城濮の戦い
事前の経緯
紀元前638年、宋の襄公と楚の成王が激突した泓水の戦いは楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。

その翌年、晋の亡命公子である重耳(後の文公)は斉から宋へと向かった。宋の襄公は重耳の器量を知っていたため国君に対する礼をもって迎え入れ、重耳は歓待を受けた。襄公はこのあとまもなく泓水の戦いの戦傷のため死去する。その後で重耳は楚へと入り、成王は諸侯の礼をもって重耳一行を迎え入れた。宴の最中に成王は「もし国に帰って晋公になることが出来たら私にどう報いてくれるでしょうか?」と問いかけた。重耳は「もし王とやむを得なく戦場で相まみえることがあったら三舎だけ軍を引きましょう。」と応えた。これは軍隊が一日進んで宿営することを一舎といい、三舎とは三日分退く行程のことを指し、相手に一目置くという意味と同時に手加減するという意味がある。これに成王の臣下である子玉は王に対して無礼だと怒り、殺してしまいましょうと成王に言ったが、成王は重耳の亡命中である立場と器量を認めていたのでこれを退けた。

その後、重耳は秦の助けを借りて晋公の座に就く(以後、文公とする)。文公は狐偃・先軫らの補佐を受けて、周王室の内乱を収めるなど急速に勢威を広げていた。襄公の後を継いだ宋の成公は晋の力を借りて楚の影響下を脱しようと、楚との盟約を反故にして晋との親善を深める。このことに不快感を抱いた楚の成王は紀元前633年に軍を発し、陳・蔡・鄭・許らの諸侯と共に宋の首都を包囲し、宋は晋へ救援を求める。

これに応えて文公は三軍を召集し、宋の救援へと向かう。

晋軍の編成
中軍
将・郤縠、佐・郤臻
上軍
将・狐偃、佐・狐毛
下軍
将・欒枝、佐・先軫
(『史記』による。『春秋左氏伝』には狐毛が将、狐偃が佐になっている。)

城濮の戦い
紀元前632年、晋軍はまず楚の盟下にある曹を攻めようとし、衛の成公に領内の通過許可を求めた所、断られた。かつて放浪時代に先代である衛の文公に侮辱を受けていたこともあり、怒った文公(重耳)は衛を攻めて五鹿と言う土地を奪った。この後で郤縠が急死したので代わって先軫を中軍の将に抜擢した。

衛国内で斉の昭公と会盟し、今後のことを話し合った。晋に攻められて恐れていた成公がこれに参加したいと申し出てきたが、文公はこれを撥ね付け、成公は更に楚に和親しようとしたがこれも断られ、成公は臣下により追放され、衛は晋に降った。その後で曹を攻めて、これも降す。

この戦果を元に、先軫の進言により、「衛と曹の土地を宋に与え、その土地を斉と秦に割譲する。その上で宋から斉・秦に宋包囲を止めるようにと楚へ言ってもらう。盟下にある衛と曹を守らねばならない楚はこれを断るに違いない。そうすれば斉・秦は楚を恨むようになるだろうし、楚の方も宋を攻めるよりも衛・曹の方へと意識が向くだろう。」という策を実行し、思い通りになった。

戦況が不利になったと見た成王は本国へと引き上げていった。しかし子玉は成王の怒りを買いながらも残留し、晋に対して「晋が衛と曹を許すなら楚も宋を許す」と申し入れてきた。晋はこれを逆手に取り、衛と曹を寛大に許してやり、衛と曹は楚との盟約を破棄し、晋に親しむようになった。

このことに怒った子玉は晋軍を攻撃する。この攻撃に対し臣下はこのまま楚軍と戦うことを進言したが、文公は圧倒的優勢な立場でありながら軍を三舎退かせて、かつての約束を守った。

4月己巳の日に両軍は城濮で激突。
楚軍の編成
中軍・成得臣(子玉)
左翼・鬬宜申(子西)
右翼・鬬勃(子上)
まず楚の右翼が晋の下軍に攻められて崩れる。その後、上軍と下軍はわざと負けた振りをして楚の左翼をおびき寄せ、中軍と挟み撃ちにしてこれを破った。

戦後
晋の大勝に終わり、晋は践土(現在の河南省新郷市原陽県)と言う所に王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。この時に楚の盟下にあった鄭も晋の盟下に移った。文公は襄王からのもてなしを受け、覇者と認められた。

一方、敗れた子玉は楚へと帰還するものの成王の怒りに触れて自殺を強いられる。

この戦いにより楚の盟下から宋・曹・衛・鄭の四国が晋へと移ったことになり、更に晋と斉・秦の結びつきもいっそう強くなり、以後景公の代に荀林父の率いる晋軍が楚の荘王に敗れるまで(邲の戦い)は晋の覇権が確立される。

城濮之战,是周襄王二十年(公元前632年)晋、楚两国在卫国城濮(山东鄄城西南)地区进行的争夺中原霸权的首次大战。晋文公兑现当年流亡楚国许下“退避三舍”的诺言,令晋军后退,避楚军锋芒。子玉不顾楚成王告诫,率军冒进,被晋军歼灭两翼。楚军大败。

战争经过
退避三舍
子玉率军急进,依托丘陵险阻扎营,两军对峙于城濮。晋文公退避三舍,既是报答以前楚成王给予的礼遇,也是运用“卑而骄之”、“怒而挠之”的诱敌之计,子玉上钩了。
楚子玉派大将斗勃向晋文公请战说:“请与君之士戏,君凭轼而观之,得臣(子玉名)与寓目焉。”晋栾枝答词却相当谦恭:“寡君闻命矣。楚君之惠,未之敢忘,是以在此。为大夫退,其敢当君乎?既不获命,敢烦大夫谓二三子:戒尔车乘,敬尔君事,诘朝相见。”
双方阵容
城濮交战时双方的阵容是:晋三军,即先轸为元帅,统率中军,郤溱辅佐,狐毛统率上军,狐偃辅佐。栾枝统率下军,胥臣辅佐。楚国也是三军,即令尹子玉以若敖之六卒统率中军。子西(斗宜申)统率左军。子上(斗勃)统率右军。楚的仆从国郑、许军附属楚左军,陈、蔡军附属楚右军。
两军交战
四月六日,晋军在城濮严阵以待楚军。子玉狂傲声称:“日必无晋矣。”当两军接触之时,晋下军佐胥臣率所部用虎皮蒙在马身上,首先冲击楚右翼的陈、蔡军,陈、蔡军惊骇逃散,楚右军溃败。楚子玉、子上见右军溃败,怒火中烧,加强对晋中军和上军的攻势。晋右翼上军狐毛设将、佐二面旗帜,令二旗后退,引诱楚军。晋下军栾枝所部也以车辆曳树枝奔驰而伪装后退。楚子玉以为晋右翼败退,令楚左军追击,所以对陈、蔡及右翼军溃败并未理会。楚左军追击晋上军时,侧翼暴露,晋先轸、郤溱率中军拦腰截击,狐毛、狐偃率上军夹攻楚左军,楚左军溃败。楚子玉见左、右军皆败,遂下令中军停止进攻,得以不败。子玉率残兵退出战场,晋军进占楚军营地,休整三日后,胜利班师。
战术运用
城濮之战开始前,晋国就定下了“楚始得曹,而新婚于卫,若伐曹、卫,楚必救之,则齐、宋免矣”这样一个总的作战方针。
第一阶段先从卫国下手,初战取胜,为晋、齐之盟奠定了基础,也逼迫鲁国从楚的阵营中分化出来。
第二阶段围曹,入曹。至此,附于楚国的曹、卫两国都被征服,大地削弱了楚国的力量。接着又用先珍之谋使齐、秦两国“喜赂怒顽”,与晋结为联盟拒楚,以解除晋国的后顾之优。
在第三阶段与楚国的正面交锋中,晋国恰当地选择了战场,避开楚国主力部队的锋芒,以下军之佐首先对组成楚右翼部队的陈、蔡两国军队发起进攻,楚右师战败。然后以“伪循,诱敌深念以上军合攻楚左翼部队,楚左师溃。这样晋国就造成了事实上对楚的优势,掌握了主动权,使自己处于有利的战略地位,从而取得了最后决战的胜利。
《左传》城濮之战的描绘令人信服地使我们看到,晋国的每一步胜利,都是同充分发挥将帅的主观能动作用,适应客观规律,采取正确的战略战术分不开的。战争是敌我双方力量的竞赛,但力量在战争中不是凝固不变的,而是变化的因素。人的主观努力,指挥员的能动作用的发挥,战略战术的恰当运用,对于敌我力量的转化,都起着极大的作用。孙子主张在作战指导上要“致人而不致于人”,主张“庙算”。孙膑主张“变”、“权”。《左传》通过城濮之战记叙,在主、客观关系的问题上,形象地反映了和孙子、孙膑同样的朴素的军事辩证法思想。
战争结果
城濮一战中,晋国大胜,晋文公建立了霸权,楚国北进锋芒受到挫折,被迫退回桐柏山、大别山以南地区。中原诸侯无不朝宗晋国。
楚国大将子玉羞愤自杀。
再之后,晋军进入郑国衡雍(河南原阳县西,当时在黄河南岸),并在践土(距衡雍较近,当时亦在黄河南岸,在河南花园口黄河北岸)修筑王的行宫,向襄王献俘。周襄王策命晋文公为“侯伯”。晋文公要求诸侯“皆奖王室,无相害也。有渝此盟,明神殛之,无克祚国”。晋文公在“尊王”的旗帜下,顺理成章地登上了霸主宝座。

这个时间我不允许任何人辱骂西村力
西村力是一位魁梧男子,身形高大强壮,双臂有力,步履稳健,身躯壮硕得好像一堵墙似的。结实的双腿,低沉的嗓音。宽圆的肩膀,高挺的胸脯,结实得像钢桩铁柱一般。这是一个粗线条的暖白皮汉子,浓眉大眼,肩膀宽阔,身材高大,站着像一座石塔,跑起来有如一阵狂风!
西村力,原名西村力,又名西村力,曾用名西村力。出生于西村力省西村力市西村力区。父亲名叫西村力,母亲名为西村力。西村力是现代仅存的西村力,曾获得过西村力博士学位,西村力奖等殊荣,他也是唯一获此殊荣的西村力。为了纪念西村力,人们将西村力的生日定为西村力日。
老公太丑我会生气,老公太帅我会焦虑,老公只有不是很帅但又透露着仅我可见的帅时,才是最好的状态,千言万语化作一句老公轻点帅[比心] ​
niki徳経1.nikiは神様です 2.nikiを怒らせてはいけません3.毎日nikiを自慢しなさい 4.nikiと話していても、他の人に気を取られてはいけません 5.nikiの気持ちには細心の注意を払わなければなりません 7.毎日、西村力に「愛してる」と言います

 竹青(中)
――新曲聊斎志異――
太宰治
魚容は傷の苦しさに、もはや息も絶える思いで、見えぬ眼をわずかに開いて、
「竹青。」と小声で呼んだ、と思ったら、ふと眼が醒さめて、気がつくと自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で呉王廟の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前の楓かえでの林を照らして、そこには数百の烏が無心に唖々と鳴いて遊んでいる。
「気がつきましたか。」と農夫の身なりをした爺じじいが傍に立っていて笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」
「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に眼を醒まさない。肩をつかんでゆすぶっても、ぐたりとしている。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、眼の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色もよくないが、どこか病気か。」
「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっとも空すいていない。「すみませんでした。」とれいのあやまり癖が出て、坐り直して農夫に叮嚀ていねいにお辞儀をして、「お恥かしい話ですが、」と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。
 農夫は憐あわれに思った様子で、懐ふところから財布さいふを取出しいくらかの金を与え、
「人間万事塞翁さいおうの馬。元気を出して、再挙を図はかるさ。人生七十年、いろいろさまざまの事がある。人情は飜覆ほんぷくして洞庭湖の波瀾はらんに似たり。」と洒落しゃれた事を言って立ち去る。
 魚容はまだ夢の続きを見ているような気持で、呆然ぼうぜんと立って農夫を見送り、それから振りかえって楓の梢にむらがる烏を見上げ、
「竹青!」と叫んだ。一群の烏が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛びまわり、それからまっすぐに湖の方へいそいで行って、それっきり、何の変った事も無い。
 やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きい溜息ためいきをついて、力無く故土に向けて発足する。
 故郷の人たちは、魚容が帰って来ても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく伯父の家の庭石の運搬を魚容に命じ、魚容は汗だくになって河原から大いなる岩石をいくつも伯父の庭先まで押したり曳ひいたり担かついだりして運び、「貧して怨えん無きは難し」とつくづく嘆じ、「朝あしたに竹青の声を聞かば夕ゆうべに死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇はげしく懐慕せられるのである。
 伯夷叔斉はくいしゅくせいは旧悪を念おもわず、怨うらみ是これを用いて希まれなり。わが魚容君もまた、君子の道に志している高邁こうまいの書生であるから、不人情の親戚をも努めて憎まず、無学の老妻にも逆わず、ひたすら古書に親しみ、閑雅の清趣を養っていたが、それでも、さすがに身辺の者から受ける蔑視べっしには堪えかねる事があって、それから三年目の春、またもや女房をぶん殴って、いまに見ろ、と青雲の志を抱いだいて家出して試験に応じ、やっぱり見事に落第した。よっぽど出来ない人だったと見える。帰途、また思い出の洞庭湖畔、呉王廟に立ち寄って、見るものみな懐しく、悲しみもまた千倍して、おいおい声を放って廟前で泣き、それから懐中のわずかな金を全部はたいて羊肉を買い、それを廟前にばら撒まいて神烏に供して樹上から降りて肉を啄ついばむ群烏を眺めて、この中に竹青もいるのだろうなあ、と思っても、皆一様に真黒で、それこそ雌雄をさえ見わける事が出来ず、
「竹青はどれですか。」と尋ねても振りかえる烏は一羽も無く、みんなただ無心に肉を拾ってたべている。魚容はそれでも諦められず、
「この中に、竹青がいたら一番あとまで残っておいで。」と、千万の思慕の情をこめて言ってみた。そろそろ肉が無くなって、群烏は二羽立ち、五羽立ち、むらむらぱっと大部分飛び立ち、あとには三羽、まだ肉を捜して居残り、魚容はそれを見て胸をとどろかせ手に汗を握ったが、肉がもう全く無いと見てぱっと未練みれんげも無く、その三羽も飛び立つ。魚容は気抜けの余りくらくら眩暈めまいして、それでも尚なお、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞はるがすみに煙る湖面を眺めてただやたらに溜息をつき、「ええ、二度も続けて落第して、何の面目があっておめおめ故郷に帰られよう。生きて甲斐かいない身の上だ、むかし春秋戦国の世にかの屈原くつげんも衆人皆酔い、我独ひとり醒さめたり、と叫んでこの湖に身を投げて死んだとかいう話を聞いている、乃公おれもこの思い出なつかしい洞庭に身を投げて死ねば、或あるいは竹青がどこかで見ていて涙を流してくれるかも知れない、乃公を本当に愛してくれたのは、あの竹青だけだ、あとは皆、おそろしい我慾の鬼ばかりだった、人間万事塞翁の馬だと三年前にあのお爺じいさんが言ってはげましてくれたけれども、あれは嘘だ、不仕合せに生れついた者は、いつまで経たっても不仕合せのどん底であがいているばかりだ、これすなわち天命を知るという事か、あはは、死のう、竹青が泣いてくれたら、それでよい、他には何も望みは無い」と、古聖賢の道を究きわめた筈の魚容も失意の憂愁に堪えかね、今夜はこの湖で死ぬる覚悟。やがて夜になると、輪郭りんかくの滲にじんだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白く茫ぼうとして空と水の境が無く、岸の平沙へいさは昼のように明るく柳の枝は湖水の靄もやを含んで重く垂れ、遠くに見える桃畑の万朶ばんだの花は霰あられに似て、微風が時折、天地の溜息の如く通過し、いかにも静かな春の良夜、これがこの世の見おさめと思えば涙も袖そでにあまり、どこからともなく夜猿やえんの悲しそうな鳴声が聞えて来て、愁思まさに絶頂に達した時、背後にはたはたと翼の音がして、
「別来、恙つつが無きや。」
 振り向いて見ると、月光を浴びて明眸皓歯めいぼうこうし、二十はたちばかりの麗人がにっこり笑っている。
「どなたです、すみません。」とにかく、あやまった。
「いやよ、」と軽く魚容の肩を打ち、「竹青をお忘れになったの?」
「竹青!」
 魚容は仰天して立ち上り、それから少し躊躇ちゅうちょしたが、ええ、ままよ、といきなり美女の細い肩を掻き抱いた。
「離して。いきが、とまるわよ。」と竹青は笑いながら言って巧みに魚容の腕からのがれ、「あたしは、どこへも行かないわよ。もう、一生あなたのお傍に。」
「たのむ! そうしておくれ。お前がいないので、乃公は今夜この湖に身を投げて死んでしまうつもりだった。お前は、いったい、どこにいたのだ。」
「あたしは遠い漢陽に。あなたと別れてからここを立ち退き、いまは漢水の神烏になっているのです。さっき、この呉王廟にいる昔のお友達があなたのお見えになっている事を知らせにいらして下さったので、あたしは、漢陽からいそいで飛んで来たのです。あなたの好きな竹青が、ちゃんとこうして来たのですから、もう、死ぬなんておそろしい事をお考えになっては、いやよ。ちょっと、あなたも痩せたわねえ。」
「痩せる筈さ。二度も続けて落第しちゃったんだ。故郷に帰れば、またどんな目に遭うかわからない。つくづくこの世が、いやになった。」
「あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。人間到いたるところに青山せいざんがあるとか書生さんたちがよく歌っているじゃありませんか。いちど、あたしと一緒に漢陽の家へいらっしゃい。生きているのも、いい事だと、きっとお思いになりますから。」
「漢陽は、遠いなあ。」いずれが誘うともなく二人ならんで廟びょうの廊下から出て月下の湖畔を逍遥しょうようしながら、「父母在いませば遠く遊ばず、遊ぶに必ず方有り、というからねえ。」魚容は、もっともらしい顔をして、れいの如くその学徳の片鱗へんりんを示した。
「何をおっしゃるの。あなたには、お父さんもお母さんも無いくせに。」
「なんだ、知っているのか。しかし、故郷には父母同様の親戚の者たちが多勢いる。乃公は何とかして、あの人たちに、乃公の立派に出世した姿をいちど見せてやりたい。あの人たちは昔から乃公をまるで阿呆か何かみたいに思っているのだ。そうだ、漢陽へ行くよりは、これからお前と一緒に故郷に帰り、お前のその綺麗きれいな顔をみんなに見せて、おどろかしてやりたい。ね、そうしようよ。乃公は、故郷の親戚の者たちの前で、いちど、思いきり、大いに威張ってみたいのだ。故郷の者たちに尊敬されるという事は、人間の最高の幸福で、また終極の勝利だ。」
「どうしてそんなに故郷の人たちの思惑ばかり気にするのでしょう。むやみに故郷の人たちの尊敬を得たくて努めている人を、郷原きょうげんというんじゃなかったかしら。郷原は徳の賊なりと論語に書いてあったわね。」
 魚容は、ぎゃふんとまいって、やぶれかぶれになり、
「よし、行こう。漢陽に行こう。連れて行ってくれ。逝者ゆくものは斯かくの如き夫かな、昼夜を舎すてず。」てれ隠しに、甚はなはだ唐突な詩句を誦しょうして、あははは、と自らを嘲あざけった。
「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと仕度がしてあります。ちょっと、眼をつぶって。」
 魚容は言われるままに眼を軽くつぶると、はたはたと翼の音がして、それから何か自分の肩に薄い衣のようなものがかかったと思うと、すっとからだが軽くなり、眼をひらいたら、すでに二人は雌雄の烏、月光を受けて漆黒しっこくの翼は美しく輝き、ちょんちょん平沙を歩いて、唖々と二羽、声をそろえて叫んで、ぱっと飛び立つ。
 月下白光三千里の長江ちょうこう、洋々と東北方に流れて、魚容は酔えるが如く、流れにしたがっておよそ二ときばかり飛翔して、ようよう夜も明けはなれて遥はるか前方に水の都、漢陽の家々の甍いらかが朝靄あさもやの底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。近づくにつれて、晴川せいせん歴々たり漢陽の樹、芳草萋々せいせいたり鸚鵡おうむの洲、対岸には黄鶴楼の聳そびえるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山だいべつざんの高峰眼下にあり、麓ふもとには水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水蜿蜒えんえんと天際に流れ、東洋のヴェニス一眸ぼうの中に収り、「わが郷関きょうかん何いずれの処ぞ是これなる、煙波江上、人をして愁えしむ」と魚容は、うっとり呟いた時、竹青は振りかえって、


发布     👍 0 举报 写留言 🖊   
✋热门推荐
  • ”  凭心而论戴因在秘境里已经给了规则范围内能给的尊重,但是并不妨碍我看到他这张脸觉得尴尬和生气,我匆匆忙忙地说了一句“不用介意”就溜之大吉,这下好了,提瓦特我
  • 封在学校吃到虎头局是一种什么样的体验[悲伤]还有这几天总结了一句话“不必为了无法掌控的事情焦虑”我们都活在自己的幸福小屋中[爱你] 生活有他自己的节奏 接受和乐
  • [愉快]期待您的加入[握手]18815015762 陈 寻找合伙人,货源我提供,照片我来拍,快递我来发,单子我来打,包装我来包。有单我帮你代发,售后我来负责,
  • 你像颗小太阳,永远给我正能量,相对的,我愿多与你说些温软的话。在浩瀚银河里,我愿许你一片星空,让你成为1250亿星系中最耀眼的那颗星......爱情如魔法师一般
  • 忽然又很想我爸了,想起上学的时候他也这样辅导我功课,后来他也不会了,哈哈哈哈哈哈;想起来家乡的冬天那么冷,每次从学校回来或我做蛋糕的时候配送,都是他接送我;想起
  • ”但在今年8月的一次演讲中,卢拉也曾谈到中国大量出口制成品将使巴西面临“去工业化”的风险。前巴西外交部长塞尔索·阿莫里姆今年1月接受英国路透社采访时表示,卢拉倾
  • #开瓶记# 八月购物分享[并不简单]理肤泉ai,感觉狮王对我的红肿痘痘效果微乎其微了,于是入了这个赛贝格VC粉,传说中的祛痘印神器,很神奇的粉变成霜的过程,使用
  • 一味的坚持不出,反向10个点,急了,觉得这是个补仓的机会,应该是该回调了吧。一味的坚持不出,反向10个点,急了,觉得这是个补仓的机会,应该是该回调了吧。
  • [虎爪比心]现已入驻小程序商城哦~赶紧约一波[爱你]#安心成分##买一送一##新品福利#铺陈前卫格调,激活张扬本色独特格纹样式衬衫外套新颖别致,打破冬日视觉沉闷
  • 我也曾经在万达下车走到一中嬉皮笑脸打闹也陪着你们跑去食堂吃根鸡腿嗷嗷叫每天中午一瓶酸奶是我不变的爱好早上起来背单词也没有坚持好最开心的莫过于下午放学打球吃包子
  • 収録の様子は午後6時25分から放送します@fantastics_fext#fantastics# #cozfmy# 日饭在号召大家明天多在蓝鸟上带tag发推发表
  • #成毅沉香重华##成毅演的玄夜好会钓#【20220901 宁波北京饭拍图频汇总】『宁波出发』【图片】江南采蓮記:苏打水不加冰站:Sniper0517站:爱毅无限
  • 绝对实用#高光# 技巧,给我按头学❗️❗️1⃣️修容要根据脸型提亮,例如颧骨高,可对颧骨周边提亮✨2⃣️用哑光高光打在外缘鼻子轮廓,再上鼻梁高光可收窄鼻背3⃣️
  • ”悲智小动物保护协会志愿者刘莉萍抚摸着它,不是所有流浪狗被救回来都能恢复健康,有些严重残疾的,刘莉萍便改造了自己的院子,将其接出来照顾。悲智小动物保护协会负责人
  • 当然说起来他为他弯腰不得不提到我刚入坑买了安利之后看到的红磡恋爱ing弹吉他视频(感恩@gaosunibunengpa 的秒拍)从未感受过如此rio的rps的
  • 财运推不开的三种面相#面相[超话]##转运##周易命理生辰八字# 1、鼻子饱满自古以来看一个人有没有财,都是首先看一个人的鼻子,鼻子代表人的财运与官运,好的鼻相
  • 全书无非是些生活中的小故事,点滴皆可拾,人生的三瓜两枣,桩桩拿出来说道说道,却分分钟get到老蔡在玩乐中体验人生,在平常的烟火气中感受生活。争气的人,就算没有条
  • 既有“十年生死两茫茫,不思量,自难忘”的柔情,又有“西北望,射天狼”的雄心壮志,真正品行文章皆德世人珍爱的千古第一文人!既这回冬至,一阳来复,便须修炼,更莫疑猜
  • 虽然如今的她也已经40岁了,而且还是个孩子的妈妈,但是也依旧是满脸的胶原蛋白,肤白貌美的她也是少女感满满,不知道如今的贾乃亮看到她,是否会再次的怦然心动呢?
  • 王盐:如果在面试中,你展现真实的工作状态,被对方pass了,那么长远看,这是件好事。但我的出发点真的是更好的确定目标完成工作,如果是计较我会直接问年终奖了,可我