#嘉兴藏读记#
行实
师讳大悦。号天一。楚南吕氏子。生值离乱被掳入黔。在安顺长寿庵遇云腹和尚上堂。因发出尘之念。时值。
本朝大师恢取滇黔本营。军伍一时星散。师喜脱颖奔至安南龙潭寺礼上无下霞老宿披剃。经半载得闻善权和尚开法龙场万寿寺。师往亲觐乞受具足。权一见以器期之。一日问师曰。汝来惟求戒耶。更求别事耶。师曰。某甲不知有何事。更求乞和尚慈悲开示。权曰。汝岂不闻生死事大耶。师曰。生死事大作么生了。权曰。参究始得。师曰。作么生参。权曰。父母未生前。那个是你本来面目。恁么参去。师秉权命如是参究。刻无间断。时权迁松岿。师亦随之。住经两载。一日侍权。与官人持论楞严经。至世尊举金色臂屈五轮指问阿难处。豁然有醒。至夜上方丈呈解曰。老和尚无端相瞒某甲许多时也。权曰。汝见个甚么道理便恁么道。师曰。世尊举手屈指示阿难处。聻。权曰。我情知汝只认得个驴前马后底为极则在。师曰。某甲只恁么更不受老和尚瞒也。权叱之曰。孟八郎汉。不见古人道佛法不是者个道理。师曰。老大善知识更与人说道理在。权深肯之。师自受嘱后总未离权。随住松岿二十余载。甲子岁权示寂。本境檀越并合山大众勉师继席。师乃竭力鼎建松岿。前后廊庑焕然一新。又苦守十余年。时遇丁丑孟冬偶示微恙。一日示徒化月曰。吾灭后不劳盘薪费事生葬可也。言讫而逝。化乃不违师命。备棺收殓全身建塔于寺西老塔山。存为师世寿六十有七。僧腊四十。
B470-39 天一悦禅师语录(2卷)〖 清 大悦说 学愚录 〗
上文断句待订正。
行实
师讳大悦。号天一。楚南吕氏子。生值离乱被掳入黔。在安顺长寿庵遇云腹和尚上堂。因发出尘之念。时值。
本朝大师恢取滇黔本营。军伍一时星散。师喜脱颖奔至安南龙潭寺礼上无下霞老宿披剃。经半载得闻善权和尚开法龙场万寿寺。师往亲觐乞受具足。权一见以器期之。一日问师曰。汝来惟求戒耶。更求别事耶。师曰。某甲不知有何事。更求乞和尚慈悲开示。权曰。汝岂不闻生死事大耶。师曰。生死事大作么生了。权曰。参究始得。师曰。作么生参。权曰。父母未生前。那个是你本来面目。恁么参去。师秉权命如是参究。刻无间断。时权迁松岿。师亦随之。住经两载。一日侍权。与官人持论楞严经。至世尊举金色臂屈五轮指问阿难处。豁然有醒。至夜上方丈呈解曰。老和尚无端相瞒某甲许多时也。权曰。汝见个甚么道理便恁么道。师曰。世尊举手屈指示阿难处。聻。权曰。我情知汝只认得个驴前马后底为极则在。师曰。某甲只恁么更不受老和尚瞒也。权叱之曰。孟八郎汉。不见古人道佛法不是者个道理。师曰。老大善知识更与人说道理在。权深肯之。师自受嘱后总未离权。随住松岿二十余载。甲子岁权示寂。本境檀越并合山大众勉师继席。师乃竭力鼎建松岿。前后廊庑焕然一新。又苦守十余年。时遇丁丑孟冬偶示微恙。一日示徒化月曰。吾灭后不劳盘薪费事生葬可也。言讫而逝。化乃不违师命。备棺收殓全身建塔于寺西老塔山。存为师世寿六十有七。僧腊四十。
B470-39 天一悦禅师语录(2卷)〖 清 大悦说 学愚录 〗
上文断句待订正。
影响婚姻不的顺神煞 ͏
1、命犯孤寡辰宿
孤辰、寡宿也做叫隔角煞,又叫绝煞情。男怕孤、女寡怕,寡宿命入:孤枕独眠生,性多孤。独孤、寡二对星桃花星的伤杀力很强。
有人明流明年显现走花桃运,始却终开不了花,或是流考年虑要婚结者,婚事却一波折三始终不利顺。桃花会被隔绝的干干净净,即使相,恋也是短个命恋爱,再就不成了厢一情愿,自作情多。
2、八字阴全,八全字阳
八字五流行通、阴阳谐和,一较生顺利。五行通流受阻、阴阳不合,运势曲。折八字全阴或字八全阳,婚姻利不。
3、阴差阳错
凡出在生阴阳差错日,容夫易妻不和,婚姻顺不,易有再婚象现。
4、童子煞
命犯童子,婚姻利不。
5、断掌
断守掌空房尤,其女。士单手或双断手掌,婚姻利不。
每个人中命都多少多少带有婚煞;是只轻和而重已。很人多在命理上、阴二阳宅上,神问学题上或多或少的存婚在姻障碍,比大如男大女难成家,婚屡姻屡失败,或婚结又离遭婚受挫折。
再婚困难,遇难合适选人,有些人至甚心灰冷意,不愿再谈婚论嫁也,有的甚至想自杀还,有的桃不花正、绯闻不穷、或错阴阳差等等此,类人等命中犯多有“婚煞”。如果得不化到解,爱恋不顺婚,姻难定。
#八字命理风水算命占卜东北出马仙算卦星座预测奇门遁甲婚姻牢狱官非挽回和合术开运旺财开财库补财库运势道教玄学周易童子命还阴债坠胎婴灵超度#
1、命犯孤寡辰宿
孤辰、寡宿也做叫隔角煞,又叫绝煞情。男怕孤、女寡怕,寡宿命入:孤枕独眠生,性多孤。独孤、寡二对星桃花星的伤杀力很强。
有人明流明年显现走花桃运,始却终开不了花,或是流考年虑要婚结者,婚事却一波折三始终不利顺。桃花会被隔绝的干干净净,即使相,恋也是短个命恋爱,再就不成了厢一情愿,自作情多。
2、八字阴全,八全字阳
八字五流行通、阴阳谐和,一较生顺利。五行通流受阻、阴阳不合,运势曲。折八字全阴或字八全阳,婚姻利不。
3、阴差阳错
凡出在生阴阳差错日,容夫易妻不和,婚姻顺不,易有再婚象现。
4、童子煞
命犯童子,婚姻利不。
5、断掌
断守掌空房尤,其女。士单手或双断手掌,婚姻利不。
每个人中命都多少多少带有婚煞;是只轻和而重已。很人多在命理上、阴二阳宅上,神问学题上或多或少的存婚在姻障碍,比大如男大女难成家,婚屡姻屡失败,或婚结又离遭婚受挫折。
再婚困难,遇难合适选人,有些人至甚心灰冷意,不愿再谈婚论嫁也,有的甚至想自杀还,有的桃不花正、绯闻不穷、或错阴阳差等等此,类人等命中犯多有“婚煞”。如果得不化到解,爱恋不顺婚,姻难定。
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公輸盤
『墨子』・『淮南子』などに記述があり、攻城具雲梯や兵器鉤拒を開発し、墨翟に諫められ、また啓発を受けるなど『墨子』で登場する。
彼が竹・木で作った「鳶」は3日間翔び続けたという伝説が『酉陽雑俎』・『論衡』に記載されているほか、巧緻な器具を数多く製作し、鉋・錐などを発明したともいう。
後世、建築の祖師として祭祀された。
人物
真野隆也によれば、子供時代は全く勉強に興味を持たなかったという。彼が15歳になった時、子夏の門人の端木起(たんぼくき)について儒学を修め、後に泰山の南にある小和山にこもった。そこで鮑志(ほうし)という老人に会い、各種の技術を学んだという。
また一説には、敦煌出身であるという。
功績あるいは伝説
『淮南子』成立時にはすでに魯班の伝説化が進行していたらしい。
建築・彫刻・船・車・農具・鋸・鉋・墨壺・曲尺(魯尺)を手掛けたといわれる[1]ほか、『論衡』儒増篇に、木鳶の他、魯班が母親のために「木の馬車」を作ったが、乗った母は操縦する方法を知らなかったため、何処かへ行ったまま帰らなかったという伝説が引かれる。
『酉陽雑俎』では、木の鳶を作り、3つの楔を打ち込んで飛ばしていた、公輸般の父親が木鳶へ10の楔を打ち込み飛んだところ、呉まで行ってしまい、現地人に殺された、という伝説がある。ここに引かれた伝承が、「公輸般の怒りにより木像が立てられ、呉国には雨が降らなくなったが、現地人が謝罪したため大雨が降った」という、匠を讃える話になっているのを筆頭に、唐代に、仏教の施設、寺院などの、名工の作品は魯班の作ということにされ、清代の文献で、「鶏鳴山の麓の渾河にある石の柱は、その昔、魯班が橋を架けようとして、姉の意図により途中で終った残骸」という伝承が登場している。
『墨子』「魯問篇」にある、「公輸盤が木竹で鵲(凧のようなものとされる)を作った」話について、『韓非子』「外儲説左」にある、「墨子が木で鳶を作った」という話との類似点が示唆されている。
公輸盤は、巧聖先師という名前で信仰され、瓦職人・大工・左官のギルドで崇拝されていた。
『墨子』公輸篇
公輸盤が楚国のために雲梯という機械を完成し,宋を攻めようとした.墨子はそれを聞いて,斉を出発して十昼夜で楚の都である郢に着いて公輸盤に会った.公輸盤が,
「先生は私に何か御用ですか」
ときくと,墨子が,
「北方に私を侮辱したものがいます.あなたの力を借りてこの男を殺したいのです」
といったところ,公輸盤は不機嫌な様子であった.墨子はさらに,
「あなたに千金を差し上げましょう」
というと公輸盤が,
「私の主義として人を殺しません」 と答えた.墨子は起ちあがり,改めて再拝していった. 「それではお話しましょう.北方の地で,あなたが雲梯をつくり宋を攻めるのを聞きました.宋に何の罪があるのでしょう.楚国にはありあまる土地があり,かえって人間が足りません.それなのに足りない人間を殺し,ありあまる土地を争うのは,知とはいえません.また罪のない宋を攻めるのは,仁とはいえません.非を知りながら主君を諌めないのは,忠とはいえません.また諌めて聞き入れないようでは,剛直とはいえません.主義として少数の人間を殺さないのに,多数を殺すというのでは,類推の理を知るとはいえません」 公輸盤はこの意見にうなずいた.墨子は, 「それでは宋を攻めるのを中止してもらいたい」 というと,公輸盤は, 「それはできません.すでにこのことは王に申し上げています」 と答えた.墨子は, 「私を王に目通りさせてください」 と要求し,公輸盤がそれを承諾した.
墨子は王に会っていった.
「いま自分の飾車をみすてて,隣家のぼろ車を盗もうとする人間があるとしましょう.また錦繍の美服をすてて隣家の粗布を盗もうとする人間があるとしましょう.さらにまた粟や肉の美食をすてて隣家の糠糟を盗もうとする人間があるとしましょう.これはどんなに人間でありましょうか」
「必ずや盗癖があるのだ」
と王が答えた.よって墨子はいった.
「楚の領地は五千里四方もあり,宋は五百里四方であります.あたかも飾車とぼろ車のちがいがあります.楚には「犀兕鹿麋」などが多数に住む雲夢沢があり,揚子江や漢水の「魚鱉黿鼉」は天下の富でありますが,宋には雉兎狐狸さえもおりません.まさに,梁や肉の美食と糠糟のちがいがあります.楚には長松・文梓・楩柟・櫲樟などの木があり,宋には高い木はありません.あたかも錦繍と粗布の違いがあります.この三例からみて,大王が宋を攻められるのは,盗人のたとえと同じと考えます.大王は必ず義を傷つけ,しかも得るところがないと存じます」
そこで楚王は,
「まことにもっともだ.しかし公輸盤は余のために雲梯を作り,必ず宋を奪い取ろうとしている」
と答えた.そこで墨子は公輸盤に会った.墨子は帯を解き,それで城の形を作り,木札で櫓を作った.公輸盤が九たび城を攻める計略を設けたが,墨子は九たびそれを防いだ.公輸盤の攻め道具は尽きてしまったが,墨子の防禦にはゆとりがあった.公輸盤は降参していった.
「私はあなたを防ぐ方法は知っているが,いわないでおきましょう」
そこで墨子はいった.
「あなたが私を防ぐ方法を私も知っているが,いわないでおきましょう」
と答えた.楚王がその理由を問うと,墨子はいった.
「公輸子の考えは,ただ私を殺すことだけです.私を殺すと,宋を守ることができず,従って攻めることができます.しかし私の弟子の禽滑釐ら三百人は,すでに私の作った防禦の道具を持って宋の城の上にあって,楚の攻撃を待っています.私を殺しても,宋を守る者を絶やすことはできません」
楚王は,
「わかった.余は宋を攻めないでおこう」
といった.
墨子は帰国の途中,宋を通り過ぎた.雨がふったので,村里の門に雨宿りしようとしたが,門番が入れなかった.これは諺にある通り,「ものごとを神妙のうちに運ぶと,衆人は何人の功績であるかを知らず,功を人々の目の前で争うと,衆人はその何人なるかを知る」のである[5]。
この話は魯迅の『非攻』のモデルである他、酒見賢一の小説、『墨攻』の冒頭でも登場する。なお『墨子』では、『魯問篇』でも一貫して「公輸盤」「公輸子」と書かれる。
鲁班(公元前507年—公元前444年),姬姓,公输氏,名班,人称公输盘、公输般、班输,尊称公输子,又称鲁盘或者鲁般,惯称“鲁班”。字依智,战国时期鲁国人(都城山东曲阜,故里山东滕州,一说故里为曲阜),鲁班的名字实际上已经成为古代劳动人民智慧的象征。
『墨子』・『淮南子』などに記述があり、攻城具雲梯や兵器鉤拒を開発し、墨翟に諫められ、また啓発を受けるなど『墨子』で登場する。
彼が竹・木で作った「鳶」は3日間翔び続けたという伝説が『酉陽雑俎』・『論衡』に記載されているほか、巧緻な器具を数多く製作し、鉋・錐などを発明したともいう。
後世、建築の祖師として祭祀された。
人物
真野隆也によれば、子供時代は全く勉強に興味を持たなかったという。彼が15歳になった時、子夏の門人の端木起(たんぼくき)について儒学を修め、後に泰山の南にある小和山にこもった。そこで鮑志(ほうし)という老人に会い、各種の技術を学んだという。
また一説には、敦煌出身であるという。
功績あるいは伝説
『淮南子』成立時にはすでに魯班の伝説化が進行していたらしい。
建築・彫刻・船・車・農具・鋸・鉋・墨壺・曲尺(魯尺)を手掛けたといわれる[1]ほか、『論衡』儒増篇に、木鳶の他、魯班が母親のために「木の馬車」を作ったが、乗った母は操縦する方法を知らなかったため、何処かへ行ったまま帰らなかったという伝説が引かれる。
『酉陽雑俎』では、木の鳶を作り、3つの楔を打ち込んで飛ばしていた、公輸般の父親が木鳶へ10の楔を打ち込み飛んだところ、呉まで行ってしまい、現地人に殺された、という伝説がある。ここに引かれた伝承が、「公輸般の怒りにより木像が立てられ、呉国には雨が降らなくなったが、現地人が謝罪したため大雨が降った」という、匠を讃える話になっているのを筆頭に、唐代に、仏教の施設、寺院などの、名工の作品は魯班の作ということにされ、清代の文献で、「鶏鳴山の麓の渾河にある石の柱は、その昔、魯班が橋を架けようとして、姉の意図により途中で終った残骸」という伝承が登場している。
『墨子』「魯問篇」にある、「公輸盤が木竹で鵲(凧のようなものとされる)を作った」話について、『韓非子』「外儲説左」にある、「墨子が木で鳶を作った」という話との類似点が示唆されている。
公輸盤は、巧聖先師という名前で信仰され、瓦職人・大工・左官のギルドで崇拝されていた。
『墨子』公輸篇
公輸盤が楚国のために雲梯という機械を完成し,宋を攻めようとした.墨子はそれを聞いて,斉を出発して十昼夜で楚の都である郢に着いて公輸盤に会った.公輸盤が,
「先生は私に何か御用ですか」
ときくと,墨子が,
「北方に私を侮辱したものがいます.あなたの力を借りてこの男を殺したいのです」
といったところ,公輸盤は不機嫌な様子であった.墨子はさらに,
「あなたに千金を差し上げましょう」
というと公輸盤が,
「私の主義として人を殺しません」 と答えた.墨子は起ちあがり,改めて再拝していった. 「それではお話しましょう.北方の地で,あなたが雲梯をつくり宋を攻めるのを聞きました.宋に何の罪があるのでしょう.楚国にはありあまる土地があり,かえって人間が足りません.それなのに足りない人間を殺し,ありあまる土地を争うのは,知とはいえません.また罪のない宋を攻めるのは,仁とはいえません.非を知りながら主君を諌めないのは,忠とはいえません.また諌めて聞き入れないようでは,剛直とはいえません.主義として少数の人間を殺さないのに,多数を殺すというのでは,類推の理を知るとはいえません」 公輸盤はこの意見にうなずいた.墨子は, 「それでは宋を攻めるのを中止してもらいたい」 というと,公輸盤は, 「それはできません.すでにこのことは王に申し上げています」 と答えた.墨子は, 「私を王に目通りさせてください」 と要求し,公輸盤がそれを承諾した.
墨子は王に会っていった.
「いま自分の飾車をみすてて,隣家のぼろ車を盗もうとする人間があるとしましょう.また錦繍の美服をすてて隣家の粗布を盗もうとする人間があるとしましょう.さらにまた粟や肉の美食をすてて隣家の糠糟を盗もうとする人間があるとしましょう.これはどんなに人間でありましょうか」
「必ずや盗癖があるのだ」
と王が答えた.よって墨子はいった.
「楚の領地は五千里四方もあり,宋は五百里四方であります.あたかも飾車とぼろ車のちがいがあります.楚には「犀兕鹿麋」などが多数に住む雲夢沢があり,揚子江や漢水の「魚鱉黿鼉」は天下の富でありますが,宋には雉兎狐狸さえもおりません.まさに,梁や肉の美食と糠糟のちがいがあります.楚には長松・文梓・楩柟・櫲樟などの木があり,宋には高い木はありません.あたかも錦繍と粗布の違いがあります.この三例からみて,大王が宋を攻められるのは,盗人のたとえと同じと考えます.大王は必ず義を傷つけ,しかも得るところがないと存じます」
そこで楚王は,
「まことにもっともだ.しかし公輸盤は余のために雲梯を作り,必ず宋を奪い取ろうとしている」
と答えた.そこで墨子は公輸盤に会った.墨子は帯を解き,それで城の形を作り,木札で櫓を作った.公輸盤が九たび城を攻める計略を設けたが,墨子は九たびそれを防いだ.公輸盤の攻め道具は尽きてしまったが,墨子の防禦にはゆとりがあった.公輸盤は降参していった.
「私はあなたを防ぐ方法は知っているが,いわないでおきましょう」
そこで墨子はいった.
「あなたが私を防ぐ方法を私も知っているが,いわないでおきましょう」
と答えた.楚王がその理由を問うと,墨子はいった.
「公輸子の考えは,ただ私を殺すことだけです.私を殺すと,宋を守ることができず,従って攻めることができます.しかし私の弟子の禽滑釐ら三百人は,すでに私の作った防禦の道具を持って宋の城の上にあって,楚の攻撃を待っています.私を殺しても,宋を守る者を絶やすことはできません」
楚王は,
「わかった.余は宋を攻めないでおこう」
といった.
墨子は帰国の途中,宋を通り過ぎた.雨がふったので,村里の門に雨宿りしようとしたが,門番が入れなかった.これは諺にある通り,「ものごとを神妙のうちに運ぶと,衆人は何人の功績であるかを知らず,功を人々の目の前で争うと,衆人はその何人なるかを知る」のである[5]。
この話は魯迅の『非攻』のモデルである他、酒見賢一の小説、『墨攻』の冒頭でも登場する。なお『墨子』では、『魯問篇』でも一貫して「公輸盤」「公輸子」と書かれる。
鲁班(公元前507年—公元前444年),姬姓,公输氏,名班,人称公输盘、公输般、班输,尊称公输子,又称鲁盘或者鲁般,惯称“鲁班”。字依智,战国时期鲁国人(都城山东曲阜,故里山东滕州,一说故里为曲阜),鲁班的名字实际上已经成为古代劳动人民智慧的象征。
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