大学に当たると思います。趙明誠は当時学生でありながら、鐘や鼎、石碑などに刻されている古代の文字を研究する金石学者として、すでに名が知られていました。二人は書画の収集・整理など学術研究の分野で同じような趣味を持っています。それが、夫婦円満の秘訣となり、幸せな結婚生活を送っていました。後に清照は夫の著作『金石録』の編纂を手伝う事になりました。しかし、結婚1年後、政争のために、夫とやむを得ず別居するようになり、二、三年の間分かれて過ごしました。
これにはとても難しい歴史背景がありますが、要するに、清照の父親と夫趙明誠の父親はそれぞれ違う政治陣営に所属しています。皇帝が改革を行うことが引き金となって、政治陣営の争いが激しくなりました。その中で、まず清照の父親が失脚しました。趙明誠の父親のほうは、皇帝に重用され、やがて宰相になりました。しかし、政局の変化は激しいのです。今度は趙の父親がいた陣営、新党内部で利権をめぐる争いが熾烈になり、趙の父親は辞任せざるを得ませんでした。数日後、、趙明誠の父親は亡くなりました。一家は首都を離れ、実家山東省青州に帰りました。趙明誠と清照はやっと静かに暮らせるようになり、10年ほど山東省青州で過ごしていました。10後には、趙明誠は再び朝廷に起用されるようになり、清照と別れて、単身赴任しました。
人生の時期によって、清照の作風は大きく異なります。前期の作品は、自然の謳歌や少女時代の恥じらい、新婚の幸せ、別居の時の不安や哀愁などをテーマに描いていました。前期の作品から、私が大好きなものを一首ご紹介します。
如夢令 (和訓)
昨夜雨疏風驟 昨夜雨疏に風驟なりしが
濃睡不消殘酒 濃き睡りも 残酒を消さず
試問捲簾人 試に簾巻く人に問ふに
却道海棠依舊 却りて「海棠は旧に依る」と道ふ
知否 知るや 知らざるや
知否 まことに知らざるや
應是綠肥紅痩 応に是れ 緑の肥えて 紅痩せしならむを
のんびりしていて優雅な貴族女性の生活を描く詞です。朝、目が覚めて、夕べ酔いながら見た夢の中の風や雨を思い出しました。庭に植えた海棠の花はどうなったの?すだれを巻く下女との問答を通じて、海棠の花は雨にさらされた後、花がまばらになり、葉っぱが一層茂った景色を描き出しています。これと同時に、春に咲く花を惜しむ女性作家の気持ちも表しています。花が散ることによって、青春があっというに去ってしまうという淡い哀愁も表しました。これこそ、女性特有の繊細な視点でしょうね。
もう一首ご紹介します。
《点絳唇》
蹴罢秋千,
起来慵整纤纤手。
露浓花瘦,
薄汗轻衣透。
见有人来,
袜刬金钗溜。
和羞走,
倚门回首,
却把青梅嗅。
この詞はぶらんこに乗って、遊んでいた女の子が、すこし汗を掻いた衣を整えていました。この時、見知らぬ男が歩いてきました。中国では昔、結婚適齢の未婚女性は原則的に家族以外の男性とあってはいけませんでした。少女は恥ずかしくて、靴をはく暇もなく、靴下のまま逃げようとしました。そして、髪の毛に飾った金のアクセサリーを落としたことにも気づきませんでした。でも、好奇心から男の人を見たくて、門の闇に隠れた後、そっと振り返えりました。人にばれたら恥ずかしいと思って、青梅を手に持ってその香を嗅ぐ様子を見せました。少女のしぐさをくっきりと描写し、自由と恋に対する憧れを表しています。とても素敵ですよね。
宋詞は風格によって、婉約派や豪放派などいくつかの流派がありますが、李清照は婉曲な感情表現の婉約派の代表的な作家でした。中国現代を代表する文学者鄭振鐸は「李清照は宋の時代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女性詩人である」と評価しました。特に、中国古代に女性作家が少ないという環境の中で、非常に貴重な存在です。
しかし、とても残念なことですが、李清照は動乱の真っ只中に生きていたこともあって、作品の大部分は散逸してしまいました。現在、およそ50首ぐらいしか残されていません。李清照の作品には詞はもちろん、詩や文章もあります。李清照は若い時、ツーについての論評『詞論』を書いたこともあります。詞は「詩」とは違う別のジャンルのものだと主張し、当時の文才、晏殊や歐陽修、蘇軾の詞は「上手く書けなかった詩」だと酷評しました。自分の才能にかなり誇りを持っていたのですね。
李清照の人生は一生、波乱万丈でした。1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。44歳の時以降、人生に清照の人生においても、様々なことが起こり、作風に大きな変化が起こりました。その作品などについては、後半で紹介します。
✋热门推荐