#梦女[超话]#
病房,蜷缩着的胴体,你梦中虚幻的回忆…
#王马くんと一绪に#
“……美希ちゃん!”
在半梦半醒间耳边突然一声惊呼。
“王馬くん,怎么了?” 被吓了一跳,我急忙看向王马君,但是没有回应;是……噩梦吗?他的呼吸变得越发急促,自己连忙摇醒了他。
“我在这里,没事了……”
像受了委屈一般,王马君把脑袋埋进我的颈窝,但他脸上的湿润分明暗示着什么。
他说他梦到了过去,高中时代不存在的记忆,在病床上蜷缩着的……我的胴体…
“对不起,让你看到了这副模样……”
卑怯地哭着的自己蜷缩在床单上,
你急切地望向我,不断拍打着病房的玻璃。
而我却听不清你的呼唤,感受不到体温,
纵然伸出手来,触碰到的也只是一片茫白
……
不顾一切地冲向你,
插满细管、暴露在空气中的你的肌肤,
“可以为美希ちゃん做些什么呢……”
如果可以留住你,我什么都可以不要!
握住你颤抖的手,我却什么也做不到
只能……看着你的脸逐渐模糊……
空から见る世界は 何色に见えますか?
从天空中看到的世界会是什么颜色?
君の横颜は 今にも泣きだしそうで
你的侧脸,现在也是要哭出来一般
何もできない僕はただ
而我却什么都做不到。
君に何ができるか そんな事ばかり考えてる
可以为你做些什么呢?我只一味想这件事
君は僕の手を握り 何もしなくていいの
握住我的手什么也不做,就这样就好
ただ…隣にいてくれるだけ、それだけでいいの
只要……你在我身边,这样就好
もう一つだけ…私の事 忘れないで
还有一个……「不要忘记我」
约束ね…
是约定哦
そんなの嫌だよ 约束じゃないよ これからもずっと一绪なの
好过分,不要说“约定”什么的,
因为……我们今后也会在一起的!
だってその景色を 三人で见るんだもん
所以那样的景色,我们三人会一起看见的
うん…約束ね,桜の蕾が芽生えた顷
嗯,约好了哦,在樱芽初绽那时……
其实最想对王马君说的是:“忘了我”,
而非歌词中的“不要忘记我”,如果分别必然降临的话……!
不是特意想让王马君难过的!所以只写成了梦境和梦醒后失而复得的感觉〃˃˂〃就是偶尔…也会眷恋这种很down的感觉,在无法扭转的命运前和王马君颤抖着依偎到最后……
是自己突如其来的刀子和画,
也是实际上并不存在的和王马君的故事!
#绘画#
病房,蜷缩着的胴体,你梦中虚幻的回忆…
#王马くんと一绪に#
“……美希ちゃん!”
在半梦半醒间耳边突然一声惊呼。
“王馬くん,怎么了?” 被吓了一跳,我急忙看向王马君,但是没有回应;是……噩梦吗?他的呼吸变得越发急促,自己连忙摇醒了他。
“我在这里,没事了……”
像受了委屈一般,王马君把脑袋埋进我的颈窝,但他脸上的湿润分明暗示着什么。
他说他梦到了过去,高中时代不存在的记忆,在病床上蜷缩着的……我的胴体…
“对不起,让你看到了这副模样……”
卑怯地哭着的自己蜷缩在床单上,
你急切地望向我,不断拍打着病房的玻璃。
而我却听不清你的呼唤,感受不到体温,
纵然伸出手来,触碰到的也只是一片茫白
……
不顾一切地冲向你,
插满细管、暴露在空气中的你的肌肤,
“可以为美希ちゃん做些什么呢……”
如果可以留住你,我什么都可以不要!
握住你颤抖的手,我却什么也做不到
只能……看着你的脸逐渐模糊……
空から见る世界は 何色に见えますか?
从天空中看到的世界会是什么颜色?
君の横颜は 今にも泣きだしそうで
你的侧脸,现在也是要哭出来一般
何もできない僕はただ
而我却什么都做不到。
君に何ができるか そんな事ばかり考えてる
可以为你做些什么呢?我只一味想这件事
君は僕の手を握り 何もしなくていいの
握住我的手什么也不做,就这样就好
ただ…隣にいてくれるだけ、それだけでいいの
只要……你在我身边,这样就好
もう一つだけ…私の事 忘れないで
还有一个……「不要忘记我」
约束ね…
是约定哦
そんなの嫌だよ 约束じゃないよ これからもずっと一绪なの
好过分,不要说“约定”什么的,
因为……我们今后也会在一起的!
だってその景色を 三人で见るんだもん
所以那样的景色,我们三人会一起看见的
うん…約束ね,桜の蕾が芽生えた顷
嗯,约好了哦,在樱芽初绽那时……
其实最想对王马君说的是:“忘了我”,
而非歌词中的“不要忘记我”,如果分别必然降临的话……!
不是特意想让王马君难过的!所以只写成了梦境和梦醒后失而复得的感觉〃˃˂〃就是偶尔…也会眷恋这种很down的感觉,在无法扭转的命运前和王马君颤抖着依偎到最后……
是自己突如其来的刀子和画,
也是实际上并不存在的和王马君的故事!
#绘画#
廉頗
生涯
前半生の活躍
紀元前283年、将軍となり斉を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省巨野県)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
刎頸の交わり
『史記』によれば、当初、趙の総大将として、武功によって数々の功績を得た自分に対し、口先だけの働きで手柄を挙げ、位も自身より上回っている相如との仲は、極めて険悪で、だれかれ構わず己の不満を口にした。その噂を耳にした藺相如は、それ以来、病と称し外出をやめた。
それから何日か経ったある日、家臣の薦めで、相如は馬車で散歩に出かけた。その道中で前方に廉頗の姿を見つけた相如があえて道を変え、廉頗の通り過ぎるのをまってから引き返す、といった事件が起こった。その夜、この振る舞いを見た家臣たちは一堂に会し「相如様の匹夫の様な振る舞い。さらにそれを恥じない相如様の態度には我慢がいきません」といい、辞職を申し出た。すると相如は、「強大なる秦国が何故わが国を滅ぼそうとしないか解るか?それは、私と廉頗将軍がいるからだ。今、廉頗将軍との間に亀裂が生じれば、それこそ秦の思う壺。私があのような行いをするのは国家のためなのだ」と家臣を説得したが、この話はなぜか宮中に広まり、廉頗は上半身裸の姿で相如を訪ね、自分の不徳と愚かさを恥じ「この愚か者はあなたの大きなお考えを知らず無礼をしてしまった。この荊(いばら)の鞭でこの身をお打ちあれ」と手にしていた鞭を差し出した。相如は、「何を仰せられます、将軍あってこその趙の国です」といった。廉頗は心から心服し、「あなたのためならば、たとえこの頸(くび)を刎ねられても悔いはござらぬ」といい、また相如も「私も将軍のためならば、喜んでこの頸を差し出しましょう」といった。「刎頸の交わり」、「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。
老齢での活躍
天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。
紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。
敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は、総大将を趙括に交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。
紀元前251年、長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は鄗(現在の河北省柏郷県北部)で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕の都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。
また、秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、同年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。
不遇の晩年
紀元前245年、廉頗は魏に侵攻して繁陽(現在の河北省内黄県)の城を攻め落とした。だが、直後に孝成王が崩御して悼襄王が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた。その事を恨んで後任の将軍の楽乗を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の大梁(現在の河南省開封市北西)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。
廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の始皇帝)の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため、趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが、廉頗が趙にいた頃から不仲だった奸臣である郭開の謀略で使者が買収されてしまう。そして、趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」と讒言した。このため、趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。
廉頗は後に楚に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく、寿春で病没した。
人物・評価
非常に大食漢だったと伝えられていて、1斗(10升)の米と10斤(約2.2㎏)の肉を食ったといわれている。
晩年の廉頗は望郷の念を抱いており、「(合戦をするのであれば)趙の人を使って戦いたい」と述べた。
司馬遷は『史記』で廉頗に対する直接の評を与えていない。だが、廉頗を藺相如と並ぶ斜陽の趙の柱石と見なしていたようであり、藺相如・趙奢・李牧と並ぶ名将として列伝を構成している。『蘇子古史』では廉頗を高く評価し、「国家の柱石」と評している。
廉颇(生卒年不详),嬴姓,廉氏,名颇。中国战国末期赵国名将。赵惠文王十六年(前283年),廉颇参与五国联军伐齐,击破齐军,取阳晋,拜为上卿。他曾因蔺相如位居己上,深感不服,后因蔺相如屡谦让退避而感悟,负荆请罪,二人遂为刎颈之交。赵孝成王六年(前260年),廉颇被派到长平抵御秦军,用坚壁固守之策,秦军劳而无功。后来赵孝成王中秦国所施的反间计,以赵括取代廉颇,终遭惨败。赵孝成王十五年(前251年),廉颇与乐乘率军大破燕军,杀燕将栗腹,燕割五城请和。以功封信平君,为假相国。赵悼襄王即位后,派乐乘接管廉颇兵权,廉颇大怒,驱逐乐乘,自己则投奔魏国,居于大梁,但不被重用。在秦国的军事压力下,赵悼襄王欲复用廉颇,廉颇也想回国效力。但赵悼襄王所派的使者受到廉颇仇人郭开的贿赂,使其以为廉颇衰老,遂不召其回国。廉颇后为楚将,最终于寿春悒悒而终。廉颇作为赵国末期的主要军事将领,征战数十年,破齐败燕,守卫长平,战功卓著。后世有说法将廉颇与白起、王翦、李牧并称为“战国四大名将”。他与蔺相如“将相和”的事迹,成为后世文学艺术创作的重要题材。
生涯
前半生の活躍
紀元前283年、将軍となり斉を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省巨野県)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
刎頸の交わり
『史記』によれば、当初、趙の総大将として、武功によって数々の功績を得た自分に対し、口先だけの働きで手柄を挙げ、位も自身より上回っている相如との仲は、極めて険悪で、だれかれ構わず己の不満を口にした。その噂を耳にした藺相如は、それ以来、病と称し外出をやめた。
それから何日か経ったある日、家臣の薦めで、相如は馬車で散歩に出かけた。その道中で前方に廉頗の姿を見つけた相如があえて道を変え、廉頗の通り過ぎるのをまってから引き返す、といった事件が起こった。その夜、この振る舞いを見た家臣たちは一堂に会し「相如様の匹夫の様な振る舞い。さらにそれを恥じない相如様の態度には我慢がいきません」といい、辞職を申し出た。すると相如は、「強大なる秦国が何故わが国を滅ぼそうとしないか解るか?それは、私と廉頗将軍がいるからだ。今、廉頗将軍との間に亀裂が生じれば、それこそ秦の思う壺。私があのような行いをするのは国家のためなのだ」と家臣を説得したが、この話はなぜか宮中に広まり、廉頗は上半身裸の姿で相如を訪ね、自分の不徳と愚かさを恥じ「この愚か者はあなたの大きなお考えを知らず無礼をしてしまった。この荊(いばら)の鞭でこの身をお打ちあれ」と手にしていた鞭を差し出した。相如は、「何を仰せられます、将軍あってこその趙の国です」といった。廉頗は心から心服し、「あなたのためならば、たとえこの頸(くび)を刎ねられても悔いはござらぬ」といい、また相如も「私も将軍のためならば、喜んでこの頸を差し出しましょう」といった。「刎頸の交わり」、「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。
老齢での活躍
天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。
紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。
敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は、総大将を趙括に交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。
紀元前251年、長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は鄗(現在の河北省柏郷県北部)で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕の都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。
また、秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、同年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。
不遇の晩年
紀元前245年、廉頗は魏に侵攻して繁陽(現在の河北省内黄県)の城を攻め落とした。だが、直後に孝成王が崩御して悼襄王が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた。その事を恨んで後任の将軍の楽乗を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の大梁(現在の河南省開封市北西)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。
廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の始皇帝)の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため、趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが、廉頗が趙にいた頃から不仲だった奸臣である郭開の謀略で使者が買収されてしまう。そして、趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」と讒言した。このため、趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。
廉頗は後に楚に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく、寿春で病没した。
人物・評価
非常に大食漢だったと伝えられていて、1斗(10升)の米と10斤(約2.2㎏)の肉を食ったといわれている。
晩年の廉頗は望郷の念を抱いており、「(合戦をするのであれば)趙の人を使って戦いたい」と述べた。
司馬遷は『史記』で廉頗に対する直接の評を与えていない。だが、廉頗を藺相如と並ぶ斜陽の趙の柱石と見なしていたようであり、藺相如・趙奢・李牧と並ぶ名将として列伝を構成している。『蘇子古史』では廉頗を高く評価し、「国家の柱石」と評している。
廉颇(生卒年不详),嬴姓,廉氏,名颇。中国战国末期赵国名将。赵惠文王十六年(前283年),廉颇参与五国联军伐齐,击破齐军,取阳晋,拜为上卿。他曾因蔺相如位居己上,深感不服,后因蔺相如屡谦让退避而感悟,负荆请罪,二人遂为刎颈之交。赵孝成王六年(前260年),廉颇被派到长平抵御秦军,用坚壁固守之策,秦军劳而无功。后来赵孝成王中秦国所施的反间计,以赵括取代廉颇,终遭惨败。赵孝成王十五年(前251年),廉颇与乐乘率军大破燕军,杀燕将栗腹,燕割五城请和。以功封信平君,为假相国。赵悼襄王即位后,派乐乘接管廉颇兵权,廉颇大怒,驱逐乐乘,自己则投奔魏国,居于大梁,但不被重用。在秦国的军事压力下,赵悼襄王欲复用廉颇,廉颇也想回国效力。但赵悼襄王所派的使者受到廉颇仇人郭开的贿赂,使其以为廉颇衰老,遂不召其回国。廉颇后为楚将,最终于寿春悒悒而终。廉颇作为赵国末期的主要军事将领,征战数十年,破齐败燕,守卫长平,战功卓著。后世有说法将廉颇与白起、王翦、李牧并称为“战国四大名将”。他与蔺相如“将相和”的事迹,成为后世文学艺术创作的重要题材。
兄たち(下)
太宰治
「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、ふとったおじいさんを指さします。とても、まじめな顔して、そういうのですから、私も、信じないわけには、いかなかったのです。銀座の不二屋でお茶を飲んでいたときにも、肘ひじで私をそっとつついて、佐々木茂索がいるぞ、そら、おまえのうしろのテエブルだ、と小声で言って教えてくれたことがありますけれど、ずっとあとになって、私が直接、菊池先生や佐々木さんにお目にかかり、兄が私に嘘ばかり教えていたことを知りました。兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから戴いただいた本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これもどうだか、こんど川端さんにお逢いしたとき、お伺いしてみようと思って居ります。ほんとうであって、くれたらいいと思います。けれども私が川端さんから戴いているお手紙の字体と、それから思い出の中の、夢川利一様、著者、という字体とは、少し違うようにも思われるのです。兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造ミステフィカシオンの悪癖が、争われなかったのであろうと思います。
兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴さかなもあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄は、やがて小さい珠数じゅずを手首にはめて歩いて、そうして自分のことを、愚僧、と呼称することを案出しました。愚僧は、愚僧は、とまじめに言うので、兄のお友だちも、みんな真似して、愚僧は、愚僧は、と言い合い、一時は大流行いたしました。兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫っていることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を爪繰つまぐっては人を笑わせ、愚僧もあの婦人には心が乱れ申したわい、お恥かしいが、まだ枯れて居らん証拠じゃのう、などと言い、私たちを誘って、高田の馬場の喫茶店へ蹌踉そうろうと乗り込むのでした。この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、躊躇ちゅうちょなくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。
私は大学へはいってからは、戸塚の、兄の家のすぐ近くの下宿屋に住み、それでも、お互い勉強の邪魔をせぬよう、三日にいちどか、一週間にいちど顔を合せて、そのときには必ず一緒にまちへ出て、落語を聞いたり、喫茶店をまわって歩いたりして、そのうちに兄は、ささやかな恋をしました。兄は、その粋紳士風の趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は誇プライドの高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっと帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇ばらとを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎だっとの如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。
「おじさん(私は兄を、そう呼んでいました。)を知ってるだろう? おじさんを忘れちゃいけない。はい、これはおじさんから。」口早に言って花束を手渡してやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機嫌でした。兄は、そのとき、二十八歳でした。私は六つ下の二十二歳でありました。
そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を以もって、制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありました。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あまり兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょっと訪ねてみたら兄は、ベッドにもぐっていて、少し頬が赤く、「もう夢川利一なんて名前は、よすことにした。堂々、辻馬桂治(兄の本名)でやってみるつもりだ。」と兄にしては、全く珍らしく、少しも茶化さず、むきになって言って聞かせましたので、私は急に泣きそうになりました。
それから、二月ふたつき経って、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりのお医者に相談してみましたら、もう四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私が兄の傍に寝て二晩、のどにからまる痰たんを指で除去してあげました。長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。
長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、
「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風プレッシュウの趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の神秘捏造ミステフィカシオンをやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達だての気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん。
死んだ直後のことも、あれこれ書いてお知らせするつもりでありましたが、ふと考えてみれば、そんな悲しさは、私に限らず、誰だって肉親に死なれたときには味うものにちがいないので、なんだか私の特権みたいに書き誇るのは、読者にすまないことみたいで、気持ちが急に萎縮いしゅくしてしまいました。ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭どうこくをはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。
太宰治(だざい おさむ,1909年6月19日—1948年6月13日),本名津岛修治(つしま しゅうじ),日本小说家,日本战后无赖派文学代表作家。主要作品有小说《逆行》《斜阳》和《人间失格》等。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品。
太宰治
「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、ふとったおじいさんを指さします。とても、まじめな顔して、そういうのですから、私も、信じないわけには、いかなかったのです。銀座の不二屋でお茶を飲んでいたときにも、肘ひじで私をそっとつついて、佐々木茂索がいるぞ、そら、おまえのうしろのテエブルだ、と小声で言って教えてくれたことがありますけれど、ずっとあとになって、私が直接、菊池先生や佐々木さんにお目にかかり、兄が私に嘘ばかり教えていたことを知りました。兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから戴いただいた本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これもどうだか、こんど川端さんにお逢いしたとき、お伺いしてみようと思って居ります。ほんとうであって、くれたらいいと思います。けれども私が川端さんから戴いているお手紙の字体と、それから思い出の中の、夢川利一様、著者、という字体とは、少し違うようにも思われるのです。兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造ミステフィカシオンの悪癖が、争われなかったのであろうと思います。
兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴さかなもあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄は、やがて小さい珠数じゅずを手首にはめて歩いて、そうして自分のことを、愚僧、と呼称することを案出しました。愚僧は、愚僧は、とまじめに言うので、兄のお友だちも、みんな真似して、愚僧は、愚僧は、と言い合い、一時は大流行いたしました。兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫っていることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を爪繰つまぐっては人を笑わせ、愚僧もあの婦人には心が乱れ申したわい、お恥かしいが、まだ枯れて居らん証拠じゃのう、などと言い、私たちを誘って、高田の馬場の喫茶店へ蹌踉そうろうと乗り込むのでした。この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、躊躇ちゅうちょなくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。
私は大学へはいってからは、戸塚の、兄の家のすぐ近くの下宿屋に住み、それでも、お互い勉強の邪魔をせぬよう、三日にいちどか、一週間にいちど顔を合せて、そのときには必ず一緒にまちへ出て、落語を聞いたり、喫茶店をまわって歩いたりして、そのうちに兄は、ささやかな恋をしました。兄は、その粋紳士風の趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は誇プライドの高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっと帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇ばらとを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎だっとの如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。
「おじさん(私は兄を、そう呼んでいました。)を知ってるだろう? おじさんを忘れちゃいけない。はい、これはおじさんから。」口早に言って花束を手渡してやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機嫌でした。兄は、そのとき、二十八歳でした。私は六つ下の二十二歳でありました。
そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を以もって、制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありました。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あまり兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょっと訪ねてみたら兄は、ベッドにもぐっていて、少し頬が赤く、「もう夢川利一なんて名前は、よすことにした。堂々、辻馬桂治(兄の本名)でやってみるつもりだ。」と兄にしては、全く珍らしく、少しも茶化さず、むきになって言って聞かせましたので、私は急に泣きそうになりました。
それから、二月ふたつき経って、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりのお医者に相談してみましたら、もう四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私が兄の傍に寝て二晩、のどにからまる痰たんを指で除去してあげました。長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。
長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、
「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風プレッシュウの趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の神秘捏造ミステフィカシオンをやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達だての気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん。
死んだ直後のことも、あれこれ書いてお知らせするつもりでありましたが、ふと考えてみれば、そんな悲しさは、私に限らず、誰だって肉親に死なれたときには味うものにちがいないので、なんだか私の特権みたいに書き誇るのは、読者にすまないことみたいで、気持ちが急に萎縮いしゅくしてしまいました。ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭どうこくをはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。
太宰治(だざい おさむ,1909年6月19日—1948年6月13日),本名津岛修治(つしま しゅうじ),日本小说家,日本战后无赖派文学代表作家。主要作品有小说《逆行》《斜阳》和《人间失格》等。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品。
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